はなれない、約束を贈って
第37話 冬麗act.4―another,side story「陽はまた昇る」
夕食の支度を英二と光一に手伝われていると、ふる陽ざしが黄昏に変わった。
もうじき母が帰ってきてくれる、その事は嬉しいけれど「明日」が近づいてしまう。
明日の朝が来れば英二は奥多摩に戻る、そして自分は明日の夕方に新宿に戻るだろう。
…また離ればなれ、だね…
寂しい想いがこみあげて瞳の奥が熱くなってくる。
いま光一が隣に立って食事の支度をしている、それなのに泣く訳にはいかない。
自分が見ていた鍋の火を落とすと、周太はダイニングからホールへの扉を開いた。
「暗くなるから、カーテンとか閉めてくるね?…」
ふたりに笑いかけて、ステンドグラスの扉を閉じると周太は階段を上がった。
まず母の部屋のカーテンをとじる、それから洋室のカーテンをとじて、自室へと入った。
屋根裏部屋のカーテンを引いて下の部屋のカーテンを閉じかけて、そのまま周太はカーテンを抱きしめた。
「…っ、」
ちいさく吸った息に押されて、涙ひとつ零れた。
ほらまた泣いてしまう。23歳の男なのに、こんな泣き虫な自分は恥ずかしい。
けれどもう堪えきれなくて、また涙がこぼれて落ちた。
「…はなれたくない、な、」
ぽつり想いこぼれて、一緒に涙が頬を伝っていく。
どうして英二とは、こんなにも一緒にいたいのだろう?
ずっと13年間は孤独に籠って涙も閉じ込めていた、なのに本当は泣き虫のままでいる。
こんな泣き虫でも英二は好きだと笑ってくれる、あの笑顔に毎日ずっと逢いたい。
いつか本当に一緒に暮らせたら、そのとき自分はどんなに幸せだろう?
そっとカーテンを抱きこんで、やわらかなビロードに瞳を閉じた。
「…英二、」
ぽつんとこぼれた、愛する名前。
この名前を、毎日ずっと顔を見て呼べたら良いのに?
閉じた瞳に大好きな笑顔を見つめるうち、また唇から名前がこぼれた。
「英二、」
「はい、」
きれいな低い声がやさしく響いて、温もりが体をくるんでいく。
驚いて振向いた先きれいな笑顔が咲いて、長い腕がカーテンごと周太を抱きしめた。
「周太、カーテンは俺じゃないだろ?こっちを抱きしめて、」
名前を呼んだら来てくれた?
驚いて嬉しくて、素直に笑って周太は温かい懐に抱きついた。
やさしい懐から見上げると可笑しそうに微笑んでくれる、嬉しいまま周太は口を開いた。
「ね、どうして来てくれたの?…なまえ呼んだら、いてくれて…おどろいた、よ?」
「なんとなくね、泣いているかな?って気がしたから。戸締りも手伝いたかったし…ほら、泣かないで?」
やさしい唇が涙を拭ってくれる。
涙ぬぐう唇が、そっと唇に穏かなキスを贈って微笑んだ。
「泣き顔も可愛いね、周太は…困るよ?ほんとうに、」
「…どうして困るの?」
また英二を困らせている?
また自分が泣き虫だったから、いけなかった?
どうしようと見あげていると、きれいに笑って英二が告げてくれた。
「離せなくなるから、困るよ?明日は奥多摩に戻らないといけないのに…戻れなくなる。今も、」
やわらかに頼もしい腕が力こめて、抱きよせてくれる。
離れたくないのは自分だけじゃない、伝えられる想いが幸せで周太は微笑んだ。
「ん、離してほしくない…ね、つぎの週休のとき、逢ってくれる?」
―…改めてまた俺に時間を作ってくれるかな?
周太とふたりの時間は俺にとって大切なんだ。だからお願い聴いてほしいよ?
こんなふうに今朝のメールで告げてくれた。
この通りにしてくれる?願いながら見つめた黄昏そまる顔が、嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんだよ、周太」
幸せそうな笑顔が咲いてくれる。
今朝に送ってくれたメールの「お願い」通りに、英二は提案してくれた。
「3月の最初の土曜日、周太は大丈夫?」
「ん、だいじょうぶ…お節句だから、金曜から家に帰るつもり、なんだけど」
桃の節句だから、母に祝膳を整えてあげたい。
だから英二も一緒に祝膳に着いてくれたらいいな?
想い見あげた先で楽しそうに英二は笑ってくれた。
「じゃあ俺も一緒に帰りたいな?金曜、夜20時過ぎるけど、ここに帰ってきて良い?」
夜から帰ってきてくれる、そうしたら一緒に眠って貰える。
こんな約束は嬉しい、嬉しくて周太はきれいに笑った。
「ん、帰ってきて?ごはん作って、おふろ沸かして待ってるから…おふとんもほすから、」
やっぱり気恥ずかしくて言葉のトーンが変になってしまう。
きっといま顔も赤くなっている、それでも周太は幸せに笑った。
笑った額にやさしいキスふれて、きれいな笑顔が幸せに華やいでくれる。
「よかった、これを楽しみに俺、また頑張れるよ?」
「ん、…おれも、です」
こんなに短い答え。
けれど気恥ずかしくて首筋が熱くなってしまう。
そんな首筋にもキスがふれて、きれいな低い声がすこし切なげに囁いた。
「周太…その夜は、ふれたいよ?」
うれしい、けれど困ってしまう。
だって真赤になって熱りが納まってくれくなる。
けれど嬉しくて幸せで、赤い顔のまま素直に頷いた。
「ん、…はい、」
正直な想いと頷いて周太はすこし背伸びした。
そっと近づいた端正な顔が黄昏に微笑んでくれる。
きれいな切長い瞳に、今日いちばん華やかな陽のかけらが輝いていた。
きれいな陽のかけらを見つめて、周太は約束に微笑んだ。
「約束?」
「うん、約束だよ、周太、」
幸せに微笑んだ唇に穏かな温もりがふれてくれる。
想いふれるくちづけに、幸せな約束と一緒に唇を重ねた。
庭の門が開く軋む音に周太は微笑んだ。
きっと母が帰ってきてくれた、そう思っていると英二の手が止まった。
ふり向くと「ちょうどよかった」と微笑んで、胡桃の入ったすり鉢を周太に戻してくれる。
きれいに砕いてくれた胡桃が芳ばしい、前より上手だなと思いながら周太は微笑んだ。
「ありがとう、英二。すごく上手だね…母のお出迎え、してくれる?」
「うん。そのまま、お母さんとすこし話してきたいんだけれど、いいかな?」
きっとクライマー任官のことを母に報告するのだろう。
きちんと母に話してくれる英二の誠実さが嬉しい、素直に周太は微笑んだ。
「ん、話してきて?きっと、母も喜ぶから、」
「ありがとう、周太。…国村、俺、ちょっと行ってくるな、」
声かけられて光一は捌きかけの魚に最後の包丁を入れた。
それから振向いて細い目を温かに笑ませると、からり笑った。
「おう、ゆっくりしてきなね。その間は俺が、周太を独り占めさせて貰うからさ、」
「あんまり周太のこと、いじめるなよ?…じゃ周太、行ってくるよ」
リビングに置いてあった花束を抱きあげながら、きれいに英二に微笑んでくれる。
そして広やかな背中がオールドローズの香と玄関ホールへ出ると、すぐ玄関扉が開く音がした。
愉しげな母の声と嬉しそうな英二の声が温かい、なんだか幸せで微笑んだ周太を光一が覗きこんだ。
「さて、ドリアード?君の家に俺は、とうとう来ちゃったね?」
愉しげに笑いかけた雪白の顔が、すっと動いて周太の耳元にキスがふれた。
驚いて思わず一歩後ずさりながら、掌で耳元を周太は抑え込んだ。
「…っ、こういち?びっくりするよ?」
「ごめんね、ついキスしたくなっちゃった。堪え性のない、ワガママな俺を赦してね?」
からり笑うと光一は捌いた刺身を大皿に盛りつけ始めた。
こんなふうに光一は不意に行動するから驚かされて困ってしまう。
けれど光一はいつもの涼しい顔で、きれいな酒の肴を次々と整えていく。
こんな調子で落着きはらっている光一が、自分と同じ年でいる事がこういう時不思議になる。
しかも今日はどこか、いつもと違う感じがして緊張してしまう。
…でも、いつも通りだし。意識しすぎ、だね?
ふれられた場所の熱を気にしながらも、周太は掌を動かし始めた。
さっき英二が渡してくれた胡桃で鶏肉に衣をつけると、付合わせの根菜とオーブンに並べていく。
これはクリスマスの時にも作った献立になる、それを英二は「また食べたい」とリクエストしてくれた。
あとは食べる前にオーブンに火を入れればいい、これで周太の献立の支度は一通り終わりになる。
同じように仕度を終えた光一が、調理台を拭き上げながら周太に尋ねてくれた。
「いちばん大きいボールを貸してくれるかな?あと平たい大きめの笊、」
「ん、ちょっと待ってね、」
確かここに入っていたな?
記憶を辿りながら周太は調理台の扉を開いて覗き込んだ。
思った通りの場所に見つけて、さっと洗ってから周太は光一に手渡した。
「何か作ってくれるの?」
「うん、お土産を作るからね、」
底抜けに明るい目が愉しげに笑ってくれる。
なにが出来るのだろう?楽しみに見ていると光一は持ってきた袋の中身をボールに開けた。
あわい紫がかった粉に見覚えがある、首傾げながら周太は微笑んだ。
「ん、蕎麦だね?」
「正解、蕎麦粉を見たことあった?」
透明なテノールで愉しく答えながらも、白い掌は手際よく動いていく。
馴れた手捌きが楽しくて、配膳しながら周太は蕎麦打を眺めた。
こねあげた生地を摺りこぎ2本で器用に伸ばして、俎板と菜きり包丁で蕎麦に切っていく。
こんな作り方も出来るんだな?工夫に感心して周太は微笑んだ。
「すごいね、光一?家の道具でも出来るなんて」
「大袈裟な道具とかさ、めんどくさいだろ?だから俺、家でもコンナ感じで作るんだよね、」
打ち上げた蕎麦を平たい笊へと、きれいに一人前ずつ輪がねて並べてくれる。
手際の良さにすっかり見惚れながら、周太は楽しく眺めた。
「じょうずだね、…お店、開けるね」
「うん?だからさ、ばあちゃんの店、たまに俺も手伝うんだよね。また来てよ?」
「ん、ありがとう、」
話しながらも手を動かして、光一は台所をきれいに片づけてくれた。
ほんとうにプロのような手際の良さに感心していると、光一がリビングへと呼んでくれた。
「ほら、北岳の写真を見せてあげるよ、」
「あ、うれしいな…パソコン使う?」
訊きながら周太は書見用デスクに置かれたノートパソコンを開いた。
コンセントを繋いで準備が出来ると、光一がデスクの椅子に座ってセッティングしてくれる。
すぐにパソコンの画面いっぱいに、美しい雪山がひろやかに映りこんだ。
「…きれいだな、」
青と白の峻厳な世界の荘厳に、周太は瞳を大きくして微笑んだ。
聳えたつ白銀の雪壁を抱いた山は、まばゆい輝きに充ちて青藍のした高潔に佇んでいる。
気高い雪山の姿はどこまでも端正で、凛然とした佇まいが周太には慕わしい。
どこか懐かしいような雰囲気の山容を見つめてると、透明なテノールの声が教えてくれた。
「北岳はね、『哲人』っていう名前もあるんだ。ちょっと生真面目で思慮深い、高潔な雰囲気があるだろ?」
「ん、…哲人、」
哲学のひと。
たしかに似合う名前だと想える。
こんなふうに「山」は人にもどこか似ているな?
そんな想いと見つめていると、次に切り替わった画面に周太の瞳が大きくなった。
「…えいじ?」
真直ぐに遠くを見つめている端正な横顔。
凛とした視線は強靭な意志と、真摯な想いが輝いている。
よく知っている大好きな顔、けれど見たことのない貌が画面の中まばゆい。
「そ、宮田だよ。若き山ヤ、ってカンジだろ?…宮田はね、厳しい山に行くほど、イイ顔になるんだ、」
「ん、…なんか、わかるな?」
そうだろう、英二なら。
ほんとうなら英二は安楽な人生を選べた、けれど「山」を選んだ。
世田谷の恵まれた家に生まれて不自由なく英二は育った、けれど山ヤの警察官として奥多摩に生きることを選んだ。
美しくて険しい山の世界に生きる厳しさを、英二は心から愛している。この厳しさのなかで英二は刻々と輝きを増していく。
いま峻厳の山に英二は誇らかに生きている、そして今、こんなに綺麗な貌の英二を見ることが出来た。
…こういう貌、見たかった
生きる誇りを探している
初めて出逢った瞬間からずっと、切長い瞳は周太に問いかけていた。
ほんとうは素顔のまま生きたい、生きる誇りを見つけたい。その願いを問いかけていた。
その願いは今もう叶えられ始めている。
…ね、英二?ほんとうに、この道が英二の立つべき場所、なんだね?
生きる誇りを見つめる、誇らかで高潔な横顔。
この姿を見ることを、ずっと自分は望んでいた。それが今こうして見れた。
こんな貌の人が自分を愛し隣に帰ってきてくれる、心から幸せで周太は微笑んだ。
「ん、…こういう貌の英二をね、ずっと見たかったんだ。ありがとう、光一」
「願いを叶えてあげられたね、よかった」
底抜けに明るい目が、幸せそうに笑ってくれる。
温かな眼差しで周太を真直ぐ見つめながら、透明なテノールの声が微笑んだ。
「こんなふうに俺はね、君の願いは叶えるよ?だからさ、俺が宮田を最高峰へ連れて行っても、嫌いにならないでよ?」
嫌いにならないで。
つきんと心が刺されて、途端に罪悪感がこみあげてくる。
やっぱり光一は周太の嫉妬や羨望に気がついていた、きっと気づいて哀しんでいた。
それが今日ずっと感じている、どこかいつもと違う光一への違和感の正体なのだろう。
こんなふうに写真を撮って光一は、周太の英二への想いを受けとめて、願いを叶えてくれている。
なのに子供っぽい嫉妬に捉われていた自分が恥ずかしい、赤くなりながら素直に周太は頷いた。
「ん、嫌いにならないよ?羨ましかったんだ…誰も来れない所に、ふたりきりでいられて、いいなって…傷つけて、ごめんなさい」
こんな嫉妬の告白は恥ずかしい。
けれど正直に謝れると心がひとつ明るくなれる。
恥ずかしさで顔が熱い、きっと真赤になっている。それでも周太は光一に笑いかけた。
「これからもね、英二のこと、お願いしていい?…でね、また写真、撮ったら見せてくれる?」
「うん、いいよ。君のお願いは叶えるよ、ドリアード?」
底抜けに明るい目が、嬉しそうに笑ってくれた。
愉しげに笑いながら雪白の顔が動いて、周太の耳元に唇でふれると微笑んだ。
「…っ、」
また驚いて周太は掌で耳元を押さえこんで光一を見た。
呼吸を忘れて見つめる秀麗な顔が愉快に笑って、白い指で唇を示し微笑んだ。
「これで今日は2度目だね、ドリアード?これでもさ、俺なりの我慢の結果だから赦してよ。
でさ、俺も宮田のこと大好きなんだよね。しかもね、君がびっくりする顔も、拗ねた顔も好きなんだ。だから取りっこも許してよ?」
光一なりの我慢の結果。
その意味をたぶん自分は解かっている、それを想うと哀しくなる。
けれど、哀しまれることを光一は決して望まないだろう。
哀しみ1つ呑みこんで、周太はきれいに笑った。
「ん、わかった。仕方ないから、赦してあげる。でも、…今日ほんとうは英二のこと、独り占めしたいんだけど?」
「そのお願いは難しいね。俺も聖人君子じゃないからさ、あんな別嬪がいるとね、いつだって手出ししたくなるんだよね、」
からり明るく笑って光一は、持って来た用紙をプリンターにセットした。
そして出来上がった英二の写真を周太に渡してくれながら、英二の横顔を示して微笑んだ。
「で、ちょっと似てるだろ?これと、」
言いながら、もう1枚の写真を周太に渡してくれる。
そこには銀砂の夜空に聳えたつ白銀の北岳が、まばゆい高潔に佇んでいた。
星輝く濃藍に銀いろ華やぐ山容は、厳然としながら清明な高雅が美しい。
この厳麗に艶やかな「哲人」の姿に周太は微笑んだ。
「ん、英二と似てるね?」
「だろ?高潔な『哲人』なんてさ、ストイック宮田っぽいよね、」
この2枚の写真は宝物にしよう。
そう決めながら周太は光一にお願いをした。
「ね、この2枚の写真、カードサイズにも作ってくれる?」
「うん?持ち歩きたいんだね、いいよ、」
気さくに笑って光一は焼き増ししてくれる。
すぐ出来上がって受けとると、周太は幸せに微笑んだ。
「ありがとう、光一。4枚とも、大切にするね?」
「うん、大切にしてね?この2つの写真はさ、俺の傑作だろうからね、」
愉しそうに笑いながらパソコンを片づけてくれる。
カメラも元通りケースにしまうと、袖を捲りながら光一は笑ってくれた。
「さて、そろそろ夕飯を仕上げた方が良いね?でさ、蕎麦は出すまで内緒だよ、驚かせたいからね、」
「ん、わかった、」
頷きながら周太は、捲った袖から露になった光一の腕を見た。
なめらかな雪白の肌理はこまやかで美しい、こんな綺麗な肌も珍しいだろう。
こんな美貌で英二の隣にいられると、やっぱり嫉妬してしまいそう。
なんだか申し訳なくて困りながら周太は台所に入った。
周太が支度しておいた品と光一が即興で作った料理が、ダイニングテーブルいっぱいに並んだ。
光一の手料理はいなり寿司と牡丹餅に、焚火の料理を御岳でご馳走になっている。
今夜の膳には酒の肴にもなる惣菜を数品と、きれいな刺身を作ってくれた。
どれも和食をベースに上手な工夫が凝らされている、刺身も旬の甘鯛を一本から卸して作ってくれた。
このアラを使って周太が準備しておいた出汁と合わせてくれた吸物も美味しい。
…光一って、料理でも、すごいな
ほんとうは周太は、料理はちょっとだけ自信があった。
ちいさい頃から母の手伝いが好きだったけれど、父が亡くなって母が元の職場に復帰してから主夫は周太になっている。
しかも母は滅多に外食をしなくなった。仕事が忙しい所為もあるだろうけれど、昼も弁当を持って行く。
そんな母にすこしでも美味しいものを食べてほしくて、周太はテレビや本で料理の研究をした。
書店で料理の本を買うと「男の癖に」とまた言わそうだけれど、母の喜ぶ顔を想うと気にならない。
元から母や父に教わった料理の基礎は昔ながらの丁寧なものだし、たぶん自分の料理は美味しい方だと思っていた。
けれど光一も祖母が店を持っているだけあって、玄人の腕前でいる。
美味しいなと素直に感心しながらも、周太は英二の反応が気になって訊いてみた。
「ね、英二?今夜はね、どれがいちばんおいしい?」
周太の質問に切長い目が笑いかけてくれる。
すこし膳の上を眺めると、きれいな低い声が答えてくれた。
「鶏の胡桃焼かな?あとは肉じゃが。ごはん食べたくなるな?」
どれもおいしいよ?
いつもなら最初にこれを言うけれど、今夜の英二は言わなかった。
きっと今夜は光一の手料理があるから「どれも」と言わないでくれた。
いつもながら優しい英二の気遣いが嬉しい、嬉しい想いに微笑ながら周太は掌を伸ばした。
「ん、たくさん炊いてあるから…おかわりする?」
「うん、お願いできるかな?」
そんな調子で英二はごはんを7杯食べてくれた。
最後に光一の蕎麦と作っておいた苺コンポートとアイスを楽しんで、食事を終えると周太は風呂を整えた。
食事の途中で沸かし始めたから、ちょうどよく湯の準備が出来ている。
きれいなタオルを仕度してから周太は、お客の光一から風呂を勧めた。
「ちょっと古い造りなんだけど、掃除はきちんとしてるから、」
「なんか良い風呂だって、宮田に聴いたよ?」
浴室へと案内して周太は風呂とシャワーの使い方を説明した。
藍模様と真白なタイル張りの浴室は、この家が建てられた時からほとんど変わらない。
さすがに給湯のシステム自体は新しいけれど、蛇口とシャワーの栓が昔ながらの方式になっている。
そんな説明を一通り終えて周太がふり向くと、もう光一は上半身の服を脱ぎ終わっていた。
「…っ、なんでもうはだかなの?」
「うん?」
驚いて周太が訊くと、不思議そうに光一は首を傾げこんだ。
ランプに美しい雪白の首筋を晒しながら、いつもの調子で光一は笑った。
「説明を聴きながらでもね、服は脱げるだろ?」
なんか拙かったのかな?そんなふうに細い目が周太を見てくる。
拙いことは無いけれど、光一の姿が綺麗で周太は途惑ってしまった。
…こんなに綺麗な肌、なんか困る
雪白まばゆい肌は、どこか人間離れに美しい。
艶やかな黒髪がさらりふる顔も、素肌だと殊更に白と黒が際だって鮮やかだった。
繊細で明るい貌は無垢のまま、透明な細い瞳がランプの光を灯しながら周太を見つめている。
惜しみなく素肌を晒す体は細身でも強靭で、端正な筋肉が雪白の肌に美しかった。
…きれいだな、
こんな綺麗な姿を見て、なにも想わない人は少ないだろうな?
でも英二や藤岡は光一と同じ青梅署独身寮にいる、風呂で一緒になることもあるだろう。
けれど2人とも特に何も言わない、やっぱりじぶんがえっちだから考えすぎるだけ?
なんだか目のやり場に困ってしまう、緊張しながら周太は浴室から洗面室に出た。
そんな周太に付いてくる透明なテノールの声が、思ったまま説明してくれる。
「だってね、周太?さっさと俺が風呂を済まさないとさ、後がつかえて困るだろ?
でも、俺は長風呂好きなんだ。しかも良い風呂だね、ここ。少しでも早く入りたいから、さっさと脱がせてもらったよ?」
話しながらも白い指は、もうカラーパンツからベルトを抜きはじめている。
確かに言う通りでもあるけれど、こんな綺麗な体だと逆に目のやり場に困ってしまう。
わりと光一はせっかちな性質なのだろうか?
そんなことを思いながら周太はタオルの場所を指さした。
「あの、タオルここだから…この籠、服とか入れるのに使ってね?じゃ、ごゆっくり…」
言いながら周太は踵を返しかけた。
その背中から白い腕が伸びて、がっしり周太は抱きこまれた。
「周太、なんでさっきから、俺から目を逸らす?…見るのも嫌、なワケ?」
訊いてくれる透明なテノールの声が、どこか哀しい。
ニットの背ふれてくる鼓動がすこし早い、心を直接ノックするような心音がなにか痛い。
驚いて声を詰まらせていると、肩越から頬寄せられて水仙のような香がふれあった。
「そんなに周太、俺のこと、邪魔?…俺のこと、殺そうとしたくらい、だもんね、」
落着いているテノールの声は透明で、けれど哀しい響きが隠せない。
背中から抱きしめてくる、白い腕の力が強くて身動き出来ない。
なにより背中ふれる鼓動の、哀しい速さに心ごと動けない。
こんな自分の態度が光一を傷つけた、詰まる声を押し出そうと周太は口を開いた。
「…っ、ちがう、よ?」
声、出てくれた。
どうかお願い、このまま正直に伝えたい。
「ちがうよ、光一、邪魔じゃない。誤解させて、ごめんね…ほんとうに、好きだよ?」
ちいさな掠れる声、それでも想いが伝えられる。
懸命に想いを告げて、それでも哀しいままテノールの声が微笑んだ。
「でも、忘れてた、俺のこと…そして、殺そうとしたね、…宮田のためなら、俺は死んで…いいんだろ?」
忘れられた光一の14年間の孤独。
その孤独の涯に周太が報いた最初は「銃口を向ける」だった。
それでも光一は笑って許してくれた、けれど本当は傷ついている。
…傷ついて、当たり前だ…忘れるほど弱い、自分の所為で…
どうしたらこの罪を償える?
こんなに美しい人を自分は傷つけた。
あの幼い日に「自分は『変』だから好かれず独りぼっちになる」と悩んでいた自分。
そんな自分に「好きだ」と微笑んで希望を贈ってくれた、この人を今、どうしたら自分は癒せるだろう?
…正直に話せばいい、
今日も書斎で父に話した通り、正直に向き合って「今」を大切にしたい。
ほんとうに心から大切にしたいなら、偽りは通用しない。
ひとつ呼吸して周太は、穏かに口を開いた。
「生きていてほしい、光一には…だってね、俺にとって光一は、ほんとうに大切な人だから。
あの雪の森で、初めて出逢ったとき。俺が質問したこと、覚えてる?…テディベアが好きな男は、変じゃないか、って、」
ふれる頬に、温かい雫がひとつ零れてとける。
テノールの声がすこし笑って、低く囁くよう答えてくれた。
「俺はクマも好きだ、って答えたね?ずっと覚えてる、君の言ったこと全部…だから、俺…雲取のクマに、小十郎って名前つけた」
「ツキノワグマに、小十郎の名前を?」
すこし驚いて周太は瞳だけ動かして光一を見た。
肩越し頬寄せる雪白の顔も、きれいな細い瞳を動かして周太を見つめてくれる。
「そうだよ。君と出逢った次の次の春にね、生まれたクマだよ?…宮田も、秋に会っている。
こんど13歳になるクマだ…君の小十郎を覚えていたから、俺もね?自分の友達になったクマに、同じ名前付けたんだ、」
明るいままの瞳から、きれいな涙がこぼれて周太の頬にとけこんでいく。
こんなに光一は自分を待ってくれていた、その想いが切なくて痛い。
それでも周太は微笑んで、言葉を続けた。
「ありがとう、光一。すごく、うれしいよ?…あのときも俺、うれしかった、ほんとうに。
あの頃の俺はね、「男のくせに変だ」って言われることが多くて…花とかケーキとか、料理が好きって言うと、ね?
それでね、両親以外と話すことが怖くなってて…でも、光一が受けとめてくれた。だから俺、人と話すことがね、出来たんだ」
なつかしい記憶の哀しみと喜びが今も温かい。
こんな大切なことを自分は13年間ずっと眠らせていた、こんなに弱い自分が赦せない。
だから今から少しでも強くなりたい、素直に微笑んで周太は正直に言った。
「あのとき俺、心から光一を大好きになった。また逢いたくて、もっと話したかった。
あれから毎日、庭の山桜の下で空を見て、アーモンドチョコ食べて…光一に逢えること楽しみに待ってた。
それなのに…忘れていて、ごめんなさい…光一に逢いにね、父と一緒に行く約束だったんだ、それで…それで、
俺ね、小十郎のこともずっと、忘れていたんだ…このあいだ、光一の記憶が戻って、それで…やっと思い出せたんだ」
正直な想いと一緒に涙ひとつ零れて、微笑んだ頬を伝っていく。
その涙を細い目が泣きながら見つめて、涙に白い頬よせてくれた。
「俺のこと、本当に好きでいてくれたんだ?…でも、オヤジさんとの約束だったから…ショックで、記憶ごと俺は眠ったんだね?」
「ん、そうなんだ…俺が弱かったんだ、俺が、もうすこし強かったら良かった…ごめんなさい、光一。ほんとうに、ごめんね、」
もしあのとき忘れなかったら?
今日の午後も書斎で思いめぐらした「もし」が痛い。
けれど今もう過ぎ去った時間は戻らない、微笑んで周太は正直な想いを告げた。
「今も光一のこと、好きだよ?でも英二とは違う好きなんだ…それに、英二のことで光一には嫉妬もする。
光一は、英二と一緒に最高峰に行ける。それが、やっぱり羨ましいから嫉妬しちゃうんだ…でも、光一のこと大切なんだ。
あのとき、銃口を向けたこと…ほんとうにね、後悔してる。俺の所為で、光一にまで罪を負わせて…後悔してる。
どうしたら償えるんだろう、って、ずっと考えてる。光一を忘れたこと、光一に銃を向けたこと、罪を負わせたこと。
そしてね、どうしたら光一に、幸せに笑って貰えるだろう、って考えるよ?…英二とは違う方法だけど、それをね、探してる」
これが正直な自分の想い。
英二のように愛することは難しい、けれど大切に想う気持ちも本当。
こんなの狡いかもしれない、けれど本音を偽れば逆に相手を傷つけてしまう。
まして光一は人間の本性も本音も真直ぐ見抜く、だから今も周太を掴まえて訊き出そうとしている。
だからこそ、周太を掴まえる白い腕はこうして力をゆるめない。
「罪を負わせてもらったことはね、気にすること無いよ?周太、」
テノールの声が低く笑っている。
背中に伝わる早い鼓動のままに光一が微笑んだ。
「あれはね、俺にとったらアンザイレンのザイルのようなモンだ。俺にとっちゃ好都合だよ?
君の罪を俺が被ればね、やさしい君は俺への罪悪感に悩まずにいられない。そして今も、そう言ったね?
これで君は、もう2度と俺のこと忘れられないはずだ。俺は君の初恋相手、そのうえ君の罪を背負った男だよ。
そして俺は君の婚約者のパートナーだ、生涯ずっと、公私ともにね…もう君は絶対に俺を忘れない。ほんとに、俺の願った通りだ、」
透明なテノールが本音に笑っている。
底抜けに明るい目が、周太の肩越に覗きこんで大らかに微笑んだ。
「俺は確信犯なんだ。偶然のように起きたことも俺は全部、利用する。そして君を掴まえてるよ。
君を愛している、君の笑顔が見られるなら何だってするよ?だから、君から離れろと言う願いだけは聴かない。
もう忘れられたくない。たとえ独占め出来ないと解っていても、俺はもう君から離れない。あの14年間の孤独は繰り返さない、」
もし、光一が諦められるなら。きっと14年の間にとっくに諦めていた。
いまも周太は、光一の大切なアンザイレンパートナーの婚約者としてここに居る。
それでも光一は抱きしめて、この今も周太の本音を掴まえようと掴んで逃がさない。
こうなのだろうと解ってはいた。けれど今、こうしてぶつけられる想いが痛い。
ちいさな溜息を心に見つめて、そっと周太は尋ねた。
「…もし俺が、光一が傍にいることに頷いたら。それが、償いになる?」
ことん、大きく背中ごし1つ鼓動が跳ねた。
けれど透明なテノールの声はいつものように微笑んだ。
「たとえ君が拒絶しても、関係ない。わがままな俺だからね、好きにするよ?…嫌われても、ね」
もう光一の想いから逃げられない。
そしてこのことを、英二はもう光一と話して知っている。
だから英二は婉曲に「光一の想いを一度は叶えてほしい」と伝えてくる。
こんなふうに英二は光一の想いごと、大らかに周太を愛し受けとめてくれている。
そんな英二だから尚更に自分は愛してしまう、想い素直に周太は微笑んだ。
「俺はね、英二を愛してる、ずっと傍にいたい…それでも良いなら、光一、傍にいて?
光一はね、恩人で、大切な初恋のひとだよ?ほんとうに、大好きなんだ…英二とは違うよ、でも、嫌いになんてなれないよ?」
抱き締める腕の力はゆるめずに、それでも明るい目が哀しげに周太を見つめてくる。
哀しい気配を隠さないまま、透明なテノールが真直ぐ問いかけた。
「じゃあ、なぜ?嫌いじゃないなら、なぜ、俺から目を逸らした?」
すこし鼓動がゆるくなる、けれど腕の力はゆるめずに抱きしめていく。
ふれてくる肌がまばゆくて、水仙のような香が透明にあまくて、息が詰まりそうになる。
それでも周太は心裡ひとつ呼吸して、気恥ずかしさにも口を開いた。
「あのね…光一がね、あんまり綺麗だから、その…きはずかしくてみれなかった、はだかなんだもんこういち、」
恥ずかしさに首筋から熱くなる、もう真赤だろう。
こんなこと本当に困ってしまう、どうしたらいいのだろう?
こんなことで困っている自分はきっと、ほんとうにえっちなんだ?
そう思うほどまた赤くなって困っていると、心底から愉しそうにテノールの声が笑ってくれた。
「なんだ、周太?俺のはだか見てさ、欲情しそうで恥ずかしがってくれた、ってワケ?」
どうしてこのひとっていつもこうなの?
並べられた言葉が恥ずかしい、けれど愉しそうな声になってくれたのは嬉しい。
でも本当に困ってしまう、困りながら周太は真赤な顔で素直に頷いた。
「恥ずかしいよ?…でもよくじょうとかはわかんない…でも、気恥ずかしくて困るよ…ね、離してよ?」
「嫌だね、」
あっさり断って光一は周太を抱きしめた。
端麗な白い肌からふれる鼓動が早い、ふれる頬を離さないで透明なテノールの声が微笑んだ。
「俺の体にも周太、惹かれてくれるんだ?…期待したくなっちゃうね、」
「期待?」
なんの期待だろう?
思わず訊きかえした周太に、可笑しそうに笑いながら頬寄せてくる。
愉しげに光一は周太の耳元にキスをすると、ようやく腕をほどいて離してくれた。
「これで今日は3度目だね?今日はね、マジでイイ日だよ。俺にとっては、ね」
いつもの底抜けに明るい目が笑ってくれる。
いつも通りの光一にほっとしながら、周太は熱い耳元を掌で撫でた。
「ん、そうなの?」
「そうだよ。さて、今から俺、下も全部脱ぐよ?コッチも綺麗だけどさ、周太、見ていく?」
悪戯っ子に細い目を笑ませて、光一は白い指をウェストのボタンにかけた。
そんな子供みたいな悪戯っ子の表情が、なんだか可愛くて周太は赤い顔のまま笑った。
「えんりょします、おふろゆっくりね?」
洗面室の廊下にでると、ぱたんと扉を閉じて息を吐いた。
さっきここを開いて入った時は、こんなことになるなんて思わなかった。
ぼんやりしそうな頭をひとつ振ると、周太はスリッパの足を踏出した。
その途端、ふっと水仙に似た香があまく昇って周太は立ち止まった。
光一の香が移ってしまった?
こんな残り香には途惑ってしまう。
すこし考えて周太は踵を返すと、階段を昇って自室の扉を開いた。
そのままバルコニーの窓を開いて外へ出ると、大きく深呼吸に空を仰いだ。
「…今夜、英二、一緒に寝てくれるかな?」
見あげる夜空の星に、ぽつんと独り言がこぼれ落ちた。
ほんとうに今夜はひとりにしないでほしい、英二に一緒にいてほしい。
そんな想いで吹かれていく夜の風は、庭に咲く花の香を誘ってくれる。
やさしい山茶花、華やかな冬ばら、夜梅の香。
早春の香こめた夜風の冷気は、熱る頬をゆるやかに撫でていった。
着替の準備を持って階段を降りかけると、ホールに扉が閉じる音が響いた。
廊下から階段を足音が昇ってくる、母と違う足音は英二、それとも光一だろうか?
思いながら階段を降りていくと、踊場のところで光一に笑いかけられた。
「良い風呂だったよ、ありがとね」
さっきの後だから緊張しそうになってしまう。
たぶん首筋が赤くなっている、それでも周太は微笑んで見上げた。
「ん、気に入って貰えたなら良かった…英二、入ったところ?」
「うん、いま入ったよ。ほんとは覗きに行きたいけどね、さすがに今日は遠慮するよ、」
今日は。って言った?
ちょっと頭がショートしかけながらも周太は訊いた。
「あの、今日は、って、どういう意味?」
「そのまんまだけど?」
底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑い出している。
笑いながら愉しげにテノールの声が教えてくれた。
「いつも寮ではね、宮田と一緒に風呂に入ってるんだよ。まさに水も滴る別嬪でさ、癖になっちゃって」
このひといつもなにしてるの?
嫉妬もさすがに起きてきそう、けれど何を言えばいいのかも解らない。
ぼんやり見上げていると、あかるい細い目が笑んで周太の瞳を覗きこんだ。
「ほんとはね、君と一緒に入りたいけどさ、」
さらりと言うと光一は「部屋にいるよ、」と笑って行ってしまった。
いま何て言われたのだろう?途惑うまま周太は階段に座りこんだ。
なんだか光一に振り回されている、あれは本音なのだろうか?
それとも転がして楽しんでいるだけ?
「…転がしているだけ、かな?」
さっき洗面室での光一は真剣だった。
けれど今の光一は冗談を言っているようにも見える。
なんだかよく解らない、ほっと溜息を吐いて周太は立ちあがった。
階段を降りてリビングに入ると、ソファで寛いでいた母が微笑んだ。
「周、ホットミルク飲む?いま作ろうかなって思って」
「ん、飲みたいな?」
温かいミルクをマグカップに注いでもらって、リビングの安楽椅子に周太は座りこんだ。
ゆっくり飲むと温もりが体をことんと落ちていく、ほっと息つくと母が笑いかけてくれた。
「光一くん、素敵で、不思議だね?」
「ん、…不思議だね、光一は」
本当にそうだと思う。
素直に頷いた周太に、穏かな黒目がちの瞳が微笑んだ。
「周太のこと、ほんとうに好きなのね、光一くんも」
穏やかな声が告げてくれる。
母の目から見て、そうなのだろうか?
首筋に熱が昇るのを感じながら、周太は黒目がちの瞳を見つめた。
「ん、…俺も好きだよ?でも…英二とはね、やっぱり違うなって思う…」
「そっか。お母さんも、光一くん好きだよ?」
ひとくちマグカップに口付けて、ほっと息吐いた。
穏かに周太を見つけながら、母は微笑んで言葉を続けてくれた。
「英二くんね、さっき2階のホールで全て話してくれたの。周とのことも、」
「…そうだったの?」
帰ってきてすぐ母は英二とふたり話していた。
周太からも母には話してあることだろう、それを英二もきちんと話してくれた。
こんなふうに真摯に母とも接してくれる、そんな英二が周太には嬉しかった。
嬉しくて微笑んだ周太に、母も嬉しそうに笑いかけてくれた。
「また大人になったね、英二くん。そして素敵になった、でしょう?」
「ん、そう思うよ?」
きちんと母も英二を見てくれている、それが嬉しくて周太はきれいに笑った。
楽しそうに母も笑ってくれながら、明るく微笑んで話してくれる。
「英二くんね、春になったら奥多摩に来て、って誘ってくれたのよ。山に行きましょう、って」
「ん、いいね?…4月だね、きっと」
「そうね。桜が咲いているかな?」
そんなふうに話していると、洗面室の扉が開く音が聞こえた。
それからリビングの扉が開いて、大好きな笑顔が覗きこんでくれた。
「お先に風呂、すみませんでした。国村は上ですか?」
「ええ、おやすみなさい、って声かけてくれたわ」
「じゃあ俺も、上に行かせてもらいますね?おやすみなさい、お母さん」
「はい、おやすみなさい、」
きれいな笑顔で英二は笑いかけて、周太に「またあとでね」と微笑んでくれた。
さっきの洗面室での光一のことを、英二は聴いて受けとめてくれるのだろうか?
今夜は一緒に寝てくれるのかな?そんなことを考えながら、周太は母に訊いた。
「ね、お母さん?…お客様用ふとん、2枚、敷いたでしょ?」
「今夜はね、そのほうがいいでしょう?」
悪戯っ子に黒目がちの瞳が笑っている。
これ以上へたなことは言わない方が良いな?周太はマグカップからミルクと一緒に言葉を飲みこんだ。
そんな息子を見ながら母は、悪戯っ子な目のまま口を開いた。
「ね、周?3月の最初の金曜日はね、お母さん、帰りは翌お昼です」
「え、…だって土曜日はお節句なのに。英二も金曜の夜からね、帰ってきてくれるよ?」
驚いて周太は母に問いかけた。
けれど母は悪戯っぽく笑いながら教えてくれた。
「うん、英二くんにも聴いたわ。土曜のお昼には戻るね?
今年はね、お節句の前夜祭しよう、って、いつもの温泉のお友達と、もう約束しちゃったの。行ってきていいかな?」
いつもの「温泉のお友達」は母の会社の同期のひとで、ずっと母は親しくしている。
結婚して職場から離れていた間も親しくて、ちいさい頃に周太も会ったことがある人だった。
その人との大切な約束をダメだとは言えない、すこし寂しく想いながらも周太は素直に頷いた。
「ん、いいよ?楽しんできてね…そのひと、お昼にお招きする?」
「周と英二くんが良いんなら、声かけちゃおうかな?…ね、周。明日の朝のことなんだけど、」
愉しそうに母が笑って明日の朝の提案をしてくれる。
この提案は周太にとって気恥ずかしい、けれど楽しんでもらえるだろうか?
