「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・08・23

2005-08-23 05:55:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「たとえば樋口一葉全集全十巻、鈴木三重吉全集全十なん巻、断簡零墨まで集めてはじめて全集である。一人一冊で何が全集かとむかし改造社の『日本文学全集』のたぐいを岩波書店は非難したが、私はこの説ならとらない。
 作者の全盛時代はせいぜい三年か五年である。一葉は数え二十五で啄木は二十七で死んだ。藉(か)すにあと十年をもってしたらと思うのは欲である。一葉がさらに十年生きたら、口語文の小説を書かなければならなくなる。一葉の口語文なんか私は読みたくない。作者も書きたくない。啄木が六十七十まで生きて、あの三行に分ち書きした短歌を千も万もつくったら読者はつきあいきれないだろう。
 若くして死んだ作者はそれなりに燃焼し尽くしたのである。二葉亭四迷は『浮雲』一巻を書いてそれが初めであり終りだった。菊池寛の全集は全なん十巻あるか知らないが、その真面目を知るには一巻で足りる。中島敦は最もそうで、それでいて不朽である。
 作者はその処女作を出られないという。作者としての寿命が尽きたのに、なお命ながらえている作者はたいていは知らないで、または知って、佳作といわれた自作を模しているのである。
 一人一冊のなかにその作者の神髄はある。その一冊が縁で死んだ人と友になれたらそれでいいのである。作品の選択に異論はあろうがそれはやむを得ない。なおその作者を知りたい有志は去って神田の古本屋街へ行くがいい。作者はそこの棚にひそんで貴君を待っている。」

   (山本夏彦著「世間知らずの高枕」新潮文庫 所収)
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