先日、尾張藩の木材利用で書いたとおり、中津川市加子母にある山守資料館を訪ねました。
山守とは一言でいうと尾張藩の山の管理していた役人のことです。
山守資料館は今から260年前に建てられた裏木曽三ヶ村と三浦を管理した山守の内木彦七の家です。
山守制度があった頃は世襲で代々当主は内木彦七を名乗ったとのことです。
その家には江戸時代に山守が残した資料が約4万点あり徳川林政史研究所が中心となって分析を進められています。
その一旦を学ぶために訪ねたのです。ちなみに私は2回目の来訪でしたが、山守の子孫の方から聞く話は今回も新鮮でした。
前回訪ねた時より資料の分析が進み新たに色々なことが分かり、その成果がネット公開されていることでした。
それらの資料をダウンロードして少しづつ読み進め私が感じたことをブログで書いていきたいと思っています。
さて、今回は前回も見た絵図です。
ここには内木彦七が管理した区域が記されています。
そこを、じっくり見ると御嶽と巣山が記されています。
御嶽については現在の国土地理院の地図では継母岳とされているところに継子と書かれています。
これを見て???実はこの絵図に書かれている継子は現在は御嶽の最も北のピークなのです。
説明を聞いてみると全ての資料が継子と書かれていることから明治になり地図を作る時に国が間違ったのでは?ということでした。
これは、これで興味深い話なのですが、山の名前は見るところで違うことがあります。
実際に、飛騨山脈(北アルプス)の焼岳は飛騨では硫黄岳、黒部五郎岳は飛騨からみると中ノ俣岳と呼ばれていたのですが、地図標記は長野県側からの名前が採用されたということもあるので、ひょっとしたら飛騨では継母と言われていたのかな?なんてことを考えてしまいました。
その事実を確かめるには江戸時代の飛騨の絵図を確認する必要があるかな?と考えています。
もう一点興味深いのは巣山の存在。
目的は鷹狩用の鷹を捕獲するため立ち入りを厳しく制限していたとのことです。
この場所は現在でも優良な木材が産出される地域ということで伐採制限を加える地域も兼ねていたのでは?という説明でした。
一枚の絵図から色々なことが分かるし想像もできる。
興味深い存在だと思い写真を撮らせてもらいました。(管理人)
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山守とは一言でいうと尾張藩の山の管理していた役人のことです。
山守資料館は今から260年前に建てられた裏木曽三ヶ村と三浦を管理した山守の内木彦七の家です。
山守制度があった頃は世襲で代々当主は内木彦七を名乗ったとのことです。
その家には江戸時代に山守が残した資料が約4万点あり徳川林政史研究所が中心となって分析を進められています。
その一旦を学ぶために訪ねたのです。ちなみに私は2回目の来訪でしたが、山守の子孫の方から聞く話は今回も新鮮でした。
前回訪ねた時より資料の分析が進み新たに色々なことが分かり、その成果がネット公開されていることでした。
それらの資料をダウンロードして少しづつ読み進め私が感じたことをブログで書いていきたいと思っています。
さて、今回は前回も見た絵図です。
ここには内木彦七が管理した区域が記されています。
そこを、じっくり見ると御嶽と巣山が記されています。
御嶽については現在の国土地理院の地図では継母岳とされているところに継子と書かれています。
これを見て???実はこの絵図に書かれている継子は現在は御嶽の最も北のピークなのです。
説明を聞いてみると全ての資料が継子と書かれていることから明治になり地図を作る時に国が間違ったのでは?ということでした。
これは、これで興味深い話なのですが、山の名前は見るところで違うことがあります。
実際に、飛騨山脈(北アルプス)の焼岳は飛騨では硫黄岳、黒部五郎岳は飛騨からみると中ノ俣岳と呼ばれていたのですが、地図標記は長野県側からの名前が採用されたということもあるので、ひょっとしたら飛騨では継母と言われていたのかな?なんてことを考えてしまいました。
その事実を確かめるには江戸時代の飛騨の絵図を確認する必要があるかな?と考えています。
もう一点興味深いのは巣山の存在。
目的は鷹狩用の鷹を捕獲するため立ち入りを厳しく制限していたとのことです。
この場所は現在でも優良な木材が産出される地域ということで伐採制限を加える地域も兼ねていたのでは?という説明でした。
一枚の絵図から色々なことが分かるし想像もできる。
興味深い存在だと思い写真を撮らせてもらいました。(管理人)
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