そう思って周太は母の提案を手伝うことにした。
(to be continued)
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第37話 冬麗act.4―another,side story「陽はまた昇る」
夕食の支度を英二と光一に手伝われていると、ふる陽ざしが黄昏に変わった。
もうじき母が帰ってきてくれる、その事は嬉しいけれど「明日」が近づいてしまう。
明日の朝が来れば英二は奥多摩に戻る、そして自分は明日の夕方に新宿に戻るだろう。
…また離ればなれ、だね…
寂しい想いがこみあげて瞳の奥が熱くなってくる。
いま光一が隣に立って食事の支度をしている、それなのに泣く訳にはいかない。
自分が見ていた鍋の火を落とすと、周太はダイニングからホールへの扉を開いた。
「暗くなるから、カーテンとか閉めてくるね?…」
ふたりに笑いかけて、ステンドグラスの扉を閉じると周太は階段を上がった。
まず母の部屋のカーテンをとじる、それから洋室のカーテンをとじて、自室へと入った。
屋根裏部屋のカーテンを引いて下の部屋のカーテンを閉じかけて、そのまま周太はカーテンを抱きしめた。
「…っ、」
ちいさく吸った息に押されて、涙ひとつ零れた。
ほらまた泣いてしまう。23歳の男なのに、こんな泣き虫な自分は恥ずかしい。
けれどもう堪えきれなくて、また涙がこぼれて落ちた。
「…はなれたくない、な、」
ぽつり想いこぼれて、一緒に涙が頬を伝っていく。
どうして英二とは、こんなにも一緒にいたいのだろう?
ずっと13年間は孤独に籠って涙も閉じ込めていた、なのに本当は泣き虫のままでいる。
こんな泣き虫でも英二は好きだと笑ってくれる、あの笑顔に毎日ずっと逢いたい。
いつか本当に一緒に暮らせたら、そのとき自分はどんなに幸せだろう?
そっとカーテンを抱きこんで、やわらかなビロードに瞳を閉じた。
「…英二、」
ぽつんとこぼれた、愛する名前。
この名前を、毎日ずっと顔を見て呼べたら良いのに?
閉じた瞳に大好きな笑顔を見つめるうち、また唇から名前がこぼれた。
「英二、」
「はい、」
きれいな低い声がやさしく響いて、温もりが体をくるんでいく。
驚いて振向いた先きれいな笑顔が咲いて、長い腕がカーテンごと周太を抱きしめた。
「周太、カーテンは俺じゃないだろ?こっちを抱きしめて、」
名前を呼んだら来てくれた?
驚いて嬉しくて、素直に笑って周太は温かい懐に抱きついた。
やさしい懐から見上げると可笑しそうに微笑んでくれる、嬉しいまま周太は口を開いた。
「ね、どうして来てくれたの?…なまえ呼んだら、いてくれて…おどろいた、よ?」
「なんとなくね、泣いているかな?って気がしたから。戸締りも手伝いたかったし…ほら、泣かないで?」
やさしい唇が涙を拭ってくれる。
涙ぬぐう唇が、そっと唇に穏かなキスを贈って微笑んだ。
「泣き顔も可愛いね、周太は…困るよ?ほんとうに、」
「…どうして困るの?」
また英二を困らせている?
また自分が泣き虫だったから、いけなかった?
どうしようと見あげていると、きれいに笑って英二が告げてくれた。
「離せなくなるから、困るよ?明日は奥多摩に戻らないといけないのに…戻れなくなる。今も、」
やわらかに頼もしい腕が力こめて、抱きよせてくれる。
離れたくないのは自分だけじゃない、伝えられる想いが幸せで周太は微笑んだ。
「ん、離してほしくない…ね、つぎの週休のとき、逢ってくれる?」
―…改めてまた俺に時間を作ってくれるかな?
周太とふたりの時間は俺にとって大切なんだ。だからお願い聴いてほしいよ?
こんなふうに今朝のメールで告げてくれた。
この通りにしてくれる?願いながら見つめた黄昏そまる顔が、嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんだよ、周太」
幸せそうな笑顔が咲いてくれる。
今朝に送ってくれたメールの「お願い」通りに、英二は提案してくれた。
「3月の最初の土曜日、周太は大丈夫?」
「ん、だいじょうぶ…お節句だから、金曜から家に帰るつもり、なんだけど」
桃の節句だから、母に祝膳を整えてあげたい。
だから英二も一緒に祝膳に着いてくれたらいいな?
想い見あげた先で楽しそうに英二は笑ってくれた。
「じゃあ俺も一緒に帰りたいな?金曜、夜20時過ぎるけど、ここに帰ってきて良い?」
夜から帰ってきてくれる、そうしたら一緒に眠って貰える。
こんな約束は嬉しい、嬉しくて周太はきれいに笑った。
「ん、帰ってきて?ごはん作って、おふろ沸かして待ってるから…おふとんもほすから、」
やっぱり気恥ずかしくて言葉のトーンが変になってしまう。
きっといま顔も赤くなっている、それでも周太は幸せに笑った。
笑った額にやさしいキスふれて、きれいな笑顔が幸せに華やいでくれる。
「よかった、これを楽しみに俺、また頑張れるよ?」
「ん、…おれも、です」
こんなに短い答え。
けれど気恥ずかしくて首筋が熱くなってしまう。
そんな首筋にもキスがふれて、きれいな低い声がすこし切なげに囁いた。
「周太…その夜は、ふれたいよ?」
うれしい、けれど困ってしまう。
だって真赤になって熱りが納まってくれくなる。
けれど嬉しくて幸せで、赤い顔のまま素直に頷いた。
「ん、…はい、」
正直な想いと頷いて周太はすこし背伸びした。
そっと近づいた端正な顔が黄昏に微笑んでくれる。
きれいな切長い瞳に、今日いちばん華やかな陽のかけらが輝いていた。
きれいな陽のかけらを見つめて、周太は約束に微笑んだ。
「約束?」
「うん、約束だよ、周太、」
幸せに微笑んだ唇に穏かな温もりがふれてくれる。
想いふれるくちづけに、幸せな約束と一緒に唇を重ねた。
庭の門が開く軋む音に周太は微笑んだ。
きっと母が帰ってきてくれた、そう思っていると英二の手が止まった。
ふり向くと「ちょうどよかった」と微笑んで、胡桃の入ったすり鉢を周太に戻してくれる。
きれいに砕いてくれた胡桃が芳ばしい、前より上手だなと思いながら周太は微笑んだ。
「ありがとう、英二。すごく上手だね…母のお出迎え、してくれる?」
「うん。そのまま、お母さんとすこし話してきたいんだけれど、いいかな?」
きっとクライマー任官のことを母に報告するのだろう。
きちんと母に話してくれる英二の誠実さが嬉しい、素直に周太は微笑んだ。
「ん、話してきて?きっと、母も喜ぶから、」
「ありがとう、周太。…国村、俺、ちょっと行ってくるな、」
声かけられて光一は捌きかけの魚に最後の包丁を入れた。
それから振向いて細い目を温かに笑ませると、からり笑った。
「おう、ゆっくりしてきなね。その間は俺が、周太を独り占めさせて貰うからさ、」
「あんまり周太のこと、いじめるなよ?…じゃ周太、行ってくるよ」
リビングに置いてあった花束を抱きあげながら、きれいに英二に微笑んでくれる。
そして広やかな背中がオールドローズの香と玄関ホールへ出ると、すぐ玄関扉が開く音がした。
愉しげな母の声と嬉しそうな英二の声が温かい、なんだか幸せで微笑んだ周太を光一が覗きこんだ。
「さて、ドリアード?君の家に俺は、とうとう来ちゃったね?」
愉しげに笑いかけた雪白の顔が、すっと動いて周太の耳元にキスがふれた。
驚いて思わず一歩後ずさりながら、掌で耳元を周太は抑え込んだ。
「…っ、こういち?びっくりするよ?」
「ごめんね、ついキスしたくなっちゃった。堪え性のない、ワガママな俺を赦してね?」
からり笑うと光一は捌いた刺身を大皿に盛りつけ始めた。
こんなふうに光一は不意に行動するから驚かされて困ってしまう。
けれど光一はいつもの涼しい顔で、きれいな酒の肴を次々と整えていく。
こんな調子で落着きはらっている光一が、自分と同じ年でいる事がこういう時不思議になる。
しかも今日はどこか、いつもと違う感じがして緊張してしまう。
…でも、いつも通りだし。意識しすぎ、だね?
ふれられた場所の熱を気にしながらも、周太は掌を動かし始めた。
さっき英二が渡してくれた胡桃で鶏肉に衣をつけると、付合わせの根菜とオーブンに並べていく。
これはクリスマスの時にも作った献立になる、それを英二は「また食べたい」とリクエストしてくれた。
あとは食べる前にオーブンに火を入れればいい、これで周太の献立の支度は一通り終わりになる。
同じように仕度を終えた光一が、調理台を拭き上げながら周太に尋ねてくれた。
「いちばん大きいボールを貸してくれるかな?あと平たい大きめの笊、」
「ん、ちょっと待ってね、」
確かここに入っていたな?
