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「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・12・20

2013-12-20 07:25:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「電話の普及が私たちの生活を根底からかえたと私は書いたことがある。昭和三十年まで電話は各戸になかった。したがって客は常に突然あらわれた。客好きの亭主は会社の帰りに同役や下役を誘ってあらわれた。女房は手早く肴(さかな)をつくり何はともあれ酒をあてがい、それから客をもてなす支度をした。主人も客も夜がふけるまで飲んで、客は泊って行くこともあった。
 向田邦子のドラマにはこんな家庭が描かれている。細君は客が来たら酒は出すもの、月に何度か泊り客はあるものと心得ていた。嫁に来た時からそうだから別段不服はなかった。
 各戸に電話があるようになってから、客は電話してからでなければ訪問することが許されなくなった。人恋しいときがあって電話すると来週の何曜ならどうかと言われて、会いたいのは今だと言いかねて沈黙するようになった。開闢(かいびゃく)以来の人間関係は失われたのに私たちは気がつかない。さりとて電話のなかった昔にはかえれない。
 自動車もまたそうである。旧幕のころの乗物はカゴだった。カゴはあと棒とさき棒の二人で一人をかつぐ乗物だから、明治になって車夫ひとりが客ひとりを挽く人力車があらわれたらひとたまりもない。
 その人力車は鉄道馬車が、馬車は自動車があらわれて滅びた。芝居の時代は長かったが、これも映画があらわれたら客足は絶えた。浅草の宮戸座本所の寿座中洲(なかす)の真砂座赤坂の演伎座以下東京には小芝居(こしばい)がたくさんあってそれが芝居の時代を支えていた。ほかに寄席が最も盛んな時には百以上あった。各区に映画館が二つも三つもあったことを思えば分るだろう。
 活動写真の時代になって、小芝居や寄席は映画館に転じた。したがってたいして失業者は出なかった。その映画の全盛時代はほぼ五十年で終った。テレビに駆逐された。私は自動車に好意をもってない。あんなものないほうがいいと思っている。電話もテレビもそうである。驚いてはいけない。そういう考え方もあるのである。
 朋(とも)有り遠方より来(きた)るというのが人間本来のコミュニケーションなのである。
『アポイントメント』などというのは日本語ではないのだとは私だけが思うのではない、発展途上にある国々ではそう思っている。
 日本人が自動車を売込むには道路からつくらなければならない、電気をひかなければならないとまず発電所をつくろうとして『なぜ』と問われる。夜あかるくして働くためと答えると、夜も働くのかと問われる。働くばかりではない遊ぶためでもあると答えると再びなぜと問われる。
 夜は暗いもので眠るときだと彼らは言って理解しないので、商社のエリートたちはさじを投げるそうだが、それは考え方の違いでアメリカ人とその亜流である日本人の考えが正しいとばかりは言えない。まして発展途上国の国民が野蛮だとは言えない。つい江戸時代まで私たちも夜は眠ったのである。東海道五十三次は歩いて旅したのである。そして江戸時代はすぐれて文化的な時代だったのである。それを認めない人も二百なん十年も戦争のなかった時代だったことは認めないわけにはいかない。それだけでもすぐれた時代だったのではないか。
 けれども私は人力車の時代にかえれ、テレビを去れと言っているのではない。それどころか出来たものは出来ない昔にもどれないのが原則だと言っているのである。私たちはなぜと怪しまないでこの方向を選んだのである。途中下車は出来ない。その極は言いたくはないが原水爆で、これこそ出来ない昔にかえれないものの随一で、ここまで言えば一笑に付すわけにはいかないだろう。テレビは映画を滅ぼした。自動車は人力車を駆逐した。邪悪なものを征伐するには更に進んだ邪悪なものに待つよりほかないのではないかと私は渋々思うのである。
                                       (『プレジデント』昭和60年5月号)」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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2013・12・19

