「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・12・16

2013-12-16 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「団地やアパートの弱点は、なによりせまいことである。せまいいれものに従うには、人数がすくないのが第一だ。
 期せずしてわが国の家庭は、夫婦を単位とするようになった。親子の縁は切れたのである。親と別れて住むことが、子どもたちの理想となった。若い夫婦は計画的に、一男一女を産む。一男一女が成人すれば、こんどは自分たちが別れ去る番である。ただし、その費用を用意しておくこと、今の老夫婦よりもりこうだと若夫婦は思っている。
 親・子・孫の三世代が同居している家庭も、むろんあるが、多くは同居しているだけで、互いに敬意もコミュニケーションもない。
 たとえば、以前は昔話というものがあった。年寄りの一人に、巧みにそれを話すものがいて、孫は耳からそれを聞いた。そのおとぎばなしは、年寄りが幼少のとき、当時の年寄りから、その年寄りはそのまた当時の年寄りから、以下これに準じて聞いたのである。
 それは先祖伝来の昔話であった。だから、抑揚あり頓挫(とんざ)あり、話に血が通っていた。そして、それは『赤い鳥』以来滅びた。童話はおとぎばなしを滅ぼした。ラジオがそれに輪をかけた。以来四十年、女学校出の母親は、活字になった名作を、わが子に読んで聞かせている。彼女たちは、読むことはできても話すことはできない。活字を棒読みするだけで、それには血が通っていない。年寄りの昔話を今は記憶する人さえまれである。まして、巧みに再現できる人は絶無だろう。
 たかが昔話といってはいけない。子どもはそれによって、まず過去とつながる。
 私は便所というのをきらって、わざと手水場(ちょうずば)、あるいははばかりといっている。それはしばしば通じない。ご不浄またはおトイレと若い母が子にいってきかせ、これしか通じなくなる日は近いだろう。昔話はおろか、手水場さえ通じなくなるのは、彼らのホームに、二十年前の時代の人すら住んでいない証拠である。
 それは、家でも家庭でも、人の世でさえないだろう。私は、彼らが奈良や京都を見物して感動した、と称するのを怪しんでいる。十年前の言語と断絶して、千年前の古社寺に感服できるだろうか。西洋人が見るように、見物しているのではあるまいか。
 老人がいない家庭を、私は家庭ではないとみている。ただし、今の老人のことではない。今の老人は、若夫婦と断絶する以前に、故人と縁を切っている。
                                        (『太陽』昭和39年2月号)」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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