般若心経を時々眺めることがあるが、タイトルについて、いろいろ考えさせられるですねぇ。
般若心経は、自分の思い通りに相手をコントロールしたいのにそれができないからいろいろな「苦」ができると書いてある。だから、それで悩むのだ。
般若心経には、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」という部分がある。これがそうなのだということだそうな。受け売りである。学者先生からの。
「苦」というと苦しみと訓をつけるが、そうすると誤解をしてしまうらしい。
苦しみではないのだ。
つまり、相手を自分の思うとおりにしたいから、悩むことになる。
そんなの捨ててしまえばよろしい。
ダンナを、自分のオクサンをコントロールしようったって、そうは問屋がおろさない。そんなもん、できる訳がない。ましてや、会社や組織の中で相手を自分の思うとおりにしようとしても抵抗されるだけである。イヤなものはイヤなのである。
人間はそういう感情を持っているから、生き延びてきたのだ。
大蛇に喰われたくないから、嫌いだというのは非常によくわかる。本質的に嫌悪感を持っていれば、無事これ息災である。危険なものには近寄らないからである。
ボキは、上手に泳げない。ましてや、九十九里浜で泳ぐ気はサラサラない。あんな恐ろしい海の中に入っていって、おぼれたらどうするんだいと思っているからである。だからおぼれない。なぜなら、近寄らないからである。もっともどうしても船に乗らなくてはならない時は、救命道具をきっちり身につけて行く。だって、ほとんど泳げないからである。
奥州の山奥で育ったのだ。波なんか立たない。川でしか泳いだことがない。せいぜい10メートルも泳いだら、向こう岸についてしまうようなせせらぎでしか泳いだことがない。
これからも海へのチャレンジはしないつもりである。海で死にたくはないからである。
せっかく九十九里浜に住んでいるのに、もったいないと言われたこともあった。
しかし、できないのだ。
だから、泳げない人を根性で泳げなんてぇことは絶対に言わない。言ったこともない。体育の授業もやったことがあったから、当然プール指導がある。その時でも、そんなことは言ったことがない。
相手を支配下におくことはしないからだ。
自分ができないことを他人に強制してはならない。そう思っている。
柔道は別であった。柔道は若干ながらできるからだ。
義務制のセンセ時代に体育の授業もさせられたことが、採用試験を受け直して高校の世界に飛び込んだ最大の理由であった。疑問に思っていたからである。結婚してから再受験したのだから、今から思えばずいぶん思い切ったことをしたもんである。
こういう傾向は今でもある。
副業をやっているのも、ずいぶん思い切ったことをやっているのだと思う。普通なら、家に引っ込んで隠居を気取ってもいいらしいのに、まだまだ若い衆と一緒に仕事をしているからである。
どうやら、ボキには引退という文字はないらしい。
相手をコントロールしたいというより、ボキ自身をコントロールしなくちゃアカンのかねぇ(^_^)。
ヾ(*´∀`*)ノ