2013-12-19 07:50:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「ご存じのように明治時代の新聞は、大(おお)新聞と小(こ)新聞の二つに分かれている。大小といっても紙面の大小のことではない。大(おお)新聞は政論新聞で、もっぱら天下国家を論じた。論者は知識人ばかりだから、発行部数は多くはなかった。
 明治七年東京日日新聞八千部、明治十三年郵便報知(のちの報知新聞)一万部、明治二十五年万朝報十万部。
 大新聞の論者は教養人だといったが、その教養は漢籍の素養で、当時は詩人といえば漢詩人をさして、軍人も政治家も折にふれて詩を賦した。新聞には俳句や和歌の投書欄があるように、漢詩の投書欄があった。
 天保老人という言葉があって、天保生れの人は明治三十年代に六十になっている。すでに言ったようにこの人たちは漢詩漢文で育っているから、大新聞は記事に遠慮なく漢語を用いた。紙面は漢字でまっ黒だった。
 いっぽう小(こ)新聞は今で言う商業新聞で、たくさん売ろうとしたから、記事は女子供にも分るように書くのを旨とした。さらに読みやすくするために挿絵を入れた。平仮名を多く漢字を少なく、その漢字にはルビを振った。明治初年からつとに口語文に近いもので書いた。読者を多く持つにはむずかしくてはだめだからこうしたのである。その一例をあげる。

 明後日は新嘗祭(にいなめさい)につき新聞も一日お休みで旗を出して祝ひますゆゑ機嫌よく皆さんもお祭りを成さりまし。

 右は明治七年創刊の読売新聞二〇〇号に出た記事である。百年以上前の記事だが、今読んでもおかしくない。『新聞休刊日』などと言わないで『お休み』と言っているのは、正しい言語感覚である。当時の読売新聞は代表的な小(こ)新聞で、その読売は明治九年十月二十六日、神風連の騒動を以下のように報じている。

 これは昨日諸方でとんでもない風聞を聞いたゆえ、よく糺(ただ)したいと思っても新聞屋の力に及びませんが、一昨日の夜十二時五十分ごろに、熊本鎮台兵営へ何者か鉄砲を打こみ、兵隊は逃てしまひ大騒動だといふがうっかり人の言ふことは中々信用できません云々。

 熊本鎮台司令官陸軍少将種田政明は、十月二十四日午前二時すぎ、東京からつれて来た芸者小勝なるものと共に寝ていたところを神風連の壮士にふみこまれ、枕刀をとって防いだが及ばず、斬り殺された上首を奪われた。
 芸者小勝は東京日本橋の父のもとへ『ダンナハイケナイ ワタシハテキズ』というあの名高い電報を打った。まだ電報が珍しいころで、これがたいそう評判になった。
 戯作者(げさくしゃ)の生きのこり仮名垣魯文はこの電文の下に『かわりたいぞえ国のため』とつけた。うまい都々逸ではないが、きわものだからずいぶんはやったという。
 事件がおこったのは十月二十四日午前二時すぎである。それを報じた同月二十六日のこの記事にはたいした誤りがない。それなのに誤ってはいないかとしきりに危ぶんでいる。文は巧みとはいえないが、記者の態度は百年をへだてたいま好感が持てる。
                                           (『正論』昭和55年4月号)」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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2013・12・18

2013-12-18 07:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「だます奴(やつ)とだまされる奴がいれば、だます奴のほうが悪いにきまっていると思いがちだが、そうだろうか。
 たとえば『株大暴落、また大衆泣く、おろおろ退職者』などという記事を見ることがある。
 定年退職をした男が、退職金を株に投じて一文なしになって、証券会社にだまされたと泣きごとを言っている記事だが、これは言うほうが悪い。
 定年すぎた男なら五十、六十だろう。今は証券会社というが、あれは株屋である。株屋が証券会社に化けて、まだ二十余年しか経っていないから、その幹部や中堅社員には株屋の血が流れている。
 株の売買をすれば、儲(もう)けることもあるし損することもある。大尽にもなるし乞食にもなる。なっても誰もうらまない。うらんだら笑われる。五十、六十の男が、それを知らないはずはない。
 証券会社の社員は、手数料がほしいから売買をすすめる。客は自分の責任において買うこともできるし、買わないこともできる。売買して儲けたこともあっただろう。損したからといってだまされたと言うのは当たらない。
 銀行の預金は五年、七年の定期でも、年利七分か八分である。一割以上の利息はない。あれば元も子もなくなる恐れがあるものである。
 むかし『保全経済会』は、七分、八分、一割の利息を約束した。『年』ではない『月』である。そして当時の金で四十五億円集めてつぶれた。
 私たちはこれにこりたはずである。それなのに再び、三たび、だまされるのは、だまされるほうが悪いのである。私は『ねずみ講』がいまだに健在なのに驚いている。百円が千円に、千円が万円になるなんて、がまの油売りじゃあるまいし、聞いて笑わないほうがどうかしている。
 それにもかかわらず金を出したのはヨクである。被害者友の会なんて笑わせる。ヨクばり友の会である。
 昔はだまされた者は笑われて悄然(しょうぜん)とした。二度とだまされまいと固く決心した。今はだました奴が悪いと集まって気勢をあげる。とられた金をとり返そうと、出来もしないことを出来ると勘ちがいする。
 私は小学、中学、高校に、金銭教育がないのを怪しんでいる。年利一割以上は危険だとか、連帯保証の判を捺(お)すな、捺すならこれだけの覚悟をしてからにせよとか教えるがいいと思っている。性教育を言うものが多く、金教育を言うものがすくないのをけげんに思っている。
 私たちだまされなかったものは、だまされたものをなぐさめてはいけない。笑わなければいけない。ひょっとしたら私たちもヨクばってだまされたかもしれないのに、よくその誘惑にたえた。今後ともその手にのらないためにも、だまされなかったものは、声をあげてだまされたものを笑わなければならない。アハハハ。
                                      (『毎日新聞』昭和53年6月12日)」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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2013・12・17

2013-12-17 07:55:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「モダン・リビングや団地には、いうまでもなく仏壇がない。和風建築の専門家でも、とくに注文しないかぎり、故人のことは念頭にない。仏間をというと、びっくりする。そんなものもあったなあ。
 建築家が忘れたのは、建主のすべてが忘れたからで、老女がわずかに拝むくらいで、彼女はそれを子どもにしいない。しいてもきく世代でないと知るから、ほとんど恐縮して拝んでいる。たぶん、今の老女たちが死んだら、故人を祭る伝統も絶えるだろう。
『水は方円の器に従う』というが、人は住宅に従うものだ。現代の老若が現代的であるのは、そのすまいに負うところが多いのである。若夫婦が団地に住めば、団地に従う。老夫婦は、なにに従って今日にいたったのだろう。
『文化住宅』である。赤いかわらに代表されるあの怪しい住宅に従って、いつか老人になったのである。
 若夫婦を育てたのは彼らである。彼らは、叱(しか)るべきことも叱らないで、それを自由主義だと心得、『きみたちの気持はよくわかるよ』と歯の浮くようなことをいい、仲間だけになると、『近ごろの若い者は…』と悪口をいった。
 彼らは、伝統にささえられた断固たる発言はおろか、孫に昔話一つ聞かせてやれない。ママさんおトイレ、と嫁の口まねをするのがせきの山なら、若い者はなんの得るところもない。追い出されるのは道理だと思われる。
                                      (『太陽』昭和39年2月号)」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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2013・12・16

2013-12-16 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「団地やアパートの弱点は、なによりせまいことである。せまいいれものに従うには、人数がすくないのが第一だ。
 期せずしてわが国の家庭は、夫婦を単位とするようになった。親子の縁は切れたのである。親と別れて住むことが、子どもたちの理想となった。若い夫婦は計画的に、一男一女を産む。一男一女が成人すれば、こんどは自分たちが別れ去る番である。ただし、その費用を用意しておくこと、今の老夫婦よりもりこうだと若夫婦は思っている。
 親・子・孫の三世代が同居している家庭も、むろんあるが、多くは同居しているだけで、互いに敬意もコミュニケーションもない。
 たとえば、以前は昔話というものがあった。年寄りの一人に、巧みにそれを話すものがいて、孫は耳からそれを聞いた。そのおとぎばなしは、年寄りが幼少のとき、当時の年寄りから、その年寄りはそのまた当時の年寄りから、以下これに準じて聞いたのである。
 それは先祖伝来の昔話であった。だから、抑揚あり頓挫(とんざ)あり、話に血が通っていた。そして、それは『赤い鳥』以来滅びた。童話はおとぎばなしを滅ぼした。ラジオがそれに輪をかけた。以来四十年、女学校出の母親は、活字になった名作を、わが子に読んで聞かせている。彼女たちは、読むことはできても話すことはできない。活字を棒読みするだけで、それには血が通っていない。年寄りの昔話を今は記憶する人さえまれである。まして、巧みに再現できる人は絶無だろう。
 たかが昔話といってはいけない。子どもはそれによって、まず過去とつながる。
 私は便所というのをきらって、わざと手水場(ちょうずば)、あるいははばかりといっている。それはしばしば通じない。ご不浄またはおトイレと若い母が子にいってきかせ、これしか通じなくなる日は近いだろう。昔話はおろか、手水場さえ通じなくなるのは、彼らのホームに、二十年前の時代の人すら住んでいない証拠である。
 それは、家でも家庭でも、人の世でさえないだろう。私は、彼らが奈良や京都を見物して感動した、と称するのを怪しんでいる。十年前の言語と断絶して、千年前の古社寺に感服できるだろうか。西洋人が見るように、見物しているのではあるまいか。
 老人がいない家庭を、私は家庭ではないとみている。ただし、今の老人のことではない。今の老人は、若夫婦と断絶する以前に、故人と縁を切っている。
                                        (『太陽』昭和39年2月号)」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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2013・12・15

2013-12-15 10:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「家と家庭は、わが国では区別しないが、西洋ではするという。家はハウスで、家庭はホームだそうである。
 島崎藤村は『家』を書いたが、べつに建築の詳細を論じたわけではない。家族の離合を書いたのである。家といって、建物と家庭の双方をさすのが一般であった。
 いまだにそうである。住宅と称して、建物だけをさすのは、ようやく昨今のことで、まだ普及していない。いわばこれは文章語で、日常会話のことばではない。
 住宅は家庭のいれものである。住宅があって家庭がないことはあっても、家庭があって住宅がないことはまれである。
 ご存じのとおり、その住宅が払底して二十年になる。そこで、応急にアパートが建ち、団地が建ち、モダン・リビングが建った。
 いずれも貧乏の所産である。それが箱であり、檻(おり)であり、いずれはスラムになるものであることを、住む者も建てる者も知らぬではないが、それすら不足だからまだまだ建つだろう。
                                  (『太陽』昭和39年2月号)」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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2013・12・14

2013-12-14 15:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「私がいま言葉を大事にするのは、震災と戦災で、日本中がまる焼けになったからである。まる焼けと『言葉』と、何の関係があるかと、怪しむ人もあろうから、そのわけを言う。
 家と道具が焼失すると、それにまつわる過去も失われるが、それなら、火事と喧嘩は江戸の華だから、再三の大火で、とうの昔に伝統は滅びているはずだとお考えだろうが、そうでない。
 わが国の建築の設計と技術は、百年、三百年、五百年――代々の親方の工夫を受けついだものだから、焼ければ似たような設計の家が建つ。だから、伝統は絶えなかったと、以前私は書いたが、今もそう思っている。
 震災と戦災は、日本中まる焼けにしたから、そしてそのあとには、モダン・リビングがたちつつあるから、古き家々の魂魄(こんぱく)はいま宙に迷って、前代と後代の間に微妙な断絶が生じた。残ったのは、言葉だけである。だから、私はそれを大事にして、なるべく新しい言葉は使うまい、耳で聞いてわからぬ漢語と、横文字は使うまいと、みずから禁じているのである。
 たとえば私は、入場料と言わない。外人と言わない。木戸銭、西洋人と言う。贈賄(ぞうわい)と言わない。告白と言わない。袖の下、白状と言う。
 言わないづくしを書けばきりがないから、これ以上書かないが、このことにかけて、私はがんこである。けれどもあきらめて他人には強(し)いない。
 入場料を木戸銭と言うのは、芝居なんぞみたこともないくせに、むやみに芝居者を崇拝する風潮を、快く思っていないからである。
 むかし、役者はといわれ、素人(しろうと)と差別されていた。それにはそれだけのわけがあると、私は論陣をはってもいいが、ここはその場所ではない。差別はホーケン的で、平等になったのは民主的だという、当代の紋切型にしばらく従っておくが、昨今のそれは度を越えて、平等ではない。崇拝である。
 見物もしないで崇拝するのは、芸人が大金をとると聞くからで、ホーケンの遺風を脱して、拝金の新風になびき、拝金がホーケンを馬鹿にして、そのとばっちりを受けるのなら、私は迷惑である。」

「私が言っているのは、言語には抵抗と選択がなければならない、学校は外国語ばかり大事にして、日本語を粗略にしすぎると、ごく当りまえな苦情である。」

「この寝台のなかで、お婆さんは死んだ、おっ母さんも死んだ、いずれは私も死ぬだろうと、フランス女は誇りかに言うそうである。
 生き変り死に変りして、はじめて家である。そこに磐石(ばんじゃく)のような古いものがあるから、それをはね返そうとする新しい試みが生ずるのであろう。
 私は、モダン・リビングに失望している。前代と後代をつなぐ建築がなければ、言葉でつなぐよりほかはない。それでなければ、私はただのへんくつにすぎない。
                                (『文芸春秋』昭和38年3月号)」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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2013・12・13

2013-12-13 08:05:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「私は小学四年生のとき『人の一生』と題する綴方を書いた。人の一生はこんなものだ、生きるに値いしないという気持が自然に出ている(中公文庫『恋に似たもの』所収)。思えば私の一生はこれに尽きている、外道(げどう)だといわれるゆえんもここにあると思うので再録を許してもらう。仮名遣を改めただけで原文のままである。
   人の一生   四年 山本夏彦
  おいおい泣いているうちに三つの坂を越す。生意気なことを言っているうちに少年時代はすぎてしまう。その頃になってあわてだすのが人間の常である。あわててはたらいている者を笑う者も、自分たちがした事はとうに忘れている。かれこれしているうちに二十台はすぎてしまう。少し金でも出来るとしゃれてみたくなる。その間をノラクラ遊んでくらす者もある。そんな事をしているうちに子供が出来る。子供が出来ると、少しは真面目にはたらくようになる。こうして三十を過ぎ四十五十も過ぎてしまう。又、その子供が同じことをする。こうして人の一生は終ってしまうのである。

 私は二十二のとき自活するつもりで家を出た。案内広告で二流の出版社に応募すると必ず採用された。戦争で若者が払底しだしたのである。私は転々として編集と営業のたいがいを覚えた。昭和十五年、統制で続々廃業させられているさなかに、これから出版を始めようとする奇特な素人に拾われ、私は高給で雇われた。それから空襲で焼けるまでの三年半、私は嬉々として働いた。紙の実績は印刷屋にもあるから当然配給がある。ポスターや社史の注文はない。紙持ちでやってくれといえば喜んでやってくれる。こんなこと『抵抗』でも何でもない。』相手は分らずやの軍人である。みんな面白ずくでした。」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)



こんな小学四年生、いやですねえ。
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2013・12・12

2013-12-12 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「明治の古新聞古雑誌の読者であった私は、外道(げどう)という言葉はかねて馴染だった。外道は人ではあるが人でないもの、人外(じんがい)の魔物である。畜生とは少し違うから母は私を外道だと言ったのだろうと察して、うまいことを言うなあ、いかにもそうだと感心したのである。
 不良少年なら十八で肺病で死んだ兄が俗に言う不良だったが、母はそれが不良ではないことを知っていた。小学生のころからただの活動狂で、浅草六区に日参(にっさん)して、同じ活動写真を三回見て弁士の説明をみんなおぼえ、帰ると弟妹どもを集めておぼえたての説明を聞かせる喜びを喜んでいた。それがまたうまいんだ。七五調の名文句だからすぐおぼえる。
 父は金利生活者で母は日本橋室町(むろまち)切っての美人で乳母(おんば)日傘で育ったから、二人とも金銭感覚はゼロに近い。はち切れそうな小銭いれをそこらにほうっておくからちょろまかすのはわけはない、これはほうっておく親が悪い。
 妹は美人ではあるがまじめ一方で話して面白くなかった。その下の弟は南方のどこやらで戦死したが、その命日に友が三、四人必ず母を見舞に来ること一年ではない、六、七年来たと聞いて、弟にそれだけの徳があったと思わないわけにはいかなかった。末の弟は福岡は小倉の陸軍病院で戦病死した。
 兄弟姉妹八人はふた派に別れていた。人並に善良な血が流れているものと、血の代りに水が流れているようなもののふた派である。私は水のほうで、ためにそれをかくそうと尋常な人のふりをしたが、母は見破ったのである。」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)

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2013・12・11

2013-12-11 09:50:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「いっぽう社会主義の全盛期で、図書館に行って社会主義の本を堆(うずたか)く重ね、あけて見たがすぐ閉じた。いずれも日本語ではなかったから読めないし、また読むに値いしないと閉じたのである。読まなくても分るのである。私に要約させれば、私有財産は盗みである、奪って大衆に公平に分配するのは正義である。資本主義には正義はない。つまりは『欲』であると私は察した。貧しい大衆を扇動して革命をおこし、成功したら今度は自分が独裁者になる番で、それにはライバルである同志を殺さなければならぬ、スターリンはプレハノフ、ラデック、ブハーリン、ことにトロツキーを草の根分けても殺さなければならない、めでたく覇者になったら王侯貴族のしたことをする。百年もするとまた革命が起る(それで人類は健康を保ってきた、健康というものはイヤなものだ)、これだけのことを岩波の翻訳用語で何十冊何百冊も書いてある。
 私は故あって明治三十年代の古新聞古雑誌を読んで育ったから、何だこんなもの日本語じゃないと捨てて二度と手にしなかった。私が社会主義にかぶれなかったのは、ひとえに古新聞のおかげである。明治末年までの記者は幼少年期に漢学塾で育っている。文脈に混乱はない。岩波用語で育ったものは、要らぬ品詞まで訳す癖がついているので文脈に混乱がある。私はまず文章を見る。それが私の唯一の鑑定法である。明治の古本育ちだから私の文は分りやすいはずなのに分りにくいといわれる。反省しないわけにはいかない。
 まず私の文はまがまがしいことが書いてある。たとえば話しあいは出来ないと書いてある。もうそれだけで婦人の全部と男子の過半はいやな顔をする、ソ連とアメリカ、北朝鮮と韓国は話しあいが出来るか、ここに於て暴力が出る幕である、(戦争あるべし自然なら)括弧内は言う時と言わぬ時がある。
 読者は本を選ぶが、作者も読者を選ぶ。女に選挙権は要らぬと見ただけで怒る婦人まで読者にしようとしてはならない。どれどれ異なことを言うと耳をかしてくれる人だけを相手にする。人類を大別すると怒る婦人ばっかりで、男の過半もそれに加わる。してみれば市会の、県会の、ひいては国会の議員もその選挙民に迎合しなければならないからあれは仲間である。私が読者百人説を唱えるのはこんなわけからである。
『健康な人は本を読まない』『本屋を滅ぼす者は本屋だ』と私は本誌に書いた。小売書店にとっては売れる本が本である。それなら版元にとってもそうである。二年前『恋をしてきれいになろう』という題をかかげて、その号は売れたがもう古い、今度は『男をこしらえてきれいになろう』というタイトルを思いつくのが才能である。これしきの才もない社員が多いから編集長は叱咤(しった)するのである。こんな才でも枯渇する。菊池寛に三十歳定年説があるゆえんである。
 健康な人は本を必要としない。読むのは醜聞だけである。梅宮アンナは今は売れても半年たてば古本屋で一冊百円の箱になげこまれる。本を読まない人に買わせるには醜聞でなければならない。かくて本は出すぎる。来年は総くずれになるだろうと言うと、あなた本屋でしょと言われる。そうだよ、だれの頭のなかにも他人がいる。私のなかなる他人は増長(ぞうちょう)して、ついに当人である私を追いだしてしまった。私の発言はその他人をして十分に発言させたもので、ご参考になれば幸いだがなるまいなあ。昔私の母は私を外道(げどう)と評した。」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)

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