と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

いたわしく思うこと

2009年02月10日 19時46分24秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 こんなタイトルだと、また校長の小難しい記事が・・・読むのはやめた!と思われるのかもしれません。

 昨日も書きましたが、ブログとかいろいろな手法でやってきて、広報としての価値はどの程度かと疑問に思っていたら、やれるところまでやればいいと指導をしてくださる方も中にはおられるのです。

 こういう方の心こそ、惻隠の情です。

 好きか嫌いかだけで仕事をしがちな世の中の動きの中で、ありがたいことであります。

 そもそも、好悪の感情だけで仕事をするのはいかがなものか。
 誰だって好感を持てる人と仕事したいわけです。
 しかし、それは時と場合によって変化する。
 絶対ではない。

 そういうときにどうやって人を見分けるか。

 それが惻隠の情があるかないかです。

 よく知られているようにこれは孟子に出てきます。
 解説をするのがこのブログの目的ではありませんし、それだけの学識もないので避けます。
 
 辞書には「いたわしく思うこと、哀れみ」とあります。
 哀れみだけなら、憐憫とも言えます。
 しかし、憐憫はかわいそうだから助けてあげようという「あげよう」意識が働きます。関係性で言えば上位の者の持つ概念です。

 惻隠はもっと高次のものではないでしょうか。
 いわゆる本然の行為、考えから導きだされるものです。

 それは何によって可能なのでしょうか。
 隣近所の方々と挨拶をさせていただいて、あるいはお年寄りにやさしく接する日々の生活を送るということを一つ取り上げてみるとわかります。他者の生活にも目を配れるか、そういう自己と他人の関係性を考えることができるかということが重要なのではないでしょうか。

 小事を大切にしないと、大事もおろそかになります。

 また、自己の善行を知ってほしいというのもまた自己にとらわれておる。
 自己宣伝の巧みな人間にはろくなのがいないとずっと思ってきました。
 経験的に。
 偽善の匂いがするからであります。

 だから、静かにすっと構えている武道人ほど恐ろしいものはない。
 つまらぬ自己主張をしない、隙を見せない、すっと立っている人間はものが違うものです。

 よくメリットがあるかないかということで物事や人間関係を判断される方がいらっしゃいます。

 こういう方には、野に咲く月見草のように自己を主張せず、他者のためにそっと努力をされている方々のことはわからないのでしょうね。

 そんなことを思った次第です。

 
 また、別の記事でお目にかかりましょう。

 

 
コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

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