合間ちょっと雑談です、笑
昨日は日曜日だった、
用事あれこれこなして予想より早く帰宅して、
夕焼け見に近場へドライブして、そのまま初めての蕎麦屋へ行って、
懐かしい地酒があって嬉しくて、ハンドルキーパーじゃないのを良いことに呑んで、笑
で、帰って「日曜日の夜」だったけど結局のトコ違ったらしい。
日曜の夜がいい、と言っていたけれど結局のトコ連絡は来なかった。
そんなことWeb世界で知り合ったヤツにはよくあることだ、そして今回もそうだった。
むこうに言わせたら「日曜の夜とは言ったけど昨日とは言っていない」なんて論法もアリだろう、
でもソイツを待っていたのは自分だけじゃない、心配してくれる人たちがソイツには何人もいる。
リアルで知り合う、たとえば職場や友達関係。
その場合は連絡ツールいくつかあるだろう、消息を知る手段だっていくつもある。
けれどWeb世界は途絶えさせることも簡単だ、間遠+知らんふり+連絡ツール削除→ホッタラカせばいい。
なんてカンジに結局は昨日「日曜夜」の無反応に、憶測も推測もいくつ途惑っている。
こーゆーのは本人にとって「知らんふり=無かったこと」で済むのだろう、
悪気なんて無い=自分は悪くない
ってことなんだろう、
そこにあるのは「人付き合いが解からないから仕方ない」という事情かもしれない、
そーゆー「仕方ない」がいくつもの信頼を傷つけてしまうことを知っているんだろうか?
それとも「傷つけちゃう自分が悪い、だからもう関わらない」なんていう考えをするかもしれない。
そーゆー考え方はきっと「優しすぎるのよ」なんて弁護もしてもらえるんだろう、
だけどホントにそいつが優しくしたいのは本人自身だけだ、
だって既に関わった相手のことは傷つけている、
それを「優しい弱い自分には無理だごめんなさい」で逃げたところで相手をよけいに傷つけるだけだ、
そうしてホッタラカした相手の傷の深さだけソイツが楽になるんだろう、そこには保身の卑怯しか結局ない。
誰かと関わったとき別れるときはサヨナラを告げる、
それはリアル現実にフツーのことで、その別離で生れる傷を見つめることは責任で権利だ。
それは相手の傷で自分の傷、そんなふうに傷で繋がれて絆ひとつ経験になる。
絆、きずな、傷の名前
なんて言葉遊びすると哀しさも寂しさも、次の信頼を紡ぐための糸だと気づける。
こんなふうに傷ついて、哀しさも孤独感も知るからこそ出逢えたとき、大切にしたいと願えるのかもしれない。
そうして次に出逢った相手もイキナリ消えることもあるだろう、
そのほうがWeb世界では多い、そんな希薄さが当り前なのがWebツールなのかもしれんし、笑
それでもWebは現実世界のひとつに過ぎない、だってWebを使うのはリアルに現実人間だ。
顔も知らない、本名も知らない、居場所も知らない、
匿名での出逢いがWeb 世界の常識だ、
交わす言葉も思考も匿名、その匿名性は無責任にたやすく乗っかれる、
こんな容易さは匿名=自分の責任にならない、っていう気軽×浮薄にも繋がって、
けれど行きつく先、Webツールの向こう側にはリアル生身の心が泣いたり笑ったりしている。
Web世界は匿名×稀薄、それでも現実の生きた心が見つめている。
その眼差しを感情をドッチの「きずな」に繋げるのか?
その分岐点は自尊と謙虚が選ぶ。
ひとつの信頼が終わる、
それは寂しくて、けれどただ寂しがっている暇なんてホントは無い。
だって次はもう始まっている、次の信頼に生まれる分岐点の選択をどうするか?
その判断とらえる感情、理性、経験からのヒントを掴みとれるのは今この瞬間刻々だ。
たとばそれは夕空の観天望気みたいだ、
あざやかな緋色の空、うすぐもり退朱の空、縹色ぼんやりとける夕暮、
そーゆー様々ごと明日の天気は違う、それを見つけることは黄昏ひと時の瞬間にある、
そうして観天望気に教えられた明日をどう過ごすのか?それを決めるのは結局のとこ自分だ。
今朝はクロワッサンを焼きすぎた、
いつものようトースターに入れて、ちょっと焦げ臭いと気づいた時はちょっと炭化ぎみ、笑
それでもコーヒーと齧った香は小麦が芳ばしくて、変わらない日常がほっと口もと解かせる。
それなり凹んだ本音の日曜の夜、けれど明けた朝はちゃんと腹減って朝食は温かい。
こんなふう時間は曖昧のままでも心解いてゆく。
曖昧あいまい何も解らない、それでも時間刻々のリアルは動く。
そんなふう過ぎてゆく現実日常のすみっこ、もし再会できたらやっぱり嬉しいんだろう?
そこに何がどうなってドッチのきずな織られるのか、なんてことは曖昧なまんま今ちゃんと月曜の朝だ。
先週に切りすぎた髪も馴染んできた、こんなふう時間は曖昧にも解かす。
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昨日は日曜日だった、
用事あれこれこなして予想より早く帰宅して、
夕焼け見に近場へドライブして、そのまま初めての蕎麦屋へ行って、
懐かしい地酒があって嬉しくて、ハンドルキーパーじゃないのを良いことに呑んで、笑
で、帰って「日曜日の夜」だったけど結局のトコ違ったらしい。
日曜の夜がいい、と言っていたけれど結局のトコ連絡は来なかった。
そんなことWeb世界で知り合ったヤツにはよくあることだ、そして今回もそうだった。
むこうに言わせたら「日曜の夜とは言ったけど昨日とは言っていない」なんて論法もアリだろう、
でもソイツを待っていたのは自分だけじゃない、心配してくれる人たちがソイツには何人もいる。
リアルで知り合う、たとえば職場や友達関係。
その場合は連絡ツールいくつかあるだろう、消息を知る手段だっていくつもある。
けれどWeb世界は途絶えさせることも簡単だ、間遠+知らんふり+連絡ツール削除→ホッタラカせばいい。
なんてカンジに結局は昨日「日曜夜」の無反応に、憶測も推測もいくつ途惑っている。
こーゆーのは本人にとって「知らんふり=無かったこと」で済むのだろう、
悪気なんて無い=自分は悪くない
ってことなんだろう、
そこにあるのは「人付き合いが解からないから仕方ない」という事情かもしれない、
そーゆー「仕方ない」がいくつもの信頼を傷つけてしまうことを知っているんだろうか?
それとも「傷つけちゃう自分が悪い、だからもう関わらない」なんていう考えをするかもしれない。
そーゆー考え方はきっと「優しすぎるのよ」なんて弁護もしてもらえるんだろう、
だけどホントにそいつが優しくしたいのは本人自身だけだ、
だって既に関わった相手のことは傷つけている、
それを「優しい弱い自分には無理だごめんなさい」で逃げたところで相手をよけいに傷つけるだけだ、
そうしてホッタラカした相手の傷の深さだけソイツが楽になるんだろう、そこには保身の卑怯しか結局ない。
誰かと関わったとき別れるときはサヨナラを告げる、
それはリアル現実にフツーのことで、その別離で生れる傷を見つめることは責任で権利だ。
それは相手の傷で自分の傷、そんなふうに傷で繋がれて絆ひとつ経験になる。
絆、きずな、傷の名前
なんて言葉遊びすると哀しさも寂しさも、次の信頼を紡ぐための糸だと気づける。
こんなふうに傷ついて、哀しさも孤独感も知るからこそ出逢えたとき、大切にしたいと願えるのかもしれない。
そうして次に出逢った相手もイキナリ消えることもあるだろう、
そのほうがWeb世界では多い、そんな希薄さが当り前なのがWebツールなのかもしれんし、笑
それでもWebは現実世界のひとつに過ぎない、だってWebを使うのはリアルに現実人間だ。
顔も知らない、本名も知らない、居場所も知らない、
匿名での出逢いがWeb 世界の常識だ、
交わす言葉も思考も匿名、その匿名性は無責任にたやすく乗っかれる、
こんな容易さは匿名=自分の責任にならない、っていう気軽×浮薄にも繋がって、
けれど行きつく先、Webツールの向こう側にはリアル生身の心が泣いたり笑ったりしている。
Web世界は匿名×稀薄、それでも現実の生きた心が見つめている。
その眼差しを感情をドッチの「きずな」に繋げるのか?
その分岐点は自尊と謙虚が選ぶ。
ひとつの信頼が終わる、
それは寂しくて、けれどただ寂しがっている暇なんてホントは無い。
だって次はもう始まっている、次の信頼に生まれる分岐点の選択をどうするか?
その判断とらえる感情、理性、経験からのヒントを掴みとれるのは今この瞬間刻々だ。
たとばそれは夕空の観天望気みたいだ、
あざやかな緋色の空、うすぐもり退朱の空、縹色ぼんやりとける夕暮、
そーゆー様々ごと明日の天気は違う、それを見つけることは黄昏ひと時の瞬間にある、
そうして観天望気に教えられた明日をどう過ごすのか?それを決めるのは結局のとこ自分だ。
今朝はクロワッサンを焼きすぎた、
いつものようトースターに入れて、ちょっと焦げ臭いと気づいた時はちょっと炭化ぎみ、笑
それでもコーヒーと齧った香は小麦が芳ばしくて、変わらない日常がほっと口もと解かせる。
それなり凹んだ本音の日曜の夜、けれど明けた朝はちゃんと腹減って朝食は温かい。
こんなふう時間は曖昧のままでも心解いてゆく。
曖昧あいまい何も解らない、それでも時間刻々のリアルは動く。
そんなふう過ぎてゆく現実日常のすみっこ、もし再会できたらやっぱり嬉しいんだろう?
そこに何がどうなってドッチのきずな織られるのか、なんてことは曖昧なまんま今ちゃんと月曜の朝だ。
先週に切りすぎた髪も馴染んできた、こんなふう時間は曖昧にも解かす。
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