That after many wanderings
第86話 建巳 act.35 another,side story「陽はまた昇る」
ひとこと、学者は笑った。
「なつかしいな、」
ほろ苦い甘い馥郁の底、バター匂いやかに芳しい。
くゆらす湯気と香の窓辺、研究室の主は周太を見た。
「馨もたまに食わせてくれたんだ。つい俺はヒトの分まで食っちまってなあ、よく怒られたもんだよ?」
甘い香に鳶色の瞳が笑う、この眼差し父を映していた。
知らない時間はるかなデスクの隅、ただ知りたくて尋ねた。
「あの、父も研究室にスコンを持ってきたんですか?」
菓子作りを教えてくれたのは父だ。
その時間かけら知りたい真中で、鳶色の瞳ほころんだ。
「おう、よく持ってきてたぞ。湯原教授がお好きだからってさ、しょっちゅう茶請けに出たもんだ、」
祖父の愛弟子が語ってくれる、その時間そっと琴線ゆらす。
祖父と父が愛した焼菓子たち、そこにあった温度たどらせ尋ねた。
「あの…男が菓子を作るのって、変に思われませんでしたか?」
父が菓子を作って大学に持参した。
その過去ただ知りたい願いに、文学者は目を瞬いた。
「変って、馨が菓子を作ってたことをかい?」
なんでそんなこと訊くんだい?
そんなふう見つめてくれる眼に、考えのまま口ひらいた。
「祖父は学徒出陣をした世代ですよね、それなら男子厨房に入らずがふつうだったと思うんです。だから…父のお菓子をどう思っていたのか、な…って、」
大正生まれだった祖父、その時代の常識と父は違っている。
けれど息子の手料理を好んで自分の職場に差し入れさせていた、そんな過去に学者は微笑んだ。
「馨が菓子作りを覚えたのはな、お母さんの手伝いとイギリスにいた時らしいぞ?湯原先生が喜ばんハズがねえって思うがな、」
低いくせ朗らかな声が教えてくれる。
紡がれる遠い時間たぐる湯気、おだやかなテーブルに恩師が言った。
「早速だけどな、国文の聴講生になってもらいたいんだ、」
節くれた大きな手、ぱらり冊子を広げてくれる。
真新しいページ印刷された文字、見つめるまま問いかけた。
「万葉集、ですか?」
広げられたページ、講師名と講題が見あげてくれる。
これから仏文科で研究補助をする自分、その主である教授が微笑んだ。
「万葉集はな、日本語の源流だろ?」
「はい、」
うなずいてマグカップことり、テーブルに置いて背を正す。
これから大切なことを教えてくれる、そんな眼が周太を見た。
「翻訳にはな、まず自分の母語を知ることが大事なんだよ。思考言語の原点をきちんと学ぶのは大事だと思うんだ、学者になるなら特にな?」
低いくせ響く声、明朗なトーン語りかけてくれる。
その言葉たしかで、聴き入るまま学者が言った。
「どの分野でも論文は書くだろ、思考言語の基礎が大事になる。それに万葉集は日本原産の植物がたくさん出てくるだろ?植物学の側面からも面白いと思うが、どうだろう?」
なるほど、そういう論文を書くのも良いのかもしれない?
