
川西遺跡出土巴文軒平先瓦。 「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて2011.6.14撮影
12世紀末~13世紀前半のものという。 左流水巴文といったらよいのだろうか。神田明神のものとは方向が逆である。
<川西遺跡・大規模護岸跡の現地説明会に510人が参加>
14日の現地説明会には約510人が参加した。
護岸の築造開始は鎌倉初期で、応仁の乱の頃まで約250年間存続し、背後には寺院関係の重要な建物があったはずという。
昨年11月の調査開始後、同遺跡では約8万点の遺物が出土して、斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具、将棋の駒、カタカナ文字が書かれた木簡、仏具「独鈷杵(とっこしょ)」の鋳型、軒丸瓦などの瓦も見つかっており、寺院関係の施設が存在したことは確実なようだ。ところが、そのような寺院の記録は残されていない。関係があるかもしれないものを探すと、下記があげられるという。
■ 川西地区は「道成寺」や「大徳寺」という時期が不明の寺があったと、地元の村史に記されている。
■ 近くに、寺の場所は分からない「西光寺」の地名が残る。
■ 約2km東には、2002年に約3700枚の埋納銭(注1)が出土した寺山遺跡(徳島市八万町)がある。この近くには、平安末期創建の「金剛光寺」(注2)という大きな寺があったとされる。この寺の実態は謎に包まれているが、1935年の「八万村史」は「境内の広きこと、上八万村の北方より下八万の西方にまたがり、園瀬川屈曲して境内を流れ……」「七堂伽藍建ちてその宏壮(こうそう)美麗は丈六寺に拮抗せり」と紹介。天正年間(1573~92)に侵攻した長曽我部元親に焼き払われたと伝えている。
寺山遺跡と川西遺跡には、土器の出土状況などに共通点もあるという。金剛光寺が広い範囲に寺の建物を分散させていた可能性もある。
川西遺跡の出土遺物は、6月16日から7月26日まで「2009発掘とくしま」(県立埋蔵文化財総合センター)で展示される。
[参考: 読売新聞]
(注1) 全て中国銭(宋銭・明銭)で、53種、3699枚が出土。鎌倉時代の終わり頃埋められたものとみられる。
(注2) 金剛光寺に関する文献は残っておらず、伽藍等も不明であるが、京都市左京区花脊の峰定寺所蔵の梵鐘には「阿波國以西郡八万金剛光寺鐘 願主三部阿闍梨耶実秀 永仁四年(1297) 歳次丙申十月五日 大工内蔵範頼」の銘がみえる。戦国期に長宗我部元親が阿波に侵攻した際、焼失し廃寺になったといわれている。
[徳島県埋蔵文化財センター年報/vol.15 2003年度 「寺山遺跡」より]
<2009.6.12掲載分>
県教委は11日、川西遺跡(同市上八万町川西173-1他)にある河川跡の川岸から、鎌倉から室町時代にかけて修理や拡張を繰り返しながら構築された石積み護岸遺構が見つかったと発表した。
護岸遺構は川に沿った東西45m、南北10m、高さは最大1・5m。川岸の斜面に眉山周辺から切り出した青石を積み上げ盛り土を行い、石留め杭などで護岸施設を補強。川の中洲に向けて東西5・5m、南北15m以上と推測される突き出し部も確認された。中世以前では珍しい川湊の可能性がある。
築造開始は鎌倉初期で、河川の同様の護岸としては国内最古とみられる。治水技術の発達を考える上で重要としている。
周辺からは、寺院建築に見られる平安末期の軒平瓦や軒丸瓦のほか、将棋の駒、漆器椀なども出土。木製品の中には製作途中のものも含まれ、木製品の生産工房や木材の加工場を統括する寺院勢力が遺跡近くに存在し、製品の出荷や物資集積のために石積み護岸を整備、船着き場として利用していたことが考えられるという。
現地説明会は14日午前10時~正午と午後1~3時。雨天決行。
[参考:産経新聞、共同通信]
過去のニュース・情報
2009.3.13川西遺跡の川跡から将棋の駒「本横」出土