萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第17話 祈諾、花笑―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

2011-11-03 18:10:05 | 陽はまた昇るP.S
今日、扉がひらかれる



第17話 祈諾、花笑―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

今日は11月3日、周太の生まれた日。
きっと今日、彼とは秘密を分け持つ事になる。
そうしてたぶん確認をする、彼と私はきっと同志。彼と私は同じ目的のために生きていく。

勤務先が経営する小売店舗の、10月度業績データの報告書。
どうにか午前中で終わらせた。ほっとしながら鞄を持って、デスクから立つのが嬉しい。
課長に半休と有休の挨拶を済ませてから、隣の課を覗きこんだ。
課長席の彼女はすぐに気がついて、微笑みながら席を立ってくれた。

「湯原さん、今から帰り?」
「ええ。予定通り上がれそうかな?」

同期入社で勤続する彼女と、寿退職していた私。
13年前に復職する前も後も、ずっと親しく友達でいる。

大丈夫よと微笑んで、彼女は嬉しそうに言ってくれる。

「ようやく一緒に旅行、行けるわね」
「長い約束だったね。なのに、一泊で、ごめんなさいね、」

そう、もう長い約束。
13年前の春に行く約束だった旅行。
子育てがひと段落したからと、久しぶりに一緒に旅行する予定だった。
けれどその数日前、あの人が亡くなってしまった。

昨夕、周太が恥ずかしそうに電話をくれた。
今日の誕生日の帰宅、宮田くんも連れてくると。
そして私はすぐに、彼女へ電話を掛けた。明日1泊で旅行に行けるかと。
彼女は快く、近くの温泉宿へとすぐ予約してくれた。

彼女は明るく笑って、言ってくれる。

「いいのよ、そのかわり一晩中をね、飲んで喋って笑おう?」
「あら、ずっと飲み続け?」

そんなふうに言いあって笑う。こんなふうに心から笑えて、本当に楽しい。
こんなふうに笑える日が、また来るなんて思っていなかった。
あの青年が現われるまで。


あの人が遺してくれた、ふるい木造の私達の家。
この季節は穏やかに、あの花の香が私を迎えてくれる。
馴染んだ軋みと一緒に門を開けると、楽しそうな声が聞こえた。
飛び石を踏んで、庭を覗きこむ。

「なあ、ナスって秋にとれるのな」
「ん。秋茄子って言うだろ、知らないのか」

周太と宮田くんが、並んで菜園で笑っていた。
微笑ましくて、ちょっとこのまま見ていたい。
だって、周太が笑っている。

「知らないけど?だって俺、料理とか出来ないし」
「いつか、退寮する時に困る。今から練習したら」

少し言葉は素っ気ないけれど、口調は穏やかに微笑んでいる。
周太はこんなふうにまた、話せるようになった。あの人と似た話し方、私の好きなトーン。
7ヶ月前には望めなかった、けれどずっと願っていた。もういちど、このトーンを聴かせてほしい。
そうして今、願いがまた一つ、叶っている。

そんなふうに見ている先で、きれいに笑って、宮田くんが言った。

「退寮する時はさ、周太と一緒に住む時だろ?だから困らない」
「…っばかみやたもうかってにきめんな」

ほら真っ赤になる、言葉が随分きつくなる。
けれど私には解ってしまう。あの子は今、恥ずかしがっているけれど、本当は嬉しくて仕方ない。
ほらきっと今、すごく困って途惑って。けれど幸せな微笑みは隠せない。

その隣では、きれいな笑顔が、幸せそうに咲いている。
真っ赤な顔を見つめて、穏やかに静かに佇んでくれている。

本当はずっと見ていたいけれど、そろそろ声をかけないといけない。
だって今日はこの後に、私には私の約束がある。
13年と7ヶ月も遅れた約束に、これ以上の遅刻は出来ない。

「ただいま、」

きっと今、私の顔も幸せそうに、きれいに笑っている。


渡された花束が、嬉しい。
私の好きな白い秋明菊、あわい薄紅のダリア、パステルカラーの秋バラ。あわい色彩の美しい花束。
そうしてアクセントのように、あの人の好きな花が咲いている。

「秋明菊と、チョコレートコスモスが嬉しいな」
「喜んで頂けたなら、俺も嬉しいです」

きれいな笑顔で笑ってくれる。
今日の宮田くんは、スーツでは無いけれど、なんだか改まった雰囲気。
趣味の良い着こなし、落着いた色合い。
たぶん今日の周太の服も、彼が選んだのだろうと、趣味の良さから解って楽しい。

「花言葉って、知っているかしら?」
「あまり詳しくは無いですけど」
「男の子だものね、」

男の子、と私は言った。
けれどもう彼は、男の子ではない。大人の男の顔になっている。
奥多摩地域の警察官として、山岳救助隊に彼はなった。そんな彼は、背中から大人びて頼もしい。
警察学校時代に会った時より随分と、彼は大人になった。
あの時からまだ2,3カ月。それなのにと少し、驚かされてしまう。

だからもう、こういう話も彼とは出来るだろう。
そっと内緒話のように、私は教えてみる。

「チョコレートコスモスの花言葉はね、移り変わらぬ気持ち」
「おふたりに、似合います」

ほら、やっぱり彼はすぐ理解できる。
あの人と私を、今も繋いでくれる、この花の意味。
そうして理解した彼は、今度は自分から私に訊いてくれた。

「その白い花、秋明菊の花言葉は何ですか?」

私の好きな花。その意味は寂しい、そして悲しい。
こんな意味だと知らずに、私はこの花を好きになった。
そして花の言葉のままに、私は生きる運命になっている。
そっと静かに、私は言葉を口にした。

「忍耐、」

告げると彼の、きれいな切長い目が揺れた。
ああきっと、私の事を想って心を動かしてくれている。
繊細で穏やかな、率直で健やかな彼の心。その心でずっと、周太の事をいつも考えてくれている。
けれど彼は、きれいに笑って、端正な口を開いてくれた。

「そういう姿は、一番きれいです」

忍耐。
その姿を、辛いだろう、悲しいだろうと痛ましがる人もいる。
けれど私は思っている。
すべての花々は、種の固い殻を破る痛みに耐えるから、花開く事ができる。
冷たい風、凍る雪、濡らす雨を素直に受けるから、花開いて実りを持つ事が出来る。

そのことをきっと、彼は解ってくれている。
だから私は微笑んでしまう。

「ありがとう、」

ほら彼も、きれいな笑顔で返してくれる。
だから確信してしまう。
きっと彼は私の同志、同じ目的の為に今日は来てくれた。
ほら彼は、立ち上がって微笑んでくれる。

「庭の花で、教えてほしい事があるんです」

きっとあの木の花のこと。

「いろいろ、きれいだったでしょう?」
「はい、」

庭を見てくると周太に告げて、二人で庭へ出た。

秋の陽光に、白い花が眩しく咲いている。
繊細で凛とした佇まいの白い花。花囲む常緑の葉は、冬の寒さにも夏の暑さにも輝く。
息子と似合う木、そんなふうに今は思う。

「困難に打ち勝つ。それが周太の花言葉。周太が生まれた時に、あのひとが植えたの」

怜悧で有能で温厚だった、あの人。
けれど趣味はなんだか可愛らしくて、花にも詳しかった。
そんな穏やかな優しさが、いつも私の心を開いてくれていた。

ふっと抜ける風に、白い花弁が一枚ずつ舞いおりる。
椿と似た花、けれど椿は、首落とすように花の命を終える。
そして山茶花は、ゆるやかに香を放ちながら散っていく。
だから私は椿より、山茶花の方が好きだ。

振り向いて見上げるときれいな切長い目が微笑んでいる。
端正な姿にも白い花弁が舞いおりて慕う。きれいな姿に見惚れてしまう、そして胸が痛い。
こんなに美しい存在を、私はこれから縛ってしまう。

「約束」

そんな名前の美しい束縛で、恵まれたはずの彼の人生をここに縛って留めてしまう。
その罪を解っている、けれど私には他にどんな道があるのだろう。

木蔭に据えられた、ふるいけれど頼もしい木のベンチに腰掛ける。
このベンチはあの人が作ってくれたもの。
私とこうして並んで座る、その為に忙しい合間を彼の手で作ってくれた。
懐かしい気配と温かな木漏日に坐りこんで、私は口をひらいた。

「これはわたしのひとりごと」

今から話す事は、あの人が抱えていた秘密。
私が知るはずの無い事、けれど私は気づいていた。

「25年前、夫はこんな事を言ったの、『肩代わりをしてしまった、すまない』そう言って、涙ひとつ零して、」

肩代わり―その言葉の重みは、きっと彼には解るでしょう。
静かに隣に座る端正な、静かな穏やかな気配。
私の独り言に寄り添って、佇んでいる穏やかさ。私はこの気配を、どこかで知っている?

「私の愛する人は、秘密を抱えていた。
その任務は家族にも話してはいけない、そういう場所で彼は戦っていた。
任務の為には人の命も断つ、そういう場所に彼はいた。
その事は、あの人が亡くなって、その時初めて知らされた。
けれどわたしは気付いていた。彼が何をして、何に苦しんでいたのか」

そう、私は気づいていた。
だって出会った時からずっと、私は、あの人ばかり、見つめていたのだから。

「だから思ってしまうの、優しいあの人は一瞬のためらいに撃たれたのだと…ずっと自分がそうしてきたように」

あの人はいつも、目の前の人を救ける事ばかり考えていた。
家族も友人も、犯罪被害者も、その周りも。そして犯罪者本人ですら。
救けたい、そして温めて笑わせたいと、そんな優しい人だった。

それなのに。
それなのに与えられた任務は、冷たいものだった。
任務だから、誠実だから、与えられたものから逃げられなかった。
けれど本当は、いつも心は泣いていた。そしていつも考えていた、いつか贖罪の日が来ると。

誠実で何事にも真剣だった、あの人。
誠実で真剣なだけ、有能で優秀な警察官だった。
そうして、あの人の有能さは、あの人自身を縛って堕として、苦しめた。

いま隣に座っている、端正な青年。
そのことすらも、彼はきっと解っている。そんな気がしてならない。
だから、ここからはあなたへ話したい。目で告げてから、私は話し始めた。

「息子もきっと同じ道へと引きこまれていくでしょう。彼の軌跡をたどろうと息子は同じ道を選んできたから…きっと同じ任務に、」

静かに佇んで、私の目を見つめ返して聴いてくれる。
きっと彼は、私と同じ事を考えている。

「でも息子は彼よりも潔癖という強さがあるわ、とても聡明で。だから同じ道にも方法を見つけるかもしれない、それに、あなたが傍にいる、」

私は女性で、警察官ですらもない。
あの人の軌跡も、それを辿る息子の道も、理解し追いかけることは、私には出来ない。
けれど、同じ男で警察官の彼になら、息子が選んでいく道を、理解し追いかけ守りぬける。
それは難しい事だと解っている、それでも彼にならと信じてしまう。

「彼の戦う世界で私は寄り添えなかったわ、でもあなたなら。息子と同じ男で同じ警察官なら息子の世界で、救う事が出来るかもしれない、」

きれいな笑顔、健やかな心。
そして息子への、真摯で純粋な真直ぐな想い。
どうか息子を追い掛けて、そして捕まえて救ってほしい。

「はい、」

やっぱり答えてくれる。短いけれど、真直ぐな答え。
きっと彼の願いは、私の願いと重なる。そう思って今日を待っていた。
そしてこれからきっと、私の願いを彼は、聴いてくれるだろう。
きれいな切長い目を見つめて、私は願いを告げていく。

「お願い、息子を信じて救って?何があっても受けとめて、決して独りにしないで。あの子の純粋で潔癖で、優しい繊細な心を見つめ続けて、」

どうかお願い、願わせて。
そしてこれから告げる願い、その残酷さを私は知っている。
残酷だと知りながら、私は言葉を止められない。

「そして我儘を言わせて?どうか息子より、先に死なないで、」

大切なひとと、死に別れること。
ひとり残される苦しみ、悲しみ、痛み。もう私は、知っている。
この端正な眼差しの、息子への想いの深さも、知っている。きっと彼は苦しむ、それも解っている。
けれどお願い願わせて、息子をこれ以上、苦しませたくはない。

「あの子の最期の一瞬を、あなたのきれいな笑顔で包んで幸福なままに眠らせて。
そして最後には生まれてきて良かったと息子が心から微笑んで、幸福な人生だと眠りにつかせてあげて欲しい」

自分勝手と解っている、けれど願わせて。
このまま息子は、あなたに幸せに浚われて、遠い未来に幸せに眠ること。
きれいな端正な姿、健やかで真直ぐな心。それを傷つける、そんな自分の我儘が、悲しい。
悲しくて、もう、涙が零れるのを止められない。

「あなたにしか出来ないわ、心開く事が難しい周太はあなたしか隣はいられない、私はあなたを信じるしか出来ないの。
愛するあの人と私のたった一つの宝物…あの子の幸せな笑顔を取り戻してくれたあなたにしか、あの子を託す事は出来ないの、」

涙が私をおおっていく。
ふるえる声が私の唇をゆらして告げる。
こんなふうに涙を流したこと、前はいったい、いつだったろう。

「とても私は身勝手だと解っています、あなたが本来生きるべきだった、普通の幸せを全て奪う事だと解っている。
けれど誰を泣かせても私はあの子の幸せを願ってしまうわ、あなたに願ってしまう、どうか願いを叶えて欲しい、そして、そして…」

涙の中に最後の言葉がうずもれてしまう。
ああ、さいごのことば。言いたい、けれど言うことをすら、許されるのか解らない。

ふっと頬に、なめらかな温もりがふれた。

「俺の願いも、お母さんと同じです」

きれいな長い指が、私の涙を静かに拭っていく。
きれいな低い声が、私に微笑む。

「俺はとても直情的です、だから自分にも人にも嘘がつけません。率直にものを言って、ありのまま生きる事しか出来ません。
だから卒業式の夜、俺はあなたの息子を離せませんでした。そしてそのまま離せません、何があっても傍にいたいってだけです、」

涙の底から彼を見つめる。
ありのままで「離せなかった」そう言ってくれた。
彼も今、この運命を望んでくれると言うのだろうか。
そんな想いと見上げる木洩日の照らす彼の髪は、陽に透けて煌めいていた。

「俺にとっての周太はきれいな生き方が眩しいです、そのままに純粋で綺麗な、黒目がちな瞳の繊細で強いまなざしが好きです。
あの瞳に見つめてもらえるのなら、俺はどんな事でもしますよ?それくらい本気なんです、こんなこと初めてなんですけどね、」

好き。ほんとうに?
どんな事でもする。ほんとうに?
ああどうか、彼が自から望んで、本当にそう願ってほしい。

だって周太は純粋で、真実の想いだけしか信じられない。
だから願ってしまう、この青年の想いだけは、真実であってほしい。

「警察官として男として誇りを持って生きること、誰かの為に生きる意味、何かの為に全てを掛けても真剣に立ち向かう事。
全てを俺に教えてくれたのは周太なんです、周太と出会えなかったなら山ヤの警察官として今、生きる事もありませんでした、」

誇らかな、大人の男の瞳。
きれいな笑顔は、大人の男の瞳で私を見つめてくれる。
それは全て、息子の存在があったから。
そんなふうに穏やかに微笑んで、私を見つめて告げてくれる。

「生きる目的を与えてくれた人。きれいな生き方で、どこまでも惹きつけて離さない人。静かに受けとめる穏やかで繊細な、居心地のいい隣。
得難くて大切な俺だけの居場所、それが俺にとっての周太です、周太の隣だけが俺の帰る場所です。他のどこにも帰る場所なんてありません、」

山茶花の香の風が、ゆるやかに頬を撫でていく。
この木を植えたひとの、想いがそっと寄り添ってくる。

「俺は身勝手です、だから絶対に離れません、誰にも譲らない俺だけを見てほしい。こんな独占欲は醜いかもしれないけど、もう孤独にはしません」

きれいに笑って彼は言った。

「だから許して下さい。ずっと周太の隣で生きて笑って、見つめ続けさせて下さい」

やさしい温もりの気配、静かに佇む穏やかさ。
私はこの気配を、どこかで知っている。

そう気づいた時に、そっともうひとつの気配が隣に座る。

怜悧で穏やかで、優しく私を見つめてくれた、あの瞳。
隠した秘密に寂しげに、それでも私を温めてくれていた。
いつも気づけばそっと、私の心を開いて寄り添って、佇んでいる穏やかさ。

ああ、あなた。ここに居てくれたのね

瞳の底から熱があふれだす。
心の底から熱が、瞳へと昇っていく。
そうして心の枷がひとつ、また外れて砕けて消える。
瞳に掛けられていた、後悔も贖罪も、全てが涙にとけて、拭われる。

きっと今、私の瞳は、明るい光をとりもどしている。

今この隣に座る青年、そして今も寄り添ってくれる、あの人。
どうか許して下さい、気づいていても解っていなかった。この私を許してほしい。
そしてどうか、願いを叶えてほしい。
どうぞお願い、告げさせて。

「私こそ許して。そして、息子をお願いさせて」
「はい、」

きれいな笑顔で頷いてくれる。
彼と私は同志、きっと同じ目的を抱いている、そう思っていた。
そして今お互いに、告げあって許しあえている。

「周太の花言葉は、困難に打ち克つ。あの子の困難は辛い、けれどもう独りじゃないのね?」
「はい、もう、独りには絶対にしません」

きれいなに笑って、約束をする。
彼はもう、約束してくれた。自ら進んで縛られようと、微笑んで佇んでくれた。

あなた、いま、託していいですね

私は掌を開いて、彼の前に差し出した。

「これを、あなたに持ってほしいの」

さっきからずっと、握りしめていた。13年前からずっと、使われていない鍵。

「周太の父の、合鍵です」

きれいな瞳が私に訊く「ほんとうに自分でいいのですか?」
そう、あなただからこそ、私達はこれを使ってほしい。

「あの人の想いも一緒に、あなたに持っていてほしいの」
「想いも、」

きれいな低い声が、そっと呟いた。
見つめる瞳に微笑んで、私は最後の願いを告げる。

「周太のために生きるなら、あの人の想いも背負う事になるでしょう。
あの人の想いを背負うなら、この家はあなたの家でもある。
だからあなたに渡したい、そして使ってほしい。
この鍵を使って、ただいまと帰って来て。そして私にも、お帰りなさいを言わせて欲しい」

きれいな切長い目。あの人と似ていて違う、瞳の気配。
少しだけどこか似ているのは、覚悟かも知れない。今を大切に生きていく、そんな意思が力強い。

「俺はここに、居場所と想いを求めて良いのですか?」

そっと笑って尋ねてくれる。
きれいな切長い目、どうぞ求めて欲しい。静かに頷いて、私は微笑んだ。

「ここに求めてほしいわ。そしてね、お帰りなさいと言うことを私に願わせて?」

きれいに笑って、彼は言ってくれた。

「はい、どうか俺だけに願って下さい」

嬉しそうな声と、きれいな笑顔。
やさしく笑いながら静かに見つめて言ってくれる。

「この鍵はずっと大切にします、だから周太の隣にずっといさせて下さい」

今日は11月3日、周太の誕生日。

私は13年ぶりに心を開いた、そして彼はこの家の鍵を受け取ってくれた。
この家ごと彼は笑って背負ってしまった。

あの人の真実も辛い現実も、私の痛みも喜びも、そして周太の背負うもの。
すべて抱きとめて軽々と、こんなふうに笑って背負ってくれる。

今、隣に佇んでくれるきれいな笑顔。
どうかずっとこのままで、きれいな笑顔のままで息子の隣にいてほしい。
きれいに笑って私は穏やかに隣へ告げた。

「ずっと約束して。大切にして、息子を隣から離さないで。そして幸せへと浚い続けて、あの笑顔を私に見せて」

きれいな笑顔が静かにそっと、答えてくれる。

「はい、必ず」

尋ねた彼の誕生日、花言葉は「常に微笑みを持って」
私が好きな花だった。彼に相応しい、そんなふうに私は思う。
そして願ってしまう、どうかこれからずっと、微笑んで生きてほしい。
そうして隣の息子の心を、温かく抱きしめて幸せへと浚い続けて。


台所を覗くと、周太は皿を選んでいた。ネイビーのカフェエプロン姿が懐かしくて嬉しい。
長めの前髪から覗く、黒目がちの瞳は幸せに微笑んでいる。
食器棚の前に立つ姿は、黒藍のジーンズの脚がきれいだった。
白いアーガイルニットは、藤色とブルーグレーにボルドーのポイントがかわいい。
こういう明るい色、きれいな色が、息子には良く似合う。

「おいしそうね、」

息子の横顔に声を掛ける。
振り向いた顔は、やっぱり明るく、きれいになっていた。
恋の力ねと、心裡の独りごとが楽しい。
けれど本当は知っている、恋という言葉だけでは、言えるような繋がりではない。

ひとの貌は、心でいくらでも変わる。
だからきっと息子の心は、きれいで純粋な想いに充ちている。

どうかその想いを、私と彼に守らせて。
この先きっと現われる、辛い現実と冷たい真実。純粋に過ぎる心には、きっと重たく痛すぎる。
けれど私は信じている。あの人が辿った軌跡には、必ず温かな想いも遺されている。
あの人の遺した温もりは、きっと息子の心を救ってくれる。
そしてまた、あの人の想いも意思も、きれいな笑顔が繋いでくれる。

「料理のね、皿が決まらないんだ」

ほら、こんなことにも一生懸命。
生真面目さはきっと、あの人譲り。

「この皿かな」
「ん、ありがとう」

渡しながら、きちんと受取ったのを目だけで確認する。落とされたら困るから。
それから私は訊いてみた。

「周太が着ているの、宮田くんが選んだ服?」

ほら、恥ずかしそうにする。首筋がもう赤い。
警察学校に入って、最初に帰宅した日。
息子は何度も言った「宮田がね」そして微笑んで話してくれた。

「…ん、そう」

答えてくれる、小さな声が、かわいくて。
こんなに大きくなったのに、純粋なままでいる周太。
こういう周太は簡単には、何度も誰かの名前を呼ばない。

だからあの時から、思っていた。きっと息子にとって特別な人になる。
だからあの時も、今も、彼の名前を出せばほら、首筋が赤くなる。

「よく似合ってる。ちゃんと周のこと見てくれている、それが解るな」

そうかなと、黒目がちの瞳が私に訊く。
きれいな明るい瞳、幸せに微笑んで。
確かな想いに抱かれる、安らぎと喜びを、もう知っている瞳。

「素敵ね、」

答える私の顔も、きっと明るい。嬉しそうに、周太も微笑んだ。

「ありがとう」

こんなふうに話せるのは、嬉しい。
息子が笑ってくれる、きれいな明るい笑顔。
そして私もきっと、明るい笑顔になっている。だって私はさっき、素直に涙を流せた。
そして、きれいな笑顔が佇んで、私の涙を拭ってくれた。

私は簡単には泣かない。
泣いて崩れる自分が、痛くて辛いから嫌い。
けれど13年前までは、私は自由に泣いていた。
25年前から13年前までの、12年間は自由に泣いて幸せだった。

あの人が亡くなって、私は書斎に籠る時間を持つようになった。
あの安楽椅子に座りこんで、そっと静かに瞳を閉じる。
遺された気配に抱かれて、かすかな残像に心を開く。
そんなときは、流せない涙もそっと、あの人の気配が癒してくれた。

あの人を失ってからの私と息子は、お互いだけしかいなかった。
ふたりだけで寄添う日々は、穏やかだけれど寂しくて。
相手の痛みが解るから、お互い涙を見せられない。そんなふうにお互いに、開けない心を持て余していた。
ふたりでいるのに本当は、孤独がふたつ並んでいるだけだった。

母親として抱きしめて、泣かせてやりたい。
けれど私には解ってしまう。息子は、簡単には心を開かない。
私たち母子は、あまりに似て、お互いを解りすぎて寄り添えない。

けれど今日、彼が私を泣かせてくれた。
静かに佇んで受けとめて、きれいに笑って涙を拭ってくれた。
息子のことを抱きしめる時、きっと彼は、私の事も抱きしめてくれている。
あの人の事も、この家の事も、全てを息子の為に抱きとめている。

花咲く庭、きれいな彼の笑顔。
彼の背中が大きく広くなったことを、私は教えられ安らいだ。
全てを掛けて、ずっと息子の隣に寄り添ってくれている。
きっと彼は、どんな場所からも息子を救ってくれる。


自分の誕生日に、私に手料理を作ってくれる。そういう息子が愛おしい。
あの人の分までもと、気遣ってくれる想いが嬉しい。

彼は7杯ごはんを食べた。
前に来てくれた時よりも、ずいぶん食べる。
息子の手料理をかみしめる、その口許が幸せそうで、嬉しかった。

「今まで食った中で、周太の肉じゃがが一番うまい」

そんなふうに健やかに笑う彼に、私も笑ってしまった。
それにしても、よく食べる。見ていて気持ちが良い。
山の警察官としての日々は、彼の性分に合って楽しそうだ。

奥多摩の山、あの人とも登ったことがある。
まだ幼い周太も連れて、山小屋に泊まってココアを飲んだ。
幸せな記憶のあの場所に、彼の笑顔はきっとふさわしい。

食事が済んで、ケーキでお茶をして。
それから私は、用意しておいた服に着替えて、鞄を持った。
台所を覗くと、ふたり並んで食器を片づけている。
きれいに笑って、彼が息子の顔を覗きこむ。

「なんかさ、新婚気分だよな」
「…ばかみやたくちよりてをうごかして」

可笑しくって、困る。
だってもう出かけるのに、楽しくて見ていたくなる。
けれど私はもう行かないと。13年越しの約束に、これ以上は遅れたくない。

「じゃ、お母さん出かけるね」
「え、」

自分とそっくりな黒目がちの瞳が驚いて、私を見つめている。
不意打ち驚いたでしょう?
でも隣に佇む、きれいな笑顔は動じていない。
楽しんできて下さいと、やさしく微笑んで目で伝えてくれている。
大人の男な彼のこと、きっと昨晩の電話で察していたのだろう。そうしてきっと、私の願いに答えてくれる。

「職場のお友達とね、温泉に行く約束なのよ」
「でも、」

急に言われて、周太は途惑っている。
聡明で怜悧な周太。けれど本質は、純粋なまま繊細で優しくて、大人に成りきれない。
だからこんな企みは、気づける訳もない。
そういう息子が可愛くて、私は微笑んだ。

「ずっとこの家で、私は毎晩を過ごしてきたもの。
 お父さんの気配も、周太の事も、一人にしたくなかったから。
 でも、今日は大丈夫だろうから、他の場所の夜を見に行こうと思って」

これだって、私の本音。
遺された気配と共に夜を過ごし、私は生きてきた。
あの人の気配をひとり置いては、行きたくなかった。
孤独な周太をひとり、置いていく事も出来なかった。

きれいに笑って、彼は言ってくれた。

「明日は仕事です。だから、夜明けまでなら留守番ひきうけます」

きれいな笑顔が、この家に居てくれる。
あの人の気配も周太も、ひとりにしないで私は外へ出られる。

「うれしいわ、お願いね」

黙って見つめていた周太も、頷いてくれた。

「ん、わかった。楽しんできて」
「楽しんでくるわ。でもお昼は家で食べたいな。たぶん、帰りはお昼過ぎ」
「ん、仕度しておく」

こんなふうに笑って、言えるのは嬉しい。
そっくりな私達母子、だから素直に甘えあう事なんて出来ない。
けれどやっぱり息子にも、少しは頼って甘えたい。
だって私が愛したひとの分身は、息子。

だからきっと、あの人が私を愛した想いのかけらが、息子の中にも遺されている。
だからきっと、そのために。家事だって上手に、息子はなってくれた。
純粋で繊細で、大人に成りきれない周太。だから頼って甘えることは出来ない。
けれど周太、あの人の面影を見せることは、あなただけにしか出来ない。

