「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

蜘蛛の糸 2005・08・19

2005-08-19 06:00:00 | Weblog

   今日の「 お気に入り 」は、山本夏彦さん ( 1915-2002 ) のコラム集から 。
 
  「 ある日のことでございます 。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを 、

   ひとりでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました 。( 略 )

   極楽は丁度朝なのでございましょう ―― とは芥川龍之介の名高い

   『 蜘蛛の糸 』の書きだしである 。

   多くの子供たちのように 私もまたこのお話を読んで 、極楽という

   ものがあることをぼんやり承知した 。それは手のとどかない

   『 無何有郷( むかゆうきょう )』だと思っていたら 、そうでない

   ことが分った。極楽の条件が暖衣飽食にあるなら 、いま私たちは

   その中にある 。

    着るものは 着る人口の何倍もあって 、よりどり見どりである 。

    メーカーは いつまで同じものを着られては迷惑だから 、流行を

   つくって 一両年でそれを流行遅れにして 、捨てるようにしむけ 、

   私たちは喜んで捨てるようになった 。

    何年か前 娘たちはグルメ案内を手に食べ歩いて 、それも飽きて

   今は食いものを捨てるようになった 。三十年来物乞う人はいなく

   なった 。わずらえば 保険がある 。初診料 八百円 を払えば あとは

   タダ同然だった時代が続いた 。八百円なんか金ではない 。病院は

   老人でいっぱいで 、そのせいで 人生五十 が 七十八十まで延びたと

   医者はいう 。私たちは自動車を持った 。海外を旅するものは

   千万人を超えたという 。

    もう一つ 、私たちは助平になった 。密通姦通不倫自在になった 。

    酒池肉林といって 昔は 王侯貴族がひとりほしいままにして 、

   人民は 指をくわえて そのなかの野心家が革命を起し 、こんどは

   自分が同じことをほしいままにして 再び三たび 革命を招いたが 、

   今は 匹夫匹婦が 王侯同然になったのだから 、それは開闢以来の

   椿事で 、もう倒し手はないのである 。


   ――  ある日のことでございます 。お釈迦様は蓮池のふちを 、

   ひとりで ぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました 。そして

   下界を眺めて 下界が極楽になったことをごらんになったのです 。」


   ( 山本夏彦著「 世間知らずの高枕 」新潮文庫 所収 )

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする