「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

無辜 2005・08・13

2005-08-13 05:50:00 | Weblog
  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

  「今はないあの名高い帝国ホテルを建てたフランク・ロイド・ライトは、大正八年自分の助手としてアントニン・レーモンドを

  呼んだ。レーモンドはチェコで生れパリで学んだアメリカ国籍の若い建築家である。

   ライトは帝国ホテル落成と共に日本を去ったが、レーモンドは以後なん十年東京に残ってアメリカよりむしろ日本で一流に

  なった。レーモンドは大正の震災前の東京を知っている。どんな普請でも一日で棟上する大工の建前を見て、まるで神業だ、

  日本の大工は世界一だとほとんど尊敬した。

   その影響で木造建築の近代化を試みた。吉村順三、前川国男はその弟子である。戦争中はやむなくアメリカへ去ったが、

  戦後再び日本へ帰った。レーモンドはひと昔前のラフカディオ・ハーンのような親日家として知られている。ただし日本語は

  読もうとも話そうともしなかった。

   東京空襲は昭和十九年十一月から始まった。カーチス・E・ルメイ将軍ははじめ爆弾を投下したが、爆弾ではらちがあかない、

  焼夷弾にせよ、日本の家屋はすべて木造だから夜間低空から落せば東京はまる焼けになると進言したのは、ほかでもないこの

  レーモンドだったという。

   ルメイはその提案にとびついて、以後円の外部から焼夷弾を投下し次第に内部に及んだ。全くの非戦闘員、無辜の市民を

  袋の鼠にして無慮なん十万人を殺傷した。南京虐殺どころではないと九死に一生を得た当時の少年、いま日建設計の重役で

  あり同時に一流の建築家である林昌二は新刊『二十二世紀を設計する』(彰国社)に書いている。

   昭和三十九年ルメイは昭和天皇から勲一等旭日大綬章をたまわっている。レーモンドはその美しいリーダーズダイジェスト

  の社屋によって日本建築学会賞をもらっている。レーモンドは焦土と化した東京を初めて見た時『ああ』と顔を覆ったという。

  林昌二はいいとか悪いとか言ってない。ただ建築家であること日本国民であること、二十世紀人であることが、時にうとましく

 なることがあると結んでいる。」


  (山本夏彦著「オーイどこ行くの」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする