歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

行橋市・福原長者原遺跡 奈良時代の豊前国府か 大宰府政庁に次ぐ大きさの官衙跡を確認 

2012年06月08日 | Weblog
 九州歴史資料館(小郡市)は7日、福原長者原遺跡(行橋市南泉)で見つかった奈良時代の官衙跡が、官衙の面積が約22,500㎡と推測され、九州最大の大宰府政庁(同県太宰府市、約25,600㎡)に次ぐ大きさあることがわかったと発表した。
 大型の掘立柱建物跡3棟や、官衙の範囲を区画する大溝などが見つかった。
 1棟は縦約17m以上、横約5m、2棟は縦約12m、横約5mだった。 溝(幅4・5m)は最大で東西約150mと推定され、内側には回廊跡がみられた。 ほかに、硯や瓦なども数百点出土した。
 建物を囲む回廊状の遺構の規模(東西121m)などから大宰府政庁(南北約215m、東西約120m)に匹敵するという。
 南門(正門)には、格式が高い「八脚門」(幅約8・5m、奥行き約5・1m)が使われており、豊前国府跡の可能性が極めて高いとしている。
 出土した須恵器の特徴から、遺跡の時期は8世紀前半と推定している。
 約2km離れたみやこ町国作の豊前国府跡は9世紀以降のものとみられていることから、8世紀まで福原長者原遺跡の位置にあったものが移転した可能性もあるという。
 発掘調査は東九州自動車道の建設に伴い2010年度から始まっていたが、今月末で調査を終え、遺跡の範囲が東九州道の建設地の外にも広がっていることから、行橋市教委が引き続き、範囲を調査する。
 現地説明会は、10日午後1時から3時まで開かれる。
[参考:西日本新聞、TNCテレビ西日本、読売新聞]

過去の関連ニュース
 2011.3.17 行橋市・福原長者原遺跡 8世紀の官衙跡の一部が出土
  官衙の面積は全体で約14,000㎡と推定され、京築地区で2番目の規模。
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宮崎県西都市・日向国府跡 和同開珎と萬年通宝が出土

2012年06月06日 | Weblog
 西都市教委は5日、同市の日向国府跡(国史跡、約1万㎡、8世紀後半〜9世紀ごろ)の正殿跡から、「和同開珎」(鋳造時期708-759)と「萬年通宝」(同760-765)各2枚が見つかったと発表した。 8世紀後半に正殿の基壇造営に伴う地鎮祭のため使われたらしい。
 これら2種類の貨幣出土はこれまで熊本県が南限で、南九州では初という。
[参考:毎日新聞]
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天理市・西殿塚古墳 3D測量結果 前方部の築成は後円部と同じ東側3段、西側4段

2012年06月06日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が5日に公表した、箸墓古墳(桜井市)の3次元(3D)測量結果と同時に作製した天理市の古墳時代前期の前方後円墳「西殿塚古墳」の3D画像でも、前方部から後円部につながる通路の中央部にくぼみがあること、さらに同古墳の前方部が、東側3段、西側4段で後円部と同じ段数であることも確認された。
 橿原考古学研究所の使用データでは全長約230m、後円部径約140m、高さ約16m、前方部幅約130m、高さ12mとしている。
[参考:産経新聞、奈良県立橿原考古学研究所HP]

西殿塚古墳
 宮内庁により手白香皇女衾田陵に治定され立ち入りが禁じられているため、古墳の規模、墳形などが資料により異なる。 墳丘は全長230mとしたり、235mとなったりしている。
 「大和の古墳Ⅰ」編集・泉森皎/奈良県立橿原考古学研究室(2003年近畿日本鉄道)に詳しく地形図とその解説が記載されている。 西殿塚古墳は墳丘の主軸を南北に置く前方後円墳であり、古墳全長230m、後円部規模約145m、前方部幅約130mとしている。 また、後円部は急斜面に立地している関係から、東側高さ約16mに対して、右側は約28.2mであり、後円部の築成は西側4段、東側3段としている。
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奈良県桜井市・箸墓古墳 ヘリで3D測量 前方部は前面側面とも3段構造

2012年06月05日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所とアジア航測(株)は5日、『邪馬台国の卑弥呼の墓』説がある前方後円墳・箸墓古墳を、ヘリコプターに搭載したレーザー測量装置で3次元(3D)測量して立体地図を作製し、判明した詳しい墳形を発表した。
 高度500mからレーザー光を毎秒40万発照射して計測する方法で、樹木が茂っていても地形を詳しく読み取って立体地図を作製できる。
 同古墳の前方部について、これまで4段構造との見方があったが、3段と判明した。前方部の側面には段が無いとの説があったが、前面と同じく3段構造と判明した。後円部(墳頂の円丘部を含み5段)にドーナツ状の高まりがあることも初めて分かった。
 同古墳は宮内庁が陵墓として管理し、一般の立ち入りを厳しく制限している。これまで大正時代の粗い測量図しか無く、詳しい形状は不明だった。
 同県天理市にある前方後円墳・西殿塚古墳も同時に3D測量した。
 立体地図の動画を、同研究所附属博物館で17日まで公開する。
[参考:共同通信、日経新聞、奈良県立橿原考古学研究所HP、読売新聞]

卑弥呼眠る?箸墓古墳、3次元航空レーザー計測(読売新聞) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2009.9.15箸墓古墳 2重の周濠が巡らされていたことが確実に
 2008.8.27箸墓古墳 前方部に幅60mの外濠

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徳島市・庄・蔵本遺跡 弥生時代前期とみられる農耕関連遺構が出土

2012年06月02日 | Weblog
 徳島大埋蔵文化財調査室が1日、同大蔵本キャンパス内の「庄・蔵本遺跡」(徳島市蔵本町)で弥生時代前期の用水路列か畑跡とみられる農耕関連遺構が見つかったと発表した。
 用水路とみられる幅1・5mの溝と、ほぼ同じ幅の畦(あぜ)か畝(うね)が4列連なっている遺構で、同時期に発生した洪水によって埋没していた。
 現地説明会が2日(土)午前10時からを開かれる。
[参考:産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.3.8 徳島市/庄・蔵本遺跡 出土した雑穀種子は、アワやキビの種子と判明
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総社市・御所遺跡 12世紀後半に焼失した大型建物跡が出土

2012年06月01日 | Weblog
 平安後期に備中国を統治した備中国衙跡とみられる総社市金井戸の御所遺跡で、源平合戦が激化した12世紀後半に焼失した大型建物跡が出土した。 一帯を治めていた平家の有力武将・妹尾兼康(せのおかねやす、1123-1183)が源氏の木曽義仲軍に敗れた戦いの痕跡ではないかと注目されている。
 これまでの総社市教委による同遺跡の調査で、大溝と土塁で囲まれた約100m四方の敷地から方形居館と判明し、祭祀用井戸2ヵ所が見つかり、京都との強いつながりを示す儀式で使用した8トン近くの土師器が出土している。
 12世紀後半の土器とともに、建物の柱を支えた礎石(一辺30〜40cm、柱の直径25cm)が5個出土。その間隔などから、元の建物は南北約10m、東西はそれ以上の長さが想定されるという。
 礎石は赤く変色し、地面も赤色に硬く焼き締まっており、高熱を受けた痕跡が見られた。
 現地説明会が6月2日(土)午後2時から開かれる。
[参考:2012.5.25山陽新聞、2012.5.31産経新聞]
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京畿漣川・無等里第2堡塁遺跡 馬鞍装後部に固定して飾る蛇行状鉄器が出土

2012年06月01日 | 韓国の遺跡・古墳など
 ソウル大博物館は31日、京畿漣川郡旺澄面無等里第2堡塁遺跡(연천 무등리 2보루 유적)で高句麗時代6~7世紀のものとみられる蛇行状鉄器(사행상철기)が出土したと発表した。
 蛇行状鉄器は馬鞍装後部に固定して飾ることで、これまで高句麗古墳壁画だけで見ることができた。 高句麗双楹塚古墳壁画には蛇行状鉄器末端に翻る旗を飾る姿が表現されている。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2011.5.17 京畿漣川・無等里第2堡塁遺跡 高句麗時代の札甲が出土
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