私の荷物を持って、門まで彼が見送ってくれた。
荷物を受け取りながら、悪戯っぽく私は微笑んだ。

「周太を、幸せな夜へ浚っておいて」

さすがに驚いたように、彼は私の瞳を見た。
そうね、母親にこんなことを頼まれるなんて、おかしいでしょう。
けれど私には、切実な我儘がある。私は微笑んで、口を開いた。

「あの子の幸せな笑顔を見たい。そんな私の我儘を叶えて」

内緒話のようにささやいて、切長い目を見つめて笑う。
そっと静かに微笑んで、彼は頷いてくれた。

「お母さんの我儘は、きっと俺の我儘でもあります」

大人の男の貌で、きれいに笑って答えてくれた。
やっぱりきっと、私達は同志。同じ願いに生きている。

あの人と私が過ごした夜は、本当に幸せだった。
だから願ってしまう、周太にも、もっと幸せを過ごしてほしい。

きっと「普通」から見たら可笑しいでしょう、でもそれは問題じゃない。
あの子の笑顔を守ること、その鍵を持てるのは、この青年ただひとり。
だからこれが正しい方法。あの子の笑顔と幸せの場所を、きっと私は見誤ってはいない。

だから私は、息子の隣に彼を選ぶ。
だからもう、あの人の鍵を彼に託した。
そして今、私は、この家をすこしだけ離れる。
一泊だけの小旅行。けれど私達にとって、13年間の枷を外す旅立。
見上げて、彼へと私は笑いかけた。

「宮田くん、明日は行ってらっしゃい。そして今度、またここへ帰って来て」

卒業式の翌朝、彼は母親に拒絶されたと聞いた。自分達母子の為に。
それでも、誰を泣かせても、私は息子の幸せを願ってしまう。
同じ母親として、彼女を悲しませる罪を、私は知っている。
きれいな笑顔、健やかな心。彼をここへ呼んだのは私。その罪の全てを抱いて、私は生きていく。

「はい、必ず。ただいまって言わせて下さい」

私は罪だと思っている。それなのに、きれいな笑顔は幸せだった。
きれいな切長い瞳にも、幸福が明るく揺るがない。

私の我儘は彼の我儘、さっき彼はそう言った。その言葉が真実だと、彼の眼差しが教えてくれる。
そうしてそっと気づかされる。誰に許されなくても、彼は私を許してくれている。
そうして私の貌に、きれいに笑顔が現われる。

「約束よ。お帰りなさいって言わせてね」

そんなふうに明るく笑って、軽やかに私は門を出た。



昼前に戻って、そっと玄関を開けた。
食事の匂い、けれど周太の気配が静まっている。
きっとあの子は眠っている、そう思うと嬉しかった。

あの人の書斎に、いつものように、ただいまを言いに行く。
開いた窓から、山茶花の香が頬を撫でた。重厚でかすかに甘い、あの人の残り香と重なっていく。
書斎机に活けた山茶花は、水を替えた気配がある。周太の繊細さは、こんなふうにも表われる。

花の陰、あの人の笑顔の傍に、一葉の写真が供えられていた。
青空を梢で抱いた、ブナの巨樹だった。
きっと彼が、大切にしている木なのだろう。
それをこうして、あの人に見せてくれる。そんな彼の想いが、嬉しかった。
そう、嬉しい。嬉しくて、幸せで、私の頬を熱が伝っておりていく。


明るい陽射がふるベッドで、周太は眠っていた。
久しぶりに見る息子の寝顔、懐かしくて、すこし違っている。
微笑んだ寝顔は幼げで、けれど初々しい艶がけぶっている。
きれいな頬にそえられた右腕には、赤く花のような痣がうかんでいた。
きっと彼が想いを刻み込んだ、その想いが嬉しくて、幸せな夜だったと教えてくれる。

見つめる視界の真中で、長い睫がゆれて、ゆっくり瞠かれた。
私の顔を見て、少し恥ずかしそうに笑ってくれる。

こんなふうに寝起きの顔、眺めるのは13年と7カ月ぶり。
あの夜からはもう、周太の寝顔は見なかった。
苦しい夢にうなされて、それでも独り立ち向かう。
凛とした孤独へは、踏み込むことが許されなかった。

「おかえり、お母さん」

恥ずかしそうで、けれど幸せに明るい瞳。
彼は私の我儘を、きれいに叶えてくれていた。
嬉しくて、私は微笑んでしまう。

「ただいま、周太」





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花弔―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

2011-11-02 21:30:42 | 陽はまた昇るP.S
花、記憶、それから約束



花弔―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

例年通りの桜の園遊会は、今年も何とか無事に終わった。
春の雪と嵐が多かった今年は、ようやく晴天の今日、桜の宴が集中してしまった。
東京中で花見が催され華やかな春の陽気が首都に満ちている。
幸せな光景だな、そんなふうに素直に想う。

けれど、そんなに一遍にイベントがあると警邏の人数が足りない。
警視庁の立場からしたら本当に困る、特にこの新宿の、あの公園の園遊会。
VIPばかりが集められる、そんな場の警邏は人選も難しい。

「誰か適当な人材を、寄越してくれないか」

警備部で射撃指導員をしている湯原に依頼した。
いちばん親しい同期で友人の湯原。温かくて、優しい穏やかな彼の気配が大好きで、ずっと親しくしている。
同じノンキャリアでも出世していく有能な男は眩しくて、けれど気さくなまま優しい彼は笑って答えてくれた。

「ん、大丈夫。ちょうど俺、非番だから予定が空いている」

そう言って彼自身が引き受けて、警邏の後は新宿署の射撃指導も提案してくれた。
一流である彼からの指導はありがたい、そんな厚意を示してくれる湯原が大好きだった。
そして警邏も射撃指導も終わって春の一日が終わり、休憩所でいつものベンチに並んで腰かけた。

「今日は本当に助かった、ありがとう」

笑って礼を言いながらココアの缶を手渡した先、綺麗な笑顔が受けとってくれる。
いつもながら綺麗な笑顔だな、そんな感想と見つめた湯原は穏やかに言ってくれた。

「いや、役に立てたなら嬉しいよ、」

笑顔で長い指がプルリングを引き、チョコレートの甘い香りがふっと昇って頬撫でる。
缶に唇つけて一口啜ると綺麗な切長い瞳がほころんで、そんな同期の貌になんだか嬉しくて笑いかけた。

「ココアばっかり飲むな、湯原は」
「ん、好きなんだよ」

鋭利で有能で温厚な湯原、けれど好みは何でも結構かわいい。
結婚式で会った彼の妻は黒目がちの瞳が印象的な、かわいい華奢な女性だった。
そして彼の胸ポケットには可愛い息子の笑顔を写真に納めてある、とても優秀で良い子だといつも話してくれた。
あのときも胸ポケットから手帳を出して、また写真を見せながら自慢話でもするのだろう?そう思った通り彼はページを開いた。

「これ、」

言いながら開いた手帳には可愛い笑顔の写真と、桜の花びらが3枚納められていた。
今日の昼間あの公園で、桜の園遊会に警邏で立ちながら見つけたのだろうか?
そんな推測と見つめた前に長い指は1枚つまみ差し出してくれた。

「花吹雪があったんだ。その時に掌にね、ちょうど3枚が乗った」
「なんだ、くれるのか?」

いわゆる武骨な自分に花をくれる?
それが意外で訊き返した隣、穏やかな声が頷き笑ってくれた。

「ん、きれいだろ?」

綺麗な切長い瞳を微笑ませ、花びら1枚この掌に載せてくれた。
残りの2枚はきっと妻と息子への土産にするのだろう。有能で武道も強い湯原、けれどこんなふうに可愛い所がある。
そんな男の優しい手土産が微笑ましくて、そこに籠る気遣いへ感謝が嬉しくて自分は笑いかけた。

「ありがとうな、おかげで今年の桜が見れたよ」

本当に今年の桜はこれが自分にとって最初、そして最後かもしれない。
この春は忙しくて桜をゆっくり見られそうにない、今日も報告書類の処理に追われ署から出られなかった。
湯原はそれを知っていて今こんなふうに桜を見せてくれる、そういう繊細な優しさがこの友人は深く温かい。
こういう所が和まされて好きだ、そんな想い微笑んで手帳に花びら一枚挟みこんだとき呼び出しが掛けられた。

自分と湯原、ふたり揃って呼ばれる事は久しぶりだった。

機動隊銃器対策レンジャー時代まではいつも一緒に呼ばれていた。
けれど新宿署と警備部と、配属が分かれてからは仕事で一緒になるのは久しぶりだった。
しょっちゅう会って飲んではいるけれど仕事で組める、それは事件現場であっても単純に嬉しかった。

暴力団員による強請、その通報だった。
犯人の一人は拳銃を持っていた、そして犯人は恐慌状態に陥っている。
恐慌状態の犯人は発砲の可能性が高く危険、そして犯人が逃げた先は雑踏の歌舞伎町だった。

「繁華街での発砲は危険だ、万が一は射殺も止むを得ない」

そう告げられて、射撃特練の自分と射撃オリンピック代表の湯原に発砲許可が下された。
繁華街での狙撃は間違えれば周囲に当たる、射撃の精度が問われる現場だった。

「単独での追跡はするなよ、」

新宿署を出るとき湯原に一言、釘刺した。
湯原は正義感が強くて足が速い、だからいつも現場へとあっという間に走っていってしまう。
被害者の事もその周囲の事も、そして犯人の事すらも放っておけない、そういう優しさが湯原にはある。
けれど拳銃所持者の追跡に単独行動は危険過ぎる、それでも湯原はきっと走ってしまうのだろう?
そんな危惧に釘刺したけれど、綺麗な切長い瞳はいつものよう笑った。

「ん。解っている。だから安本、追いついてくれ」

綺麗な笑顔ひとつ残して、湯原は全力疾走に駆けだしてしまった。
自分がいかなければ、救けなければ、そんなふうにいつも湯原は走って行ってしまう。
心やさしい湯原は絶対に人を放りだせない、誰かの為にいつだって全力で駆けつけて救ってしまう。

「追いつけって…あいつ、」

自分だって決して遅い方じゃない。
けれど警察学校時代からずば抜けて速いタイムで走っていた湯原。
全力で走られたら追いつけるわけがない、けれど仕方ない、そんな想いに制服の背中を見つめ走り続けた。

駈けてゆく視線の真中、活動服の背中が停まる。
北口へ抜けるガード下、歌舞伎町の雑踏より手前で湯原が立ち止まった。
繁華街へと入る前に犯人を捕捉したらしい、さすがだと思いながら早く援護射撃をしてやりたくて自分は走った。

けれど銃声一発、鼓膜の底を切り裂いた。

発砲したのか湯原?
きっと犯人の命も無事なポイントに適確な狙撃だろう。
そう思った視線の真中、けれど崩れ落ちたのは紺青色した制服の背中だった。

―嘘だ、

スローモーションのよう制服姿が倒れ込む、そして制帽が空を舞う。
こんな光景あるはずない、視ている光景に意識を呑まれて、それでも自分は駆けたらしい。
どうやって走ったのか覚えていない、けれど気がついた時には倒れた湯原の隣で跪いていた。

「湯原ぁっ、」

若い男が湯原の傍で泣いていた、その彼は拳銃を持ってはいない。
叫んで見上げた視線の先、もう赤いジャンパーの背中が遠ざかっていく。
たぶんあの男が犯人、捕まえなくてはいけない、けれどそれよりも倒れた湯原の介抱が先だ。
そう思って診た端正な顔は、息が止まっていた。

「湯原っ、起きろ!目を開けろっ、」

けれどまだ間に合う、きっと大丈夫。
信じて呼びかけ続け、圧迫止血をしながら腕と膝で気道確保を行う。
警察学校から学んだ応急処置は体を勝手に動かしてくれる、けれど意識は叫ぶ。

「湯原っ」

うそだ、嘘だ、湯原が死ぬなんて、絶対に無い。
まだ間に合う、きっと間に合う、諦めてなどやらない。
信じて叫んで見つめる真中で癖っ毛がゆれ、端正な貌は蒼白になってゆく。

「起きろっ、湯原おきろ、寝てる場合じゃないだろう?起きるんだっ!」

人工呼吸は本来はタオルや何かをはさむ。
けれど猶予が無くて湯原の唇にそのまま自分の唇を重ねた。
呼吸が止まっているなら一刻の時間も惜しい、人は心肺停止から3分で死んでしまう。
どうか起きてほしい、蘇えれ、そんな願いごと吹きこんだ2回の人工呼吸で切長い瞳が開いた。

「湯原っ、」

良かった、間に合った。
そんな安堵へ切長い瞳が微笑んで、少し厚い唇がゆっくり動いた。

「や、すもと、」

いつもの落着いた穏やかな声、けれど掠れている。
それでも声がまた聴けた、嬉しくて自分は微笑んだ。

「もうじき救急車が来る、大丈夫だ」
「…ん、」

切長い瞳が見つめてくれる、瞳の光はいつものよう澄んでいた。
これだけ意識が清明なら大丈夫、きっと助かってくれる。
そんな願い見つめた先で湯原はゆっくり唇を開いた。

「やすもと、お願いだ…犯人を…救けてほしい、」
「解った、俺が救ける」

きっと湯原は助かる、助かってくれるに決まっている。
その為なら何でもいい、どんな願いも聴いてやりたい、そう願い安本は微笑んだ。

「生きて…償う機会を、与えてほしい、…彼に、温かな心を…教えてほしい」
「解ったよ、俺が必ずそうしてみせる」

頷いた自分を真直ぐ見つめて切長い瞳が微笑んだ。
いつもの綺麗な笑顔、温かくて穏やかで少しだけ寂しい湯原の笑顔。
警察学校で出会った時から変わらない、この笑顔が大好きで友達になった。
大丈夫、こんなふうに笑ってくれるなら助かるだろう、それが嬉しくて約束を告げた。

「お前と一緒に、俺も彼に向き合うよ。約束だ、湯原」

笑いかけた視界の真中で嬉しそうに湯原は微笑んだ。
そして微笑んだ厚めの唇が、ぽつんと呟いた。

「…周太、…」

首を支えるよう抱えた腕の中で、がくんと癖っ毛の頭が崩れた。

「…湯原?」

切長い瞳は、睫の下に閉じている。
さっきまで笑っていた瞳、けれど睫が披かない。

こんなこと、嘘だ。

「湯原っ、」

嘘だ、だって今、笑っていたじゃないか。俺の目を見つめて、今、きれいな微笑みが。

信じたくなくて、そのまま唇を重ねて人工呼吸を施していく。
1回目の呼気に胸を押し、そして2回目、湯原の喉から鮮血が逆流した。

「ごほっ、…ごふっ、」

撃ち抜かれた肺から昇った血、それが喉を強打して咽かえらす。
それでも諦められなくて呼吸を吹きこんで、けれど2つの唇から鮮血が止まらない。
そして蒼白な頬を血潮あふれおち、噎せた飛沫からアスファルトに真赤な花が散った。

「…嘘だ、」

さっきは2回目で蘇ってくれた。
けれどもう、切長い瞳は笑ってくれない。

―どうして?

どうして、そんなはずあるわけがない
ずっと一緒に笑っていた、さっきも一緒にココアを飲んで笑っていた。
たった10分前までベンチで笑っていた、それなのに、こんな事があるわけがない。

警察学校で出会って、射撃特練に一緒に選ばれた。
それから新宿署に一緒に卒配されて、そのあと一緒に第七機動隊に配属された。
それから自分は新宿署へ湯原は警備部にと分れた、それでもこうして今日も一緒に任務についている。

ずっと、ずっと、一緒に歩いてきた。それなのに、なぜ、どうして?

救急車のサイレンが聞こえる。
どこからか桜の花びらが吹き寄せられて、湯原の頬に舞い降りた。
もう蒼白な貌は摩天楼の夜の底にまばゆい、その頬に深紅の花と白い花びら一片、ただそこにある。

「…約束、だな、」

ぽつり、呟きに血潮の香が意識を刺す。
さっきの約束を果たさなくてはいけない、自分は行かなくては。
そんな想いに意識が細められるまま、傍らの若い男に血だらけの口が頼んだ。

「…この男を、頼んでいいか」

泣きながら若い男は頷いてくれた。
それからと呟くよう唇が微笑んで、涙の紗を透かし男の目を覗きこんだ。

「君の事務所は、どこだ?」

彼は素直に口を開いてくれた。
その事務所は歌舞伎町でも奥の方、きっとまだ、犯人は辿りついていない。
そう思考がすばやく判断したまま立ち上がり、安本は走りだした。

不夜城のネオンが禍々しい。
ここで生みだされた暴力が、自分の友人を奪って逃げた。
絶対に許さない、絶対に追いついて、捕まえて、それから、

―殺してやる、

安っぽく着飾った人の群れ、互いを伺うような欲望の眼差し。
ただ歓楽を求めあう視線の交錯、原色の騒がしいネオンサイン。
それら全てが今、灰色の視界の底に沈んで見える。

―赦さない、絶対に、

吐く息が熱い、呼吸が乱れる。
唇から喉まで残る湯原の血の潮と香だけが、現実の感覚になっている。

どこだ、どこだ、どこに今、あの男はいる?

隠れても逃げても、絶対に探し出してそれから。
だって今それだけが、自分だけが生き残らされた理由になっている。

灰色の視界の中で、一か所、赤い色が見えた。

赤いジャンパー。
逃げる後姿、遠目に見えた、あの背中の色。
視認した瞬間、片手撃ちノンサイト射撃で安本は発砲した。

撃つぞ。
本当はそんな威嚇が必要だった。
けれどそんな余裕なんてない、絶対に逃がすものか、ただそれだけ。

けれど、唯ひとつだけが自分を止めた。

―犯人を救けてほしい

あの綺麗な眼差し、最後に見せてくれた綺麗な笑顔。
どんな怒りも悲しみも、あの笑顔だけは裏切れない。

殺してやる、死の恐怖におびえるがいい、血に塗れて這い蹲ってのたうちまわれ。
痛みの底で叫べばいい、苦しみに引き攣れて歪めばいい。
死んで、湯原に謝るがいい。

そう思ってトリガーを引いた、けれど照準は外される。
あの綺麗な微笑みが少しだけそっと、フロントサイトを押し下げてくれた。
そうして下げられた銃口から発砲された銃弾は、犯人の左足へと向かった。

左足に真赤に鮮血が飛び散って、赤いジャンバーの背中は道に倒れた。

本当は殺してやりたかった。
それでも自分の足許には、血塗れの脚を抱えた男は、生きている。

このまま放っておいたなら、きっとこの男は死ぬだろう。
流れだす血液、零れだす生命の熱、この全てが流れ出てしまったらこの男は死へと浚われる。
湯原のように。

けれど、

 生きて償う機会を与えてほしい、彼に、温かな心を教えてほしい
 お前と一緒に俺も彼に向き合うよ、約束だ、湯原

してしまった約束。

約束に縛られて、もう、この男を殺せない。
あのきれいな微笑みだけは、裏切ることなんか出来ない。

転がった男の拳銃をハンカチで拾い上げ、自分の手元にしまう。
それから衿元のネクタイを引き抜くと、犯人の左足付根を結束止血した。
動かす血塗れた手を怯えた目が見つめてくる、その物言いたげな唇は痛みに震え動けない。
いま怯えるこの男を本当は殺してやりたい、けれどもう約束をしてしまった。

―最期の約束だ、

大切な友人との最期の約束は、破れない。
この約束を護り続ける為に自分は生きるだろう、そんな願いを肚に落しこむ。
願いに瞑目して見開いて、定まった肚から安本は血塗れた唇のまま微笑んだ。

「大丈夫だ、私は君を必ず救けるから」


湯原と次に会えたのは、新宿署の検案所だった。
清められた顔にはもう血の痕はない、けれど真白になった頬が生命の不在を示して、苦しい。

もしも今日、俺が、警邏の依頼をしていなかったなら?
もしもさっき、俺が湯原に追いついて、援護射撃が出来ていたのなら。

たくさんの「もしも」が廻ってしまう。
ただ見つめたままめぐる想いに竦んで、今はもう、何も考えられない。
そんな想いのまま手は動き遺品の手帳を開き、息を呑んだ。

「…っ、」

鮮血滲んだページの間では、可愛い少年の笑顔の写真が銃痕に裂かれていた。

『ほんとに優しいんだよ、周太は。いつも庭木を可愛がってくれるんだ、』

いつも見せてくれていた幸福の笑顔、けれど彼の命ごと撃ち抜かれてしまった。
警察官の制服の胸ポケットで、愛する息子の写真ごと彼の全てを世界から去らす。
そんな現実の象徴は無残で悲しくて、遺品として家族に渡すことが正しいのか解らない。

―預ろう、いつかの日まで、

そうして写真一葉、桜の花びらと一緒に自分の手帳にはさみこんだ。


目の前の検案所の扉が開く。
湯原の妻と息子が静かに廊下へ出、室内へと礼をする。
そして振返って安本に気がついた。

―哀しい、

結婚式の日、礼装姿の湯原の隣で微笑んだ綺麗な黒目がちの瞳。
幸福に輝いていた瞳、けれど今はもう憔悴の底に沈んでしまった。
その変貌が哀しくて辛い、それでも背中を真直ぐ伸ばし安本は礼をした。

「お久しぶりです、」
「…同期の、ご友人の方でしたね」

彼女は覚えてくれていた。
それが今こんな時でも嬉しくて、その分だけ切ないまま頷いた。

「はい、」

彼女の穏やかで優しい綺麗な雰囲気は湯原の気配と似て懐かしい。
その隣から華奢な少年が見つめてくれる、母親そっくりな可愛い顔。
けれど視線の澄んだ強靭は、大好きなあの切長い瞳とそっくりだった。

安本は一つの手錠を取出した。
傷はあるけれど歪みも錆も無い、湯原の手錠。
それを両手に捧げ持つと、静かに片膝ついて安本は少年に微笑みかけた。

「これが、お父さんの手錠だよ」

黙って少年は受取って、小さな両掌に捧げ持ち見つめてくれる。
それから安本の目を真直ぐに見て、静かに手錠を返してくれた。
見つめてくれる聡明な眼差しに安本は約束と微笑んだ。

「私は、お父さんの友達なんだ。犯人はもう、捕まえたから。必ず、お父さんの想いを、私が晴らすから」

そう、自分が想いを晴らす。

だって約束してしまったんだ。
俺が湯原と一緒に向き合うと、もう約束をした。
だからもう自ら死んで彼の元へ今すぐ謝りにいく事すら、もう許されない。

ほんとうは、本音の自分は今すぐに犯人を殺してしまいたい。
そうして自分も自ら死を選んで、あの大切な友人の元へ謝りに行きたい。
けれどもう約束をしてしまったから、だから自分は約束のために生きていく。

湯原が眠りについた瞬間の、がくんと落ちた頭の重み。
悔恨と罪と現実と真実、あの瞬間に背負った全てずっと抱きしめて生き続ける。
湯原との約束ごと全てを抱いて背負って、いつかの涯まで自分は生きていく。

けれど苦しい、痛い、悲しい。
それでも、その痛みも苦しみも悲しみも、死んだあいつと繋がっている。

だからもう、それでいい。




そんなふうに13年の時を越えた今、目の前に端正な視線が座る。

「周太は13年間ずっと孤独でした。父親の殉職という枷と、それに絡まる善意の無神経さ。その全てが彼を孤独へ追い込んだ」

目の前に座る、制服姿も端正な長身の青年。
きれいな笑顔で微笑んで、静かに語りかけてくる。
きれいな切長い瞳は、真直ぐに見つめて揺るがない。

13年前に失った大切な友人で同期の湯原、彼は射撃の名手だった。
そんな湯原の忘れ形見、息子の周太君もまた射撃の名手として現われた。
そして周太君とそっくりの射撃姿勢が鮮やかだった、この青年。

射撃姿勢は本来、体格によって差異がでる。
そして小柄な周太君と長身の彼とでは体格が全く違う。
それなのに、彼は周太君と全く同じ射撃姿勢を見せつける。
こんなこと、本来なら出来るはずがない。

いったいどれだけの努力を彼は重ねたのだろう。
いったいどれだけ近くで彼は周太君を見つめ続けているのだろう。
どうして?何故そんなにも彼は、周太君を見つめているのだろう。

「彼の孤独を壊したのは私だけです。私よりも優しい言葉をかけた人は沢山いたでしょう。けれど彼の為に全てを掛けた人間は私だけです。
きれいな想いも、醜い欲望も、私は全部を彼に晒します。隠しているものがない。だからこそ、彼は私を信じて孤独を捨てました」

綺麗な低い声が真直ぐ告げてくる、その声に迷いは欠片も無い。
どうしてこんなに彼は迷わない?その問いかけに見つめた青年は断言した。

「他の誰にもそれは出来ない、私だけです。だから言います、彼が本当に信じて頼るのは、私だけです」

相手のために全てを掛けて。
どうしてそんなふうに、この青年は生きられるのだろう。
きれいな笑顔が眩しい、そんな一途な生き方が本当は羨ましい。
真直ぐな視線は美しくて、こんな自分ですらも彼を信じてしまいたくなる。

13年前のあの日、自分は湯原に追いつけなかった。
そして今また湯原の息子にも追いつけない、けれど、この青年ならば追いつくことが出来るのかもしれない。
そうであってほしい、そんな願いごと見つめたまま安本は訊いた。

「…では、どんな方法なら、周太君を救えるんだね?」
「簡単ですよ」

そう言って青年は、端正な唇を開いた。

「真実を告げて示して、その底にある想いに気付かせてやる。それで彼には解る、そしてそれが、唯一の選択です」

端整な青年は綺麗に笑っている。
綺麗な笑顔はなぜか、見つめるほど静かに信頼を寄り添わす。
この青年に任せてみたい、惹きこまれるように安本の口は開かれた。

「周太君を見た時、驚きました。わたしが大好きだった男の面影、そして射撃の名手。懐かしくて、嬉しかった」

語りだした口調には切ない懐旧が滲んでしまう。
そう、懐かしい、そして嬉しい。

大切な友人で同期の湯原、彼が遺した周太君。
綺麗な強い視線と穏やかな気配が懐かしい友人と似て少し違っていた。
忘れ形見、そんな存在の明るい瞳は幸せそうで、それがただ嬉しかった。

あの春の夜に引裂かれた、可愛い幸福な笑顔。
あの笑顔が今もまた、きちんと蘇って笑ってくれた。
あの笑顔を取り戻してくれたのは、きっとこの青年なのだろう。
この青年は幸福に追いついて、捕まえて、そんなふうに彼を笑顔にさせている。

13年前のあの日から、今も背負っている悔恨と罪と、現実と真実。
今からその全てを青年に託したい。きっと彼なら大丈夫、そんなふう信じられるから。


全てを語り終えて、私は泣いた。
13年間を縛り続けた約束と枷が外れて解ける、そんなふう感じられた。
端正な青年は、きれいな笑顔で静かにそっと見守ってくれていた。

旧知の吉村医師が自販機へ行って来てくれた。
缶コーヒーを3つと、ココアを1つ。
そうして3人でココアの缶を眺めながらコーヒーを飲んだ。
いまきっと一緒に湯原もココアを飲んで、あの綺麗な切長い瞳を綻ばせている。
そんな想いと飲み終わる頃、聴きたかったことを青年に尋ねてみた。

「宮田くんは、周太君の友達なんだね」

きっと良い友達で、親友というやつだろう?
そんなふう想って訊いてみた、けれど青年は綺麗に笑って否定した。

「いいえ、違います」

どういうことだろう?
友達ではないならば、なぜこんなにも彼は真剣なのだろう。
それ以上の繋がりがあるのだろうか、解らないまま重ねて訊いてみた。

「ではどうして、こんなに君は一生懸命なんだ」
「おかしいですか?」

綺麗に笑って青年は答えた。

「警察官なら、今この一瞬に生きるしかありません。だから今を大切に見つめるだけです」

綺麗な低く響く声。
本当にその通りだ、そしてなんて懐かしい言葉だろう。

『警察官は、いつ死ぬか解らない。だから今を、精一杯に生きていたい』

湯原、どうしてだろう?

