駈ける、
英二24歳3月末
第86話 花残 act.8 side story「陽はまた昇る」
鬱憤晴らし、そんな想いが駈ける。
『鷲田君が警視庁を受験したとき、宮田次長検事のお孫さんだと話題になったよ。司法試験を首席合格している君が何故だろうとね?』
言われた声が軋んで揺れる、事実だから。
言われたまま祖父二人、二人の孫であるという事実。
その事実が自由も監獄も与える、それが自分の世界で現実、だから選んで生きたいとあがく。
「宮田、用意はいいか?」
ほら現実が自分を呼ぶ、生きたいとあがく場所で。
こんな瞬間また可笑しくて、英二はさらり笑った。
「はい、」
返答の先、隊帽の鍔から視線うなずく。
上司の眼ざしから見あげた先、コンクリートの壁が聳える。
―2年前なら俺、これを登るとか思いつかなかったよな?
三月から四月、季うつろう今の二年前。
もう遠くなった時間を見つめる訓練場、上司の声が響いた。
「フリーの一本勝負でいいな?日暮れが近い、」
ザイル垂れたコンクリート壁、その根本に隊長の声が響く。
薄暮あわい訓練場に隊服姿たちシルエット沈む、春の夜が帳をおろす。
グラウンドも機材も藍色ふかく墨染められて、けれど隣の男は言った。
「三本いけます、僕は。」
まっすぐ低い声が徹る、その視線が自分を見る。
澄んだ眼ざし夕風を刺す、そんな視界に声たち波立つ。
「ほら…さすがの佐伯だ、」
「かなり夜目が効くらしい…芦峅寺生まれ」
声たち紡ぐ単語が嫉ましい。
“佐伯、芦峅寺”
山に生まれた者の名前、それを隣の男は持っている。
その視線まっすぐ刺される感覚に、心裡じくり滲んだ。
―そういう佐伯だから俺が嫌いなんだ、俺も嫉妬してるしな?
この自分が得られないもの、生まれ、育ち、山に育った時間。
それから真直ぐ澄んだ鋭利な眼、こんな羨望すべてと微笑んだ。
「私は何本でも、黒木隊長の指示に従います。」
ここは警視庁山岳レンジャーの練習場、所属部隊の指揮下に自分はいる。
あくまで指揮下に動く、警察官なら当然の返答に上司は言った。
「登下降一本、二本めは下降なしだ。上で待て、」
指示が下る、ハーネスかちり締め直す。
登山靴の踵、足裏、違和感どこにもない。
「はい、」
応えて、けれど視線はザイルの先を見る。
見あげる空はるかコンクリートあわい朱色、壁、その涯に頂は?
「…宮田さんと佐伯か、」
「どっちが勝つか…」
「佐伯くんはすごい…でも宮田さんは」
夕闇しずむ訓練場、声さざめいて名を呟く。
並べられる名前はザイル並べて、同じ壁を今駈けあがる。
―ゲレンデなら佐伯に今は勝てない、でもこの壁なら俺が慣れている、
奥多摩の雪嶺、佐伯は速かった。
自然そのまま山稜をゆく、その姿は山に融けていた。
あの健やかな脚に、強靭な腰に、広やかに厳つい肩に嫉妬する。
山に生まれて山に生きてきた、そんな山の人生そのままな男。
「宮田、佐伯、いいな?」
上司の声が壁に響く。
夕闇ふっと音が消えて、名前ひそやかに敲いた。
「…国村さんの次はどっちだ?」
誰の声だろう?
「っ、」
号令かぶさる、駈けだす。
登山靴の底がしりコンクリート掴む、グローブ透かしザイル軋む。
腓骨筋こめられ視界が上がる、腓腹筋のびやかに壁なぞる駈けあがる。
―上だ、
手繰らすザイル掌なじむ、グローブ越し硬度しなやかに確かに支えてくれる。
靴底にコンクリート刻んで駈けて、頂を踏んだ視界あざやかに緋が染めた。
―きれいだ、
緋色の日没が爪先そめる、残照そのまま下降する。
コンクリートの闇から風ふきあげ頬を切る、その陰翳から声さざめく。
「同時だ!」
「差がないぞ」
靴底の闇が言葉さざめく、その意味がちり奥歯を噛む。
だって「差がない」んだ?
