こんにちは。
令和初年の今年、田んぼも17年目を迎えます。
思い起こせば、たぶんあたしが43歳のころ。
「豊葦原の瑞穂の国に生きるあたしは、お米を作らんといけん!作りたい!」という、もともとあった想いが爆発しまして、田んぼを持っているわけでもないのに、それも偶然なんだが、当時、うちの仕立てをしてくれていたまゆみちゃんのお父さんが、地元の農業委員会の会長だったというご縁で、ある日突然、ビール1ケースを持って、仲間数人と直談判に乗り込んだ。
いや・・・直談判というよりも、さすがのまゆみちゃんのお父さん(以後、あたしは、オヤッさんと呼んでいます)だから、鷹揚に歓待していただきました。
当夜うかがった時には、お手製のご馳走がずらりと並んでおりました。
そして、でっかい米農家だからか?自前のお酒まで振舞ってくれた。
(おやっさん、自分のところのお米=山田錦で、お酒まで作っていた=三姉妹という名前のお酒。おいしいよ。)
「田んぼがやりたいんです。お米が作りたいんです。田んぼ貸してください。」
と言うあたしを、ウンウンと言いながら笑顔でかわすおやっさん。
その後・・・
オノレの熱と勧められるだけ飲んだ酒のせいで、見事撃沈。
帰りの記憶がまったくないあたしです。
当時のメンバーが、教えてくれた。
(たびたび田んぼがらみで登場しますが、あの時、市野さんも隊長もそこにいた。)
「新美さん・・・帰りに、車の窓からゲロはいてました。」
・・・
当時の愛車オデッセイの助手席のドアに、後ろ斜めに広がるゲロの跡の理由を、後日の隊長が教えてくれた。
本人、まったく記憶無し。
飲むのがわかっていて、それでも車で出かけたと言うのも、今考えると、なかなかの時代でしたね。
(皆が飲んでいたのに、帰りも誰かが運転したんだな・・・もうしません)
それからしばらくして、おやっさんから「ここの田んぼならどうか?」と教えてもらったのが、現在の一号地。
17年前、初めて手に入れたその1反の田んぼで、あたしたちのお米作りは始まりました。
わけもわからずのこと。
見よう見まねで、知り合いを探して農機具を借りて、田起こし、代かき、田植え・・・やりました。
初年度・・・無事にお米がなりました。
それを、手刈りした。
・・・
稲を刈るということが、これほどつらい仕事だと初めて気がついた。
その翌年だったと思う。
ハザをかけて、天日干ししていた稲が、台風でハザごと倒れた。
翌朝見に行ったときの、喪失感・・・
自然・・・侮ったらイカン!と、肝に銘じたときでした。
ある日隊長が、「無農薬でやってみましょうよ!」と言った。
・・・やってみた。
・・・
・・・
雑草に負けて、1反から、90キロのお米しか出来なかった。
(おやっさんには、めちゃめちゃ馬鹿にされた・・・それは本当に悔しかったんだ)
いろいろあって、農機具も自前でそろえて、メンバーもヨシヒトクンやキミ君が参加してくれて現在に至る。
それから、メンバー全員の一年食えるだけの収量が欲しいという思いにおやっさんも応えてくれて、一号地のすぐ隣の2号地を与えていただきました。
あたしの思い一つのところに、よくもまぁ、こんな素敵な仲間にご縁がいただけたものだとあたしは心から感謝しています。
そんなことを振り返り思いつつ、昨日は、代かき。

キミ君がトラクターで起こしながら、市野さん、隊長、あたしが、田んぼの整地。
トンボで人力で整地するのは、きつい。
でも、みんな頑張る。
それが、ありがたく嬉しい。

令和元年、17年目のお米。
どうぞ無事に育ちますように!
美味しいお米、作るぞ~!
令和初年の今年、田んぼも17年目を迎えます。
思い起こせば、たぶんあたしが43歳のころ。
「豊葦原の瑞穂の国に生きるあたしは、お米を作らんといけん!作りたい!」という、もともとあった想いが爆発しまして、田んぼを持っているわけでもないのに、それも偶然なんだが、当時、うちの仕立てをしてくれていたまゆみちゃんのお父さんが、地元の農業委員会の会長だったというご縁で、ある日突然、ビール1ケースを持って、仲間数人と直談判に乗り込んだ。
いや・・・直談判というよりも、さすがのまゆみちゃんのお父さん(以後、あたしは、オヤッさんと呼んでいます)だから、鷹揚に歓待していただきました。
当夜うかがった時には、お手製のご馳走がずらりと並んでおりました。
そして、でっかい米農家だからか?自前のお酒まで振舞ってくれた。
(おやっさん、自分のところのお米=山田錦で、お酒まで作っていた=三姉妹という名前のお酒。おいしいよ。)
「田んぼがやりたいんです。お米が作りたいんです。田んぼ貸してください。」
と言うあたしを、ウンウンと言いながら笑顔でかわすおやっさん。
その後・・・
オノレの熱と勧められるだけ飲んだ酒のせいで、見事撃沈。
帰りの記憶がまったくないあたしです。
当時のメンバーが、教えてくれた。
(たびたび田んぼがらみで登場しますが、あの時、市野さんも隊長もそこにいた。)
「新美さん・・・帰りに、車の窓からゲロはいてました。」
・・・
当時の愛車オデッセイの助手席のドアに、後ろ斜めに広がるゲロの跡の理由を、後日の隊長が教えてくれた。
本人、まったく記憶無し。
飲むのがわかっていて、それでも車で出かけたと言うのも、今考えると、なかなかの時代でしたね。
(皆が飲んでいたのに、帰りも誰かが運転したんだな・・・もうしません)
それからしばらくして、おやっさんから「ここの田んぼならどうか?」と教えてもらったのが、現在の一号地。
17年前、初めて手に入れたその1反の田んぼで、あたしたちのお米作りは始まりました。
わけもわからずのこと。
見よう見まねで、知り合いを探して農機具を借りて、田起こし、代かき、田植え・・・やりました。
初年度・・・無事にお米がなりました。
それを、手刈りした。
・・・
稲を刈るということが、これほどつらい仕事だと初めて気がついた。
その翌年だったと思う。
ハザをかけて、天日干ししていた稲が、台風でハザごと倒れた。
翌朝見に行ったときの、喪失感・・・
自然・・・侮ったらイカン!と、肝に銘じたときでした。
ある日隊長が、「無農薬でやってみましょうよ!」と言った。
・・・やってみた。
・・・
・・・
雑草に負けて、1反から、90キロのお米しか出来なかった。
(おやっさんには、めちゃめちゃ馬鹿にされた・・・それは本当に悔しかったんだ)
いろいろあって、農機具も自前でそろえて、メンバーもヨシヒトクンやキミ君が参加してくれて現在に至る。
それから、メンバー全員の一年食えるだけの収量が欲しいという思いにおやっさんも応えてくれて、一号地のすぐ隣の2号地を与えていただきました。
あたしの思い一つのところに、よくもまぁ、こんな素敵な仲間にご縁がいただけたものだとあたしは心から感謝しています。
そんなことを振り返り思いつつ、昨日は、代かき。

キミ君がトラクターで起こしながら、市野さん、隊長、あたしが、田んぼの整地。
トンボで人力で整地するのは、きつい。
でも、みんな頑張る。
それが、ありがたく嬉しい。

令和元年、17年目のお米。
どうぞ無事に育ちますように!
美味しいお米、作るぞ~!