お前の心はそのままに、この青年の中に生きているよ。
なぜ他人の青年の言葉に、お前の心が生きているのだろう?
そんな疑問と懐旧に見つめた真中で、綺麗な笑顔は教えてくれた。

「周太は私の一番大切な存在です。だから今を、大切に彼を見つめている。それだけです」

ああそうか、この青年にとって「一番大切」それだけなんだ。

そんな納得にまた羨望がまぶしくなる。
こんな生き方が出来る男が羨ましくて、ただ眩しい。
そんな想いごとコーヒーを飲み終えた前、青年が立ちあがった。
それから制帽を手に持ったまま、端正な礼を自分に向けると微笑んだ。

「今日は、ありがとうございました」

吉村医師も立ちあがって青年に微笑みかけて踵を返す。
ロマンスグレーのスーツ姿に伴う制服姿の背は広やかで頼もしい。
その真直ぐな横顔ともっと話してみたい、そう願ったまま声を掛けた。

「宮田くん。いずれ、飲みに誘わせてくれるかい?」

断られるだろうか、そうも思った。
自分は周太君を傷つけた、そして青年の怒りをひきだしたから仕方ない。
そんな諦め半分だった提案、けれど切長い瞳は優しく微笑んで言ってくれた。

「ええ。その時は周太も誘います」

綺麗な笑顔が、ただ温かい。
この懐かしい温もりに願ってしまう。

どうか周太君を幸せにしてほしい。
あの春の夜、追いつけずに死なせてしまった大切な人。
彼の分までどうか幸せになってほしい、どうかずっと幸せが君に寄り添いますように。

そしてどうかこの青年も綺麗な笑顔のままで、ずっと笑っていてほしい。




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第9話 願望―P.S:side story「陽はまた昇る」

2011-10-19 23:55:12 | 陽はまた昇るP.S
その日のことを、



第9話 願望―P.S:side story「陽はまた昇る」

カーテンを透した光があたたかい。
いつものように昨夜も湯原の部屋に座り込んで英二は勉強した。
そして今朝も湯原のベッドからカーテンの隙間の明空を見つめている。

静かに隣へと顔を向けてみる。
寝起きのゆるやかな視界に、すこし離れた隣で眠る湯原の寝顔が穏やかだった。
一緒に勉強していても相変わらず湯原は墜落睡眠をする、昨夜も気が付いたら隣で英二の肩に凭れて眠っていた。

湯原の隣は穏やかで静かで無言でいても居心地が良い。
本当は繊細で優しい湯原の隣は警察学校の辛い時も英二を癒して安らがせてくれる。
それが嬉しくて毎日のように、こうして隣に座りこんできた。

そうしてもう今は知っている。
繊細な優しさと豊かな感受性が湯原の孤独を造り出した。
そのことを、こんな日々から気づかされた。

父の殉職

そんな枷が湯原とその母に重たく背負わされている。
憐憫、好奇心、無意識の傲慢さが、他人への不信感になって湯原を孤独にしていった。
そして辛い運命を誰にも分けない為に自分から孤独を選びとっている。
自分が背負わされた痛み苦しみを誰にも背負わせたくないという優しさ。
そんな湯原の優しさが悲しい、そして湯原の端正な孤独が眩しかった。

父の殉職という枷を背負わされても綺麗な湯原の姿勢に憧れた。
大切な人を殺されて、それでも尚、優しさも潔癖も失わずに生きる。
自分にはきっと出来ない端正な強い生き方を湯原はしている。

そしてもう願っている。
湯原の痛みも苦しみも全て自分にも分けて背負わせて欲しい。
そうして湯原の隣に座り続けることを許してほしい。

穏やかで静かで居心地のいい隣、無言でも安らげる豊かな居場所。
それがどんなに得難いものか、たくさんの出会いを経験した自分は痛いほど知っている。
こうして見つけてしまった居場所を手離すなんて出来ない。
湯原の痛みも優しさも知ってしまった今はもう、諦める事も出来ない。

けれどもうじき、この隣も遠くなる、そんな想い気配を消すよう英二は小さく吐息をついた。

今日は9月16日。

いつもなら自分の誕生日で、なんとなく嬉しい日だった。
けれど今朝は今日が来た事が辛い。
9月16日は月末の2週間前、それは卒業式と卒業配置まで2週間を切ったことだった。
自分は奥多摩方面、湯原は新宿方面に希望を出している。そして卒業配置後は所属署に併設の独身寮へ入る。
1ヶ月後にはもう、この隣にはいられない。

希望通りにならない事も多く適性で配置されるともきく。
けれど湯原と自分の適性が全く違う事はこの6ヶ月で解っている。
いずれにしても自分達は違う配置先になるだろう。

「適性か、」

英二は呟いた。
自分が希望する奥多摩は山岳救助の現場になる。
山の経験は少ないが、救助隊員に必要な検定は今のところ高得点合格でクリアできた。
訓練でもこの分野が楽しい。適性あるのかなとは思う。

山を愛して山に生きる人達は、自分達の事を「山ヤ」と言うらしい。
山岳救助隊は「山ヤの警察官」ということになる。
山岳訓練をきっかけに知った山の世界は、厳しいけれど美しかった。
今までいい加減に生きて来た自分だけれど、その現場で真剣に生きてみたいと思った。

そうしたら、少しは湯原の痛みも分けて背負えるように、なれるかもしれない。
そうなれたらいい。

それでも、この隣と離れる事は、さびしい。
隣の寝顔を見つめて、ふと英二は気がついた。
規則正しい寝息がほのかだけれど、さわやかに甘い。

きがつくと湯原は、勉強しながら口に何かいれている事がある。
たぶん飴か何かなのだろう、きれいな香だなといつも思ってきた。
その香が、湯原の吐息に名残りながら、英二の頬を撫でてくる。

ちょと困ったなと英二は思った。
ただでさえ本当は、いつも、ふれてしまいたいと思っている。

けれど警察学校は「男女交際禁止」の禁則がある。
想定されていないけれど、同性でも同じ事だろう。
それ以前に日本では、同性同士の関係は歓迎されていない。

自分でも勘違いではないかとか、疑ってみたこともある。
けれどこの隣は居心地がよくて、座りこんだまま立てないでいる。
苦しい運命にも凛と立つ姿は端正で、きれいで、目を離せなかった。
そういう感覚を、誤魔化せる人間なんて、いるのだろうか。

たくさんの出会いがあって、たくさんの女の子とつきあってきた。
色んなタイプがいて、一生懸命に尽くそうとしてくれたひともいた。
けれど、こんなふうに、「居心地が良い」なんて感じた事がなかった。
そして、こんなふうに、「ずっと見ていたい」と思ったことも無い。

なによりも、その背負う苦しみ痛みまで、一緒に背負わせて欲しいと願ってしまった。

できるだけ楽をして生きようと、素直に自分を出さないで生きて来た。
けれどこの隣には、そんなことは通用しない。
自分も素直になってから、少しずつ心を開いてくれた。
そうして今こんなふうに、無防備に隣で眠ってくれている。

無防備なままに、ずっと掴まえて、ずっとこの隣にいたい。
こんな時、本当はいつも、そう思っている。

厳しい運命にも黙って耐えて。
運命に立ち向かう為なら努力も犠牲も払ってゆるがない。
それでも運命を恨むことも誰かを嫉むこともしないで、ただ真直ぐに生きている。
けれどその素顔は、繊細で穏やかで、人を放りだせない優しさのままでいる。

端正で純粋で、きれいな生き方が眩しい。

そのままにきれいな黒目がちな瞳の繊細で強いまなざしが、好きだ。
どんなときも受けとめてくれる、穏やかで静かな居心地いい得難い居場所。

そして自分に教えてくれた、警察官として男として誇りを持って生きること。
誰かの為に生きる意味、何かの為に全てを掛けても真剣に立ち向かう事。
きっと自分は、この隣に出会えなかったら警察官の道を放り出していた。
山ヤの警察官として生きたいと夢を持つ事もなかった。

生きる目的を与えてくれた人。
きれいな生き方で、どこまでも惹きつけて離さない人。
静かに受けとめる穏やかで繊細な居心地の良い隣。
こういう存在には、もう、きっと会えない。

目の前で静かに眠るひと、かけがえのない得難い隣。
このまま奪ってしまえたらどんなにいいだろう?
けれどそれをすることは、この隣の全てを奪う事になる。

絶対に警察官になりたいという目的も女性と育める普通の幸せも奪ってしまう事になる。
たとえ卒業した後でも、警察官で男同士では生き難い事はもう解りすぎている。

純粋で端正な生き方をする男を、そんなところに引き擦り込めない。
それでも、もう自分はきっと他の誰も求められないだろうと思う。

―こういう存在を知ったら、もう、他のどこにも居場所を探せないな?

うつ伏せになった英二は腕組みに顎を乗せた。
眠る隣の寝顔をそっと眺める。
こちらを向いてくれている、それだけでも嬉しい。
無防備に眠ってくれている、それだけ信頼されているのが嬉しい。
この信頼を壊したくないから出したい手もひっこめていられる。

けれど、今朝の吐息はやけに香りが気になってしまう。
さわやかで甘い、ほっとする香り。これはいったい何だろう?たぶんよく知っているはずだった。

少しだけ傍へと、そっと寄ってみる。
時計は5時、隣はまだ、よく眠ってしまっている。
英二は長い指を伸ばしてやわらかな前髪に絡めさす。
いつもこうしてつい、ふれてしまう。

起きればいつも湯原は、前髪をあげて額をだしてしまう。
そうすると聡明な印象が強くなって、生真面目な顔になる。
強さが全面に出された硬質な雰囲気が、印象を強める。
警察官としてはその方が、都合が良いのかもしれない。

けれど夜になって洗い髪になると、こんなふうに前髪がおろされる。
長めの前髪に透けて、黒目がちの瞳の繊細さが、きれいだと思う。

初めて校門の前で出会った入寮前の日。
英二が「かわいい」と言ったから、湯原は前髪をばっさり切ってしまった。
「顔の事で舐められたくなかった」湯原はそう言った。
それを言われた時、ほんとうはショックだった。
けれどそういう湯原の、男っぽい意地は解るなと思う。
そしてそんな意地っ張りさが、眩しくて、かわいいと思えてしまった。

それから自分が脱走した夜。
元彼女に騙されて、警察学校を辞める覚悟を踏みにじられて、怒りが込上げて。
そういう女に相応しい自分が、悔しくて、不甲斐なさにまた腹が立って。
全ては、要領よく楽して生きようとした自分の、責任だった。
楽をするつもりだったのに、逆だった。とても苦しくて、全部投げ出したくなった。

本当はずっと思っていた。
自分が生まれ、生きている理由を知りたい。誰かの為に、自分は何が出来るのか。
けれどそれを求める事は必要ではないと、周りにずっと言われてきた。
それでも脱走した夜に、痛みと一緒に気づかされてしまった。
自分はきっと本当は、要領よくなんか生きられない。

寂しがりの自分は誰かに傍にいて欲しくて。
けれど誰でもいいわけでは無くて。
それでも「誰か」に出会えない、そんな自分が悔しくて悲しかった。
自分が求めて、自分を求めてくれる、そんな「誰か」はいないのだろうか。

そして脱走した夜に、この隣を見つけてしまった。
涙のとまらない自分を、ぎこちなく抱きしめて、ただ黙って傍にいてくれた。
穏やかで静かな、やさしい時間が流れる場所。
無言でいても居心地のいい隣。
言葉を遣わずにただ佇んで、そっと静かに受けとめる。
そういう温もりがあるのだと、初めて知った。

少し離れたところで今、静かに眠っている隣。
ただ眠っているだけなのに、こうして傍にいるだけで、そっと心が凪いでくる。
いま言葉を掛けてくれる訳じゃない、それなのに充たされてしまう。

朝の光がほのかに、カーテンの隙間から射しこんでくる。
あたたかな明るさの中で、眠る隣の顔が、切ない。
こんなに近くにいるのに、手に入らない。
そして2週間たてば、ずっと遠くへ行ってしまう。

髪に絡めた指を、そっと離した。
これ以上ふれていると、余計に未練が残りそうで、悲しかった。
けれど英二は、また少し傍へと静かに寄り添った。
さっきより近くなった、長い睫がきれいだった。

こんなふうに無防備に、眠ってくれる。
それだけでも今は、幸せだと思える。

見つめている視線の真中で、長い睫がそっと揺れる。
ゆっくり開いた黒目がちの瞳が、こちらを見つめた。
あ、俺の事、見つめてくれる。
それが嬉しくて、きれいに英二は笑った。

「おはよう、」
「…ん、おはよ」

こんなふうにすぐ隣で「おはよう」が言える。
誰よりも早く、その日に一番の「おはよう」が自分のものになる。
それだけでも英二には、幸せだった。

けれど今日は9月16日、
あと2週間で、その幸せも終わってしまう。
それが、かなしい。

湯原がすこし微笑んだ。

「どうした、みやた」

名前を呼んでもらえる、それだけでも嬉しい。
卒業しても、電話で名前を呼んで欲しい。そんな願いをもってしまう。
きれいに笑って、英二は答えた。

「かわいいなと思ってさ」
「…だから早く眼科にいけよ馬鹿」

いつものように、キツいこと言いながら、湯原の瞳が微笑んでくれる。
こんな日常がきっと、2週間後には懐かしくなる。
懐かしくて戻りたいと、きっと何度も思うのだろう。

もう自分はこの隣以外の、どこもきっと求めない。
だから、今、この時だけでも、全てを記憶して刻んでおきたい。
記憶だけで人が生きられるのか、解らないけれど。
それでも、この隣のことはきっと、ずっと懐かしく思いだしたい。

起き上って首を回して、英二は笑った。

「今日の朝飯、なんだろな」
「その前にランニングと掃除だから」

微笑んで湯原が答えてくれる。
こんなふうに、他愛ない会話が嬉しい。
こんなふうにずっと、隣にいられたらいい。



ランニングも掃除も終わって、制服に着替えてから食堂へ行った。
場長の号令で合掌して、いただきますを言う。
そうしたら関根が、ほらと言って、ベーコンを皿に乗せてくれた。

「宮田お前、たしか今日が誕生日だったろ」

よく覚えていたなと、英二は少し驚いた。
快活に笑って、関根が言ってくれた。

「こんなんで悪いけどさ、誕生日のお祝いな」
「おう、ありがとうな」

笑って、ありがたく箸をつけさせてもらった。
関根はこんなふうに、からっと明るい優しさがいい。
そうなのと瀬尾も微笑んで、話しかけてくれた。

「じゃあさ、宮田くん。何か描いて欲しいものとかあるかな」
「お、絵描いてくれんの瀬尾?」
「僕それ位しか、出来ないから」

やさしい笑顔で瀬尾が言ってくれた。
そんな言い方するけれど、瀬尾は本当に絵が上手い。
気持ちが嬉しい、笑って英二は答えた。

「瀬尾ほんと、絵上手いから。嬉しいよ」
「ありがとう、」

嬉しそうに瀬尾が笑ってくれた。
何を描くのか、放課後までに考えておくことになった。

そして昼飯の時、みんながまた皿に惣菜をのせてくれた。
結構な量になったなと箸を運んでいたら、視線が横顔にささっている。
この視線は誰なのか、たぶんきっと、見なくても解っている。
なんで見つめてくれているのか、解らないけれど英二は嬉しかった。

いつもより量が多い夕食も済んで、学習室で瀬尾が鉛筆を持ってくれた。
本当は描いて欲しいものがあるけれど、ちょっと頼み難い。
どうしようかなと考えていると、瀬尾が笑って提案してくれた。

「宮田くん、いつも通りに湯原くんと勉強していいよ」
「え、そう、なのか?」

どういう提案なのだろう。
良く解らないなと思っていると、ほら早くと瀬尾が促してくれる。

「いつも通りでいいから」

振返ると湯原が、黙々と資料を眺めてノートをとっていた。
静かに椅子をひいて、いつものように隣に座る。
そっと隣からノートを覗きこむと、きれいにメモがまとめられていた。
ふっと集中が途切れる気配に、ノートを指さして英二は微笑んだ。

「ここさ、質問させてよ」

黒目がちの瞳が見上げて、微笑んでくれた。

「ん、いいよ」

いつも通りの時間が流れる。
皆がいる学習室だけれど、それでも穏やかで居心地が良い。
ずっとこんなふうに、隣に座っていたいけれど、願っていいのかも解らない。

そろそろ自室へ戻ろうかと、湯原と席を立って資料を片付けた。
学習室を出ようとして、瀬尾が呼びとめてくれる。

「宮田くん、ささやかだけれど、お祝いに」
「お、さんきゅ」

絵は、きちんと画用紙で挟んでくれてあった。
開いてみようとして、部屋で見てと瀬尾が微笑んだ。

「きっとね、宮田くんの一番良い顔だと思うから」

そんなふうに瀬尾に言われて、そのまま持って湯原の部屋へ行った。
いつも通りにベッドに腰掛けて、画用紙を開けてみた。

「あ、」

ボールペンで描かれた絵。
並んで座って話している、自分と隣が描かれていた。
黒目がちの瞳が、やさしい眼差しで描かれている。それが英二には嬉しかった。

「…それ、瀬尾が描いてくれたんだ」

隣から覗きこんで、湯原が呟いた。
英二は笑って答えた。

「湯原がさ、かわいく描けていて良いよな」
「…だからはやく眼科行けって」

いつものように言われて、英二は嬉しかった。
明日は土曜日で外泊日、それも本当は嬉しい。
たぶんいつもどおり、一緒に昼を食べてから、いつものベンチに座る。
いつも同じ過ごし方、だけれどそれが嬉しい。

あと、もう2回で外泊日も終わる。
その次はもう、卒業式が終わって卒業配置も決まっているだろう。
もうじきこの隣から、遠く、離されてしまう。

だからせめて、明日の事もきちんと記憶できたらいい。
微笑んで英二は訊いてみた。

「明日の昼、何食いたい?」
「ラーメン、」
「またかよ」

いつも湯原は同じ事を言う。
本当に好きなのだろうけれど、他に思いつかないのだろう。
なんだかそれも、かわいくて好きだ。
そんなこと考えていたら、湯原が言った。

「明日は、おごるから」
「え、」

どうしてと目で訊いたら、湯原は少し睫を伏せた。
こういう時は、すこし恥ずかしい時なのだと、英二にはもう解る。
どうして?と見つめて目だけで訊いてみると、そっと湯原の唇が開いた。

「…ささやかだけど、お祝いだから」
「すげえうれしい、そういうの」

ありがとうと言って、きれいな笑顔で英二は笑った。
本当はずっと、この隣にそう言ってほしかった。
自分が生まれて来た事を、すこしでも喜んでくれるなら、幸せだと思った。

もうじき卒業式で卒業配置になる。
離れなくてはいけない、解っている、それでもこの隣は居心地が良い。
本当は離れたくなんかない、だから思ってしまう。

どうか唯ひとり、この隣にも自分を求めてほしい。





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山開―P.S:another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-14 19:28:33 | 陽はまた昇るP.S
ぬくもりへの道しるべ



山開―P.S:another,side story「陽はまた昇る」

朝起きたら、松岡場長がいなくなっていた。
手分けして山内を探すのに二人一組と言われて、関根を振り向こうとした一瞬に左腕を掴まれた。

「あっち探そうぜ」

宮田が笑いかけてくれる。いつもならこの笑顔は、なんだか嬉しい。けれど今は見たくなかった。
笑いかけてくれる端正な唇が、気になってしまう。それが恥ずかしくて、なんだか見たくない。
それでも気付かないふうで宮田は、腕を掴んだまま歩き始めた。

緑の梢からふる木洩日が、懐かしい。
父とこうして手を繋いで、歩いた楽しかった時間。
山荘の夜も、川で泳いだ事も、楽しくて幸せだった。
戻らない幸せは、あたたかいけれど、切ない。

けれどそれを今、掴まれた腕に思い出してしまうのが、なんだか悔しい。

ふりほどいてやれと思うのに、長い指の掌はがっしりと掴みこんで、離れない。
剣道も逮捕術も、殴り合いも。誰にも自分は負けたことが無い。
宮田なんか、いつも一方的にやっつけている。

それなのに今、この腕がふりほどけない。
きれいな白い掌なのに、不似合いなほど強い力で掴みこんで、絶対に離してくれない。
こんなのはなんだか狡い、こんなときばかり、狡い。

いま顔を見たくない、そう思っている自分の顔はもっと見られたくない。
どうしてこんなときばかり、離してくれないのだろう。

腕が痛い、そのぶんなんだか、心も痛い。
痛くて、痛くて、とうとう自分の唇が動いてしまった。

「…離せよ」
「嫌だね、」

振向いた宮田は笑っていなかった。
いつもあんなに笑顔なのに、真顔のままで「嫌だ」と言った。
なぜ、どうして、こんなふうに言われるのだろう。
呆然としていく視線の先で、きれいな唇がまた開いた。

「離したら逃げるだろ。湯原。だから離さない」

宮田は切るような語調で言って、真直ぐに周太を見つめてくる。
宮田がこんなに言い方をするなんて、どうして。
どうしたのだろう、なぜこんなふうに、宮田がぶつけてくるのだろう。

教場のみんなと騒いでいても、宮田はいつもどこか穏やかで、やさしい。
ふたりで寮の部屋にいると、そういう穏やかさに静けさがおりて、温かい。
勉強していても、本を読んでいても、宮田の気配は周太を邪魔しない。
ふっと集中が途切れた時に、そっと話しかけて来てくれる。
そういう繊細なやさしさが、居心地がいい。

父が殉職してからずっと、誰かが隣にいることは苦痛だった。
父は立派な男だった。
それなのに「殉職」だけで父を見て憐れんで、自分と母を「殉職者遺族」といって憐れんで。
同情、憐憫、好奇心、そういう空気が大嫌いだ。

そんな目で見ようとする、無自覚な傲慢さが大嫌いだ。
そんな周りが嫌いで、そんな誰かに自分の邪魔をされたくなくて、ひとりの方が良いと思うようになった。

そして父の真実を知るために、警察官になる事を選んだ。
きっと辛い道になることは解っている、だから余計に人とかかわる事を避けて来た。
この生き方は重くて痛い。それを一緒に背負ってとは、誰にも頼れない。

重さも痛みも解りすぎている、だから誰も巻き込みたくはない。
重さも痛みも、耐える辛さは自分ひとりだけでいい。
痛いから、誰かに負わせるくらいなら、ひとり孤独を抱くほうを選んでしまいたい。
それが寂しくて、哀しくても、父の無残な遺体に誓った生き方を、変えることはもうできない。

宮田の隣は居心地が良い、だからつい拒めない。
けれど昨日、溺れかけた中仙道に人工呼吸をする宮田を見て、気づいてしまった。
宮田は、目の前の相手が誰であろうと救うだろう。
宮田の穏やかで、やさしい健やかな心は、どんな相手にも向けられる。

宮田が脱走した夜からずっと、ほとんど毎日、宮田は訪れてくれる。
いつも隣に座って、きれいな笑顔で笑ってくれる。
だからつい思ってしまった、このきれいな笑顔は、自分だけのものだと。
昨日見せられた川での光景に、自分がそう思っていた事に気づかされた。

自分は孤独に生きることを選んだ。
それなのに、きれいな笑顔を求め始めてしまっている。
こんなにきれいな笑顔を、重たい痛みの生き方に巻き込もうとしていた。

自分はもう、選んだ生き方の涯には、ひとり孤独を抱くことになる。
それなのに、きれいな笑顔が教えてくる。
誰かが隣にいると温かいと、人に頼ることも嬉しいと、静かにそっと見つめてくる。

そんなこともう、やめて欲しい。
いつかきっと、この笑顔は、もっとふさわしい場所へ行くだろう。
それなのに今、こんなふうに温められてしまったら。孤独に戻ったときが辛い。

本当は自分だって解っている。孤独より、誰かが隣にいるほうが幸せだと。
けれどもう、自分には、そんな生き方は選べない。
どうせ置いて行かれるのなら、このままずっと、孤独へ放っておいて欲しい。

このままずっと、気づかせないで欲しい。
本当は、誰かの隣にいたいと、願ってしまう自分を、気づかせないで。

それなのに、どうして、腕を離してくれない?
それなのに、どうして、そんなふうに感情をぶつけてくる?

こんなこと慣れていない。
誰かがこんなふうに、逃げても離してくれないなんて、こんなこと慣れていない。

力強い掌が言ってくる「絶対逃がさない」
今はもう、きっと逃げられない。
今だけでも、逃げないでいるしか、ないのかもしれない。

周太は溜息と一緒に口を開いた。

「…逃げないから」
「信用できないね」
「…ほんとうに逃げない…腕、痛いから」

ようやく掌が離れてくれた。掴まれていた場所が、痛い。
擦ってみると、布越しにも微かな熱を感じられる。
掴まれた場所の、温もりが、痛い。

「見せて、」

拒む間もなく、宮田に腕を捲られてしまった。

うす赤い、つけられた指の跡。
誰かに触れられて、こんなふうに痕がつけられるなんて。
赤い痕が痛い、けれど温もりが、なんだか嬉しい。

きれいな切長い目が、哀しそうに痕を見つめてくれる。
それがなんだか嬉しい、こんなこと慣れていないのに。
そして端正な唇がそっと言ってくれた。

「ごめん」

宮田の哀しそうな目。
そんなふうに見てくれることが、嬉しい。

「大丈夫、」

思わず微笑んだ自分がいた。
そして空気が、いつものように穏やかになっている。
いつものように、が、なんだか嬉しい。

この先はきっと、自分は孤独に戻らなくてはいけない。
けれど今、こんなふうに嬉しい事は、誤魔化せない。
それなら今は、こんな温かさに浸ってもいいのかもしれない。

感覚を誤魔化すことなんて、どうせできない。
そして今は、こうして隣に来られる事を、拒むことも出来ない。

すぐ隣で宮田が笑う、それがなんだか嬉しい。
そう思っていたら、宮田が口を開いた。

「湯原さ、川で頭を掻いていたただろ?」
「え、」

どうして気づかれたのだろう。
自分でも無意識だった。
それに宮田はあの時、中仙道を見つめていたはずなのに。
それなのに、きれいに笑って宮田は続けた。

「俺が他の人とあんなことして、湯原ちょっと照れてた?」
「…っ」

首筋が熱くなっていく。
照れた、そうかもしれない。なによりも、気づかれてしまった事が恥ずかしい。

「嫉妬してくれるんだ?」
「…違うああいうの慣れていないだけだって」

ぼそぼそと反論したけれど、自分の首筋は正直だなと思う。
たぶんきっと赤くなっている。
そして多分、自分より背の高い隣にはもう、見られてしまっている。

「いつもなら並んで歩くのにさ、気が付いたらずっと後ろにいたし」
「…っ」
「寝る時だってさ、なんで一番遠くにいたわけ?」

そんなこと訊かないで欲しい。
きっと本当は宮田は気づいている。そうでなければ、こんなふうには訊かないだろう。

「いつも徹夜の時はさ、気がつくと隣で寝てる癖に」

それは言わないで欲しい、多分もう真っ赤になってしまう。
いままで誰にも見せなかった、その素顔は恥ずかしい。

墜落睡眠をする癖が、自分にはある。
幼い頃からずっとそうだ、いつのまにか眠ってしまう。
1秒前まで本を読んでいても、話していても、気づいたらベッドの中にいる。
よく父が抱きあげて、ベッドの中に寝かせてくれていた。

徹夜で勉強しようと宮田が来て、気づいた時にはベッドで眠っている。
そんなことがもう、何度かある。
そうして大抵、隣では宮田が寝ている。
いつも恥ずかしい。けれどなぜか、一緒に眠った朝はずいぶん快い。
それも本当は嬉しい。嬉しくていつも、拒めないでいる。

「昨夜だって肩でも胸でも、貸したのに。今更もう遠慮するなよ」
「馬鹿うるさい宮田」

自分はつい遠慮する。自分なんか迷惑だろうと、思ってしまう。
けれどこんなふうに「遠慮するな」なんて言われたら、嬉しい。
きつい言葉でつい言い返すけれど、本当は、嬉しい。
どうしていつも、宮田は欲しい言葉をくれるのだろう?

