「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・12・10

2013-12-10 08:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。



「私は芸術家の才能ばかりでなく実業家、英雄豪傑、およそひとの才能はせいぜい五年だと見ている。大負けに負けて上(のぼ)って三年上りつめて三年下(くだ)って三年、〆て十年だと書いたことがある。あとは衰えるばかりである。
 私は政財界に暗いので芸術家を例に言うと、東郷青児はおなじみの美人画を描いてはじめて東郷である。新境地をひらこうとすると画商がいやがる。誰が見ても東郷と見える画でなければ客間に飾っても飾り甲斐がない。東郷もそれになれて、しまいには代作させて、サインだけした、それも面倒になって、君ついでに署名してと命じるにいたる。
 菊池寛も大正五、六年『屋上の狂人』『父帰る』などでデビューして、大正九年もう通俗小説に転じ、大正十二年には『文芸春秋』を創刊してジャーナリストになってしまった。
 その菊池はジャーナリストの才能は三年か五年だから三十歳定年がいいと言った。私は私の話が難解だといわれることが多いから、いつも我とわが身を疑うことにしている。どこが難解か私は聞かねばならぬ。相手はそれがどこか言うことができない。それが言えれば分ったのだからできない。私は手をかえ品をかえ迫ってようやく合点する。
 ――私は老人のいない家庭は家庭ではないと書く。そう言えば老人は喜ぶ、若者はいやな顔をする (ここまでは分る)。けれども今の老人は老人ではない。迎合して若者の口まねをする、追いだされるのはもっともだ。
 字句に難解なところはないが、一転し再転するところが分らない、貴君は老人の敵か味方か。ははあと私は分った。分ったけれど私は悔い改めるわけにはいかない。私でなくなる。
 私は同人雑誌を経験したことがない。同人雑誌は切磋琢磨(せっさたくま)する一団である。その経験がないから自分で自分の欠点を発見しなければならない。私の十八九の時代は文学青年と映画青年の時代で、才能なんて百人に一人、千人に一人あるかなしなのに、ない者があるつもりで終日議論するのを見たくなくて私はなるべく避けた。私はオリジナリテというものはまあないと思わないわけにはいかなかった。だから私はどの仲間にもはいらなかった。はいれと勧められもしなかった。」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)

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