記憶を辿りながら周太は調理台の扉を開いて覗き込んだ。
思った通りの場所に見つけて、さっと洗ってから周太は光一に手渡した。
「何か作ってくれるの?」
「うん、お土産を作るからね、」
底抜けに明るい目が愉しげに笑ってくれる。
なにが出来るのだろう?楽しみに見ていると光一は持ってきた袋の中身をボールに開けた。
あわい紫がかった粉に見覚えがある、首傾げながら周太は微笑んだ。
「ん、蕎麦だね?」
「正解、蕎麦粉を見たことあった?」
透明なテノールで愉しく答えながらも、白い掌は手際よく動いていく。
馴れた手捌きが楽しくて、配膳しながら周太は蕎麦打を眺めた。
こねあげた生地を摺りこぎ2本で器用に伸ばして、俎板と菜きり包丁で蕎麦に切っていく。
こんな作り方も出来るんだな?工夫に感心して周太は微笑んだ。
「すごいね、光一?家の道具でも出来るなんて」
「大袈裟な道具とかさ、めんどくさいだろ?だから俺、家でもコンナ感じで作るんだよね、」
打ち上げた蕎麦を平たい笊へと、きれいに一人前ずつ輪がねて並べてくれる。
手際の良さにすっかり見惚れながら、周太は楽しく眺めた。
「じょうずだね、…お店、開けるね」
「うん?だからさ、ばあちゃんの店、たまに俺も手伝うんだよね。また来てよ?」
「ん、ありがとう、」
話しながらも手を動かして、光一は台所をきれいに片づけてくれた。
ほんとうにプロのような手際の良さに感心していると、光一がリビングへと呼んでくれた。
「ほら、北岳の写真を見せてあげるよ、」
「あ、うれしいな…パソコン使う?」
訊きながら周太は書見用デスクに置かれたノートパソコンを開いた。
コンセントを繋いで準備が出来ると、光一がデスクの椅子に座ってセッティングしてくれる。
すぐにパソコンの画面いっぱいに、美しい雪山がひろやかに映りこんだ。
「…きれいだな、」
青と白の峻厳な世界の荘厳に、周太は瞳を大きくして微笑んだ。
聳えたつ白銀の雪壁を抱いた山は、まばゆい輝きに充ちて青藍のした高潔に佇んでいる。
気高い雪山の姿はどこまでも端正で、凛然とした佇まいが周太には慕わしい。
どこか懐かしいような雰囲気の山容を見つめてると、透明なテノールの声が教えてくれた。
「北岳はね、『哲人』っていう名前もあるんだ。ちょっと生真面目で思慮深い、高潔な雰囲気があるだろ?」
「ん、…哲人、」
哲学のひと。
たしかに似合う名前だと想える。
こんなふうに「山」は人にもどこか似ているな?
そんな想いと見つめていると、次に切り替わった画面に周太の瞳が大きくなった。
「…えいじ?」
真直ぐに遠くを見つめている端正な横顔。
凛とした視線は強靭な意志と、真摯な想いが輝いている。
よく知っている大好きな顔、けれど見たことのない貌が画面の中まばゆい。
「そ、宮田だよ。若き山ヤ、ってカンジだろ?…宮田はね、厳しい山に行くほど、イイ顔になるんだ、」
「ん、…なんか、わかるな?」
そうだろう、英二なら。
ほんとうなら英二は安楽な人生を選べた、けれど「山」を選んだ。
世田谷の恵まれた家に生まれて不自由なく英二は育った、けれど山ヤの警察官として奥多摩に生きることを選んだ。
美しくて険しい山の世界に生きる厳しさを、英二は心から愛している。この厳しさのなかで英二は刻々と輝きを増していく。
いま峻厳の山に英二は誇らかに生きている、そして今、こんなに綺麗な貌の英二を見ることが出来た。
…こういう貌、見たかった
生きる誇りを探している
初めて出逢った瞬間からずっと、切長い瞳は周太に問いかけていた。
ほんとうは素顔のまま生きたい、生きる誇りを見つけたい。その願いを問いかけていた。
その願いは今もう叶えられ始めている。
…ね、英二?ほんとうに、この道が英二の立つべき場所、なんだね?
生きる誇りを見つめる、誇らかで高潔な横顔。
この姿を見ることを、ずっと自分は望んでいた。それが今こうして見れた。
こんな貌の人が自分を愛し隣に帰ってきてくれる、心から幸せで周太は微笑んだ。
「ん、…こういう貌の英二をね、ずっと見たかったんだ。ありがとう、光一」
「願いを叶えてあげられたね、よかった」
底抜けに明るい目が、幸せそうに笑ってくれる。
温かな眼差しで周太を真直ぐ見つめながら、透明なテノールの声が微笑んだ。
「こんなふうに俺はね、君の願いは叶えるよ?だからさ、俺が宮田を最高峰へ連れて行っても、嫌いにならないでよ?」
嫌いにならないで。
つきんと心が刺されて、途端に罪悪感がこみあげてくる。
やっぱり光一は周太の嫉妬や羨望に気がついていた、きっと気づいて哀しんでいた。
それが今日ずっと感じている、どこかいつもと違う光一への違和感の正体なのだろう。
こんなふうに写真を撮って光一は、周太の英二への想いを受けとめて、願いを叶えてくれている。
なのに子供っぽい嫉妬に捉われていた自分が恥ずかしい、赤くなりながら素直に周太は頷いた。
「ん、嫌いにならないよ?羨ましかったんだ…誰も来れない所に、ふたりきりでいられて、いいなって…傷つけて、ごめんなさい」
こんな嫉妬の告白は恥ずかしい。
けれど正直に謝れると心がひとつ明るくなれる。
恥ずかしさで顔が熱い、きっと真赤になっている。それでも周太は光一に笑いかけた。
「これからもね、英二のこと、お願いしていい?…でね、また写真、撮ったら見せてくれる?」
「うん、いいよ。君のお願いは叶えるよ、ドリアード?」
底抜けに明るい目が、嬉しそうに笑ってくれた。
愉しげに笑いながら雪白の顔が動いて、周太の耳元に唇でふれると微笑んだ。
「…っ、」
また驚いて周太は掌で耳元を押さえこんで光一を見た。
呼吸を忘れて見つめる秀麗な顔が愉快に笑って、白い指で唇を示し微笑んだ。
「これで今日は2度目だね、ドリアード?これでもさ、俺なりの我慢の結果だから赦してよ。
でさ、俺も宮田のこと大好きなんだよね。しかもね、君がびっくりする顔も、拗ねた顔も好きなんだ。だから取りっこも許してよ?」
光一なりの我慢の結果。
その意味をたぶん自分は解かっている、それを想うと哀しくなる。
けれど、哀しまれることを光一は決して望まないだろう。
哀しみ1つ呑みこんで、周太はきれいに笑った。
「ん、わかった。仕方ないから、赦してあげる。でも、…今日ほんとうは英二のこと、独り占めしたいんだけど?」
「そのお願いは難しいね。俺も聖人君子じゃないからさ、あんな別嬪がいるとね、いつだって手出ししたくなるんだよね、」
からり明るく笑って光一は、持って来た用紙をプリンターにセットした。
そして出来上がった英二の写真を周太に渡してくれながら、英二の横顔を示して微笑んだ。
「で、ちょっと似てるだろ?これと、」
言いながら、もう1枚の写真を周太に渡してくれる。
そこには銀砂の夜空に聳えたつ白銀の北岳が、まばゆい高潔に佇んでいた。
星輝く濃藍に銀いろ華やぐ山容は、厳然としながら清明な高雅が美しい。
この厳麗に艶やかな「哲人」の姿に周太は微笑んだ。
「ん、英二と似てるね?」
「だろ?高潔な『哲人』なんてさ、ストイック宮田っぽいよね、」
この2枚の写真は宝物にしよう。
そう決めながら周太は光一にお願いをした。
「ね、この2枚の写真、カードサイズにも作ってくれる?」
「うん?持ち歩きたいんだね、いいよ、」
気さくに笑って光一は焼き増ししてくれる。
すぐ出来上がって受けとると、周太は幸せに微笑んだ。
「ありがとう、光一。4枚とも、大切にするね?」
「うん、大切にしてね?この2つの写真はさ、俺の傑作だろうからね、」
愉しそうに笑いながらパソコンを片づけてくれる。
カメラも元通りケースにしまうと、袖を捲りながら光一は笑ってくれた。
「さて、そろそろ夕飯を仕上げた方が良いね?でさ、蕎麦は出すまで内緒だよ、驚かせたいからね、」
「ん、わかった、」
頷きながら周太は、捲った袖から露になった光一の腕を見た。
なめらかな雪白の肌理はこまやかで美しい、こんな綺麗な肌も珍しいだろう。
こんな美貌で英二の隣にいられると、やっぱり嫉妬してしまいそう。
なんだか申し訳なくて困りながら周太は台所に入った。
周太が支度しておいた品と光一が即興で作った料理が、ダイニングテーブルいっぱいに並んだ。
光一の手料理はいなり寿司と牡丹餅に、焚火の料理を御岳でご馳走になっている。
今夜の膳には酒の肴にもなる惣菜を数品と、きれいな刺身を作ってくれた。
どれも和食をベースに上手な工夫が凝らされている、刺身も旬の甘鯛を一本から卸して作ってくれた。
このアラを使って周太が準備しておいた出汁と合わせてくれた吸物も美味しい。
…光一って、料理でも、すごいな
ほんとうは周太は、料理はちょっとだけ自信があった。
ちいさい頃から母の手伝いが好きだったけれど、父が亡くなって母が元の職場に復帰してから主夫は周太になっている。
しかも母は滅多に外食をしなくなった。仕事が忙しい所為もあるだろうけれど、昼も弁当を持って行く。
そんな母にすこしでも美味しいものを食べてほしくて、周太はテレビや本で料理の研究をした。
書店で料理の本を買うと「男の癖に」とまた言わそうだけれど、母の喜ぶ顔を想うと気にならない。
元から母や父に教わった料理の基礎は昔ながらの丁寧なものだし、たぶん自分の料理は美味しい方だと思っていた。
けれど光一も祖母が店を持っているだけあって、玄人の腕前でいる。
美味しいなと素直に感心しながらも、周太は英二の反応が気になって訊いてみた。
「ね、英二?今夜はね、どれがいちばんおいしい?」
周太の質問に切長い目が笑いかけてくれる。
すこし膳の上を眺めると、きれいな低い声が答えてくれた。
「鶏の胡桃焼かな?あとは肉じゃが。ごはん食べたくなるな?」
どれもおいしいよ?
いつもなら最初にこれを言うけれど、今夜の英二は言わなかった。
きっと今夜は光一の手料理があるから「どれも」と言わないでくれた。
いつもながら優しい英二の気遣いが嬉しい、嬉しい想いに微笑ながら周太は掌を伸ばした。
「ん、たくさん炊いてあるから…おかわりする?」
「うん、お願いできるかな?」
そんな調子で英二はごはんを7杯食べてくれた。
最後に光一の蕎麦と作っておいた苺コンポートとアイスを楽しんで、食事を終えると周太は風呂を整えた。
食事の途中で沸かし始めたから、ちょうどよく湯の準備が出来ている。
きれいなタオルを仕度してから周太は、お客の光一から風呂を勧めた。
「ちょっと古い造りなんだけど、掃除はきちんとしてるから、」
「なんか良い風呂だって、宮田に聴いたよ?」
浴室へと案内して周太は風呂とシャワーの使い方を説明した。
藍模様と真白なタイル張りの浴室は、この家が建てられた時からほとんど変わらない。
さすがに給湯のシステム自体は新しいけれど、蛇口とシャワーの栓が昔ながらの方式になっている。
そんな説明を一通り終えて周太がふり向くと、もう光一は上半身の服を脱ぎ終わっていた。
「…っ、なんでもうはだかなの?」
「うん?」
驚いて周太が訊くと、不思議そうに光一は首を傾げこんだ。
ランプに美しい雪白の首筋を晒しながら、いつもの調子で光一は笑った。
「説明を聴きながらでもね、服は脱げるだろ?」
なんか拙かったのかな?そんなふうに細い目が周太を見てくる。
拙いことは無いけれど、光一の姿が綺麗で周太は途惑ってしまった。
…こんなに綺麗な肌、なんか困る
雪白まばゆい肌は、どこか人間離れに美しい。
艶やかな黒髪がさらりふる顔も、素肌だと殊更に白と黒が際だって鮮やかだった。
繊細で明るい貌は無垢のまま、透明な細い瞳がランプの光を灯しながら周太を見つめている。
惜しみなく素肌を晒す体は細身でも強靭で、端正な筋肉が雪白の肌に美しかった。
…きれいだな、
こんな綺麗な姿を見て、なにも想わない人は少ないだろうな?
でも英二や藤岡は光一と同じ青梅署独身寮にいる、風呂で一緒になることもあるだろう。
けれど2人とも特に何も言わない、やっぱりじぶんがえっちだから考えすぎるだけ?
なんだか目のやり場に困ってしまう、緊張しながら周太は浴室から洗面室に出た。
そんな周太に付いてくる透明なテノールの声が、思ったまま説明してくれる。
「だってね、周太?さっさと俺が風呂を済まさないとさ、後がつかえて困るだろ?
でも、俺は長風呂好きなんだ。しかも良い風呂だね、ここ。少しでも早く入りたいから、さっさと脱がせてもらったよ?」
話しながらも白い指は、もうカラーパンツからベルトを抜きはじめている。
確かに言う通りでもあるけれど、こんな綺麗な体だと逆に目のやり場に困ってしまう。
わりと光一はせっかちな性質なのだろうか?
そんなことを思いながら周太はタオルの場所を指さした。
「あの、タオルここだから…この籠、服とか入れるのに使ってね?じゃ、ごゆっくり…」
言いながら周太は踵を返しかけた。
その背中から白い腕が伸びて、がっしり周太は抱きこまれた。
「周太、なんでさっきから、俺から目を逸らす?…見るのも嫌、なワケ?」
訊いてくれる透明なテノールの声が、どこか哀しい。
ニットの背ふれてくる鼓動がすこし早い、心を直接ノックするような心音がなにか痛い。
驚いて声を詰まらせていると、肩越から頬寄せられて水仙のような香がふれあった。
「そんなに周太、俺のこと、邪魔?…俺のこと、殺そうとしたくらい、だもんね、」
落着いているテノールの声は透明で、けれど哀しい響きが隠せない。
背中から抱きしめてくる、白い腕の力が強くて身動き出来ない。
なにより背中ふれる鼓動の、哀しい速さに心ごと動けない。
こんな自分の態度が光一を傷つけた、詰まる声を押し出そうと周太は口を開いた。
「…っ、ちがう、よ?」
声、出てくれた。
どうかお願い、このまま正直に伝えたい。
「ちがうよ、光一、邪魔じゃない。誤解させて、ごめんね…ほんとうに、好きだよ?」
ちいさな掠れる声、それでも想いが伝えられる。
懸命に想いを告げて、それでも哀しいままテノールの声が微笑んだ。
「でも、忘れてた、俺のこと…そして、殺そうとしたね、…宮田のためなら、俺は死んで…いいんだろ?」
忘れられた光一の14年間の孤独。
その孤独の涯に周太が報いた最初は「銃口を向ける」だった。
それでも光一は笑って許してくれた、けれど本当は傷ついている。
…傷ついて、当たり前だ…忘れるほど弱い、自分の所為で…
どうしたらこの罪を償える?
こんなに美しい人を自分は傷つけた。
あの幼い日に「自分は『変』だから好かれず独りぼっちになる」と悩んでいた自分。
そんな自分に「好きだ」と微笑んで希望を贈ってくれた、この人を今、どうしたら自分は癒せるだろう?
…正直に話せばいい、
今日も書斎で父に話した通り、正直に向き合って「今」を大切にしたい。
ほんとうに心から大切にしたいなら、偽りは通用しない。
ひとつ呼吸して周太は、穏かに口を開いた。
「生きていてほしい、光一には…だってね、俺にとって光一は、ほんとうに大切な人だから。
あの雪の森で、初めて出逢ったとき。俺が質問したこと、覚えてる?…テディベアが好きな男は、変じゃないか、って、」
ふれる頬に、温かい雫がひとつ零れてとける。
テノールの声がすこし笑って、低く囁くよう答えてくれた。
「俺はクマも好きだ、って答えたね?ずっと覚えてる、君の言ったこと全部…だから、俺…雲取のクマに、小十郎って名前つけた」
「ツキノワグマに、小十郎の名前を?」
すこし驚いて周太は瞳だけ動かして光一を見た。
肩越し頬寄せる雪白の顔も、きれいな細い瞳を動かして周太を見つめてくれる。
「そうだよ。君と出逢った次の次の春にね、生まれたクマだよ?…宮田も、秋に会っている。
こんど13歳になるクマだ…君の小十郎を覚えていたから、俺もね?自分の友達になったクマに、同じ名前付けたんだ、」
明るいままの瞳から、きれいな涙がこぼれて周太の頬にとけこんでいく。
こんなに光一は自分を待ってくれていた、その想いが切なくて痛い。
それでも周太は微笑んで、言葉を続けた。
「ありがとう、光一。すごく、うれしいよ?…あのときも俺、うれしかった、ほんとうに。
あの頃の俺はね、「男のくせに変だ」って言われることが多くて…花とかケーキとか、料理が好きって言うと、ね?
それでね、両親以外と話すことが怖くなってて…でも、光一が受けとめてくれた。だから俺、人と話すことがね、出来たんだ」
なつかしい記憶の哀しみと喜びが今も温かい。
こんな大切なことを自分は13年間ずっと眠らせていた、こんなに弱い自分が赦せない。
だから今から少しでも強くなりたい、素直に微笑んで周太は正直に言った。
「あのとき俺、心から光一を大好きになった。また逢いたくて、もっと話したかった。
あれから毎日、庭の山桜の下で空を見て、アーモンドチョコ食べて…光一に逢えること楽しみに待ってた。
それなのに…忘れていて、ごめんなさい…光一に逢いにね、父と一緒に行く約束だったんだ、それで…それで、
俺ね、小十郎のこともずっと、忘れていたんだ…このあいだ、光一の記憶が戻って、それで…やっと思い出せたんだ」
正直な想いと一緒に涙ひとつ零れて、微笑んだ頬を伝っていく。
その涙を細い目が泣きながら見つめて、涙に白い頬よせてくれた。
「俺のこと、本当に好きでいてくれたんだ?…でも、オヤジさんとの約束だったから…ショックで、記憶ごと俺は眠ったんだね?」
「ん、そうなんだ…俺が弱かったんだ、俺が、もうすこし強かったら良かった…ごめんなさい、光一。ほんとうに、ごめんね、」
もしあのとき忘れなかったら?
今日の午後も書斎で思いめぐらした「もし」が痛い。
けれど今もう過ぎ去った時間は戻らない、微笑んで周太は正直な想いを告げた。
「今も光一のこと、好きだよ?でも英二とは違う好きなんだ…それに、英二のことで光一には嫉妬もする。
光一は、英二と一緒に最高峰に行ける。それが、やっぱり羨ましいから嫉妬しちゃうんだ…でも、光一のこと大切なんだ。
あのとき、銃口を向けたこと…ほんとうにね、後悔してる。俺の所為で、光一にまで罪を負わせて…後悔してる。
どうしたら償えるんだろう、って、ずっと考えてる。光一を忘れたこと、光一に銃を向けたこと、罪を負わせたこと。
そしてね、どうしたら光一に、幸せに笑って貰えるだろう、って考えるよ?…英二とは違う方法だけど、それをね、探してる」
これが正直な自分の想い。
英二のように愛することは難しい、けれど大切に想う気持ちも本当。
こんなの狡いかもしれない、けれど本音を偽れば逆に相手を傷つけてしまう。
まして光一は人間の本性も本音も真直ぐ見抜く、だから今も周太を掴まえて訊き出そうとしている。
だからこそ、周太を掴まえる白い腕はこうして力をゆるめない。
「罪を負わせてもらったことはね、気にすること無いよ?周太、」
テノールの声が低く笑っている。
背中に伝わる早い鼓動のままに光一が微笑んだ。
「あれはね、俺にとったらアンザイレンのザイルのようなモンだ。俺にとっちゃ好都合だよ?
君の罪を俺が被ればね、やさしい君は俺への罪悪感に悩まずにいられない。そして今も、そう言ったね?
これで君は、もう2度と俺のこと忘れられないはずだ。俺は君の初恋相手、そのうえ君の罪を背負った男だよ。
そして俺は君の婚約者のパートナーだ、生涯ずっと、公私ともにね…もう君は絶対に俺を忘れない。ほんとに、俺の願った通りだ、」
透明なテノールが本音に笑っている。
底抜けに明るい目が、周太の肩越に覗きこんで大らかに微笑んだ。
「俺は確信犯なんだ。偶然のように起きたことも俺は全部、利用する。そして君を掴まえてるよ。
君を愛している、君の笑顔が見られるなら何だってするよ?だから、君から離れろと言う願いだけは聴かない。
もう忘れられたくない。たとえ独占め出来ないと解っていても、俺はもう君から離れない。あの14年間の孤独は繰り返さない、」
もし、光一が諦められるなら。きっと14年の間にとっくに諦めていた。
いまも周太は、光一の大切なアンザイレンパートナーの婚約者としてここに居る。
それでも光一は抱きしめて、この今も周太の本音を掴まえようと掴んで逃がさない。
こうなのだろうと解ってはいた。けれど今、こうしてぶつけられる想いが痛い。
ちいさな溜息を心に見つめて、そっと周太は尋ねた。
「…もし俺が、光一が傍にいることに頷いたら。それが、償いになる?」
ことん、大きく背中ごし1つ鼓動が跳ねた。
けれど透明なテノールの声はいつものように微笑んだ。
「たとえ君が拒絶しても、関係ない。わがままな俺だからね、好きにするよ?…嫌われても、ね」
もう光一の想いから逃げられない。
そしてこのことを、英二はもう光一と話して知っている。
だから英二は婉曲に「光一の想いを一度は叶えてほしい」と伝えてくる。
こんなふうに英二は光一の想いごと、大らかに周太を愛し受けとめてくれている。
そんな英二だから尚更に自分は愛してしまう、想い素直に周太は微笑んだ。
「俺はね、英二を愛してる、ずっと傍にいたい…それでも良いなら、光一、傍にいて?
