「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・08・08

2005-08-08 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「戦後失われたものは何々かと問われて、家だろう、露地だろう、祭だろう、結局は言葉だろうと言って、いずれも一度はほかの雑誌に書いたことだと気がついて、窮して微妙なものだろうと、答えた。」

 「関東の大地震のとき、日本人は朝鮮人を殺したと、今ごろあばくものがある。何人殺したか分らないのに、なるべく人数を多く言いたがる。南京の虐殺の例は以前書いた。南京では十二万人を殺したという。この十二万人という数字は東京裁判できめられた数字で、東京裁判は勝者の裁判だから、数字は当然誇張されたものである。それを二十万人、三十万人も殺したと中国人が言うならまだしも、ほかでもない日本人が言う。
 昔の日本人なら、自分から言いださない。言いだすものがあっても、信じない。一々反証をあげて論破する。日本人なら論破したほうを信じる。むろん中国人はそれを信じない。
 どこの国の国民も、自分の国の『非』はみとめないかくそうとする自分の国の非は、みとめないのが健康なのである健康というものは、厚顔で鉄面皮なものなのであるそして世界中の国は依然として健康で、ひとりわが国だけその健康を失ったのである
 日本人は日本人の不利なことを勇んで言うこれを良心的という良心的というものほどうろんなものはないけれども日本人はこれが大好きである
 清国うつべし、露国うつべしといった時代には、我々はいわゆる良心的ではなかった。うたなければうたれるから、うったのである。それをいずれも侵略戦争だったと、うたれた国が言うのではない。日本人が言って、教科書の中に書いて、子供に教えて、それをとがめられると、今度はとがめたものを裁判に訴えて、その訴えたほうを、新聞雑誌は支持する始末である。
 自分と他人との間には区別があって、両者は互に理は常に自分にあると言う。自分に損になることなら、本当でもうそだと言う。それが健康だとは何回も言った。
 自分と他人、自国と他国の区別を失ったこと、これが戦後失った微妙なものの随一ではないかと思われる。」

   (山本夏彦著「二流の愉しみ」講談社文庫 所収)
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