昨日の朝、雨の中散歩に出かけました。
天気が悪いとはいえ休日なので、いつもと違うところへ行こうと思い立ったのが下呂市萩原町上呂の北端にある鹿供養塚です。
文化六年(西暦1809年)に大雪が降り、死んだ1,114頭ものシカを供養するために作られた塚です。
しかし、供養塚が作られた翌年には同じ上呂にある久津八幡宮に農業被害の記録が残っているのです。
農業被害をもたらす厄介者であるシカを供養しているのです。
今の価値観では考えられない行動なのですが、日本人の本来もつ宗教観がものがたっていると思いました。
下呂市萩原町では今もシカによる農業、林業被害があるのですが一旦姿を消しています。
斐太後風土記をみるとシカが産品として登場することから明治以降に何等かの理由で数を減らしているので、私が初めて下呂市萩原町に住んだ頃はシカは昔はいなかったのにという言葉をよく聞きました。
最初はそうなんだと普通に聞いていたのですが鹿供養塚の存在を知った時に昔もいたなじゃないか!と思う一方で何で一旦いなくなったのだろう?という疑問が出てきて調べてみたのですが、これだ!という理由は見つかりませんでした・・・
これからも、その謎を解明したいという欲求はあるのですが恐らく分からないだろうな~。
話が逸れてしまいましたが鹿供養通貨は国道41号線のすぐ脇にあるのですが訪れる人は稀でひっそりとしています。
今回気づいたのですが馬頭観音のような形をした石仏には鹿の文字がかすかにみえます。
これは鹿頭観音というべきか?と思いながら供養塚を後にして直ぐ近くのお美津稲荷へ向け歩き出しました(管理人)
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天気が悪いとはいえ休日なので、いつもと違うところへ行こうと思い立ったのが下呂市萩原町上呂の北端にある鹿供養塚です。
文化六年(西暦1809年)に大雪が降り、死んだ1,114頭ものシカを供養するために作られた塚です。
しかし、供養塚が作られた翌年には同じ上呂にある久津八幡宮に農業被害の記録が残っているのです。
農業被害をもたらす厄介者であるシカを供養しているのです。
今の価値観では考えられない行動なのですが、日本人の本来もつ宗教観がものがたっていると思いました。
下呂市萩原町では今もシカによる農業、林業被害があるのですが一旦姿を消しています。
斐太後風土記をみるとシカが産品として登場することから明治以降に何等かの理由で数を減らしているので、私が初めて下呂市萩原町に住んだ頃はシカは昔はいなかったのにという言葉をよく聞きました。
最初はそうなんだと普通に聞いていたのですが鹿供養塚の存在を知った時に昔もいたなじゃないか!と思う一方で何で一旦いなくなったのだろう?という疑問が出てきて調べてみたのですが、これだ!という理由は見つかりませんでした・・・
これからも、その謎を解明したいという欲求はあるのですが恐らく分からないだろうな~。
話が逸れてしまいましたが鹿供養通貨は国道41号線のすぐ脇にあるのですが訪れる人は稀でひっそりとしています。
今回気づいたのですが馬頭観音のような形をした石仏には鹿の文字がかすかにみえます。
これは鹿頭観音というべきか?と思いながら供養塚を後にして直ぐ近くのお美津稲荷へ向け歩き出しました(管理人)
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