今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「家と家庭は、わが国では区別しないが、西洋ではするという。家はハウスで、家庭はホームだそうである。
島崎藤村は『家』を書いたが、べつに建築の詳細を論じたわけではない。家族の離合を書いたのである。家といって、建物と家庭の双方をさすのが一般であった。
いまだにそうである。住宅と称して、建物だけをさすのは、ようやく昨今のことで、まだ普及していない。いわばこれは文章語で、日常会話のことばではない。
住宅は家庭のいれものである。住宅があって家庭がないことはあっても、家庭があって住宅がないことはまれである。
ご存じのとおり、その住宅が払底して二十年になる。そこで、応急にアパートが建ち、団地が建ち、モダン・リビングが建った。
いずれも貧乏の所産である。それが箱であり、檻(おり)であり、いずれはスラムになるものであることを、住む者も建てる者も知らぬではないが、それすら不足だからまだまだ建つだろう。
(『太陽』昭和39年2月号)」
(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)
「家と家庭は、わが国では区別しないが、西洋ではするという。家はハウスで、家庭はホームだそうである。
島崎藤村は『家』を書いたが、べつに建築の詳細を論じたわけではない。家族の離合を書いたのである。家といって、建物と家庭の双方をさすのが一般であった。
いまだにそうである。住宅と称して、建物だけをさすのは、ようやく昨今のことで、まだ普及していない。いわばこれは文章語で、日常会話のことばではない。
住宅は家庭のいれものである。住宅があって家庭がないことはあっても、家庭があって住宅がないことはまれである。
ご存じのとおり、その住宅が払底して二十年になる。そこで、応急にアパートが建ち、団地が建ち、モダン・リビングが建った。
いずれも貧乏の所産である。それが箱であり、檻(おり)であり、いずれはスラムになるものであることを、住む者も建てる者も知らぬではないが、それすら不足だからまだまだ建つだろう。
(『太陽』昭和39年2月号)」
(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)
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