―佐伯は俺の前に何本やったんだ?あの浦部とも、
あの浦部とも競って勝った男、その前も前も競い登攀している。
そんな男が今この自分と互角に登り降って、その実力差に唇が哂った。
―ただ勝てばいい、
勝てばいい、こんな条件下でも。
ただシンプルな欲望と地面を踏んで、蹴り跳ねた。
「2本め!」
誰かが叫ぶ、ひつとは黒木の声だ。
あの上司で先輩の男も勝利を願っている、唯ひとつ名前のためにも。
―黒木さんも国村が特別なんだよな、だから第2小隊として負けたくない、
国村光一、元警視庁山岳レンジャー第2小隊長。
そして警視庁山岳会のエースだった男、その背中に憧れたのは自分だけじゃない。
あの男に憧れた、この同じ想いに男たちが見あげている、その視線が自分の足を背を敲く、登らせる。
「宮田がリードだ!」
声が叫ぶ、期待と憧憬に懸けた想い。
こんなふうに人を背負い駆けることは、2年前の自分は知らなかった。
それでも今この肩を風が吹きあげる、登山靴の底から夜風は追いかけ押し上げ頂を指す。
―あと3歩、
グローブの手が頂に届く、頬なびく風が上から吹く。
あと2秒、その刹那にザイル撓んだ。
「っ、」
ザイル弾む、靴底ぐらり壁こする。
グローブの掌コンクリート擦れて、その指先ふれた金属つかんだ。
「ぉおっ!」
喉が吼えて右手が軋む、指ふかく掴んで腕が肩が唸る。
右腕ぎしり体重つかんで、曳きつけた壁どさり肩を腰を乗せた。
「は…ぁっ、」
呼吸ひとつ、コンクリート冷たく頬ふれる。
冷たさ隊服ゆるやかに浸す、乗りあげた視界は墨色あわく緋が名残る。
「宮田だ!」
声が上がる、自分を呼ぶ。
声たち遠く聞こえて、近くコンクリートが響く。
たんっ、
コンクリート敲く硬い共鳴、それから微かな匂い。
かすかに苦い、深い、
この匂いは知っている、けれど親しくない気配に身を起こした。
「…、」
気配は無言、ただ視線だけが闇を透かす。
その眼は睨んでいるだろうか、嗤っているだろうか?
―あれは“ザイルが”たわんだ、風じゃない、
5秒前の感覚そっと反芻する、心裡ひそやかに蠢く。
この訓練場に自分に起きたこと、その原因が自分を眺めてくる。
『僕に営業しても無意味だ、そんなやつザイルの信頼できないだろ?』
奥多摩の雪に言われたこと、その声が闇から自分を見つめる。
日陰名栗峰の遭難現場だった。春の雪深い尾根、まっすぐな瞳は静かだった。
それから2度めは送別会の席、そこで見た雪焼さわやかな笑顔は明朗で、まっすぐな山の男。
まっすぐな瞳まっすぐな笑顔、それでも、ザイル“が”撓んだ。
『佐伯のヤロウとんでもないぞ?』
帰寮して黒木に言われたこと。
あの言葉また違う意味で肯けてしまう、こんな事態に。
「は…っ、」
ほら?口元が笑う、こんな事態が可笑しい。
こんなことが日常になるのだろう、その現場で英二は夜を仰いだ。
「…星だ、」
視線はるか先、銀色ひとつ瞬きだす。
もう夜だ、そんな壁の風あわく花が香って、桜ひとひら白く舞った。
※校正中
(to be continued)
七機=警視庁第七機動隊・山岳救助レンジャー部隊の所属部隊
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