宮田が背を伸ばして、辺りを見回した。
山は静かで、人の気配も呑みこんで佇んでいる。

場長の松岡は、いったいどこに行ったのだろう。

「場長、いったいどこ行ったんだろな」
「ん、」

歩きだした時、声が向こうから聞こえた。
場長の声だろうか。宮田が周太を振返った。

「おい、」

山道をふたり急いでいくと、崩れたような跡が山道の端に出来ていた。
その崖下すぐで、場長が木の根元を掴んでいる。宮田がすぐに呼びかけた。

「場長!どうしたんだよ」
「この花、嫁さんに持って帰ってやろうと思って」

淡い色の花を場長は持っている。
出産に立ち会えなかった妻へ、なにか心遣いをしたかったのだろう。
こういう優しさが、場長のいいところだと思う。
こんなふうに、誰かと寄り添える生き方は、きっと幸せなのだろう。

「足場が雨で緩くなっていたんだ」

昨夜は豪雨だった。やわらかい山の土が水を吸って、崩れやすくなっている。
このままだと崖底へ滑落してしまうだろう。

見下ろす谷底は、岩がいくつも生えている。
滑落して岩にぶつかったら、ただの怪我では済まされない。
山は10m落ちても死ぬと父が言っていた、こういう場所ではそれが現実になりやすい。

場長を待つひとの許へ、無事に返してやりたい。
こんなふうに寄り添える生き方を、助けてやれたらいい。
自分にはきっと求められない幸せを、せめて他では叶えて欲しい。

周太はウィンドブレーカーを脱ぎ始めた。
小柄な自分の腕尺では、宮田と繋いでも場長には届かない。
ウィンドブレーカーをロープ代わりにすれば、なんとか尺を補えるだろう。

「今引きあげるから!」

崖へと声をかけて周太は、脱いだウィンドブレーカーの片袖を宮田に押し付けた。

「ちょっとこれ、持ってて」

片袖を左手で持つと、周太は崖下へ屈みこもうと姿勢を低くめた。
右腕を伸ばすと、なんとか届きそうな感じがする。
けれど、後ろから宮田に引き留められた。

「待てよ。ザイル持ってこよう」
「大丈夫、」

宮田に笑いかけ、周太は低い姿勢で足許を固めた。
仕方ないという顔を宮田はしているだろう、けれどウィンドブレーカーがきちんと固定されたと感じる。
宮田が掴んでくれている、そう思うとなんだか安心できた。
周太は体を精一杯伸ばして、右腕を場長に差し出していく。

「掴まって、」
「もうしわけない」

場長の大きな掌が、周太の右腕を掴んだ。
荷重が一挙に掛かって、体が引き攣れそうになる。
本来華奢な骨格が悲鳴をあげるのを、覆う筋肉が助けて動き始めた。

大柄な場長がひっぱりあげられていく。
宮田と繋がるウィンドブレーカーから、宮田が踏ん張って力をいれてくれるのが伝わる。
きっとあの強い掌で、しっかり掴んでくれている。それがなんだか安心できる。

場長の体がほとんど、登山道まで引き上げられていく。
あと少しと思った瞬間、足許ががらり崩れる感触がおきた。
しまった、と思った。
雨水をいっぱいに含んだ山の土は、崩れやすいと父に教わっていたのに。

左腕に一挙に荷重がかかる。
さっき力強く掴まれた左腕、覆う筋肉も華奢な骨格も、一度にかかった衝撃に引き攣れる。
左掌が、引き攣れに開かれた。



誰かが自分を呼んでいる。
聴き慣れた声、きれいな低い、いつもの声。
いつもよりずいぶん、遠くから声が降ってくる。

声に誘われるように、ゆっくり瞳が開いていく。
やわらかな山の土と、岩根と、草木の緑が視界に映り込んだ。
ゆっくり頭を起こしていく、それと同時に、全身の痛みが意識をつかみ始めた。

自分は崖から落ちた―
思い出して崖上を見あげると、宮田の叫び声が降ってきた。

「湯原っ」

見つめ返す意識に、全身の痛みが被さってくる。
打撲と擦過傷と、それから右足の重さ。
痛い、けれど見下ろしてくれる目には、気づかせたくない。

「…大丈夫っ…ぅ」

返事をしたけれど、きっと声は届いていない。
見あげて立ち上がろうとするけれど、右足が重くて立てない。
座りこんで、また立ち上がろうとするのに、体が言うことをきいてくれない。

「湯原、動くなっ、そのままじっとしていろ」

宮田の声が聴こえる。
自分の声は届かないけれど、宮田の声は自分に届く。
見上げる切長い目が、真摯な眼差しで自分を見つめてくれている。
なんだか嬉しくて、素直に頷いてしまう。

「必ず迎えに行くから、そこで待ってろ!」

体が、痛い。
けれど今聴いた「必ず」が痛い。
いろんな諦めに慣れた自分なのに「必ず」なんて約束に期待してしまう。
どうしていつも宮田は、こんなふうに、欲しい言葉をくれるのだろう。

宮田と場長の足音が遠ざかって、人の気配が消えた。
山の静寂がおりてくる。

傍らの岩根に寄りかかって、梢を見あげた。
木洩日が額にふりかかって、温かい。
たくさんの木々の醸す香が、頬を撫でて風にとけていく。
谷川のせせらぎが、水の香りを涼やかな音を、そっと届けた。

体中が痛い。けれど山の懐は、あたたかい。
幼い頃に父と母と登った、いくつかの山。
こんなふうに座って山の空気に寛いだ、懐かしい幸せな記憶。

もうずっと忘れていた、こんな場所と時間があることを。
この場所も時間も、現実のもの。
それなのに、公園や庭でふと思い出す時、これらを遠い過去にしていたと気づかされる。
父の殉職という冷たい現実が、自分の全てを覆っていた事に、気づかされる。

山の空気はただそっと佇んで、何も言わなくても包んでくれる。
自分が抱える孤独も悲しみも痛みも、静寂にとけてしまうような気がしてくる。
「いつかまた」が与えられるなら、また山に来てみたい。
そんなことを素直に思ってしまう。


人の気配が崖上を訪れる。見上げると、遠野教官がこちらを覗き込んだ。
かすかな会話が、ここまで降ってくる。

「山の経験者は藤岡だったな」
「はい、」

昨夜の豪雨で山の土は脆い。
経験者で無くては、降りてなど来られないだろう。
まして自分を背負って登るなど、初心者では到底無理な事だと知っている。

さっきの宮田の「必ず」は難しい。
さっき言われた時から、きっと無理だと解っていた。それでも言ってくれて、嬉しかった。

「教官、私に行かせてください」

きれいな低い声が、はっきり聴こえた。
けれど、宮田は山の未経験者だったはずだ。きっと許可は下りない。
それでも言ってくれた、それが嬉しい。
約束をして果たそうとしてくれる、それだけでこんなに嬉しい。

ほっと息をついて、右腕と右足を眺める。
どちらも痛い、おそらく右から崖底に落ちたのだろう。
けれど山の土が軟らかく受けとめてくれた、どちらも骨は折れていない。
よかった、ありがたいなと素直に思う。

けれど、自分を引き上げに来る者には、この軟らかい土が負担になる。
誰に負担をかけてしまうのだろう。
申し訳なくて気になって、崖の上を見あげると白石助教の声が聞こえた。

「宮田、山の経験者なのか」
「いえ、ありません」

「宮田」と白石助教が言った。答えた声も、聴き慣れた宮田の声だった。
なぜ初心者の宮田が許可された?

どうしてと驚いて見上げると、宮田はもう、チェストハーネスを装着している。
どうして初心者なのに、ここへ来る許可がおりたのだろう。

驚いて見上げていると、宮田が肩越しにこちらを見た。
痛々しそうな顔をして、けれどそっと周太に微笑みかけてくれる。
―だいじょうぶ
眼差しだけだった。それなのに周太には、声が聞こえた気がした。

「よし下降」

遠野教官の低い声が響いて、宮田が崖を下り始めた。
嘘だろう、と思う。

降りる宮田の足許で、山の土は脆く崩れていく。
こんな所へ初心者を降ろすなんて、本当ならあり得ない。

けれど宮田は、ロープの反動を上手に利用しながら、しずかに崖を降りてくる。
初心者どころか、この山岳訓練が初めての山だと言っていた。
それなのになぜ、あんなふうに降りられるのだろう。

初めてにしては速いスピードで、崖底へと宮田が降り立った。
覆う木々と藪をうまく避けて、自分の許へと素早く来てくれる
よかったと微笑んで、宮田が言った。

「大丈夫か、」

なんだか真直ぐ顔を見れない。この事故は、自分が軽率だったせいだ。
ブランクはあっても山は初めてじゃない、それなのに甘く見てしまった。
そして今回が初めての宮田に、こんな危険な事をさせている。
申し訳なくて、瞳を伏せて周太は言った。

「俺が軽率だった、」
「そんなのいいよ、それより怪我は?」

やさしい宮田、心配そうに顔を覗き込んでくれる。
自分の顔を見つめて、大丈夫と訊いてくれる。
つい素直に甘えてしまいたくなるのは、こんなふうに山の懐にいるせいだろうか。
いまなら、遠慮しないで、頼る言葉が出てしまう。

「立てない」
「おっけ、そのままじっとしてて」

手早く担いできたザイルを外し、周太の足を気遣いながら、そっと通してくれる。

「痛い?大丈夫?」

ザイルを通し終わって、また顔を覗き込んでくれる。
端正な眼差しに、巻き込んでしまった罪悪感がこみ上げてくる。
それなのに宮田は微笑んで、小さく呟いてくれた。

「遠慮するな、俺を頼って」

どうして解るのだろう?
いま遠慮しそうになっていた、自分の心を宮田は解ってくれた。
いままで誰にも気づかれなかった、自分の心。
いままでずっと、きれいに隠してこれたと思う。けれどなぜ、宮田には解ってしまうのだろう。

ザイルごと周太を背負って、宮田が立ち上がる。
すぐ目の前の肩にザイルが食いこむ。それが周太には痛い。
自分の体は小柄だけれど重い。

父の軌跡を辿るために、無理に鍛えた筋肉が体を重くしている。
本来は華奢な自分の体を、無理強いするやり方だった。
けれどそうして来なければ、背負わされた痛みに耐えられなかった。

自分が背負ってしまった痛みの重さを、宮田の肩へ背負わせている。
そう思えて、申し訳なくて、哀しい。

それなのに、背負って立った宮田は、肩越しに少し微笑んだ。
―だいじょうぶ 目だけでまたそう言ってくれる。 
そうして宮田は、崖上へ声を張り上げた。

「お願いします!」
「よし、湯原をしっかり捉まえていろっ」

遠野教官の声が返ってくる。
この足許の脆い崖を、本当に宮田は背負って登ってしまうのだろうか。
この状態で登ることはキツい、しかも重たい自分を背負っての登攀は、簡単な事じゃない。
途中で降ろされても文句は言えない。

けれど宮田は大きな声で、遠野教官に答えた。

「はい、今度は絶対に離しませんっ」

目の前の肩で、ザイルが重く硬く、皮膚に食い込んでいく。
やはり宮田は初心者だ、背負い方が上手くない。このままでは肩の皮膚が破けて出血する。
二人分の体重が、山の土へと足許を沈めてしまう。

脆い足場、経験と知識の不足、苦しいに決まっている。
きれいな端正な顔が、歯を食いしばって上を見つめている。その真摯な顔に罪悪感を感じてしまう。
もういい離してと、言ってしまいたい。

けれどふれる体から、穏やかな温もりがふれてくる。
その温もりから、離れがたくて言葉が詰まってしまう。

毎日暮らす隣は穏やかで静かで、やさしくて居心地が良い。
どんな時でもそっと静かに佇んで、温もりを伝えてくれる。
そして今こんなふうに、難しい道を背負って登ってくれる。

教場のみんなの励ます声が降ってくる、嬉しいなと思う。
けれど今、この背中だけが確かなものだと、そんなふうに思えてしまう。

宮田が、背中越しに話しかけてくれる。

「あのさ、さっき掴んだウィンドブレーカー滑ったの、左腕だよな」

気づかれた。でもお願い、気にしないで欲しい。
もとはと言えば、自分がすこし我儘になっていたせいだ。
このきれいな笑顔は、自分だけのものだと、勘違いしかけていた。
それを気づかれたくないから、どうか気にしないで欲しい。

それなのに、宮田は素直に言った。

「ごめん湯原、俺のせいだ。俺が左腕を掴んだから、それで痛かったからだろ」

どうしていつもこうなのだろう。
どうしていつも宮田は、こんなにきれいなのだろう。
どんなに心を閉じようとしても、気がついた時には静かにそっと開かれてしまう。

いつもより素直に思えるのは、山にいるせいだろうか。
だから今だけは素直に伝えても、いいのかもしれない。
周太はすこし微笑んで、口を開いた。

「ありがとう、必ず迎えにって…約束守ってくれて、」

嬉しかったと最後の言葉は、かすかな囁きになってしまった。

ほんとうはずっと、誰かと約束したかった。
誰かと約束して、果たしてもらう。そういう温もりを自分も欲しかった。

そっかと言ってすこし振向いて、きれいな笑顔で宮田が言った。

「怪我の世話も、約束するから」

父は殉職した夜、帰ったら本を読んでくれると約束していた。
果たされなった約束が、辛くて哀しくて、もう約束なんていらないと思っていた。
けれど、今もうこんなに嬉しい。
宮田の約束は、嬉しくて温かい。


小屋まで戻ると、遠野が応急処置をしてくれた。
処置が終わって、遠野が皆を振返った。

「だれか、湯原を背負って下山してくれ」
「私がやります、私が原因で湯原は怪我をしました」

場長の松岡が名乗り出てくれた。けれど申し訳なくて周太は言った。

「いいよ俺けっこう重いから」
「これでも女房子供、背負って生きているんだ」
「いやでも、」

場長の目は優しい。
きっと場長の妻は幸せだろうと思う。
こんなふうに誰かに寄り添って、優しく微笑んで暮らせたら。きっと幸せな人生になるのだろう。

遠慮していたけれど、結局は遠野に言われて、場長に背負われることになった。
白石助教や場長が仕度していると、宮田が傍に来てくれた。
静かに顔を覗き込んで、頬の泥を拭ってくれる。
嬉しくて、途惑っていると、宮田が微笑んだ。

「大丈夫だから」

静かに囁いてから抱き上げて、場長の背中に乗せてくれた。

下山の道を、交代で背負われながら降りて行く。
不慣れな山道と、ザイルで人を背負う初めての経験に、誰もが疲労しやすくなっている。
申し訳なくて、もういいと言いたくなる。
けれど交代のたびに、背に自分を乗せる手伝いをしながら、宮田は言ってくれた。

「大丈夫、遠慮するな」

大丈夫、遠慮しなくて大丈夫、人を頼っても良いんだ。
人が人を頼る事は、悪い事じゃない。
お互いに助け合っていく、そうして生まれる温もりは、悪くない。

そんなふうに、宮田が語りかけてくれる。
こんなふうに構われて、嬉しくて途惑う。

とうとう全員が背負って、宮田の順番まで一巡りした。
背負われた肩の、ザイルの跡が気になる。
けれど、さっき離された温もりが、なんだか懐かしくて嬉しい。
さっきから皆、背負うたびに進路を言っていた。宮田も口を開いた。

「捜査一課の敏腕刑事になってやる」

言った途端に無理無理と皆に笑われている。
それでも少しムキになったように、なってやると怒鳴って宮田は笑った。
宮田はどんな警察官になるのだろう。ちょっと楽しみだなと周太は思った。

宮田の背中に、梢の木洩日がふってくる。
登山道を縁取る森の奥から、ゆるやかな風が頬を撫でて山を下っていった。
温かな背中、懐かしい山の気配。なんだか心地いい。

懐かしい幸せな記憶、それをなんだか宮田には話したい。
そう思っていたら、どうしたと宮田は目で訊いてくれた。
こんなふうにいつも気づいてくれる、それが嬉しくて、周太は小さな声で話し始めた。

「懐かしいんだ」
「なにが懐かしい?」

そっと返事してくれる事がなんだか嬉しい。
すこし微笑んで、周太は小さな声で応えた。

「父とこうして山を降りたんだ」
「なんかいいな、そういうの」

いつものように、宮田は静かに微笑んでくれた。
そうと頷いて、周太はそっと呟いた。

「山は久しぶりだな」

上げた視線の先は、青い空と遠い山並みが美しかった。
背中に自分を負わせて遠慮もある、けれど温もりと穏やかさが心地いい。

「山の警察官っているのかな」

背中越しの質問に、周太は少し考えた。
たまに登りに行った奥多摩の山。
あの山中で「警視庁」と書かれたウィンドブレーカーに何度か会っている。

「山岳地域の警察官なら警視庁は奥多摩方面」
「そうか、」

宮田は微笑んだ。
宮田は、そういう所に興味があるのだろうか。
でも確かに、似合うかもしれないなと思う。
健やかな、きれいな笑顔には、あの奥多摩の雰囲気は似合いそうな気がする。


「どいつもこいつも口ばっかりだな、君たちに任せていては日が暮れてしまう」

遠野教官がやってきて、背負われてしまった。
この人はいつも仏頂面で、ちょっと苦手かなとも思う。
けれど背中は広くて温かくて、すこし父の背中を思い出させてくれる。
たぶん遠野教官は、山に何度か登っている人だ。そんな気がする。

「あの、」
「なんだ、」
「ありがとうございます」
「ん、」

ぶっきらぼうだけれど、たぶん少し微笑んでくれている。
山を愛する人を「山ヤ」と言うんだと、父が教えてくれた。
寡黙だけれど明るさがあって、山ヤ同士は皆仲間だと訊いた。
遠野には少しだけ、そんな雰囲気もある。

白石助教が明るい声をあげた。

「松岡、男の子がうまれたそうだ、母子ともに無事だそうだ」
「…本当ですか、」

振向くと、場長が泣きそうな、けれど幸せそうな顔になっている。
よかった、場長はまた幸せに寄り添える。
皆も笑っている。
子供が生まれる、命の健やかな誕生は、いいなと思える。

気が付いたら、素直に笑顔になって、場長へ腕を上げていた。
こんなふうに素直なのは、山にいるせいかもしれない。
それとも皆の背中で感じた、温かさのせいかもしれない。

腕を上げた自分の顔を、宮田が見つめてくれている。
きれいな切長い目に、周太は微笑んだ。

たぶんきっと、今こんなふうに素直でいるのは、最初に宮田が背負ってくれたからだと思う。
それからもずっと気遣ってくれていた。
―だいじょうぶ
そう言っていつも、皆の背中に乗せてくれたから、自分は素直に背負われた。

宮田はさっき、山の警察官に興味を持っていた。
戻ったらきっと、調べたいだろう。資料を探す手伝いをしてやりたい。
そうしていつものように、穏やかで静かな、きれいな笑顔を見られたら。






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山開―P.S:side story「陽はまた昇る」

2011-10-13 20:52:44 | 陽はまた昇るP.S
その道を開いたのは



山開―P.S:side story「陽はまた昇る」

朝起きたら、松岡場長がいなくなっていた。
手分けして山内を探すのに、二人一組と言われて、直ぐに英二は湯原の左腕を掴んだ。

「あっち探そうぜ」

笑いかけたけれど、湯原の顔が一瞬強張った。
それでも気付かないふうで英二は、腕を掴んだまま歩き始めた。

緑の梢がきれいだなと思っている後ろでは、湯原が少し怒っているのが解る。
英二に掴まれた腕を、湯原はふりほどこうとする。
それでも英二は離さない。

英二は、握力だけは少し自信がある。指が長いせいだろうか、ものを掴みやすかった。
剣道も逮捕術も殴り合いも、湯原には勝てない。
けれどたぶん、握力だけは自分の方が強い。

ため息まじりの落着いた声が、すこし後ろから聴こえた。

「…離せよ」

やっと湯原が口を利いてくれた。けれど振向いた英二は笑わずに、真顔で言った。

「嫌だね、」

黒目がちの瞳が少し揺れた。
珍しく笑わない英二に、驚いているのだろう。そのまま少し乱暴に英二は言った。

「離したら逃げるだろ。湯原」

だから離さない。
切るような語調で言って、真直ぐに湯原を見つめた。

昨日から、湯原に何となく距離を作られている。
ザイルで渡河した時の事故、遠野に言われて中仙道に心肺蘇生法を施した。
嫌だったけれど、現場だと言われて中仙道へ唇をよせた。
その時に視界の端に映った湯原は、頭を一瞬掻いた。

あれから、ずっと隣から逃げられている。
登山道でも英二よりずっと後ろを歩いていた。寝る時だって、一番遠い場所へ行ってしまった。
その距離を無理やりにでも毀したくて、ずっと昨夜から考えている。

そんな苛々が昨日からずっと、降り積もってしまった。
自分勝手だと解っている、けれど直情的な自分は、嫌だと言ってしまう。
要領よく生きるのを、この隣の為に辞めてしまったから。

本当の湯原は繊細でやさしい、だから自分の痛みを見せないし、どこか遠慮がちになってしまう。
そんな湯原に遠慮なく接してもらうには、素直に接するしかないと英二は知っている。
そうして素直になった自分は、直情的で激しい。

目の前の顔が俯いている。
きっとたぶん困っている。こんな自分をぶつけられて、途惑っている。
けれど他にどうしたら、この隣を今、繋ぎとめて振返らせれるのか解らない。

ぽつんと湯原が言った。

「…逃げないから」
「信用できないね」

素っ気ない声に自分でも驚いた。
こういう声が出るんだと、英二は我ながら不思議だった。

「…ほんとうに逃げない…腕、痛いから」

ぼそぼそと湯原に言われて、英二はやっと手を離した。
ほっとした顔で湯原は、掴まれていた左腕を擦る。
強く掴み過ぎただろうか、心配になった英二は、その腕をめくった。

「見せて、」

きれいな肌理に、うす赤く指の跡が付いている。
やりすぎた、英二は自分が恨めしかった。

「ごめん、」

それなのに湯原はすこし微笑んでくれた。

「大丈夫、」

空気が、いつものように穏やかになっている。
腕を掴み過ぎたのは失敗だった。
けれど、口を利いて、微笑んでもらえて、英二は安心した。
よかったと言って英二は訊いてみた。

「湯原さ、川で頭を掻いていたただろ?」
「え、」

驚いた黒目がちの瞳が少し大きくなった。
この顔かわいいな、と思いながら英二は続けた。

「俺が他の人とあんなことして、湯原ちょっと照れてた?」
「…っ」

首筋が赤くなっていく。
こんなふうに照れてもらうと、嬉しくなってしまう。英二は笑った。

「嫉妬してくれるんだ?」
「…違うああいうの慣れていないだけだって」

ぼそぼそと反論されたけれど、赤い首筋は正直だなと思う。
ちょっと嬉しくなって、英二はそのまま続けた。

「いつもなら並んで歩くのにさ、気が付いたらずっと後ろにいたし」
「…っ」
「寝る時だってさ、なんで一番遠くにいたわけ?」

見ている顔も耳も赤くなっていく。
どうしていつも、こんな反応をしてくれるのだろう。
かわいくて、つい意地悪したくなる。

「いつも徹夜の時はさ、気がつくと隣で寝てる癖に」

湯原が真っ赤になった。
墜落睡眠をする癖がある湯原は、ノートやペンをもったままでも眠ってしまう。
大抵そんな時は、並んで座る英二の肩に凭れて、いつのまにか眠っている。

眠る顔はいつも幼げに見える。
おりてしまう前髪の下では睫がきれいで、やや紅潮した頬があどけない。
子供みたいでかわいくて、つい眺めてしまう。

しばらくそのまま勉強した後は、起こさないようベッドに横たえて、英二は大抵そのまま一緒に寝てしまう。
この隣の穏やかな空気が居心地良くて、一緒に眠った朝はずいぶん快い。
それも嬉しくて、つい勉強を口実にして隣へ通っている。

湯原の顔を覗き込んで、英二は笑いかけた。

「昨夜だって肩でも胸でも、貸したのに」

今更もう遠慮するなよと言ったのに、黒目がちの瞳に睨まれた。

「…馬鹿うるさい宮田」

ぼそぼそ言われたけれど、その奥がかすかに嬉しそうだった。
よかった、もうこれで普通に、口を利いてくれるだろう。
英二は背を伸ばして、辺りを見回した。

「場長、いったいどこ行ったんだろな」
「ん、」

歩きだした時、声が向こうから聞こえた。

「おーい…」

場長の声だ。英二は湯原を振返った。

「おい、」

黙って湯原もうなずく。山道をふたり急いで歩いていった。
崩れたような跡が、山道の端に出来ている。伺うと崖のすぐ下で、場長が木の根元を掴んでいた。
英二は呼びかけた。

「場長!どうしたんだよ」
「この花、嫁さんに持って帰ってやろうと思って」

見慣れない、淡い色の花を場長は持っていた。
出産に立ち会えなかった妻へ、なにか心遣いをしたかったのだろう。
こういうのなんかいいなと思う。

けれど自分はさっき、湯原に感情をぶつけてしまった。
場長は確かに年上だけれど、自分の子供っぽさが英二は恨めしかった。
大丈夫かと呼びかける英二に、場長が答えた。

「足場が雨で緩くなっていたんだ」

昨夜は豪雨だった。やわらかい山の土が水を吸って、崩れやすくなっている。
ザイルを持ってきた方が良い、けれどそれまで場長は持ち堪えられるだろうか。
そんなことを考えている隣で、湯原がウィンドブレーカーを脱ぎ始めた。

「今引きあげるから!」

崖へと声をかけて湯原は、脱いだウィンドブレーカーの片袖を英二に押し付けた。

「ちょっとこれ、持ってて」

片袖を左手で持つと、もう湯原は崖下へ屈みこもうとした。
その足許の土が緩んでいる。
危ない―英二は反射的に感じて、湯原を止めた。

「待てよ。ザイル持ってこよう」

きっと危険だ、強くそう感じられる。
けれど崖下を気にして湯原は、もう右腕を伸ばし始めていた。

「大丈夫、」

かすかに英二に笑いかけ、湯原は低い姿勢で足許を固めてしまった。
本当は繊細で心やさしい湯原には、絶対に人を放りだせないと、英二には解る。
もしこのまま英二がザイルを取りに戻っても、きっとその間にも一人で助けようとしてしまうだろう。

昨日も、中仙道が流された時、そうだった。
もう対岸につきかけていたのに飛び込んで、泳いで追いついて中仙道を助けてしまった。

そんな湯原を、自分は放っていけない。
ここでなんとかするしかないだろう、英二はウィンドブレーカーを掌に巻いて固定した。
もう湯原は、小柄な体を精一杯伸ばして、右腕を場長に差し出している。

「掴まって、」
「もうしわけない」

場長の大きな掌が、湯原の右腕を掴んだ。
荷重が一挙に掛かって、英二の足許がやわらかい土にめり込む。
湯原の腕が懸命に、大柄な場長をひっぱりあげていく。

本当はあの腕は、骨格が華奢だ。
毎日のように隣で勉強して、見ている英二は気付いていた。
小柄な湯原の骨格は華奢で、その上に鍛えた筋肉を鎧のように着こんでいる。
きっとこれまで湯原は無理をして、ああいう体を作り上げている。

