文学のはじまりは歌、そして伝承。
それは自然神に捧げるものが始祖と考えられているんですけど、
神いわゆる絶対的存在に捧げる意志=共有意志であり、その意識概念を言語化することで共有ツールにしたのが文学。
ようするに↓、
共通ワードを所有する→共同体の意思統一&結束力向上させる、
この共通ワードが成長したものが「文学」
なんて考えると・文学はアル意味、普遍かつ不偏を探索するツール。
だからこそボーダレスな存在であることが理想、
よーするに・全き超越。
普遍かつ不偏とは、国境、民族、信仰、そして政治も越えるもの。
普遍=共通、不偏=偏らない平等フラット・だからこそ不変の文学と呼ばれるモノが生まれたのだろうなーと。
それは共通&偏らない平等フラット=誰もが楽しめるモノという存在だから。
↓
あたりまえのコトなんだけど「誰もが」であるってことは多角的視点の包含=一つの視点だけでモノを言わないってコト。
一つの視点=偏りになれば偏狭で、
偏狭になれば共通ではなく特殊になり、
特殊になれば一部の人間ダケしか楽しめないモノになる。
で、思うんだけど・文学したかったら政治的発言はよく考えろよ?だなあと。
政治的発言はある一点だけの視点に傾きがち=偏狭に陥るワケで、
ソレやっちゃうと誰もが楽しめる=普遍性はトーゼン失われるし、
偏狭で特殊なモノは共有し難い=不変性もトーゼン育ちっこ無い。
文学の根源は「普遍×不偏」に立っている、
たとえるなら額田王が詠んだ熟田津の歌、あの歌は航海×国の無事を祈るため謳われた=その場の声を象って生まれたモノ。
または『源氏物語』多種多様な恋愛模様=さまざまな心の有様すべてを「アリ」として綴られている→読者がどれかに自身の心を投影できる。
よーするに「読者が自身の投影をできる=感動する」という生理現象にも近似な心理を起こさせる→感動が語り継がれる→不変性が生まれる、ってこと。
それが不偏にあらず偏狭×普遍にあらず特殊は特定者のみのモノ、となれば語り継がれず一過性となり不変性も生まれない。
そういうのって派手で目立ちやすいトコあるんだけど、だからこそ飽きられやすいから消えてしまう。
刺激物ばっかり食べてたら胃炎を起こして食べらんない、みたいなモン。
偏狭特殊にも陥りがちな政治的発言しちゃう人は、目立ちたくてソレやるわけだろうし。
自分の発言に賛同してほしい=認めてほしいからやるワケで・ソレは押しつけになりがちで。
押しつけられ圧しつけられたモンに心から感動するやつなんてドレくらい存在するんだろう?
自分が尊重されたい・は消える。
そりゃそーだろー相手を従えよう屈服させようしてくるんだから辟易されて当たりまえ。
刺激物の味覚はアクセントくれるけどイッショクタにするから=味一辺倒ツマンナイ、っていうのとも似てる。
実際、そーゆーのやっちゃった作家×作品は消えてゆく。
そのとき流行ったとしても50年も経たず廃れて消えている。
逆に、誰かを何かを尊重して描かれたものは消えないなあと。
自分以外の誰か・何かを尊重して伝えたい、は遺る。
ソレの心に寄り添おうとしている・その祈りみたいなモノが読み手に伝わるからかもしれない。
司馬遼太郎サンは多作で、名作が多いと言われる作家さんだけど。
それでも駄作があって、その作品について・ご本人が書き直したいなあと手記に遺している。
勉強不足で書いちゃったと悔いがあるらしく、たしかに書く対象を堕として描いちゃってるなあ感がスゴイ。
逆に、すごーく尊重して感動して描いた作品は・描写も字句もすげー名文だとコッチも感動させてもらえる。
誰かの悪口や讒謗をすることは人間ならあるんだろう、
でもソレを誰かに押しつけて同調求めようするヒトは、心から誰かを何かを尊重なんてできるのだろうか?
ホントに人の声を尊重できるヒトは相手を否定しないなーって思う。
そういうヒトは相手の声を受けとめた分だけ、また成長して大きな器になるんだろうなあと。
なんて思いながらも、自分もまだまだ狭量なんですけど。笑
もうちょいちゃんと成長できてから天寿全うできたなら、イイ人生だなーと。
夏休み気分ちょっと夜更かし、ヒサシブリだからヒサシブリ雑談つらつら。
明日も朝からあるんだけど・なんとなーくマアこんな日もアリと。笑
にほんブログ村
純文学ランキング
それは自然神に捧げるものが始祖と考えられているんですけど、
神いわゆる絶対的存在に捧げる意志=共有意志であり、その意識概念を言語化することで共有ツールにしたのが文学。
ようするに↓、
共通ワードを所有する→共同体の意思統一&結束力向上させる、
この共通ワードが成長したものが「文学」
なんて考えると・文学はアル意味、普遍かつ不偏を探索するツール。
だからこそボーダレスな存在であることが理想、
よーするに・全き超越。
普遍かつ不偏とは、国境、民族、信仰、そして政治も越えるもの。
普遍=共通、不偏=偏らない平等フラット・だからこそ不変の文学と呼ばれるモノが生まれたのだろうなーと。
それは共通&偏らない平等フラット=誰もが楽しめるモノという存在だから。
↓
あたりまえのコトなんだけど「誰もが」であるってことは多角的視点の包含=一つの視点だけでモノを言わないってコト。
一つの視点=偏りになれば偏狭で、
偏狭になれば共通ではなく特殊になり、
特殊になれば一部の人間ダケしか楽しめないモノになる。
で、思うんだけど・文学したかったら政治的発言はよく考えろよ?だなあと。
政治的発言はある一点だけの視点に傾きがち=偏狭に陥るワケで、
ソレやっちゃうと誰もが楽しめる=普遍性はトーゼン失われるし、
偏狭で特殊なモノは共有し難い=不変性もトーゼン育ちっこ無い。
文学の根源は「普遍×不偏」に立っている、
たとえるなら額田王が詠んだ熟田津の歌、あの歌は航海×国の無事を祈るため謳われた=その場の声を象って生まれたモノ。
または『源氏物語』多種多様な恋愛模様=さまざまな心の有様すべてを「アリ」として綴られている→読者がどれかに自身の心を投影できる。
よーするに「読者が自身の投影をできる=感動する」という生理現象にも近似な心理を起こさせる→感動が語り継がれる→不変性が生まれる、ってこと。
それが不偏にあらず偏狭×普遍にあらず特殊は特定者のみのモノ、となれば語り継がれず一過性となり不変性も生まれない。
そういうのって派手で目立ちやすいトコあるんだけど、だからこそ飽きられやすいから消えてしまう。
刺激物ばっかり食べてたら胃炎を起こして食べらんない、みたいなモン。
偏狭特殊にも陥りがちな政治的発言しちゃう人は、目立ちたくてソレやるわけだろうし。
自分の発言に賛同してほしい=認めてほしいからやるワケで・ソレは押しつけになりがちで。
押しつけられ圧しつけられたモンに心から感動するやつなんてドレくらい存在するんだろう?
自分が尊重されたい・は消える。
そりゃそーだろー相手を従えよう屈服させようしてくるんだから辟易されて当たりまえ。
刺激物の味覚はアクセントくれるけどイッショクタにするから=味一辺倒ツマンナイ、っていうのとも似てる。
実際、そーゆーのやっちゃった作家×作品は消えてゆく。
そのとき流行ったとしても50年も経たず廃れて消えている。
逆に、誰かを何かを尊重して描かれたものは消えないなあと。
自分以外の誰か・何かを尊重して伝えたい、は遺る。
ソレの心に寄り添おうとしている・その祈りみたいなモノが読み手に伝わるからかもしれない。
司馬遼太郎サンは多作で、名作が多いと言われる作家さんだけど。
それでも駄作があって、その作品について・ご本人が書き直したいなあと手記に遺している。
勉強不足で書いちゃったと悔いがあるらしく、たしかに書く対象を堕として描いちゃってるなあ感がスゴイ。
逆に、すごーく尊重して感動して描いた作品は・描写も字句もすげー名文だとコッチも感動させてもらえる。
誰かの悪口や讒謗をすることは人間ならあるんだろう、
でもソレを誰かに押しつけて同調求めようするヒトは、心から誰かを何かを尊重なんてできるのだろうか?
ホントに人の声を尊重できるヒトは相手を否定しないなーって思う。
そういうヒトは相手の声を受けとめた分だけ、また成長して大きな器になるんだろうなあと。
なんて思いながらも、自分もまだまだ狭量なんですけど。笑
もうちょいちゃんと成長できてから天寿全うできたなら、イイ人生だなーと。
そんなこんな最近のWebにゅーすやSNSやなんかに、ちょっとつらつらあらためて。笑
夏休み気分ちょっと夜更かし、ヒサシブリだからヒサシブリ雑談つらつら。
明日も朝からあるんだけど・なんとなーくマアこんな日もアリと。笑
にほんブログ村
純文学ランキング
著作権法より無断利用転載ほか禁じます