と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

終わりを慎むこと

2009年02月05日 19時05分36秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 人間は終わりを慎むことが確かに大事だと思います。
 しかしこれが意外と難しい。

 自分の力などというものはたいしたことはありません。
 やはり先輩、先覚、歴史というものに学ばなくてはなりません。若いうちには、周囲が劣って見えるのでしょうけれども。

 それは間違いです。

 人間の本質的な要素というのは内面的な真実と呼ばれるべきものであって、知識や技術は当然あってあたりまえの要素であると思っています。だから基礎としての学問は徹底してやらねばなりません。
 したがって、修養というもの、勉強するということは、何が一番大切なものであるか、あるいは何が枝葉のようなものであるか、付属的なものであるかを見極めなくてはなりません。

 一番勉強をする上でよくないのは「散漫」ということであります。

 散漫な読書、散漫な学問というのではいくらやってもダメです。

 学問の雑食はもっといかんのです。雑駁に消化不良となると健康までおかしくする。

 徹底してなにかをこなせと申し上げたい。
 打ち込む学問を作りたまえと。

 荻生徂徠という人物は、文字や文章を正確に研究した人でありました。
 しかし、性格的にも変化に富んだ先生でした。
 風流を愛し、特に文芸を愛しました。
 だから幅広い門人ができたのです。

 大塩平八郎は、自己をつくるという点ですばらしいものがあります。
 ただしこの方はいろいろ評価の分かれる方でしょうから、深入りしません。
 一言だけ申し上げると「過去を回復しなければ、未来は開けない」とも仰っている。これはいいご発言です。

 最後に中江藤樹、熊沢蕃山の学問的態度。
 お二人は、学問というのは、自分を知るための学問と位置づけられている。
 いかに真剣に学ばれたかを知るべきです。
 外物を追うような単純な勉強態度ではありませんでした。
 「学は覚なり」とも言われている。
 
 特に達人だと思うのは蕃山先生。
 終わりを全うする道が大切である。
 心の根を培養する。
 何よりも根本に立ち返ること。
 このようなことを言われています。
 人間にとって根本のところは、われわれが何をなすのではなく、われわれが何であるかを発見することだと言われてもいる。
 人生の終わりのほうから学問を捉えなおすこともまた大切なのではないでしょうか。


 したがって、学問というものはまず蔵さねばなりません。
 自分の内に入れておかねばなりません。
 そこで修めねばなりません。

 進路の手引きの原稿を書けと言われましたので、上記のようなことを考えていました。これを発展させて手引きに載せたいと思います。

 ☆

 明日特色化の試験です。
 以上のようなことを家庭で考えてみてください。
 くれぐれも逸脱行為のなきように、お願いしますね。


コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/