そうしてでも警察官になりたい湯原の痛みが、最近解るようになってしまった。
こうして今、大柄な場長を引き上げようとする小柄な腕が、痛々しい。
せめて自分が少しでも肩代わりして遣りたくて、英二は足に力を籠めていた。

場長の体がほとんど、登山道まで引き上げられていく。
あと少しと思った瞬間、湯原の足許ががらり崩れた。
感触に驚いて見た湯原の、黒目がちの瞳と視線が交錯した。

「…っ」

湯原の左手が、ウィンドブレーカーから滑り落ちた。


自分の喉から叫びが、湯原を呼んでいた。
崖の縁まで体を乗り出した視界に、崖底にジャージの紺色が見える。
その傍らに生える岩の数々に、英二の心が凍った。
あの岩に激突していたら―迫りあげかけた吐き気を、英二は無視して叫んだ。

「湯原っ」

呼びかけに、かすかに動いたのが見えた。
ゆっくりと頭があがり、こちらへ顔が向けられた。
頭は打っていないらしい、よかったと安堵が少し肩の力を抜いてくれた。

「湯原っ…」

右頬から顎にかけて赤い色が見える。
怪我を負っている、その事が英二を少し冷静にさせた。
見上げる瞳は痛みをこらえているけれど、しっかりと英二を見つめていた。
右腕を掌で押さえている。唇が動いたのが解るけれど、声が崖上までは届かない。

「…ぅ」

見あげて湯原は立ち上がろうとした。
けれどそのまま、湯原は力なく座りこんでしまった。
たぶん足を痛めている、無理に立ち転倒して、岩場で頭を打つのが怖い。
咄嗟に判断して英二は叫んだ。

「湯原、動くなっ、そのままじっとしていろ」

英二の声にうなずく、やわらかい髪が見えた。
意識ははっきりしているらしい、少し安心してまた呼びかけた。

「必ず迎えに行くから、そこで待ってろ!」

眉を顰めながらも、湯原は頷いてくれた。
頷き返すと英二は立ち上がった。
傍らで場長が呆然と座り込んでいる。その肩を英二は叩いた。

「ほら、行くぞっ」

ああと見上げた場長の肩を掴んで、英二は立たせた。
今は座りこんでいる場合ではない、少しでも早く戻って湯原を引き上げたかった。

崖下の様子を覗き込んで、遠野が言った。

「山の経験者は藤岡だったな」
「はい、」

よしと遠野が言いかけた時、英二は思わず遮った。

「教官、私に行かせてください」

すこし目許をゆがませたが、いいだろうと遠野は頷いてくれた。
よかったと英二は微笑んだ。
必ず迎えに行くと、自分は湯原に約束をした。約束を果たせないのは、絶対に嫌だった。

遠野教官がザイルの準備をしていく。
ロープの結び目の作り方を目で追いながら、英二はチェストハーネスを装着していった。
初めて身につけるが、なんとなくの勘で腕を通していく。
白石助教が装着確認し、大丈夫と言ってくれた。

「宮田、山の経験者なのか」
「いえ、ありません」

へえと感心したように、白石は英二の顔を見た。
普段なら褒められて嬉しいだろうけれど、今は崖下が気になる。
英二は肩越しにそっと崖下を伺った。
こちらを見あげる湯原の顔が、泥だらけになっている。痛々しくて悲しかった。

「昨夜は100ミリ以上の雨が降っている。
 足場は無いものと思え。湯原は足を怪我している、担いであげるしかない」

「はい、」

崖縁に足をかける。視界の端に、湯原が滑落した崩れ跡が見えた。
英二は奥歯を思わず噛んだ、やっぱり無理にでも止めればよかった。
自分の甘さが悔しかった。

「よし下降」

はいと返事して、ゆるやかに崖を下り始めた。
足許の土は想像以上に軟らかい。
下降でこれだけ軟らかく感じるのだと、登る時の踏ん張りは利きにくいだろう。
たぶんキツイだろうと予想しながら、それでも英二は足を止めなかった。

「ゆっくりでいい、慎重に」

遠野教官が声をかけてくれる。
遠野は英二に、登攀経験の有無を訊かなかった。
たぶん本来なら、初心者を降ろすような事態ではないことが、緩い基盤の足許から解る。
なにか起きれば遠野の責任問題になるだろう。
それでも志願した自分を行かせてくれた、理由は解らないけれど英二はそっと感謝した。

ロープの反動を利用しながら、しずかに崖を降りて行く。
ようやく谷底へ着いて見上げると、思った以上の高さがあった。

其処ここに生える木々と藪を避けて、湯原の元へ行くと傍らに膝をついた。
乱れた前髪から見上げてくれる瞳は、しっかりとしている。
よかったと小さく安堵の息をついて、英二は微笑んだ。

「大丈夫か、」

少し瞳を伏せて、悔しげに湯原が言った。

「俺が軽率だった、」
「そんなのいいよ、それより怪我は?」

顔を覗き込むと、眉が痛そうに寄せられている。
頬から顎へ滲む血が、あざやかな赤色で一瞬、目を惹かれた。
こんなときなのに、きれいだなと英二は思ってしまう。この隣はどんな時でも、どこかきれいだ。

そんな事を思いながら、湯原の足許を見ると動けない様子だった。
いつもより揺れる声で湯原が訴えた。

「立てない」
「おっけ、そのままじっとしてて」

手早く担いできたザイルを外し、声をかけながら湯原の足に、そっと通していく。

「痛い?大丈夫?」

ふれる骨格は予想通りに華奢で、痛みを英二は感じた。
本当は心と同じように体も繊細なのに、湯原は無理にでも動いてしまう。
自分が動かなくてはと、周りに頼らずに全部自分が背負おうとしてしまう。
その無理が優しさのせいだと、知ってしまった英二には怪我した足が切なかった。

ザイルを通し終わって、黒目がちの瞳を見た。
痛みの中にも、どこか遠慮がちな気配がある。微笑んで、英二は小さく呟いた。

「遠慮するな、俺を頼って」

湯原の目が少し大きくなる。
きっと驚いているなと思いながら、英二はザイルごと湯原を背負った。
立ち上がると、肩にザイルが食いこむ。小柄だけれど筋肉質の湯原は、思ったより重い。
それでも背負えた事が、英二は嬉しかった。
一緒に心も背負わせて欲しいと思いながら、崖の上へ声をあげた。

「お願いします!」

覗き込んでいた遠野が、声を張り上げた。

「よし、湯原をしっかり捉まえていろっ」

登攀する今のことだと解っている。
それでも英二には、この先も掴まえていく事のように思えて、可笑しかった。
大きな声で遠野へ応えた。

「はい、今度は絶対に離しませんっ」

背中で湯原はどう思っているのだろう。
たぶん湯原はまだ、特定の誰かと特別な関係になった事が無い。
だから心肺蘇生法であっても、何だか意識してしまう。
そんな初々しさが湯原はかわいい。普段が落着いているから余計に、素がのぞくと惹かれてしまう。

湯原が同じ男だと解っている。
同性同士の恋愛なんて、歓迎されない事も知っている。
法学部での講義では、外国では同性の婚姻は寛容されるけれど、日本では困難だとも聴いた。
この感情を勘違いではないかと、自身でも疑ってもみた。

けれど毎日暮らす隣は穏やかで静かで、やさしくて居心地が良い。
苛々した時も、無言でいたい時も、どんな時でもそっと静かに受けとめてくれる。
そんな居場所はそう簡単には得られない、その得難さを英二は痛いほどに知っている。

こんな容貌だから、恋愛になんて不自由しなかった。
けれど心から寛いで安らげる相手には、出会えなかった。
今、背負っているこの隣。ここに英二の安らぎを見つけてしまった。

ザイルが重く硬く、皮膚に食い込んでくる。
きっと本当は上手な背負い方があるのだろう、けれど今の自分にはまだ解らない。
痛みと圧迫が体を押して、山の土へと足許を沈めてしまう。

それでも絶対に自分が、背負っていたかった。
背中、腕を回された胸元、寄せられた頬、穏やかな温もりがふれてくる。
重たいけれど温もりが嬉しくて、重さも痛みも嬉しいと思えてしまう。

教場のみんなの励ます声が降ってくる、嬉しいなと思う。
けれど今この背中に背負っている、温もりと感じる吐息が、崖を登る一歩を押し上げてくれる。
ふとまわされた左腕が気になって、英二は口を開いた。

「あのさ、さっき掴んだウィンドブレーカー滑ったの、左腕だよな」

途惑う気配が背中に生まれえる。
きっと自分が感じた事の通りだ、英二は奥歯を噛んだ。
湯原の滑落の原因は、左腕を少し痛めていたから―
さっき自分が、もどかしさに任せて、力いっぱい掴んでしまった左腕。
言葉が喉に詰まる、けれど英二は素直に言った。

「ごめん湯原、俺のせいだ」

俺が左腕を掴んだから、それで痛かったからだろ。
言って英二は口を噤んだ。自分の子供っぽさが悔しかった。

けれど背中に、ふっと穏やかな気配が生まれた。どうしたのだろう。
肩越しに僅かに振向くと、すぐそこで、黒目がちの瞳が微笑んでいた。

「ありがとう、」

ぼそっと湯原が言った。
なぜ礼を言われるのだろう、もとはと言えば自分のせいなのに。
怪訝に思いながら英二は、また一歩崖を這いあがった。
その頬のすぐ隣で、落着いた声が呟いてくれた。

「必ず迎えにって…約束守ってくれて、」

嬉しかったと最後の言葉は、かすかな囁きだった。
けれどこんなに近くから言われたら、聴き落とすわけがなかった。
約束と、湯原が言ってくれた事が嬉しい。
大切に想う人と約束が出来るのは嬉しい、そして約束を果たせることは幸せだ。
よかったと思いながら、英二は言った。

「怪我の世話も約束するから」

きれいな笑顔で英二は笑った。
今日は帰ったら、救急法の勉強をしよう。
また湯原の部屋で勉強して、練習だと言って介助すればいい。

小屋まで戻ると、遠野が応急処置を湯原にしてくれた。
あんなふうに固定包帯するんだと、肩をさすりながら英二はずっと見ていた。
よく見ておいて、次からは自分が出来るようになろう。切長い目をたまに細めながら、注意深く見ていた。
処置が終わると遠野が振返った。

「だれか、湯原を背負って下山してくれ」

また自分が背負いたい。肩をさすりながら体を起しかけた時、場長が一歩前に出た。

「私がやります、私が原因で湯原は怪我をしました」

誠実な声を、湯原が途惑ったように見上げて言った。

「いいよ俺けっこう重いから」

それでも優しげに場長の目は、湯原に笑いかけた。

「これでも女房子供、背負って生きているんだ」
「いやでも、」

ああやっぱり湯原、遠慮している。
そういう湯原の繊細なやさしさを、好きだなと英二は思った。
遠野が呆れたように湯原に言った。

「這って、下山するつもりか」

白石助教がザイルを湯原の足に通し、よし湯原いこうと声をかけた。

「出発だ、2時までに下山するぞ」

本当は自分が背負いたい、けれど英二の肩も今は痛んでいる。
静かに湯原の傍に屈んで顔を覗き込む。遠慮がちで少し不安そうに、湯原が英二を見返した。

「大丈夫だから」

そっと湯原の頬の泥を拭って、英二は微笑んだ。
よしと声をかけて、場長が湯原に背中を出してくれる。

「場長、湯原乗せるよ」

助けたいのに出来ない自分が悔しいと思いながら、場長の背に湯原を乗せた。

下山の道を、交代で湯原を背負いながら降りて行く。
不慣れな山道と、ザイルで人を背負う初めての経験に、誰もが疲労しやすかった。
交代のたびに自分がと出ても「お前は休めよ」と皆が止めてくる。
その度に、他の背へ湯原を乗せる手伝いをしながら、そっと英二はささやいた。

「大丈夫、」

大丈夫、遠慮しなくて大丈夫、人を頼っても良いんだ。
孤独にこれまで生きて来た、湯原に教えてやりたかった。
人が人を頼る事は悪い事じゃない。
お互いに助け合っていく、そうして生まれる温もりは、悪くないと教えたかった。

とうとう全員が背負って、英二の順番まで一巡りした。
よかったと心で呟きながら、ザイルごと湯原を背負う。
さっき離された温もりと、頬にたまにかかる吐息が、懐かしくて嬉しい。
さっきから皆、背負うたびに進路を言っていた。自分も何か言おうと口を開いた。

「捜査一課の敏腕刑事になってやる」

言った途端に無理無理と皆に笑われた。
なんだか悔しくて、少しムキになってくる。

「なってやる!」

怒鳴るように言ってから、自分でふと思った。
入校の希望欄には、捜査一課と書いてある。けれどそれは、他の部署を知らなかったからだ。
自分は本当は、どんな警察官になりたいのだろう。

歩く足許に気をつけながら、英二は顔をあげた。
梢の木洩日が英二の額にふってくる。
登山道を縁取る森の奥から、ゆるやかな風が頬を撫でて山を下っていった。
なんだか心地いい。

ふっと目を細めた英二の頬に、やわらかな湯原の髪がふれた。
物言いたげな気配に気がついて、英二は瞳だけ動かして、すぐ隣にどうしたと目で訊いた。
促されて湯原は、小さな声で話し始める。

「懐かしいんだ」

呟くように湯原が言う。静かに英二はささやき返した。

「なにが懐かしい?」

すこし微笑む気配がして、小さな声が応えてくれた。

「父とこうして山を降りたんだ」

―山歩きとか、小さい頃は行ったりも、していたんだけど

あの公園で聴いた湯原の話を、英二は思い出した。
公園でいつも、湯原は森の緑に目を細めている。自然が好きなのだろう。
そしてきっと山の思い出は、湯原にとって幸せな記憶になっている。

「山は久しぶりだな」

そっと呟いた声が、嬉しそうだった。
上げた視線の先は、青い空と遠い山並みが美しかった。
背負う背中は重たいけれど、嬉しそうな気配と温もりが心地いい。
こういうのいいなと素直に英二は思えた。

なあと背中に英二は声をかけた。

「山の警察官っているのかな」

ちょっと考える間があって、湯原が教えてくれた。

「山岳地域の警察官なら警視庁は奥多摩方面」

そうかと言って英二は微笑んだ。
そういう所へと行ってみるのも、いいかもしれない。
そんな事を考えながら歩くうち、足運びが重たくなってきた。

「どいつもこいつも口ばっかりだな、君たちに任せていては日が暮れてしまう」

遠野教官がやってきて、湯原を背負ってしまった。
軽々と歩いていく遠野の背中が、羨ましい。どうしたらあんなふうに、歩けるのだろう。
呆気に取られながら、皆が言う言葉へと遠野が言った。

「大したものは食っちゃいない、体力なら君たちに負ける。
 歩き方と背負い方を知っているだけだ。
 君達も一人前の口をききたいなら、それなりの力をつける事だな」

そうなのかと英二は思った。
自分もそういうふうに、背負ってみたいと自然に思えた。

戻ったら、救急法とそれから奥多摩方面の資料を調べてみよう。
きっと湯原は手伝ってくれる。その時また背負わせてもらって、歩き方と背負い方の実習をすればいい。
そうして少しでも、湯原を助けられるかもしれない。
そんな事を考えながら、遠野の背中のすぐ後ろを歩いていた。

「あの、」

湯原の声が、不意に耳に入る。
遠野に話しかけているのだろうか、つい耳を英二は傾けた。

「ありがとうございます」

途惑うように、けれど少し嬉しそうな声だった。
仕方のない事だけれど、やっぱりなんだか悔しい。
けれどまたここで拗ねるのは、もっと悔しい。
嫌だなあと考えている後ろで、白石助教が明るい声をあげた

「松岡、男の子がうまれたそうだ、母子ともに無事だそうだ」
「…本当ですか、」

場長が泣きそうな、けれど幸せそうな顔になる。
こういう幸せな顔はいい、英二は笑った。

「やった!」

皆も笑っている。子供が生まれる、命の健やかな誕生は、いいなと思える。
けれど自分は、子供はもたないだろうと思う。

湯原はどうしているだろう。
見ると、遠野の背中から場長へ腕を上げて笑っていた。
湯原が笑っている。
かわいいなと思わずぼんやり見惚れかけて、その肩が急に叩かれた。

「よかったよなあ」

関根が肩を組んでいた。
そうだよなと答えながら、でも視線は湯原を負ってしまう。
湯原の笑顔が嬉しいと思う、けれど、他の背中で笑っている事が、やっぱり悔しかった。
俺の背中だったら良かったのになと、つい思ってしまう。

―山岳地域の警察官なら警視庁は奥多摩方面

さっき湯原が教えてくれた、山の警察官。
さっき初めて知ったばかりだけれど、なんだか気になるなと思う。
もどったら調べてみよう。
きっと湯原は、一緒に資料を探してくれる。
そうしてまたいつものように、あの穏やかで居心地のいい隣に座りたい。

まずは救急法の教本の、包帯の巻き方だけでも頭に入れよう。





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山影―P.S:side,story「陽はまた昇る」

2011-10-12 23:20:44 | 陽はまた昇るP.S

いくべき場所は




山影―P.S:side,story「陽はまた昇る」

救急法は術科になっているけれど、半分位は座学になる。
救命救急の知識を頭に入れなければ、現場での正しい対応は出来ない。
英二は学習室の資料を広げた。教本と今までのノートと照合して、新しくノートを作り直したかった。

「宮田、」

聞き慣れた声に顔を上げると、湯原が立っていた。
まだ足には包帯がされているのに、ここまで歩いてきたのだろうか。
英二は少し慌てて立ち上がった。

「無理するなって言ったのに、ほら」

椅子を引いて座らせてやる。
背負ってやると言っているのに、湯原はすぐに無理をする。
遠慮なんかしないで欲しいといつも思うけれど、湯原の性格では仕方ない事も英二には解る。
遠慮させないようになりたいなと思いながら、自分も座っていた椅子に腰を下ろした。

「別にもう歩くのは大丈夫だって」

少し微笑んで言いながら、湯原がノートを英二に差し出した。

「救急法のノート見たいって言っていたから」
「あ、ごめん」

受け取りながら、しまったなと英二は思った。
本当は夜、隣へ行って写させてもらうつもりでいた。
さっき教場からの帰り道で「ノート借りたい」と先に言ってしまったから、湯原に気を遣わせたのだろう。

湯原は冷静で強い印象だけれど、本当は繊細でやさしい。
こんなふうに、すぐ気を遣ってしまう癖がある。
何か言う時は気を遣わせないように、タイミングも選ばないといけない。
そんな事も気付けなかった自分の子供っぽさが、英二はもどかしかった。

「そのノートで大丈夫だったか?」

湯原が訊いてくれて、英二はページをめくった。
きれいにまとめられて見やすい、さすがだなと思いながら、笑って礼を述べた。

「ありがとう、すごく見やすい」
「良かった、」

湯原の微笑みが嬉しそうだった。
警察学校に来るまでは、特定の友人もいなかったと湯原は言っていた。
ノートを貸して役立つと言われることも、湯原には嬉しいのだろう。
そう自分が思ってもらえる事が、英二には嬉しかった。
でもたぶん、このままだと湯原は席を立って戻ってしまうだろう。

「じゃあ、」

思っている先から、椅子をひこうと湯原が腰を浮かした。
けれど気付かないふうで、英二はノートを指さして湯原に示して見せた。

「ここ、ちょっとよく解らない」

教えてよと湯原に微笑んだ。
すこし途惑ったような顔になって、けれど湯原は座りなおしてくれた。

「ザイルの結び目を作るのが…」

どこと覗きこんで、湯原が説明を始めてくれる。
こんなふうに、こっちからお願いすると湯原は断れない。

湯原の隣は、穏やかで静かで、無言でいても居心地がいい。
そんな湯原が好きだ。

脱走した夜から隣で過ごして、湯原の痛みを垣間見るようになった。
父の殉職という枷を背負わされて、強くなろうと努力して、けれど本当はいつも泣いている。
片手で拳銃を扱うけれど、本当はそんなに大きな掌じゃない。
徹夜で勉強したまま眠ってしまうその肩は、骨格が華奢だった。
そして黒目がちの瞳は本当は、繊細で優しい。

ふたり隣に座って自室で話す時、そんな湯原の素顔に気付いてしまった。
湯原は、不器用なまでに潔癖で、繊細で優しい。
繊細で優しすぎるから痛みも人より大きい、だから誰にも痛みを見せる事が出来ずにいる。
人を傷つける位なら、孤独の底で独り痛みを抱える事を選んでしまう。
辛い運命の中ですら、きれいで潔い生き方を選んでしまう、純粋な湯原が好きだ。

華奢な体を無理にでも強くして背負ったものを、分けて欲しいと思い始めている自分がいる。
けれど湯原は繊細でやさしくて、自分の痛みを人に背負わす事など出来はしない。
それならば、こちらから勝手に背負ってしまえばいい。
ふと気がついたように英二は言った。

「このあと俺、握力トレーニングしたいんだけど、湯原教えてよ」
「ん、わかった」

足は怪我をしても湯原は、上半身のトレーニングは続けている。
けれど行く道には階段がある、この足では一人で行かれない。
こっちから誘ってしまえば、英二に背負われて行くことも断れないだろう。

この隣が好きだ、そしていつも、こんなふうに自分の隣から手放せない。
体だけじゃなくて、心も背負わせてくれたらいい。

脱走した夜に泣いた自分を、そっと静かに受けとめてくれた湯原。
穏やかで優しい静けさは、心から安らげて居心地良かった。

どんな時でも、無言でも、居心地のいい隣。
こういう隣はそう簡単には出会えないと、英二にはよく解る。
今までたくさんの女の子と出会ってきたから、身にしみて良く解る。

いつからか、湯原が他の誰かと話していると、つい割り込みたくなっていた。
けれどそれが何なのか、自分でも解らなくて少し苛々していた。
そしてこの間の外泊日、あの公園でベンチ気付いてしまった。
それから毎日いつも、この隣が好きだと思い知らされている。

男同士で警察学校の同期、堂々と言えるような想いではない。
学校内の恋愛自体が禁止されている事も知っている。
それでもどうしたら、自分の感覚を誤魔化せるだろう。

要領は良い方だった。
けれど本当の自分は直情的で、自分にも他人にも嘘はつけない。
それは生き難いと思ったから、今までは要領よく生きて来た。

心を開く事が難しい湯原。
その心を解くには、全てをかけても離れず添えなかったら難しい。
きっと直情的くらいでちょうどいい。
湯原の心を開けるのなら、生き難くても構わない、素のままの自分で隣にいたい。

横に座って隣から、教えてくれる湯原が、英二を見上げてくれた。

「…なんだけど、宮田わかる?」
「うん、よく解った。それってさ…」

こんなふうに教えてもらいながらも、たまにふれそうになる肩や腕が嬉しい。
こんなふうに本当に、自分は直情的すぎるほど、素直だ。

このまま一緒に勉強してもらって、トレーニングへ行って、それから一緒に自室へ戻ればいい。
そうすれば湯原も、背負われて戻る事を断れないだろう。
湯原の声を聴きながら、そんなことを英二は考えていた。


翌日は救急法の術科があった。
実技の雰囲気はのんびりして、なんとなく皆の雰囲気が気楽に見える。
それも仕方ないのかなとも思う。

今日の実技には心肺蘇生法がある。
山岳訓練では遠野に言われて、中仙道相手に実技をした。
あの時だって皆、なんとなく浮足立っていた。
年頃の男子だから仕方ないのかなと思う。

自分だって本当はあの時、湯原に見られているのが嫌だった。
溺れかけたのが湯原だったら良かったのに、なんて思ってしまった。
そういう自分が、盛り上がっている皆を責める資格なんかないだろうなとも思う。

けれど本当は、大切な実技だと英二には解っている。
心停止から何も処置を施さなければ、三分間で半数は死に至る。
現場では迅速で的確な救命処置が重要だった。

けれど警察官の救急救命は、現場では力が入れられていないという、認識があるらしい。
その事は、まさに今この教場の雰囲気から実感させられる。

けれど救急法は、山岳地域への配属を希望するなら、必要不可欠になる。
山岳訓練で怪我をした湯原の世話を、ずっと英二は毎日させてもらっていた。
隣室だという理由で、当然の義務だという顔をしているけれど、本当は違う。
他の誰にも、湯原にふれて欲しくないだけだった。

その世話のために、救急法の教本を開いた。
それがきっかけで、英二は山岳救助に興味を持った。

警視庁管内の山岳地域は奥多摩、青梅署管轄になる。
ここには山岳救助隊が常駐し、通常は経験者しか配属されない。
奥多摩は低山だが、遭難者と自殺者が多い地域だと資料には書かれていた。
どちらも都心から近い事が遠因だった。

奥多摩は田舎の駐在とはいっても、生死に直面する厳しい現場になる。
それでも行ってみたいと英二は思う。
いい加減に生きてきた自分を、人の生死の厳しい現実に向き合わせたいと思った。

そうしたら少し、湯原に近づけるかもしれない。
父親の死を背負わせられて生きる湯原の痛みに、寄り添える自分になりたい。

警察学校では約40時間、所属場所でも講習はある。
けれど、山岳経験は警察学校の訓練しかない自分が、それだけで配属許可されるとは思えない。
救急法初級免許と、できれば機動救助技能検定初級を取得したい。
経験のない自分は資格の形で、意欲を示すしかないだろう。

第一希望の青梅署は、駄目もとだと解っている。
けれど何もしないで諦める事は出来ない。
華奢な体を無理にでも鍛えて努力して、湯原は父親の軌跡を辿ろうとしている。
そんな湯原を隣で見ながら、自分が逃げることは出来やしない。

こんなことを考えていると、救命救急士が入室して実技講習が開始された。
心肺蘇生法の説明が始まる。
山岳訓練で遠野に指摘されて悔しかった所だから、説明を全部頭へ入れたいなと思う。

それなのに何となく教場がうるさくて、講師の声が聞こえにくい。
英二は少し苛々してきた。山岳救助レンジャーを希望する藤岡も、なんとなく苛々しているのが解る。

遠野教官と白石助教は講師の説明を訊きながら、教場の雰囲気を眺めている。
講師を招いている以上、講義中は何も口出しは出来ないのだろう。
英二は挙手をした。気付いた白石助教が尋ねてくれる。

「お、なんだ宮田」

はいと返事して、低い声を通るように言った。

「すみません、質問させて下さい」

講師の救急士が微笑んで、何でしょうと訊いてくれる。英二は口を開いた。

「心肺蘇生法は、脈拍など音と振動が大切だという事でしょうか」
「はい、その通りです」

穏やかに講師が頷いてくれる。ではと英二は微笑んで言った。

「講習も現場と同じです。騒ぐ事は心肺蘇生の現場ではありえません。ですから騒ぐ者の退室を提案します」

教場中の視線が自分に集中してくる。
確かに驚かれても仕方ないと思う。少し前の自分だったら一緒に騒いでいただろう。
驚いている気配がちょっと面白いと思いながら、英二は続けた。

「救急法は命にかかわります。それが理解できない人間には、講習を受ける資格も無いと思います」

言ってから教場を見回して、英二は笑った。

「そういうわけだからさ、お前らちょっと静かにしてくれない?」

けれど既に教場は静かになっていた。
皆の顔が呆気に取られていて、ちょっと可笑しかった。
助教の白石はもちろん、遠野まで驚いたような顔をしている。
遠野を驚かせられたのは、何だか気分が良かった。

湯原だけは、驚いていなかった。
かすかに微笑んで見つめてくれている。その微笑みが嬉しいと、英二は思った。
警察官として生きる事に、向き合い始めた自分を湯原に見て欲しい。
そうして少しでも、心をまた開いてくれたらいい。

講習が終わってから、藤岡が話しかけて来た。

「宮田。さっきは、ありがとな」

なにがだろうという顔を向けると、藤岡が頭を掻きながら笑った。

「俺さ、山岳救助を目指している癖に、自分では言えなかった」
「まあ、気まずくなるのって普通、嫌だから?」

悪戯っぽく英二は笑いかけた。けれど藤岡は真剣に首をふった。

「本気で山岳救助の現場に立ちたかったら、宮田みたいに言えなきゃ駄目だと思った」

そっかと英二は微笑んだ。藤岡も真剣な事が、なんだか嬉しい。

「宮田も奥多摩希望?」
「でも俺、山岳経験無いから難しいだろ」

そんな話をしていると、背後から気配があって、英二は振向いた。
遠野教官がのっそり立っていた。

「宮田、ちょっと来い」

呼ばれて教官室に連れて行かれた。
さっきの態度がよくなかったのだろうか。そんな事を考えていると、遠野が訊いた。

「宮田は、山岳救助希望なのか」
「はい、」

短く答えてから、少し英二は笑った。

「でも山岳経験がありません。高望みなのは解っています」
「卒配希望はどこを考えている」

遠野が訊いてくれる。
どうしてこんなに気にかけてくれるのだろうと思いながら、英二は駄目もとで言ってみた。

「奥多摩地域を希望したいです」

そうかと言って少し考える様に、遠野は口を開いた。

「奥多摩は自殺者と遭難事故が多い。死体検分はもちろん、遺族とも向き合う。覚悟はできるのか」

「はい、」

真直ぐ遠野を見て英二は答えた。
どれも資料で解っている、そして現場で実際に目にしたら衝撃は大きいだろう。
それでもそこへ立ちたいと思うようになっていた。

「そうか、」

遠野はファイルを取ると、1枚の紙を抜いて英二に手渡した。

「これを読んでおけ」

『警視庁救助技能検定 機動救助技能』の要綱だった。
救急法に合格すれば受験できるがと言って、遠野は英二の顔を見た。

「宮田。君は変わったな」

そうですかと目だけで言って、英二は遠野に微笑んだ。確かに自分は変わったと思う。
ふんと首かしげながら、遠野は言った。

「湯原に影響されたのか?」

最初は反発しあっていた湯原と自分。それを職質の実習でパートナーにしたのは遠野だ。
その遠野ならいいかと思えて、英二は素直に頷いた。

「はい、」

きれいな笑顔で英二は笑った。その顔をまた眺めて、遠野が少し笑った。

「すこしはマシな顔になったな、宮田」
「ありがとうございます」

素直に礼を言う英二に、すこし遠野は微笑んで検定の用紙を示した。

「身体的な受験資格は大丈夫だろう。学科はまあ努力次第だ。けれど実技がある」
「はい、」
「救助技術と資器材の操作が実技試験になる。希望講習を受けておけ」

その日程はと遠野が教えてくれる。
遠野がこんなふうに応援してくれる事は意外だったが、素直に英二は感謝していた。

学習室で救助の資料と一緒に要綱を眺めていたら、湯原が来てくれた。

「独学で出来るものと、そうでないものがあるな」
「独学のは一緒に調べてくれる?」
「ん、いいよ」

そんな会話をしていたら、関根と瀬尾がのぞきこんできた。
こんな要綱なんだとしばらく話してから、ふと瀬尾が言った。

「なんか宮田くん、雰囲気変わったよね」

そうかなと英二が笑うと、湯原と英二の顔を見比べるようにしてから、瀬尾は不思議そうな顔をした。

「顔のつくりは、全然違うのにね」

瀬尾は何を言っているのだろう。そうだよなと関根も言って眺めている。
二人とも何だろうと思っていると、関根が気がついて口を開いた。

「なんか宮田と湯原さ、最近いい顔になったよな」
「そうかな、」

英二が答えると、関根は机に浅く腰かけて話し始めた。

「宮田は人当たり良いけど本当は他人事でさ。逆に、冷静に見える湯原は本当は人を放っておけない」

隣の湯原がなんとなくバツの悪い顔になった。
急に言われても途惑う、そんな顔をしている。
最近は顔見ただけで、何を言いたいのか解るようになってきた。
そんなこと思っていると関根がのぞきこんできた。

「お前らって気が合わないのかと思っていたけどさ。でも実は雰囲気良いよな」
「まあね、」

さらっと英二は笑い返した。仲良いのは楽しいよねと瀬尾も笑ってくれた。
でもたぶん、隣は途惑っている。
そんな気配が伝わってくるから、英二には解る。

要綱と教本とノートを持ってくれる湯原を、英二は背負って歩いていた。
ザイルは使っていないけれど、重心の掛け方、足の運び方がだいぶ掴めて来た。
背負った温もりが嬉しいなと思いながら、湯原の部屋の扉を開いて、背負ったまま屈むと部屋へ入った。

「ありがとう、」
「どういたしまして」

笑いかけながら、そっとベッドの上でおろした。
隣に並んで腰かけて、教本達を受け取る。
そのときふっと湯原が物言いたげな顔をした。

「なに、湯原?」

訊いてみるけれど、物言いたげな唇はなかなか開いてくれない。
どうしたのだろう、何か気に障るような事を自分はしたのだろうか。
そう思いながら、湯原の黒目がちの瞳を見つめていると、ようやく唇を開いてくれた。

「さっき教官室で…」

言いかけてまた口ごもってしまう。
なんだろうと思いながら見つめていると、また口を開いてくれる。

「…遠野教官に変わったって」
「あ、湯原に影響されたのか、ってやつのこと?」

言った途端に、湯原の首筋が赤くなりはじめた。
素直な反応がかわいいなと、英二は眺めながら訊いてみた。

「湯原あれ聞いていたんだ?」

隣の顔がすこし俯いて、ぼそぼそと言った。

「…ちょうど質問があっただけ」

たぶんこれは嘘だと英二は思った。
遠野に呼ばれた英二を、心配してくれたのではないだろうか。
そうだといいなと思いながら、英二は隣の顔を覗き込んだ。

「心配してくれて、ありがとうな」
「…だから違うって」

素っ気ない口調だけれど、黒目がちの瞳は少しだけ嬉しそうに見えた。
解ってもらえて嬉しいと、思っているのだといい。

「そういうの嬉しいよ」

微笑みかけると、隣の顔があがって、ぼそりと言った。

「そう?」
「そうだよ、」

きれいな笑顔で英二は笑った。

少しずつでもいいから、湯原の心に寄り添えたらいい。
この隣に座る端正な眼差しは、きれいで、ずっと隣で見ていられたらいいと思ってしまう。
どんな時でも、無言でも、居心地のいい隣。こういう隣には、そう簡単には出会えない。
きっと求めることは出来ない。
それでも少しでも湯原の心を開けるのなら、素のままの自分で隣にいたい。






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第9話 樹翳、祈罪―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

2011-10-12 01:09:55 | 陽はまた昇るP.S
それでも、願ってしまう



第9話 樹翳、祈罪―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

初秋の陽射しが、木々を揺らして光落とす。
懐かしい、そして愛しい。そんな記憶がここには遺されている。
あの人がこの世を去って、ここへ来る事は無いと思っていた。
けれど今、ここであの人の忘れ形見をこうして、私は待っている。

―…お母さん?俺。…うん。大丈夫だよ。
  今から、こっちに来られる?…うん。わかった。
  そう、あの公園に一緒に行こうよ。…じゃあ、門の前で

朝早く掛かってきた、息子からの電話。
その声のトーンが、懐かしかった。
夫が殉職する前の、素直で感情豊かだった、可愛い声で話してくれたあのトーン。
声変りはしているけれど、昔のあのトーンが戻っていて、嬉しかった。

昨日は息子の、警察学校の卒業式だった。

警察学校への入学許可証が届いて、初めて現実を教えられた。
夫の殉職は、息子の中ではまだ、何も終わっていなかった。
新聞がたまに切り抜かれていた、射撃部のある学校を選んだ、その理由の全てが理解できた。
息子は、夫の死の真実を、探すために辿るために、今日この日まで生きてきた。

―…お母さん、ごめん。でも俺、警察官になりたい
  お父さんの事からこれ以上、逃げたくない。それしか越える方法が見つからないんだ
  ずっと目を背けてきた事と、決着をつけたい。絶対、警察官にならなきゃいけないんだ…死なない警察官に、俺はなりたい

工学部に進んだ周太はそのまま研究者になると信じたかった。
高校で射撃部に入った時、オリンピックも良いわねと笑った。

泣いて止めても、無駄なこと。そんなことは解っていた、それでも入学許可証の前で、私は泣いた。
夫の生きた軌跡をたどっていく、その行く先に横たわる辛い運命を、私は全て知っている。
息子はもう、幸せになれないのかもしれない。その予感が冷たくて、辛くて、悲しい。

夫は仕事の事を、何も教えてはくれなかった。
それでも日々、見つめ続ける時間の中で、ほんとうは全部気付いていた。
それでも夫の、語れない規則と語らない優しさに、そっとただ寄り添っていたかった。

そしてあの夜、無残な姿で夫は横たわってしまった。
本当は、息子に会わせていいのか、迷った。
けれど息子には、現実から目を背けないで欲しかった。
夫の生きた軌跡を、真直ぐに見つめて、父の存在を誇りに思って欲しい。
そう思って、会わせてしまった。

毎晩、風呂場で、2階の隅の洗面で、息子は吐き続け、泣いていた。
本当はその事を気付いていた。背中を抱きしめて、大丈夫よ、忘れてと、言ってやりたかった。
けれど一人その現実に向き合おうとする息子の、強さを信じるしかないと思った。
遺された自分達に向けられる世間の他人事な視線、それを乗り越えるのは自分自身の力だけ。

まだ幼い息子には、残酷な現実だった。
けれどいつまでもずっと、自分が傍で守ってやれるわけじゃない。
誰もが、与えられた場所で潔く生きて、自分で道を見つけて行くしかない。

元々、繊細で優しい子だった。その優しさが、息子を孤独へと追い込んでしまった。
繊細なあの子は優しすぎて、痛みも人よりずっと大きくて、だから誰にもその痛みを見せることが出来ない。
誰かにそれを背負わせる、そんな事は自分からは出来ない。

人を傷つける位なら、孤独の底で独り痛みを抱える事を選んでしまう。
母親である私にも、本当の痛みも悲しみも、きれいに隠して生きてしまう。
あの子は簡単には心を開けない。

だから、いつも思っていた。
せめて周太が一人っ子じゃなくて兄弟がいたら?
同じ痛みを分け合える心許せる相手がいたのなら、こんなに孤独な生き方を選ばないで済んだのではないか?

桜ふる夜に見つめた、夫の無残な遺体。
あの日、父親の死の冷たい現実に、会わせてしまったのは、私。
その選択が間違いだったかもしれないと、ずっと考えこんだまま、今も私は動けない。

けれど、宮田くん。
警察学校で息子が出会った、いつも隣にいる青年。

「宮田ってやつが隣の部屋なんだけど…すごい、泣き虫なんだ」

警察学校から初めて帰ってきた日が懐かしい。
宮田、その名前を言った息子の瞳が、笑った。

あんなふうに笑った周太、夫が殉職してからは、初めてだった。
簡単には心を開けない周太。その周太の心を、開き始めた青年がいる。
どんなひとなのだろう。会ってみたい、そう思って息子に微笑んだ。

―…そのうち、宮田くん連れて来てね。お母さんも会ってみたいな

そう言ってふと気がついた、息子の前髪の生際の、絆創膏が貼られた小さな傷。

―…この傷、どうしたの?
  あ、寮で扉にぶつけちゃって
  周にしては珍しいのね、自分でぶつけたの?
  …あ、ん、そう

息子が嘘をついていると、すぐに気がついた。その嘘は多分「宮田くん」が関わっている。
ほんの数カ月で息子の心を開き始めた、その青年に会ってみたい。そう願っていた。

そして何度目かの外泊日、彼は我が家の門を潜った。
夫の気配がまだ遺された、ふるい私達の静かな家。
その佇まいを他人に踏み込まれたく無くて、夫の死後は誰も、家に入れたことが無かった。
けれど彼の気配は、私達の邪魔をしない。そっと静かにたたずんで、きれいな笑顔で笑ってくれた。

―…お母さん、俺、宮田をお父さんの部屋に案内した
  宮田、お父さんみたいな男になりたい、て言うんだ…かっこいい人だなって、お父さんの写真見てた

誰もが夫を「殉職」だけで見て、言葉をかけてきた。その残酷さにかけらも気付かない、悪意の無い残酷さ。
けれど彼は、先輩として男として夫を見てくれた。

―嬉しかった、あのとき私も

愛するあの人を真直ぐに見つめてくれる、健やかな心が眩しかった。
真直ぐな人が夫は好きだった。きっと夫も、彼が来てくれたことを喜んでいる。
そして私は願ってしまう。

『彼がずっと息子の隣にいてくれたらいい』

そうしたらきっと、息子はあの笑顔を取り戻せるだろう。
快活で明るくて、繊細で優しい、あの笑顔。夫と私の唯一つの宝物、大切なあの笑顔。

けれどそんな願いは、自分勝手だと言う事も知っている。
きれいな笑顔の青年は、穏やかで静かで、繊細な優しさが明るい。
普通に幸福な家庭で健やかに育った、そのことが彼を見ていれば解る。
きっと普通に幸せな将来を彼は生きていけるだろう、それがあの優しい彼には似合っている。

それでもせめて、友人としてでも隣にいて欲しい。
友人として時折は息子を支えて笑わせてくれたらいい、それ以上を望む事は傲慢にすら思えた。
それでも私は、どこか諦めきれなかった。

―…宮田くん、手持無沙汰でしょう? 

そう言って、1冊のアルバムを彼に手渡した。
華奢な少年だった息子の、屈託のない可愛い笑顔。それを見た彼の反応を知りたかった。

―…いや、かなり可愛いです

彼の微笑みは、懐かしかった。
愛するあの人が私を見つめてくれた、あの眼差しと同じ目をして息子の写真を見つめてくれた。
温かで愛しむ優しい眼差し、けれどアルバムをめくる彼の顔から不意に笑顔が消えた。
そっと横から覗いてみると、夫が亡くなった後からのページだった。

父を亡くした息子の貌は、笑顔が消えた。
それが如実に現われてしまうアルバムの写真たち、その現実に彼の瞳が哀惜に染まる。
息子の屈託ない笑顔は、一発の銃弾に壊されてしまった。そして私達母子が背負わされたもの。
その苦しみ辛さを思ってくれている、それが彼の笑顔が消えた表情から解ってしまう。
哀しそうな眼差しの許、彼の長い指はアルバムのページを戻し息子の笑顔を見つめた。

『もう一度、こんな風に笑わせてあげたい』

そんなふうに彼の瞳は言っていた。
息子に笑顔を蘇らせたい、その為に何かを与えたい。
そう映りだす彼の目に私は希望を見つめてしまった、そして言葉を懸けた。

―…宮田くんの事ね、話す時によく笑っているわ
  え、俺ですか?
  周のあんな顔、久しぶりに見たわ
  学校でも、あんな感じです

息子を語る彼の目は、どこまでも優しくて繊細で温かい。
ああ、きっと彼は息子に恋している、そう私には解ってしまった。
彼の目が愛するあの人と同じ眼差しで、懐かしくて嬉しくて、そして希望が私の心に微笑んだ。

このまま息子に恋をして、息子を愛してくれないだろうか?
唯ひとり見つめて寄添って、ずっと息子の傍に居てくれたなら良いのに?
もし彼が恋し愛して、心から求めてくれたなら、もう息子は独り冷たい孤独には戻らない。

誰か息子の隣に座って、あたためて安らがせて欲しい。
ずっとそう願ってきた、その望みがかなうのかもしれない。

男同士で、とも思う。
普通ではない、子供だって望めない。そんな事は解っている。
けれどこのままずっと、ひとり孤独に生きて冷たくなって、悲しい運命になってしまうなら。

それに、むしろ男同士の方が良いとも思える。
同じ警察官で男同士、息子と同じ世界が重なるだけ、息子に寄り添って離れないでいてくれる。
心開くことの難しい周太の心、それでも心を解くには、全てをかけても離れず添えなかったら、きっと難しい。

端正な美しい姿、健やかで温かい素直な心。
笑顔が本当にきれいで、どうしてあんなに美しいのだろうと思うほど綺麗な笑顔。
この美しい笑顔で静かにそっと、息子を受けとめ続けてほしい。そんなふうに願ってしまった。

息子の子供を見たいと、願っていた事もある。
けれど息子は優しすぎて潔癖すぎて、背負った運命の苦しさを誰かと分ける事すら拒んでしまう。
そんなふうに息子が生きるなら、このままでは息子は、孤独に生きて死ぬしかない。

―そんなことは嫌、幸せになってほしいの、そのために私は周を生んだのよ?

冷たい孤独、そんな息子の人生を夫は決して望んでいない、そして私も望まない。
息子の子供は見られなくても、せめて幸せな息子の笑顔を見ていたい。
もう一度だけでも、あの笑顔を見させて欲しい。

その願いは、彼が息子の傍に居てくれたら叶うかもしれない。
けれどそれは綺麗な笑顔の青年の、あるべき普通の幸福を奪うことになる。
生まれるべき彼の子供、彼の家族、周りの人。それら全てあるはずの幸せを奪ってしまうだろう。
それでも願ってしまった、どうか彼が息子の傍にいたら良いと、ずっと寄添って愛して欲しいと願っていた。

そして昨日は、警察学校の卒業式だった。

私は仕事を言い訳にして、行かなかった。
他の父兄はきっと誇らしく、我が子の晴れ姿を見ただろう。
けれど私は知ってしまっている、息子が警察官として生きることは辛い運命に捕われることだと、知っている。
そのことを夫の死から私は知っている、それなのに、私は息子の卒業に何を喜べるというのだろう?
そんな哀しみの底に佇んで、けれど、なんとなく予感はしていた。

『卒業式の夜、きっと息子は帰ってこない』そう予感して、希望の祈りを繋いでいた。

週末に行われた卒業式、翌日は休日。
本来ならば卒業式のまま、卒業配置先に配属されて、そのまま寮生活になる。
夫からその事は聴いて知っている。けれど息子たちの卒業式は、休日が翌日に控えている。

きっと息子は帰ってこない。
きっと息子のことを綺麗な笑顔が離さない、そしてそのまま浚って欲しい。
息子の孤独をこわして崩して、生きる事の幸せを、美しい笑顔の彼から息子に教えてほしい。

夫と私の唯一つの宝物、あの笑顔。その全てをどうか取り戻して、私達に宝を還してほしい。
あの美しい、きれいな笑顔。あの笑顔に希望を見つめて、ただ祈りを結んでしまう。
彼に似合う普通の幸福を奪っても願わずにはいられない、それが罪でも。

どうか、息子を笑顔で幸せにして?

―…お母さん、今日、呑んでいいかな。朝までずっとなのだけど

昨夜に架けられた、久しぶりの息子の携帯からの電話。
きっと彼と一緒だと声のトーンで解ってしまう。
恥ずかしそうで嬉しそうで、幸せそうな声。

『願いが叶う?』

その期待に、本当に、ほんとうに嬉しかった。
私の願いが叶うのかもしれない、そんな予感が嬉しかった。
どうかそのまま幸せに、息子を浚ってしまって欲しい。そう願ってしまう私がいる。

懐かしいこの場所に佇んで、こんな事を考えている。
ゆるやかな穏やかに吹く風が、なつかしい森の奥からここにも吹いてくる。
懐かしい愛しいあの人の、かすかに遺された気配が森の風から香ってくる。
どうぞあなたも祈って欲しい、私達の宝物が幸せな笑顔で現われること。

街路樹の向こうから、ふっと気配が届く。
失くしてしまった愛しい人の面影を、遺してくれた宝物。
愛しい想いふたつに見つめる彼が今、私へ向かって歩いてくる。

淡く黄葉をみせる緑陰、歩いてくる顔は惑って泣きそうになっている。
けれどその瞳の奥に、かがやかしい幸福が宿ってしまっていると、私には解ってしまう。
愛しいあの人と初めて一夜を過ごした、その翌朝に見た鏡の中の自分の瞳。
その瞳と同じ瞳が今、私のことを見つめてくれている。

―きっと彼が攫ってくれた

きっと綺麗な笑顔が息子を攫ってくれた、幸せな夜へと攫って温めてくれた。
それは初心な息子にとって途惑うばかりだったろう、それでも心深くに幸せは刻まれた。
きっと大丈夫、そんな確信が私の顔を微笑ませる。

「おはよう」

穏やかな声で微笑んで、一人息子の周太を見上げた。
すこし羞んだように周太が笑う、この笑顔からもう聴かないでも解かる?
そんな喜び深く抱きしめて、言祝ぎの祝辞に微笑んだ。

「ご卒業、おめでとうございます」
「ありがとうございます」

面映ゆそうに周太は笑ってくれる、けれどすぐに悲しそうな顔になってしまう。
これから私に真実を話すのだろう、もし私に拒絶されたらと、不安と緊張が息子の貌を曇らせる。
この緊張感が私には嬉しい、こんなに不安がるほど息子が「彼」を願うと解るから。
きっと今から息子は、きれいな笑顔と結んだ繋がりを私に話してくれる。
この予感の喜びに記憶も微笑んで、公園の門を記憶と見上げ呟いた。

「懐かしいわ、」

愛するあの人との若い、幸福だった日。
警察官だったあの人は、いつも約束なんて出来なかった。
それでも二人寄り添って、重ねていった一瞬は美しくて、きれいで、今も心を充たしてくれる。
こういう幸せを、どうか息子も重ねて欲しい。そんな願いの隣で息子が微笑んだ。

「見ていないで、入ろうよ。お母さん」

二人並んで、緑の中へ入っていく。
隣を歩く息子の気配が、この場所への想いを伝えてくれる。
彼にとってもここは恋人との場所になっている、そう外泊日の度いつも話してくれていた。
宮田くんと昼をとり、公園のベンチに並んで座って過ごす。そう話してくれた場所はここだと、いま隣を歩く微笑が教えてくれる。

―あなた、いま、みていますか?

私達の大切な場所は、私達の宝物にとっても大切な場所になっている。
何処だと話したことは無い、それでも同じ場所で息子も想いを育んでいた。
こんなふうに想いは受けつがれて、永遠に繋がっていく?

「お母さん、」

声がやっぱり昔に戻っている、その事が嬉しい。
どうしたのと瞳で訊くと、私が好きなトーンのままで周太が言った。

「昨夜は、急に外泊して、ごめん」

ふっと声が出て笑ってしまう、いま、可笑しくて堪らない。
急だなんて本当は、これっぽっちも思っていない。それが可笑しくて幸せで、うれしい。
この楽しい想いのままに、笑って息子へと答えてしまう。

「社会人で男なら、それくらい無かったら困るわ」

私の瞳にも、昔と同じに何かが戻る。
あの人と過ごした日々に、宿っていた楽しい想いが蘇える。
そろそろ少し、息子にもヒントをあげようかな?私は笑って答える。

「それに、昨日は帰ってこないだろう。って思っていたし」
「…どうして?」
「なんとなくよ」

ヒントは、今はここまで。
けれどきっと聡明な息子は、不器用なままでも言えるはず。
楽しくて、嬉しくて、私の顔は笑っている。その隣からまた一生懸命に言葉が続いた。

「呑んだのは本当。だけど、一緒に泊まったのは、友達じゃない」
「…うん、」

そっと見た息子の顔は、途惑いに幸福感が漂っている。
確かな想いで抱かれてしまった、その幸福感が羞んで途惑う。その貌から確信できる。
きっと大丈夫、彼が周太を抱きしめて攫ってくれた。良かった、そんな想いの隣から息子は声を押し出した。

「大切な人と、一緒だった」

きっと綺麗な笑顔のことだ、彼以外に、周太にそんな事を言わせられる人はいない。
振り返って見上げる息子は、不安そうで、けれど穏やかだった。
その貌に希望を見つめ、静かに私の唇が開かれる。

「それは、恋人?」

恋人、けれどきっと、そんな括りでは納められない、そんな繋がりが私には解かる。
もっと深いところで繋がれなかったら、周太は心を開けない。
けれど今はまだ、他の似つかわしい言葉は解らない。

「…ん、」

かすかな声の沈黙と、周太が頷いてくれる。
ほら、希望は叶った?そんな期待がまた輝きを増していく。
この明るい予想へと微笑んで「良かった」と本音が音を持って言葉に変わった。

「良かった、周太に、そういう人が居てくれて。嬉しいわ」

周太の顔が苦しげになる。
きっと私が拒絶する事を恐れている。
男同士という禁忌、警察官だという枷、それらを私に告げる事を不安がって動けなくなっている。

―そんなこと、たいした問題じゃないわ

あなたの幸福が笑顔が手に入るなら、そんなことは問題にならない。
どんな規則も常識も関係ない、ただ愛する息子が幸せならそれで良い、笑顔が見れるなら嬉しい。
それが罪で非常識だと言われても構わない、私は愛する人との約束と本音に正直に生きたいだけ。
この祈りと希望に微笑んで、そっと息子へ言った。

「やさしい嘘なんて、私達には要らないのよ」

見上げた息子の黒目がちの瞳が、静かにそっと覚悟を固めて行く。
その覚悟のままに告げてほしい、昨夜の真実を話してほしい。
どうぞ、わたしに希望の輝きを、あなた自身から告げて?

「宮田と、一緒だったんだ」

ほら、祈りは叶う。

この喜びに足が留められる、息子の貌を見つめてしまう。
見つめる想いの真中で息子が瞑目し、長い睫の翳が覚悟をふるわせる。
ふるえる心、けれど勇気がゆっくり見開いて、真直ぐに私の瞳を見つめて言ってくれた。

「俺、宮田の隣に、ずっと一緒に居たい」

ふわり、梢が揺れて黄葉を煌きにふらせる。
優しい木の香りが頬を撫でていく、明るい光が心まで射しこんでいく。
ああ、願いがこれで叶えられる、この喜び充ちる静けさのなか私は微笑んだ。

「腰、掛けましょうか」

指差したベンチに、息子の瞳がゆれた。
きっと彼にとってもここは、指定席。けれど私達にとっても、ここは指定席だった。

『僕に何があっても生きて下さい、あなたには幸せに生きてほしい、だって僕はあなたの笑顔が好きなんです…だから隣にいたい、』

この想いは息子にとっても同じ、誰を泣かせてまでも息子の笑顔が見たい。
愛するあの人と私の宝物を幸せにしたい、この宝物を幸せにするために今まで生きてきた。
何があっても生き抜いてほしいと、若い日に結んだ夫からの約束。あの約束のために私は生きてきた。
あの約束に籠る夫の愛を信じて、夫の無残な遺体に誓った生き方を私は変える事など出来ない。

―あなた、同じことを周にも言うわ?

梢から降る陽射しが、霜を隠した黒髪に揺れる。
夫に言ってもらった言葉を今、息子たちに贈りたい。あの瞬間の覚悟と幸福を見つめて、私は静かに唇を披いた。

「警察官は、いつ死ぬか解らない。だから今を、精一杯に生きていたい。お父さんが言った言葉よ?」

あの日、彼が覚悟と勇気を見つめてくれた言葉が、自分の唇に蘇える。
あの日ふたりで見つめた一条の希望、その光になってくれた息子へと今、言葉が心あふれだす。

「警察官の自分は、一秒後すら、生きているのか分らない。
今、この一瞬を生きる事しかできません。だからこそ、愛するあなたの隣で、一瞬を大切にしたいと願います。
あなたを遺して明日、死ぬかもしれない。けれど今、この一時を精一杯に努力して、あなたを幸せにします。これがプロポーズだったのよ」

微笑んで告げ終えて、そしてなんとなく想う。
きっとあの美しい笑顔の青年も、同じような事を周太に言っただろう。
今この時を精一杯、大切に生きていく。彼のきれいな瞳はそんなふうに輝いていたから。
そんな想い佇んでいる隣、緑ゆたかに繁らす光のなかで、息子の顔がほの白く明るんでいる。
見つめる視界の真中で、長い睫ゆっくり瞬いて微かな震えに息子の唇が披かれた。

「落ち着いて、話してくれるんだ」

ふだん通りに穏やかな、けれど感情の豊かさが響くようになった息子の声。
この声にも願いが叶うのだと解かる、その喜び静かに見つめて私は微笑んだ。

「覚悟なら、警察学校に行くと決めた時に、したもの」

息子の瞳が悲しそうに翳る、けれど私は、静かに微笑んで座っている。

「周太も警察官だから、お父さんのように生きるしかないわ。刹那的だと笑う人もいるでしょう、でも死と隣り合わせで、
生きる事を選んだのなら、明日なんて無いかもしれない。明日を考える前に、今の一瞬を後悔しないで生きるしかないでしょう?」

視界にすこし紗が掛かりだす、陽光に涙がきらめいて視界がきらきら少し揺れる。
もう息子はきっと大丈夫、あの綺麗な笑顔が隣でいつも幸せにしてくれる。
そんな安堵にもう1つの願いが起きだして、そっと私は口を開いた。

「でも一つだけ、お母さんに我儘を言わせて欲しいの」

周太の瞳が不安に揺れた。
ああきっと、彼とのことを否定されると思っている?
けれど私がそんな事をするはずがない、こんな小さな擦違いが可笑しいまま微笑んだ。

「周太、お願い。お母さんの我儘を訊いて?」
「はい」

短く答えて、息子が私の瞳を見つめてくれる。
自分とよく似た黒目がちの瞳が、泣きそうでも真直ぐに自分を見返す、その瞳が愛おしい。
この愛しさに願いを祈り、穏やかな想い微笑んで私はワガママを口にした。

「お母さんより先に、死なないで」

息子の瞳が、すっと肚に落着く色を見せた。
きっと想いの意図が解かってくれた?そんな信頼見つめて、言葉を続けた。

「あなたが生き抜いて、この世と別れるとき。生まれて良かったと、心から笑ってね。周が後悔しない人生であったなら、それでいい」

後悔しない人生。
この言葉に、夫の言葉が響くように思い出される。

  一秒後すら生きているのか分らない。今、この一瞬を生きる事しかできません
  だからこそ、愛するあなたの隣で、一瞬を大切にしたいと願います
  あなたを遺して明日、死ぬかもしれない。けれど今、この一時を精一杯に努力して、あなたを幸せにします

あの求婚の言葉には、ふたり分への愛情が祈られていた。
あのとき自分には命が宿っていた、その命が自分たち夫婦に求婚の幸福を贈ってくれた。
あの若い日に輝いた幸福の贈り主を今、隣に見つめて私は、心からの幸せに微笑んだ。

「周太。お母さんは、お父さんの妻で幸せよ」

あのひとに逢えて、よかった。

あのひとと生きて一緒に居られた時間は12年ほど、いま50歳を迎える自分の時間の1/4ほどしかない。
それでも隣で生きられた時間は永遠の幸福、あの瞬間たちがあるから自分は今も生きている。
そう想わせてくれた自分たちの宝物が今、この隣に座って穏やかに微笑んだ。

「…ん。俺も、そうだと思う」
「だから、あなた達も自信を持ちなさい」

自分に幸福を贈ってくれた息子、この宝物に全ての祈りを贈りたい。
この愛しい存在へ全ての幸福を願い、静かに私は口を開いた。

「宮田くんの隣を得難いものだと思うのなら、そこで一瞬を大切に重ねて生きなさい。大切な一瞬を積み重ねていったなら、後悔しない人生になっていくはずよ」

息子の瞳が、私の瞳を茫然と見つめている。
ただ見つめて、ゆっくり瞬いて、そっと周太は訊いてくれた。

「男同士だなんて普通じゃ無い。それでもお母さんは、いいの?」
「そうね、お母さんも本当は、ちょっと悩んだわ。でも、なんとなく気付いていたし」

私は笑って、包んだ周太の手を軽く叩いた。
その手に梢から青い翳が落ちている。周太は疑問を口にしてきた。

「気付いていた、て?」
「宮田くんにアルバム見せた時よ」

周太の手を戻すと、木洩陽のなか息子を見る。
やわらかな黒髪ゆれる光が祝福のよう?そんな想い静かに微笑んだ。

「宮田くんのね、周の写真を見る目が、お父さんそっくりだったの。
お父さんが私を見つめていた目と、宮田くん、同じ目をしていた。だから好きなんだろうと思ったわ」

こんなふうに話せるなんて、楽しい。
穏やかな風が髪をなぶる、微笑んで私は髪を掻きあげた。

「でも、男の子同士でしょう?男女で結婚して、家庭を持つ様には出来ないわ。
 だからお母さんも少し悩んだの。でもね。周は、誰かの隣に居ることを、簡単には望まないでしょう?」

誰かの隣に居ることが居心地が良と、ずっと知らなかった周太。
そんな相手に出会える可能性が息子には少ないと知っている、だからどうか手放さないで欲しい。
この祈りを息子の目を見つめて、心からの想いに言葉を続けた。

「周の痛みをきちんと理解できる人、周の笑顔を願って笑わせてくれる人。
そして周が寛いで一緒に居られる人。そう簡単には見つけられないな、て思ったの。
男の人が相手では子供を望む事は出来ないけれど、周がひとり孤独でいるより誰かが隣に居てくれる方が、ずっと幸せだとお母さん思ったの」

子供を望めない、家族が増える可能性が無い。
それは寂しくて辛いことかもしれない、けれど今はもういい。
どんな事をしても、周太が笑って生きてくれるなら充分に幸せだ、この納得に私は微笑んだ。

「それにね、周、あなた良い顔してたもの」
「…え、」

途惑う含羞が黒目がちの瞳にゆれる、こんな初心が息子は可愛い。
可愛くて、少しからかいたい想いと瞳を動かして、私は笑った。

「待合せて顔を見た瞬間に、ああ、幸せな夜を過ごした顔だなって」

周太の首筋を薄紅いろに熱があっというまに昇る、そんな素直な様子が嬉しい。
良かった、この子はまた、幸せを抱きしめて生きていける。
そのことが温かく、ただ嬉しい。

「そういう幸せを、周にも大切に重ねて欲しい」

嬉しい想いに願いを告げて、息子を見つめる。
この愛しい幸福の贈り主へと、微笑んで私は口を開いた。

「宮田くんの隣、大切なら手放さないで。そこで一瞬を大切に重ねなさい、大切な一瞬を積み重ねたなら後悔しない人生になるわ。
そしてね、生れてきてよかったと、最後の一瞬には笑うのよ。きっとその時、私は、お父さんの隣で、あなたの笑顔を見ているから、」

どうぞお願い、この子の人生の終わりが幸福でありますように。
あのきれいな笑顔に見つめられ、幸福のなか最期を微笑んで迎えられますように。
そしてどうぞ、天寿を全うしてほしい、愛するあの人と同じような最期なんて、決して迎えないで?

「ありがとう、ございます」

息子の瞳から、あたたかな涙が頬を伝って零れ落ちた。

宮田くんに出会えて、よかった。
彼が私達を救ってくれた、夫のことも周太のことも、そして私のことも。
きれいな笑顔の健やかな心、あなたなら私達の宝物を、きっと幸せで温めてくれる。

―どうか、お願いさせて?…周太の幸せと笑顔と、そして、あなたの幸福を

どうか、彼にも笑っていてほしい。

生まれて来た良かったと、最期のときには笑ってほしい。
あなたから普通の幸福は奪ってしまった、けれどそれ以上の幸せを息子とふたり紡いで欲しい。
そうしてどうか、あなたにも幸せに笑っていてほしい。あなたの笑顔は、私の息子の幸せなのだから。

そして、あなたは私のもう一人の息子、心からそう想っている。






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上弦月の中天―P.S:another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-10 23:26:06 | 陽はまた昇るP.S

ずっとそのままで




上弦月の中天―P.S:another,side story

眠れない。
窓を開けてみると、月はもう中天高く昇っている。
消灯時間はとっくに過ぎた。
けれど頭の芯が冷えたように醒めて、眠りは訪れてくれない。

ためいきを吐いてベッドの上、周太は膝を抱え込んだ。
よりかかった壁の向こうの、気配がなんだか優しく感じる。
隣はもう、眠りの中に居るのだろうか。

事件の渦中では驚くほど、冷静な自分がいた。
それでもすこし時間が経って、夜になった今。あの夜と今がシャッフルするような感覚が掠めてしまう。
見上げる天井に、あの父の最期の姿はもう現われない。
けれど、自分が教官へ銃口を向けた、その事実が重い。

目を開けたまま、抱えた膝に頬をつける。
窓の向こうの月が、明るく冴えていた。
ぼんやり眺めていると今、世界中で自分だけが目を醒ましているような、冷たい孤独に蝕まれそうになる。

父が射殺された、そんな自分が人へ銃口を向けた。
脅されて仕方なかったとしても、自分の弱さを突きつけられたようで、悔しい。
父が殉職したあの夜、無残な父の遺体へ誓った生き方。
あの夜の為にずっと、片手で拳銃を扱える体に、自分で自分を作り直してきた。
それを安西に利用されかかった現実が、悔しい。

犯罪に倒れた父の真実を知るための辛い日々が、犯罪者の狂気に利用されかけた。
その現実が残酷で悔しくて、痛い。

痛みが胸を迫り上げそうになる、それを目を瞑って抑えようとして、痛い。
父が殉職したあの夜よりも、ずっと自分は強くなっている。
けれどまだ残された、やわらかな心が痛みを感じて、苦しい。

迫り上がる胸が痛くて苦しくて、呼吸が上手く出来ない。
助けて―
瞳を瞑った時、静かなノックが部屋に響いた。

「俺だけど、入るよ」

声がした時には、もう宮田は部屋の扉を閉めていた。

「…どうして」

どうして宮田は来たのだろう?
呆然と見つめた端正な顔が、いつものように微笑んだ。

「なんか眠れなくってさ」

言いながら、周太の隣にすとんと座った。
いつものように肩がふれそうに近い。どうしていつも、こんなに傍に座ってくれるのだろう。
ふれる肩の温かさがやさしくて。硬くして涙こらえる心が、ほどかれそうで怖い。

「湯原がまだ起きていて、良かった」

俺ほら寂しがりだからさ。きれいな笑顔で宮田が笑う。
そんな顔で今、笑いかけないで欲しい。

こんなに心が折れそうな時、そんなふうに笑いかけられたら。
独りで支える全てが崩されてしまう。
そんな事はしないで欲しい。
独り生きる事を選んでしまった、その寂しさを気付かせないで欲しい。

それなのに宮田は、周太の顔を覗き込んで、微笑んでくれる。

「どうした、話せよ」

静かな短い言葉が、あたたかい。
どうしていつも、こんなふうに。宮田は隣に来てくれるのだろう。
どうしていつも、こんなふうに、やさしい静かさをくれるのだろう。
やさしい静かな気配が、ゆっくり周太を包んでくる。こんなふうにされたら、頼りたくなってしまう。
そっと静かに、きれいな低い声が微笑んだ。

「聴かせろよ、隣にいるから」

あたたかな気配が、孤独を壊して、とかしてしまう。
独りの心が崩されていく、怖いけれど、あたたかさが嬉しくて、崩れてしまう。
静かな温もりが、そっと周太の唇をほどいた。

「俺は遠野教官に銃口を向けた」
「…うん、」

穏やかで静かな相槌が、そっと周太の心を撫でてくれる。
もうひとりで黙っているなんて、出来そうにない。こころが唇から零れ始めた。

「弾道を外せる事は自分で解っていた。それでも銃口を向けた事は、許せない」

静かに隣は聴いてくれている。
いつも周太を邪魔しない、静かで穏やかな気配は、今もそっと隣にいてくれる。

「俺は本当は弱い。弱くて弱くて、だから強くならなくては、生きられなかった」

きれいな切長い目が、やさしい静けさで見つめてくれる。
ああこの目になら全部話してしまいたい。心がすこしほどかれて、周太は吐きだすように言えてしまった。

「強くなる為に鍛えた射撃を、犯罪者の狂気に利用されかけた。その事が許せない」

言った途端、瞳から何かが零れた。
頬を熱が伝って落ちていく。自分でなにがなんだか解らない、どうして自分は泣いているのだろう。
どうして人前でこんな風に今、涙が零れてしまうのだろう。

「…っ」

けれどさっきまで迫り上げて苦しかった胸が、少し楽になっている。
あたたかな指先がそっと周太の目許を撫でて、頬を拭ってくれる。
きれいな長い指が、自分の顔を静かに拭って、きれいな笑顔が微笑んでいる。
きれいな低い声が、静かに話し始めた。

「あの時、湯原が銃口を向けなかったら。たぶん安西が遠野を撃っていた」

真直ぐに宮田が見つめてくれる。健やかな宮田の視線は、嘘がかけらもない事が自分にも解る。
ほんとうに心から思った事しか、宮田は言わない。
たまに馬鹿じゃないかと思う事も言うけれど、宮田の言葉は温かい。
すこしほろ苦く微笑んで、宮田が言った。

「誰かを助けるため、銃を向ける事が必要な時がある。俺たちは警察官だから」

警察官だから―本当にその通りだと思う。

「あの時の湯原の行動は、間違っていない。
 そしてあの時に、銃弾を正確に逸らす事が出来るのは、湯原だけだった」

湯原はきちんと自分の役割を果たしたよ、そう言って宮田は続けた。

「だから胸を張っていい。あの状況で冷静に銃を扱えた、湯原は強いよ。その強さに俺は憧れている」

どうしていつもこんなふうに、宮田は真直ぐ見つめてくれるのだろう。
いつも本当は嬉しい、こんなふうに真直ぐ見つめられた事なんて、なかった。
嬉しくて、宮田の隣は居心地が良くて、気が付いたらいつも、隣にいる事が自然になっている。
けれど今は、自分の脆い弱さが切なくて苦しい。ぽつんと周太は呟いた。

「宮田、俺は本当に弱いよ」

本当に、弱い。
目的の為に独りで生きる事を選んで、今までずっと孤独でも構わないと思っていた。
それなのに今こうして、隣に宮田が座ってくれる事が、嬉しい。
嬉しくて、独りに戻る事が怖くなっている。どうして自分はこんなに弱いのだろう。
けれど宮田は静かに言った。

「繊細でやさしい、それを弱さという事は出来ないよ」

瞳を上げて、周太は宮田を見つめた。
きれいな切長い目は、静かで穏やかに見つめ返してくれる。
きれいに宮田は微笑んだ。

「湯原の繊細でやさしい部分、それに俺はいつも救われている。ほんとだよ」

救われている、宮田が自分に?
本当なのだろうか、そんな事ってあるのだろうか。
微笑んだまま、宮田は続けた。

「その穏やかさが居心地良くて、俺、いつもここに座りたくなる」

今まで誰からも、自分は求められた事なんてない。
それで構わなかったし、気にとめた事も無かった。
ただ目的の為に時間を遣いたかった。他人を構う余裕は、必要ないと思っていた。
それなのに宮田が、自分の隣を求めてくれるなんて。そんな事があるのだろうか。

「…どうして俺の隣なんか」

呟きかけた言葉に、宮田が言葉を重ねた。

「俺は湯原の隣にいたい」

だからそんなふうに言わないで欲しい。
本当なのかなと、途惑ってしまう。嬉しいけれど、どうしていいのか解らない。
それなのに、きれいに笑って宮田が言った。

「だから今夜は抱き枕になってよ」

返事も待たないで、宮田が抱きついた。

「ちょ、みやたっ」

気がついたらもう、抱きしめられてベッドに横になっていた。

「やっぱ湯原の体温って安心する」

そんなことを言って、きれいな額を肩に埋めてくる。
首筋が熱くなって、耳元から頬まで火照り始めてしまう。きっともう真っ赤になっている。
こんなこと途惑ってしまう、どうしていいのか解らない。
それなのに、嬉しそうに宮田が笑った。

「沈黙は了解、でいいよな」
「…っ」

言葉なんて出てこない。こんな事には慣れていない。
どうしよう、どうしていいのか解らない。
こんなふうに温もりを与えられた事なんて、無かった。
独りじゃない事がこんなに嬉しいなんて、今までずっと知らなかった。
湯原、と呼びかけて宮田が顔を覗き込んだ。

「俺に拳銃と警察官の事を教えたのは、湯原だから」

どういう事だろう。急に言われて考えがまとまらない。
けれど宮田はきれいに微笑んだ。

「拳銃を持つことの意味と、警察官として生きる事。俺に向き合わせてくれたのは、湯原と、湯原の父さんだから」

どうしていつも、宮田はこうして受けとめてくれるのだろう。
父の事までいつも、こうして軽やかに受けとめてくれる。
そういう健やかな宮田の心が眩しい。

「湯原が俺に教えてくれたんだ。警察官として生きる誇りも、意味も。だから俺はここにいるよ」
「…そんな俺は立派じゃないよ」

ぼそっと言ったけれど、そうだってと宮田は笑ってくれた。

「俺きっと、湯原が隣にいないと駄目だと思う」
「なに言ってるんだよ」

思わず周太は笑った。けれど切長い目は笑わずに、真剣なまま見つめてくる。
どうしたのだろう、こんな目で見つめられたら、どうしていいのか解らなくなる。
そっと抱きしめて、宮田が言った。

「湯原はきれいだ」

どうしていつも、こんなことを言うのだろう。
言われる度に恥ずかしくて、今もう首筋から熱くなってくる。
途惑って困ってしまう、けれど本当は嬉しい。

―あの時の湯原の行動は、間違っていない
 湯原はきちんと自分の役割を果たしたよ
 だから胸を張っていい。あの状況で冷静に銃を扱えた、湯原は強いよ。その強さに俺は憧れている

宮田の言葉はいつも温かい。
どうしていつも、欲しい言葉を欲しいタイミングでくれるのだろう。
今だって本当は、宮田は自分を独りにしないように来てくれた。
壁の向こうで気配を感じて、そっと扉を叩いて開いてくれた。

いつもこんなふうに、さりげない繊細な優しさで、宮田は受けとめてくれている。
今、揺れている自分の心を、そっとくるんで温めようとしてくれている。
抱きしめてくれる胸が刻む、規則正しい鼓動が心地いい。

「宮田?」

そっと呼んでみるけれど、頬のすぐ隣から安らかな寝息が聞こえている。
もう宮田は眠ったのだろうか、ぎこちなく宮田の背中に掌をまわしてみる。

ふれる背中があたたかい。
あたたかくて、涙が素直に零れてくる。
人の体温はこんなふうに、心を解いてくれるものなんだと、周太は温もりに目を瞑った。

ふっと気がつくと、体がゆるやかに抱きとめられていく。
驚いた肩がびくっと震えた。

「…あ、」

頬ふれる寝息が、隠したような微笑みに変わる。
宮田が起きている。

まわした手が恥ずかしくて、どうしていいか解らない。
引っ込めようとするけれど、自分の体に回された腕が、軽く力を籠めて自由を奪われてしまう。

「うれしいよ、こういうの」

きれいな低い声が耳元で微笑んだ。
きっと今、きれいな笑顔が咲いている。

この笑顔だけは、ずっときれいなままでいて欲しい。
いつもこうしてそっと自分を温めてくれた、この笑顔だけは、きれいなままで。





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思慕―P.S:another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-04 23:30:15 | 陽はまた昇るP.S

たぶんきっとひとりになる




思慕―P.S:another,side story「陽はまた昇る」

陽射が穏やかになったと周太は思った。
バスに乗る列の広場にも風が涼しい。秋がもう近い。
これから向かう京都だと、場所によっては紅葉もあるかもしれない。

隣で宮田がひとりで笑っている。
いったい何を笑っているのだろう。

「なに笑ってる」
「え、いやあのさ」

宮田が説明しようとした時、関根がその肩を叩いた。
いつもの快活な笑顔で、横からごめんと周太に笑いかけてくれる。
たぶん青免の話を宮田としたいのだろう。ついこの間、所轄警察署内部で実施の技能試験の話があった。
気にしなくて良いと目で答えて、周太はバスへ歩き出した。

バスに乗ろうとした時、瀬尾が話しかけてくれた。
一緒に乗ろうと誘われて並んで座る。瀬尾は楽しそうだ。

「京都は僕、中学の修学旅行以来だよ」

周太には、旅行自体が、高校の修学旅行以来になる。
父が元気な頃は、家族で山を登りに行った事もあった。
けれど亡くなってからは母と二人、家で過ごすようになっていた。
父の気配が残る家を、無人で留守にする事は、どこかためらわれてしまう。

「お、宮田ここ座ろうぜ」

後ろの席から関根の声が聞こえた。宮田と並んで座ったようだ。
いつも隣にいる気配が、背中に感じられる。
なんだか慣れない雰囲気だなと思っていると、瀬尾が口を開いた。

「この間も、似顔絵捜査官の講習行ってきたよ」

瀬尾は着実に、自分の進路を進んでいるようだ。
気弱だけれど着実なところが、偉いなといつも思う。
周太は微笑んで訊いてみた。

「鑑識課の人には会えた?」
「うん、鑑識課の話、聴かせてもらえたんだ」
「それ聴きたい」

周太は鑑識を希望する訳ではないけれど、瀬尾の話は参考になる。
それでねと一生懸命に話す瀬尾に相槌をうつ合間、背後から青免の話が聞こえてくる。
どちらの話も参考になるなと思っていると、東京駅に着いた。

東京駅まで移動し、新幹線に乗る。
バスを降りてホームに移動する時、宮田が周太を呼びとめた。
じゃあまたと瀬尾に笑いかけてから、周太は宮田の隣に行った。
どうしたと見上げると、いつものように宮田が微笑んだ。

「新幹線からは隣、座っていい?」
「ん、いいけど」

それくらい別に良いのにと思いながら、いつも通りに頷いた。
よかったと笑って宮田は続けた。

「三日間、全部の予約な」

またよく解らない事を言い出した。
「全部」とはどういう意味なのだろう。いつもの事だけれど、宮田がたまに解らない。
黙ったまま見上げていると、宮田がきれいに笑った。

「俺さ、枕変わるとか苦手だろ。でも湯原の隣なら落ち着くから」

きれいな笑顔で、頼むよと宮田が言った。
この笑顔はちょっとずるいと思う。
こんなにきれいな笑顔をされたら、何を言われても聴いてやらないと悪い気にさせられる。
まあ別にいいかと周太は頷いた。

「ん、わかった」

本当は瀬尾の話をもう少し聴きたい。
青免のことを関根に詳しく教えて欲しいなとも思う。
場長は元々企業に勤めていたから、金融犯罪を詳しく訊いてみたかった。
上野は警察犬に詳しいから、麻薬捜査の事もよく調べている。

どれも目的に必要な知識だから、聴いてみたかった。
団体行動の3日間、話せるいい機会だなと考えていた。

けれど、あんな笑顔で頼まれたら断れない。
お蔭で予定が白紙になってしまった。どうして宮田はいつも予想外な事するのだろう。
それでも本当は、宮田の隣の居心地は良い。なぜか楽で寛げる。

旅行の時くらい、警察の事を忘れて過ごすのも良いのかもしれない。
隣を見上げると、機嫌良さげに座ってぼんやりしている。
なんとなく、宮田の隣はほっとする。現場に立てばもう、こういう時間は持てないかもしれない。
三日間のんびりしようかな。窓の外を眺めながら、周太は思った。



少し早い紅葉が、寺院の庭園から垣間見えていた。
淡く赤い木洩れ日が足許を揺れる。
京都は二度目だなと思いながら、吹き抜ける風に周太は目を細めた。
中学校の修学旅行で来た時と、そんなに雰囲気は変わっていない気がする。

場長と関根と、瀬尾と上野が前を歩いている。
この年齢で班行動もどうかと思うけど、卒業すれば皆、別々になる。
きっと今を、懐かしく思いだす時があるのだろう。

「ここの団子って結構うまいんだよな」
「宮田よく知ってるね」

他愛ない話をしながら、宮田の隣を歩く。
気がついたら当然のように、毎日を隣で過ごしていたと思う。
当然だけど卒業したら、毎日こんなふうには話せなくなる。
寂しくなる。誰かと離れる事を、こんなふうに思うのは周太には初めてだった。

宮田は奥多摩方面を希望したと言っていた。青梅署管轄が第一希望らしい。
自分が希望した新宿から、直通で1時間位で行ける。
話したかったら行ける距離なのは、素直に嬉しかった。


宿泊先のホテルに着いて、各自の部屋に一旦解散となった。
カードキーを各自渡されて、部屋へ向かう。
渡されたカードの番号は、宮田と同じだった。寮の部屋並びに準拠したらしい。
馴れた隣が同室で良かった。他人と寛ぐ事が苦手な周太には、ありがたかった。

割当ての部屋に着いたのに、宮田が素通りしようとした。
ほうっといたらどこまで行くのか。
それも興味あったけれど、夕食前に風呂を済ませなくてはいけない。

「宮田どうした」
「…あ、」

宮田は立ち止まった。
ごめんと振向いて笑った顔が、いつも通りにきれいだった。
毎日見馴れた顔だけれど、もうじき遠くなる。
遠くなっても、きれいな笑顔のままで宮田はいるのだろう。


先に風呂を済ませて、夕食場所の宴会場に集まった。
スーツを脱いだラフな格好で、みんな座っていく。
広い座敷に教場ごとの席が設けられ、どこも寛いでいた。

やっぱりここでも隣に座るのだろうか。
昼間に宮田に言われた事が掠めて、ちらっと隣を周太は見上げる。
隣で宮田が笑った。

「座ろう」

言いながら宮田がそこへ座った。
やっぱりどこでも隣なのか。周太も座りながら、宮田が少し不思議だった。
どうしてそんなに隣に居たがるのだろう。
不思議だけれど、こんなふうに来てくれる事は嬉しかった。

教場によっては酒を呑み始めた。遠野教場は、予想通りだけれど酒無しだった。
白石助教は遠野教官の言いつけを、きちんと守っているらしい。
それでも皆、恋愛談議で盛り上がっている。

「関根は?」
「俺はヤンチャしていたからさ。でも好きだった人はいる」
「内山はさ、顔もいいし東大だもんな」
「いや、まだお付き合いした事はないぞ」

楽しそうな様子は、見ていていいなと思える。
けれど自分は話題の提供はできない。今まで誰からも、周太は求められた事がないから。
それで構わなかったし、気にとめた事も無かった。
ただ目的の為に時間を遣いたかった。他人を構う余裕は、必要ないと思っていた。

だからいつも、周太にとって宮田は不思議だった。
こんなふうに隣に来たのは、宮田が初めてだ。
宮田の気配は、周太の邪魔をしない。だから居心地が良いのだろうか。

「へえ、瀬尾の彼女は幼馴染なんだ」
「まだ学生なんだけどね、そのうち結婚すると思う」
「おお純愛だ、いいねえ」

瀬尾らしいなと微笑ましかった。
そういう人が居ることは、きっと人生が豊かになるだろう。
でも自分にはきっと無理だと解っている。

父の殉職の意味を、知る為に生きる事を選んでしまった。
ただ、真実を知りたいだけ。なぜ父は殺され、犯人は今も生きているのか。
けれど真実を知ろうとする事は、きっと辛い現実の連続になる。
そんな人生に、誰が寄り添ってくれると言うのだろう。

「宮田は絶対、女には不自由しないだろ」
「まあね、」
「やっぱりなあ。宮田きれいな顔だしさ、声も低めの良い声だもんな」

女の気持も解るよなあと、皆が盛り上がっている。

宮田なら似合いの相手が沢山いるだろう。
幸せになってくれたらいいと思う。
宮田の笑顔には、きれいなままでいて欲しい。

警察学校での6ヶ月、いつも隣で笑ってくれていた。
この笑顔にどれだけ、自分は寛いで楽しんでいただろう。
宮田が隣で笑ってくれたから、教場の皆と話せるようになっていた。
この6ヶ月、一緒に居て楽な隣がいてくれた。それだけで周太には幸せだった。

なによりも、周太は宮田に救われた。
薬莢紛失事件の後の屋上で、宮田が言ってくれた言葉はきっと忘れられない。

―俺、湯原の親父さんみたいな警官、目指したい
 警官は精神的に削られるだろ。それでも周りの人を忘れない男に、俺もなりたい
 お前の親父さん、俺は尊敬する。

世間はいつも「殉職」のレッテルで父を見た。
父は警察官で、オリンピックの射撃代表で、母の夫で、周太の父だった。なのに「殉職」だけが独歩する。
同情、憐憫、好奇心―その全てが大嫌いだ。父の人生は殉職の為じゃないと、怒鳴ってやりたかった。

けれど宮田は、父を警察官として男として見つめ、尊敬してくれた。
宮田の健やかな繊細さが、父を救ってくれた。「殉職者遺族」に苦しんだ、周太と母まで救われた。
自分達を救ってくれた、きれいな笑顔。
ずっとそのままで、きれいな笑顔のままでいて欲しい。


皆の様子を眺めていると、上野が話しかけてくれた。
警察犬の訓練士になりたいと、学習室でこの間話していた。
この間は途中になってしまった、麻薬捜査犬の話の続きを始めた。

「ドーベルマンよりジャーマンシェパードの方が、麻薬捜査犬は多い?」
「うーん、ちゃんと調べてみようかな」

救助犬に小型犬が選ばれた話になった時、急に瀬尾から話をふられた。

「湯原くんは、どんな恋愛してきたの?」

なんて直球で訊くのだろう。
こういう瀬尾の素直さが、ちょっと羨ましいなと思う。
けれど恋愛の話は、正直困る。ちょっと眉を顰めて、周太は口を開いた。

「ない」

短く言って周太は、膳に残っていた厚焼き卵を口に入れた。
本当に何も無い。寂しい事かなとも思うけれど、事実だから仕方無い。
そうなのと瀬尾が重ねて聞いてきた。

「湯原くん、好きな人とか居なかったの?」
「いなかった」
「一度も?」

求められた事が無いように、自分から求めた事も無い。
こんなに訊かれると、それが寂しい事なのだと思い知らされる。
そして答えてあげられない事が、なんだか罪悪感になってしまう。

「ごめん。本当にないから」

ぼそっと周太は答えた。こういう時は、どうしていいか解らない。
困ったなと思っていると、宮田が口を開いた。

「最初につきあったのは小学5年だったな」
「まじ宮田、なに小学生かよ」
「近所の中学生に、告白されてさ」

やっぱり宮田には、たくさん相手がいる。
何だか寂しい気持ちになって、周太は膳のものを片付け始めた。食事を済ませて、早く寝てしまいたかった。
こんな時、自分ひとりが孤独だと思い知らされる。

「湯原?」

宮田が話しかけてくれる。
けれど今は、なんて返事をしていいのか解らない。
ちらっと隣を見ると、きれいな切長い瞳が困っている。
普通に幸せに育った、健やかな表情が宮田には似合っていた。

こういうふうだったら、隣に居てくれる相手は、たくさん見つかるだろう。
それなのに、どうして昼間はあんな事を言ったのだろう。
なんだか居た堪れない、周太は箸を置いてしまった。

父の生きた軌跡を辿って、真実を知る事。
「父は殺された」現実の苦しみに向き合う方法は、それしか無いと選んでしまった。
目的の為に生きる事を選び、それは独りで生きる事を選んだ事だと解っている。
自分で選んだ事だけれど、解っていた事だけれど。けれど、今は辛い。
ここから早く立って、本でも読んでいよう。周太は席を立ちかけた。

「どこいくんだよ、湯原」

立ちかけた腕を、宮田に掴まれた。
どうしていつも、宮田はこうなのだろう。

結局は自分は、独りで生きなくてはいけない。
昼間はあんな事を言っていたけれど、ずっと隣に居る訳じゃない。

それなのに。
隣がいる嬉しさを、この隣に教えられてしまった。
孤独を思い知らされる事が、こんなに辛いなんて思わなかった。

独りにされるのは、仕方のない事だと解っているから。
もう、放っておいて欲しい。

けれど、宮田は真直ぐに周太を見つめてくる。
きれいな切長い目で、どうしたと優しく訊いてくれているのが解る。
結局独りにするくせに、こんなのは狡い。

「で、宮田はさ、今はどうなんだよ」

また宮田が話しかけられた。
皆の輪の中で、楽しそうに笑っている姿が似合うと思う。
そうしてずっと、きれいな笑顔のままでいて欲しい。

きっと自分には出来ない事だから、せめて宮田には幸せでいて欲しい。
6ヶ月だけれど、隣がいる幸せな時間を、宮田はくれた。
本当はいつも嬉しかった。

もう自分には、こんな時間は与えられない。
そういう道を選んでしまったと、自分で解っている。
だからせめて。幸せな時間をくれた、きれいな笑顔にはそのままでいて欲しい。

腕を振りほどいて、早く行ってしまいたい。
力をいれるのに、宮田の長い指は動かない。
剣道も逮捕術も殴り合いも、一度も勝った事無いくせに。こんなのは狡い。

手を離せよと周太が口を開きかけた。
けれど宮田は気づかぬふうで、口を開いた。

「今までの誰よりも、一番好きな人がいるけど」

ほらやっぱりと思ってしまう。
他にいるのに自分に何で構うんだと、腹が立つ。
本当に、本当に早くこの手を離してほしい。どうせ離されるなら、今離してくれたらいい。
時間が経つほど未練が残るから、もういい加減にして欲しい。

おおっと皆が盛り上がっている。
宮田の掌が周太の腕を掴んでいる事は、誰も気づかない。
どんな人なんだよと関根に訊かれて、宮田は言った。

「瞳がきれいで、すぐ赤くなる位に純情で、笑顔が最高にかわいい」

きれいな笑顔で宮田は笑った。

いまなんて宮田は言ったのだろう?
どれも聞き覚えのある言葉が、並べて言われたよう聞こえた。
ふっと周太の腕から力が抜けた。

「うわ、そういう子いいよなあ」

みんな盛り上がったまま、他に今好きな人いる奴はと話題が移った。
さっきのは何だろう。ぼんやりしていると、宮田が顔を覗き込んで笑いかけた。

「そろそろ、部屋に戻るか」
「…ん、」

なんだかよく解らない。
とりあえず部屋には戻りたい。周太は立ち上った。

部屋に戻ると、周太はベッドの隅っこに座り込んでしまった。
放っておいて欲しい、近付かないで欲しい。
それなのに、宮田はさっさと隣に座った。

「湯原さ、なに怒ってるの」
「怒ってなんかいない」

素っ気なく言って、周太は膝を抱え込むと顔を埋めてしまった。
今は顔を見られたくない。
自分でもどういう顔をしているのか、よく解らない。

隣は静かに黙っている。けれどいつもと少し気配が違う。
よく解らない、ぼそっと周太は言った。

「誰にでもああいうこと言うんだ」

どれの事だろうという顔で、けれど優しい目でこっちを見ているのが解る。
もうどうでもいいや。周太はゆっくり顔をあげた。

「さっき言っていた今はどうとかいう人の、」

言いかけた顔が熱い。多分赤くなっている。
その頬に長い指の掌が触れた。
どうしていつもこんなふうに、ふれてくるのだろう。

触れる掌があたたかい。
あたたかさが嬉しい、けれどずっとそのままで居てくれるわけじゃない。
また独りになった時この記憶が、自分の寂しさを思い知らせそうで怖い。

お願いだから、もう放っておいて欲しい。
独りで生きられなくなることは、自分にとっては辛い事だから、もう未練を作らないで欲しい。

止めてくれと目で訴える。
目だけでも、きっと宮田は気づいている。
それでも、きれいな笑顔で宮田が笑った。

「湯原、本当に瞳が、きれいだよな」

またそういう事を言う。
もういい加減にして欲しい、そんな顔で言わないで欲しい。

「すぐ首筋、赤くなるし。笑うと本当にかわいいし」

何も言えない。どうしていいのか解らない、
いったい宮田は何を言っているのだろう。
それでも周太の唇が、かすかに開いた。

「…隣ずっと予約とか言っていた癖に皆といる方が楽しそうだし」

ぼそぼそと一息に言って、周太はまた黙りこくった。
こんな事を言うだなんて、自分でも思っていなかった。
それなのに宮田は笑った。

「嫉妬してくれてるんだ」
「誰がそんな事するんだよ」

素っ気なく言うと、周太は膝をほどいてベッドから降りようとした。
それなのに腕を伸ばした宮田に、捕まえられた。

「ちょっ、みやた」

抱きしめられてしまった。
これはどういう事なのだろう、こんな事は馴れていない。

「俺、枕変わると寝れないって言ったじゃん」

だから抱き枕になってよ。冗談ふうに言いながら、そっと宮田が抱きしめてくる。
もう本当に、いい加減にして欲しい。

早くその、一番好きな人の所へ行けばいい。
そんなふうに惑わさないで欲しい、放っておいて欲しい。
目をあげて、周太は宮田の顔を睨んだ。

「やめろよ宮田」
「なんで」
「だって…宮田の今好きな人に失礼だろ」

なんだそんな事と言って、宮田は笑った。
なんなんだろう、周太は宮田を見上げた。

「俺、今は湯原が一番、一緒に居て楽しいから」

きれな笑顔で宮田が笑った。
つられて周太も笑ってしまった。

「なんだよそれ」

だから、と宮田が続けた。

「他の誰かと時間つくる暇なんか無いから。湯原が一番一緒に居て楽しいから」

きれいに笑って、宮田は周太の顔を見た。
きっともう真っ赤になっている。
それでもこの隣は、穏やかで静かな気配がきれいだ。

卒業式が近付いてくる。
そうしたら卒業配置になって、配置先の所属署で寮生活になる。
もうじき、離れなくてはならない。そうしたらきっと、そのまま離れていくと思う。

きっと宮田の歩く場所と、自分が選んだ道は、交錯する事はない。
どうかこのまま、きれいな笑顔で笑っていて欲しい。





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途惑―P.S: another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-03 20:16:41 | 陽はまた昇るP.S

隣がいること 




途惑―P.S: another,side story「陽はまた昇る」

電話を掛けに行くと、宮田が受話器を置いたところだった。
振り返って周太を見ると、ぽつんと宮田が呟いた。

「きれいだよな」

こいつ何を言っているんだろう。宮田はいつもこうだ。
顔の事を言われるのは困る、けれど宮田だとなぜか、あんまり嫌じゃない。
そう思っている自分もなんだかよく解らない。
いつも言われて慣れたのかなと思いながら、ぼそりと周太は言った。

「電話使いたいんだけど」
「あ、ごめん」

素直に謝って、きれいな笑顔で場所を譲ってくれた。
あんなふうに笑いかけられると、素っ気ない自分の物言いに罪悪感を感じてしまう。
いつも宮田は周太を「きれいだ」なんて言うけれど、宮田の方がずっときれいだ。
周太は10円玉を電話の上に置いて、実家の番号を押した。

「あ、お母さん?俺」

どうしたのと電話の向こうで母が笑ってくれる。
今度の外泊日なんだけど、と周太は話し始めた。

「俺ちょっと、こっちに残ろうか迷ってて」
「迷うのは、残りたいからでしょう?」

いつもの穏やかな声で問いかけられて、周太は途惑った。
ふふっと笑って、母が言った。

「遠慮なく残りなさいな。家はいつでも待っているから」
「…ん、ありがとう」

この母にはやっぱり敵わない。
じゃあまたと受話器を置いて、自室へと戻った。

デスクライトを点けて教本を広げた。
今度の外泊日も使って、鑑識の知識を全て頭に入れるつもりだった。
外泊日なら学習室が空いている、資料も好きなだけ眺められるだろう。

それになんとなく、今回はここに残りたかった。
なんでそんなふうに思うのか、周太は自分でもよく解らない。
少し考え込んでいると、不意に扉が叩かれて開かれた。

「俺だけど入っていい?」

振り返ると、宮田のきれいな笑顔が、もう扉の内側に立っていた。
脱走した夜から時折。証拠探しからは毎晩、こんなふうに宮田はやって来る。
また来たと思いながら、ぼそっと周太は言った。

「もう入っているだろ」

まあねと笑って、宮田はベッドの上に座り込んでしまった。
手にした教本を広げて、周太を見上げてくる。

「ここさ、ちょっと教えて」

きれいな笑顔で笑いかけてくる。こういう顔されたら、ちょっと断り難い。
仕方ないなと周太は、宮田の隣に腰かけた。
ここなんだけど、と宮田が傍に寄って示してくる。肩に肩が触れた。

最近は特に思う事だけれど、宮田は距離が近い。
こんなに近くに他人が居る事に、周太は慣れていない。
父が殉職した時、周囲の好奇に晒された周太は以来、他人と居ることが重荷になっている。
他人に触れられる事は苦手だった。

けれど、宮田だとあまり気にならない。
なんでなのかなと思いながら、周太は教本のページを眺めた。



外泊日は、きれいな五月晴れだった。
久しぶりのスーツ姿が面映ゆい。
校門を出入りする際はスーツと決められている。コンビニに行くだけでも同じだった。
外泊は止めても、書店へ行きたくて外出許可だけはもらっていた。

「湯原、」

呼びとめられて振向くと、関根が立っていた。
何の用だろうと首を傾げると、関根は快活に笑った。

「あのさ、ありがとうな」

なんのことだろう。
怪訝に思っていると、関根が軽やかに頭を下げた。

「女子寮侵入の証拠探し。湯原のお蔭で俺も疑いが晴らせた」
「いや、自分が知りたかっただけだから」

こんなふうに率直に言われると、すこし困ってしまう。
けれど関根は笑って続けた。

「俺はさ、諦めただろ。でも宮田と湯原はやり遂げた、すげえって思ってさ」

それでちょっと話してみたくてさ。
そんなふうに話しながら、並んで関根は歩き出した。

急な事で周太は少し、途惑ってしまう。こういうのは慣れていない。
どこかで緊張している自分を、今も解っている。
隣から楽しそうに関根が口を開いた。

「湯原さ、機械工学科だったんだって?」
「ん、そうだけど」

俺もそうなんだと嬉しそうに関根は笑っている。
働きながら夜間大学に通ったのだと、話してくれた。

「俺の親父、早くに亡くなってて」

それでヤンチャしもたんだけど。大きな目を和ませて、関根は笑った。

関根は、思っていたよりずっと真面目な人間なだった。
自分と同じような苦労を、関根も通っている。話してみなくては人は解らない。
周太は関根に、少し親近感を覚えた。

それでもやっぱり、なんとなく緊張する。
宮田が居ても緊張しないから、最近は大丈夫かと思っていた。
なんで宮田だと緊張しないのだろう。

そんな事を考えなが歩いていると、バス停近くにある書店の前に来ていた。
ちょうど開店した所らしい。
良かったと思いながら、周太は関根を振り返った。

「俺、ここに寄って戻るから」
「戻る?」

ちょっと驚いたように関根が訊いた。
軽くうなずいて、周太は答えた。

「今日は俺、外出許可だけなんだ」

本屋へ行くだけで戻るんだ。
そう言うと関根が少し考え込むような顔をして、笑った。

「俺もやっぱ、学校戻るわ」
「え、」

何でだろうと関根を見上げると、いつものように快活に笑った。

「宮田は禁止くらって、湯原も外出許可だけにしたのにさ。俺だけ外泊って不公平な気がする」

そんな事は別に気にしなくて良いのに。
なんて言おうか考えていると、それにさと関根が続けた。

「お袋の実家だと、正直ちょっと気を遣うんだよな」

俺の地元は和歌山だからさと、関根は笑った。外泊日は1泊2日、和歌山まで帰ることは難しい。
警視庁警察学校は全国から集まっている、実家へ帰る事が難しいケースも多い。
現場での配属先によっては尚更、帰省が難しくなる。
関根がここへ来るには、覚悟が必要だったろう。
近いとはいえ自身も、母を置いてここへ来た。周太には他人事には思えなかった。

「お母さん、お元気なのか」

元気すぎる位だよと答えて、関根は笑った。

「気遣ってくれて、ありがとうな」

今まで、関根は話し難いと周太は思っていた。話してみないと本当に人は解らない。
きっと以前の自分だったら、こんなふうには思えなかった。
ただ目的だけを見つめる生き方は、他人に興味を持つ余裕さえ持てなかった。

―宮田と湯原はやり遂げた、すげえって思ってさ
 それでちょっと話してみたくてさ

関根の言葉が嬉しかった。
そんなふうに声かけられたのは、初めてだった。

宮田を手伝ったお蔭で、関根と話す機会が生れた。
あの時は、衣類から指紋が採れない事も知らない癖に、諦めない宮田がなんだか抛っておけなかった。
他人と関わる事は、悪くないなと素直に思える。

「戻る前に飯、食っていこうぜ」
「ん、いいよ」

書店を出ると、関根が気さくに誘ってくれた。
こんなふうに誘ってもらう事は、周太には初めてだった。
もしもあの時に宮田が諦めていたら、こんな事にも気付けなかったかもしれない。



昼を済ませて寮に戻ると、11時半だった。
指定のジャージに着替えて学習室へ行くと、3人が喋っていた。

「あれ、」

誰ともなく気がついて、こちらを見た。
何となく気恥ずかしい。
なんか帰るの悪いと思ってと関根が笑うと、今度は視線が周太に集まった。

「家よりも鑑識の勉強集中出来るから」

ぼそりと言いながら、周太は資料を広げ始めた。

立花校医がくれた差入を口に入れて、資料を眺めていると昼時になった。
立ち上がる居残り3人組が、関根と周太にも声を掛けてくれた。

「昼、行かないのか?」

内山に訊かれて、満足げに関根が笑った。

「俺達、昼は食ってから戻ったんだ」
「へえ、どこで食ってきたんだ」

何気ない内山の質問に、関根が旨かったんだってと笑った。

「あそこのバス停まで行ってさ、やっぱ戻ろうって湯原と決めて。あそこのラーメン屋で食ってきた」
「湯原ってラーメンとか、口に合うわけ?」

いきなり宮田が話をふってきて、周太は少し驚いた。
けれど顔には出ないまま、軽くうなずいて答えた。

「旨かったよ」

ふうんと呟いた宮田の顔が、なんだか不機嫌だった。
なんでこんな顔されるのか、よく解らない。

「宮田くん、早く行こうよ」

お腹すいちゃったよと瀬尾に急かされて、宮田は入口に向かった。
宮田の不機嫌な顔が、なんとなく気になる。いったいどうしたのだろう。
少し考えていると、関根が覗きこんできた。

「この資料って、この間の授業のやつか?」
「ん、そうだけど」

へえと熱心に関根は眺め始めた。
資料に目を通すにつれて、関根の目が真剣になっていく。

拳銃貸与式の後、自分と周囲の温度差が辛かった。
警察官という仕事のシビアな面を、誰も真剣には考えていない。
予想はしていた事だけれど、拳銃への意識の差は、ショックだった。

けれど今、関根が真剣に資料を見つめている。
自分の信じる道を進めれば、他人は関係ないと考えていた。
けれどこうやって、同じような態度を示してくれる事は、嬉しいなと思う。
宮田もいつも教本を持ってやってくる。それだって本当は、嬉しいと思っている。

「どうした宮田?」

関根の声で入口を振向くと、宮田がまだ立っていた。
憮然とした顔で、ぼそりと宮田が言った。

「あ、いや、なんでもない」

声がやけに低い。宮田は踵を返して行ってしまった。
あいつどうしたんだと、関根が怪訝な顔で見送っている。
本当に、宮田はどうしたのだろう。



関根と鑑識の資料を眺めていった。気づくと机いっぱいに広がっている。
一緒に勉強できる仲間がいるのは、悪くない。
以前は独りでも構わなかったけれど、誰かが居る事はいいなと素直に思える。
いつも隣に来る、宮田のお蔭かもしれない。

「お、この資料ってこの間のやつ?」

食堂から戻ってきた内山が、輪に加わった。
前はよく授業中、解答するたびに被せられていた。
ああいう論争も嫌いじゃないけれど、こういう方が何となく楽しい。
論理的な内山の意見は、得るものも多い。

視線が横顔に刺さる気がして、周太は振向いた。
ちょうど、宮田がふっと視線を逸らすのが見えた。

宮田どうしたんだろう。
少し気になったけれど、資料のメモをノートに書き始めた。

「ほんとだ、うまいな」
「じゃあ瀬尾は、鑑識課希望なんだ」

ふと気がつくと、瀬尾が似顔絵の練習をしているらしい。
似顔絵捜査官になるのかなと考えていると、いきなり自分の名前が耳に飛び込んだ。

「じゃあ湯原を描いてよ」

聴き慣れた、きれいな低い声。宮田だ。
なぜいきなり自分の事を言うのだろう。途惑って、周太は資料から顔をあげた。

「俺いま資料見ているし」

こういうのは苦手だ。
けれど瀬尾は大丈夫と笑って、周太の前に座ってしまった。

「そのまま続けてて。動いてくれる方が、却っていいんだ」

動いても描けるだなんて、本格的に目指しているんだ。
すこし劣等生の印象だった瀬尾の、意外な逞しさが垣間見える。
周太は訊いてみた。

「犯人が動いているから?」
「そうだよ」

瀬尾は答えて、素早く鉛筆を動かしていく。
資料を見、ノートにメモをとりつつ、周太は瀬尾に話しかけ始めた。

「似顔絵捜査官の講習あるな」
「うん、受たいなと思ってて」
「あれ行くと結構みんな、似顔絵捜査官になれるらしいよ」

本気で警察の仕事を考えている。
こういうのは何だか嬉しい。前に感じた温度差は少しずつ無くなってる。
やっぱりここに来て良かったと、素直に思えた。

「湯原の特徴って何?」

また宮田の声が耳に入った。気がつくとすぐ近くに座っている。
寮の部屋でもそうだけれど、いつも宮田の気配は周太の邪魔をしない。
ふっと集中が途切れたタイミングで、話しかけてくれる。意外と繊細な一面に、最近気がついた。
けれどこんなふうに不意を突かれると、ちょっと驚かされる。

鮮やかに鉛筆をすべらせながら、瀬尾が質問に答えている。
周太の特徴の話を始めたらしい。

「すこし唇が厚めな所、眉が一文字で濃い感じとか」

関根も内山も、瀬尾の手元を覗き込んでいる。
手元は止めずに、瀬尾が続けた。

「あとね、やっぱり目だよね」
「目?」
「湯原くんの瞳、すごくきれいだよ」

宮田もよく言ってくるけれど、瀬尾にまで言われてしまった。
顔の事を言われるのは、なんとなく落着かない。
目かあと呟いて、関根が顔を覗きこんできた。

「あ、目許きれいだな。確かに」
「そんなことないよ」

ぼそり呟いて、周太は顔をあげた。その拍子に前髪が落ちて額を隠した。
邪魔だなと掻きあげかけた時、内山がちょっと驚いたような顔をした。

「湯原、結構かわいい顔なんだな」

前髪下ろした方が似合うよと、内山は謹直な顔をすこし微笑ませた。
みんなの視線が自分の顔に集まって来る。周太は眉を顰めた。
こういうのは苦手だ、どうしたらいいのだろう。こういうのは慣れていない、途惑いばかりが大きくなる。
すると、いきなり腕を引っ張られた。

「湯原。昨日教わったとこ、もう一回訊きたいんだけど」

宮田が腕を掴んでいた。
いつの間に隣に来たのだろう、驚いて周太は見上げた。
宮田は微笑んでいる。さっきの不機嫌さはもう見えなかった。
助けてくれたのかなと、周太はすこし笑った。

「ん、いいよ」

周太は資料を片付け始めた。
宮田も手伝ってファイルを棚へ戻してくれる。

「あれ、ここで勉強しないの」

関根に訊かれて、周太は答えた。

「教本何冊か使うから。自室の方が便利だろ」

そうだなと内山も頷いて、またあとでな、と笑って軽く手をあげてくれた。
またあとで、と頷きながらノートと筆記具を持つと、周太は宮田を見上げた。

「行くよ」

言って歩きかけると、瀬尾がはいと画用紙を差し出した。
さっき描いたばかりの、周太の似顔絵だった。

「よかったらもらって」

自分の顔が良く描けている。瀬尾の好意が嬉しいなと思う。
けれど自分の似顔絵なんて、どうしたらいいのだろう。
お母さんにあげようか。考えながら、ありがとうと周太は受取った。


周太の部屋に入ると、宮田はいつものようにベッドに座った。
窓から入る午後の陽差しが、白い部屋にあたたかく明るい。いつもの穏やかな空気が、小さな部屋に充ちている。
ノートを開く宮田に、ぼそりと周太は言った。

「さっきありがとう」
「え、」

宮田が顔をあげて、周太を見た。
その隣に座りながら、周太は口を開いた。

「さっき助けてくれたから。顔かわいいとか言われるのなんか困るから」

なんだか急に恥かしくなった。周太は俯いてしまった。
首筋が熱くなってくる。どうしていつもこうなるのだろう。

「でも湯原かわいい。最近は特になんか、」

またこういう事を言う。
困ったなと思っているのに、どうしてこんな事を言うのだろう。
いつも本当に、途惑わされてしまう。

「…宮田こそいつも、」

言いかけて、周太は黙ってしまった。
そろそろ勘弁してほしいなと思う。それなのに、宮田は周太の顔を覗き込んだ。

「俺がいつも、なに?」

至近距離で言わないで欲しい。
なんだっていつも、こんなに距離が近いのか。

きれいな笑顔が周太を見つめてくる。
そんな顔されたら、黙っている事が悪いような気がしてくる。
美形は得だなと、こんなとき思わされる。
もういいや言ってやればいい。周太は真直ぐ見つめ返して、口を開いた。

「いつもかわいいとか言う宮田が悪い」

ぼそっと言って、周太は教本を開いた。たぶん耳まで赤くなっているだろう。
どうしてこうなってしまうのだろう。
教本を眺めても、頭に少しも入らない。もう何だかよく解らない。

どうしよう、こういう時はどうすればいいのだろう。
困り果てている周太の前に、静かにノートが差し出された。

「ここ、もう一回説明してくれ」

目をあげて宮田の顔を見た。いつものように微笑んでいる。
なんだか気が抜けて、周太はほっと息を吐いた。

「一回だけだからな」

素っ気なく言って、周太は微笑んだ。
いつものような穏やかな空気になった。
こんなふうに、なぜか宮田だと周太は寛げる。

関根達と話していても楽しかった。
けれどこういうふうには寛げない。
どうしてなのか解らないけれど、感覚の事は理屈では解けないのだろう。
こういうのは慣れていない。けれど結構、居心地良くていいかなと思う。



今日の風呂は広々使えて気持が良い。外泊日に残るのも悪くない。
宮田と並んでシャワーの前に座ると、ふっと昼間の事が気になった。
周太は口を開いた。

「宮田なんで不機嫌だった」
「え、」
「さっき、学習室で宮田なんか不機嫌だったろ」

宮田は笑った。

「たぶん嫉妬」

また変な事を言い出した。
どうしていつもこうなんだろう。
意外と真面目なんだなと最近は思うけれど、やっぱり宮田は馬鹿なのだろうか。

「宮田ってほんと馬鹿だよな」

呆れたように言って、周太はシャワーの湯を被った。
静かな浴室に、ふたりだけの声が響く。のんびりした他愛ない会話が、楽しいなと思える。
笑ってくれる隣がいるのは、なんだかほっとする。

不意に宮田が黙った。どうしたのだろう。
洗った髪を掻きあげながら、周太は振り返った。

「なに?」

いきなりシャワーの水量を全開にして、宮田は頭から水を被った。
ざばりと飛沫を周太は被ってしまった。

「…冷たいだろ」

宮田はたまに訳が解らない。
宮田自身は、解ってやっているのだろうか。
体が冷える前に、湯に浸かりたい。周太は立ち上がって浴槽に浸かった。





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