「はい…面白いです、」
頷きながら脳裡ぱちり、思考めぐりだす。
はるか遠い時に謳われた花、木、その植生と物語に微笑んだ。
「田嶋先生、そのアイディア僕が頂いてもよろしいんですか?」
「もちろんだ。俺は専門外だが、周太くんにはフィールドだろ?」
鳶色の瞳が笑って、マグカップふわり湯気ゆれる。
芳香ゆるやかな温もりの窓、祖父の愛弟子が口ひらいた。
「この担当される丹治先生は非常勤だけどな、ウチの同窓生だよ」
“丹治晄子”
そう記された講師名、ゆるく記憶ふれる。
どこかで見たのだろうか?たどらす名前にノック響いた。
「失礼します、周太いますか?」
※校正中
(to be continued)
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kenshi―周太24歳4月
第86話 建巳 act.35 another,side story「陽はまた昇る」
ひとこと、学者は笑った。
「なつかしいな、」
ほろ苦い甘い馥郁の底、バター匂いやかに芳しい。
くゆらす湯気と香の窓辺、研究室の主は周太を見た。
「馨もたまに食わせてくれたんだ。つい俺はヒトの分まで食っちまってなあ、よく怒られたもんだよ?」
甘い香に鳶色の瞳が笑う、この眼差し父を映していた。
知らない時間はるかなデスクの隅、ただ知りたくて尋ねた。
「あの、父も研究室にスコンを持ってきたんですか?」
菓子作りを教えてくれたのは父だ。
その時間かけら知りたい真中で、鳶色の瞳ほころんだ。
「おう、よく持ってきてたぞ。湯原教授がお好きだからってさ、しょっちゅう茶請けに出たもんだ、」
祖父の愛弟子が語ってくれる、その時間そっと琴線ゆらす。
祖父と父が愛した焼菓子たち、そこにあった温度たどらせ尋ねた。
「あの…男が菓子を作るのって、変に思われませんでしたか?」
父が菓子を作って大学に持参した。
その過去ただ知りたい願いに、文学者は目を瞬いた。
「変って、馨が菓子を作ってたことをかい?」
なんでそんなこと訊くんだい?
そんなふう見つめてくれる眼に、考えのまま口ひらいた。
「祖父は学徒出陣をした世代ですよね、それなら男子厨房に入らずがふつうだったと思うんです。だから…父のお菓子をどう思っていたのか、な…って、」
大正生まれだった祖父、その時代の常識と父は違っている。
けれど息子の手料理を好んで自分の職場に差し入れさせていた、そんな過去に学者は微笑んだ。
「馨が菓子作りを覚えたのはな、お母さんの手伝いとイギリスにいた時らしいぞ?湯原先生が喜ばんハズがねえって思うがな、」
低いくせ朗らかな声が教えてくれる。
紡がれる遠い時間たぐる湯気、おだやかなテーブルに恩師が言った。
「早速だけどな、国文の聴講生になってもらいたいんだ、」
節くれた大きな手、ぱらり冊子を広げてくれる。
真新しいページ印刷された文字、見つめるまま問いかけた。
「万葉集、ですか?」
広げられたページ、講師名と講題が見あげてくれる。
これから仏文科で研究補助をする自分、その主である教授が微笑んだ。
「万葉集はな、日本語の源流だろ?」
「はい、」
うなずいてマグカップことり、テーブルに置いて背を正す。
これから大切なことを教えてくれる、そんな眼が周太を見た。
「翻訳にはな、まず自分の母語を知ることが大事なんだよ。思考言語の原点をきちんと学ぶのは大事だと思うんだ、学者になるなら特にな?」
低いくせ響く声、明朗なトーン語りかけてくれる。
その言葉たしかで、聴き入るまま学者が言った。
「どの分野でも論文は書くだろ、思考言語の基礎が大事になる。それに万葉集は日本原産の植物がたくさん出てくるだろ?植物学の側面からも面白いと思うが、どうだろう?」
なるほど、そういう論文を書くのも良いのかもしれない?
「はい…面白いです、」
頷きながら脳裡ぱちり、思考めぐりだす。
はるか遠い時に謳われた花、木、その植生と物語に微笑んだ。
「田嶋先生、そのアイディア僕が頂いてもよろしいんですか?」
「もちろんだ。俺は専門外だが、周太くんにはフィールドだろ?」
鳶色の瞳が笑って、マグカップふわり湯気ゆれる。
芳香ゆるやかな温もりの窓、祖父の愛弟子が口ひらいた。
「この担当される丹治先生は非常勤だけどな、ウチの同窓生だよ」
“丹治晄子”
そう記された講師名、ゆるく記憶ふれる。
どこかで見たのだろうか?たどらす名前にノック響いた。
「失礼します、周太いますか?」
※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」より抜粋】
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