「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

人間万事色と欲 2005・08・30

2005-08-30 06:05:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「『役人の子はにぎにぎをよくおぼえ』という三歳の童子も知る川柳がある。いくら賄賂が盛んだった江戸時代でも清廉潔白な役人はいた。いたこと現代もいるに似ている。
 盆暮の進物の差出人の名を一々改め、それが業者からのものならすぐ送り返せと家人に命じる官僚は今もいて、稀に役人のかがみだと褒められることがある。
 まじめで潔白な人は自分が特殊な例外だとは思わない。人はすべて自分のようであるべきだと思う。
 悪玉中の悪玉、賤業中の賤業新聞やテレビがその口まねをするのは奇怪なようで当然なのである。なぜ悪玉が善玉に変身できるかというと、アノニム(匿名)な存在だからである。
 新聞記事には署名がない。区々たる火事や事故の豆記事にも、ゼネコン汚職の大記事にもない。だから無謬な神のごとき存在になって、とがめることができるのである。
 自分が政界にはいったら、必ずやするだろうことを非難することができるのである。げんにいまだに政界に転身する新聞記者がいて同じことをしているではないか。
 人間万事色と欲である。どうして他人の色と欲を難じることができるのだろう。あれは全部まじめな人潔白な人の意見である。むかしに大臣は『井戸塀』だった、選挙違反だけは恩赦するな、棄権は罪だと思え、パーティ券を売って何が新党だと『天声人語』のたぐいが書けるのはアノニムだからである。いくら自分のことは棚にあげて――と言われても承知しないのはそもそも自分がいないからである。
 清廉潔白な人が他を非難するのは、潔白なのは実は残念なことだからである。プレイボーイは無数の美人と寝室を共にした、自分は石部金吉を余儀なくされた、死んでも死にきれない、醜聞にしてやらなければ立つ瀬がない。新聞の百万読者の潔白はこのたぐいで、記事の迎合はその機嫌をとるためである。
 それにしてもなが年にわたるあんまりな迎合だと私は怪しむのである。ひょっとしたらあれは私たちのなかなる潔白でありたいという願望のあらわれではないかと怪しむのである。」

  (山本夏彦著「オーイどこ行くの」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
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