光一はね、恩人で、大切な初恋のひとだよ?ほんとうに、大好きなんだ…英二とは違うよ、でも、嫌いになんてなれないよ?」
抱き締める腕の力はゆるめずに、それでも明るい目が哀しげに周太を見つめてくる。
哀しい気配を隠さないまま、透明なテノールが真直ぐ問いかけた。
「じゃあ、なぜ?嫌いじゃないなら、なぜ、俺から目を逸らした?」
すこし鼓動がゆるくなる、けれど腕の力はゆるめずに抱きしめていく。
ふれてくる肌がまばゆくて、水仙のような香が透明にあまくて、息が詰まりそうになる。
それでも周太は心裡ひとつ呼吸して、気恥ずかしさにも口を開いた。
「あのね…光一がね、あんまり綺麗だから、その…きはずかしくてみれなかった、はだかなんだもんこういち、」
恥ずかしさに首筋から熱くなる、もう真赤だろう。
こんなこと本当に困ってしまう、どうしたらいいのだろう?
こんなことで困っている自分はきっと、ほんとうにえっちなんだ?
そう思うほどまた赤くなって困っていると、心底から愉しそうにテノールの声が笑ってくれた。
「なんだ、周太?俺のはだか見てさ、欲情しそうで恥ずかしがってくれた、ってワケ?」
どうしてこのひとっていつもこうなの?
並べられた言葉が恥ずかしい、けれど愉しそうな声になってくれたのは嬉しい。
でも本当に困ってしまう、困りながら周太は真赤な顔で素直に頷いた。
「恥ずかしいよ?…でもよくじょうとかはわかんない…でも、気恥ずかしくて困るよ…ね、離してよ?」
「嫌だね、」
あっさり断って光一は周太を抱きしめた。
端麗な白い肌からふれる鼓動が早い、ふれる頬を離さないで透明なテノールの声が微笑んだ。
「俺の体にも周太、惹かれてくれるんだ?…期待したくなっちゃうね、」
「期待?」
なんの期待だろう?
思わず訊きかえした周太に、可笑しそうに笑いながら頬寄せてくる。
愉しげに光一は周太の耳元にキスをすると、ようやく腕をほどいて離してくれた。
「これで今日は3度目だね?今日はね、マジでイイ日だよ。俺にとっては、ね」
いつもの底抜けに明るい目が笑ってくれる。
いつも通りの光一にほっとしながら、周太は熱い耳元を掌で撫でた。
「ん、そうなの?」
「そうだよ。さて、今から俺、下も全部脱ぐよ?コッチも綺麗だけどさ、周太、見ていく?」
悪戯っ子に細い目を笑ませて、光一は白い指をウェストのボタンにかけた。
そんな子供みたいな悪戯っ子の表情が、なんだか可愛くて周太は赤い顔のまま笑った。
「えんりょします、おふろゆっくりね?」
洗面室の廊下にでると、ぱたんと扉を閉じて息を吐いた。
さっきここを開いて入った時は、こんなことになるなんて思わなかった。
ぼんやりしそうな頭をひとつ振ると、周太はスリッパの足を踏出した。
その途端、ふっと水仙に似た香があまく昇って周太は立ち止まった。
光一の香が移ってしまった?
こんな残り香には途惑ってしまう。
すこし考えて周太は踵を返すと、階段を昇って自室の扉を開いた。
そのままバルコニーの窓を開いて外へ出ると、大きく深呼吸に空を仰いだ。
「…今夜、英二、一緒に寝てくれるかな?」
見あげる夜空の星に、ぽつんと独り言がこぼれ落ちた。
ほんとうに今夜はひとりにしないでほしい、英二に一緒にいてほしい。
そんな想いで吹かれていく夜の風は、庭に咲く花の香を誘ってくれる。
やさしい山茶花、華やかな冬ばら、夜梅の香。
早春の香こめた夜風の冷気は、熱る頬をゆるやかに撫でていった。
着替の準備を持って階段を降りかけると、ホールに扉が閉じる音が響いた。
廊下から階段を足音が昇ってくる、母と違う足音は英二、それとも光一だろうか?
思いながら階段を降りていくと、踊場のところで光一に笑いかけられた。
「良い風呂だったよ、ありがとね」
さっきの後だから緊張しそうになってしまう。
たぶん首筋が赤くなっている、それでも周太は微笑んで見上げた。
「ん、気に入って貰えたなら良かった…英二、入ったところ?」
「うん、いま入ったよ。ほんとは覗きに行きたいけどね、さすがに今日は遠慮するよ、」
今日は。って言った?
ちょっと頭がショートしかけながらも周太は訊いた。
「あの、今日は、って、どういう意味?」
「そのまんまだけど?」
底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑い出している。
笑いながら愉しげにテノールの声が教えてくれた。
「いつも寮ではね、宮田と一緒に風呂に入ってるんだよ。まさに水も滴る別嬪でさ、癖になっちゃって」
このひといつもなにしてるの?
嫉妬もさすがに起きてきそう、けれど何を言えばいいのかも解らない。
ぼんやり見上げていると、あかるい細い目が笑んで周太の瞳を覗きこんだ。
「ほんとはね、君と一緒に入りたいけどさ、」
さらりと言うと光一は「部屋にいるよ、」と笑って行ってしまった。
いま何て言われたのだろう?途惑うまま周太は階段に座りこんだ。
なんだか光一に振り回されている、あれは本音なのだろうか?
それとも転がして楽しんでいるだけ?
「…転がしているだけ、かな?」
さっき洗面室での光一は真剣だった。
けれど今の光一は冗談を言っているようにも見える。
なんだかよく解らない、ほっと溜息を吐いて周太は立ちあがった。
階段を降りてリビングに入ると、ソファで寛いでいた母が微笑んだ。
「周、ホットミルク飲む?いま作ろうかなって思って」
「ん、飲みたいな?」
温かいミルクをマグカップに注いでもらって、リビングの安楽椅子に周太は座りこんだ。
ゆっくり飲むと温もりが体をことんと落ちていく、ほっと息つくと母が笑いかけてくれた。
「光一くん、素敵で、不思議だね?」
「ん、…不思議だね、光一は」
本当にそうだと思う。
素直に頷いた周太に、穏かな黒目がちの瞳が微笑んだ。
「周太のこと、ほんとうに好きなのね、光一くんも」
穏やかな声が告げてくれる。
母の目から見て、そうなのだろうか?
首筋に熱が昇るのを感じながら、周太は黒目がちの瞳を見つめた。
「ん、…俺も好きだよ?でも…英二とはね、やっぱり違うなって思う…」
「そっか。お母さんも、光一くん好きだよ?」
ひとくちマグカップに口付けて、ほっと息吐いた。
穏かに周太を見つけながら、母は微笑んで言葉を続けてくれた。
「英二くんね、さっき2階のホールで全て話してくれたの。周とのことも、」
「…そうだったの?」
帰ってきてすぐ母は英二とふたり話していた。
周太からも母には話してあることだろう、それを英二もきちんと話してくれた。
こんなふうに真摯に母とも接してくれる、そんな英二が周太には嬉しかった。
嬉しくて微笑んだ周太に、母も嬉しそうに笑いかけてくれた。
「また大人になったね、英二くん。そして素敵になった、でしょう?」
「ん、そう思うよ?」
きちんと母も英二を見てくれている、それが嬉しくて周太はきれいに笑った。
楽しそうに母も笑ってくれながら、明るく微笑んで話してくれる。
「英二くんね、春になったら奥多摩に来て、って誘ってくれたのよ。山に行きましょう、って」
「ん、いいね?…4月だね、きっと」
「そうね。桜が咲いているかな?」
そんなふうに話していると、洗面室の扉が開く音が聞こえた。
それからリビングの扉が開いて、大好きな笑顔が覗きこんでくれた。
「お先に風呂、すみませんでした。国村は上ですか?」
「ええ、おやすみなさい、って声かけてくれたわ」
「じゃあ俺も、上に行かせてもらいますね?おやすみなさい、お母さん」
「はい、おやすみなさい、」
きれいな笑顔で英二は笑いかけて、周太に「またあとでね」と微笑んでくれた。
さっきの洗面室での光一のことを、英二は聴いて受けとめてくれるのだろうか?
今夜は一緒に寝てくれるのかな?そんなことを考えながら、周太は母に訊いた。
「ね、お母さん?…お客様用ふとん、2枚、敷いたでしょ?」
「今夜はね、そのほうがいいでしょう?」
悪戯っ子に黒目がちの瞳が笑っている。
これ以上へたなことは言わない方が良いな?周太はマグカップからミルクと一緒に言葉を飲みこんだ。
そんな息子を見ながら母は、悪戯っ子な目のまま口を開いた。
「ね、周?3月の最初の金曜日はね、お母さん、帰りは翌お昼です」
「え、…だって土曜日はお節句なのに。英二も金曜の夜からね、帰ってきてくれるよ?」
驚いて周太は母に問いかけた。
けれど母は悪戯っぽく笑いながら教えてくれた。
「うん、英二くんにも聴いたわ。土曜のお昼には戻るね?
今年はね、お節句の前夜祭しよう、って、いつもの温泉のお友達と、もう約束しちゃったの。行ってきていいかな?」
いつもの「温泉のお友達」は母の会社の同期のひとで、ずっと母は親しくしている。
結婚して職場から離れていた間も親しくて、ちいさい頃に周太も会ったことがある人だった。
その人との大切な約束をダメだとは言えない、すこし寂しく想いながらも周太は素直に頷いた。
「ん、いいよ?楽しんできてね…そのひと、お昼にお招きする?」
「周と英二くんが良いんなら、声かけちゃおうかな?…ね、周。明日の朝のことなんだけど、」
愉しそうに母が笑って明日の朝の提案をしてくれる。
この提案は周太にとって気恥ずかしい、けれど楽しんでもらえるだろうか?
そう思って周太は母の提案を手伝うことにした。
(to be continued)
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