ぱっと打ち上がって、ぱっと散る。まるで刹那的ではあるが、これもまた良し。あれもまた良し。
花火的生き方というのを昨夜は感じた。
居住地の海岸で盛大に花火大会をやったのだ。夜遅くまでドンパチ打ち上がっていた。むろん音だけである。音だけ聞こえてきたのだ。実際に行ってみる気はなかった。
なぜなら、長男夫婦と孫(女児)がボキンチに遊びに来たからである。夕食を一緒にとった。ちょっとだけ長男と日本酒を楽しんだ。簡単に寿司を食べたからである。
寿司には日本酒がよく似合う。千葉市に出かけたときも、帰り寿司を食べたりする。6月、7月は毎週千葉市に出かけたからだ。通信制高校の副業もスタートしたし。歴史の会でも千葉市に出かけるからだ。ランチも寿司を食べることが多い。食いしん坊だからなぁ。
しかし、これってまさに花火的生き方なのかねぇ。
なにもゼニが欲しくてたまらんから、副業三昧やっているわけではない。ローンもまったくない。そもそもが借金してまでやるような仕事についたこともないからである。
ゼータクもしたことがないから、所詮ゼニとは縁がない。縁がないから円がない(^0^)。
ついでに言えば、これだけオトコが嫌いなのに、女性とも縁がないのじゃよん。
要するに、ぱっと打ち上がって、ぱっと消えるのだ。
あっというまの瞬間芸術である。
これだと時間を大切にしなくちゃアカンと思ってしまう。あっというまの人生で終わりたくないからだ。生まれて、育って、あっというまに死んじゃうのだろうけど。
だからこそ時間は有限だと思うのである。
そして、花火が美しいと思うのは、そういう消え去るオノレを知っているからである。
月日のたつのが早いといわれる方が多い。家人も言う。
ボキは違う。
月日(時間)のたつのが早いと感じることがほとんどない。早いというより、今が永遠に継続しているような錯覚に陥っている。昔のことはほとんど思い出さない。今しか関心がない。
だから定年前のことも思い出さない。
今やっている副業のことが最大関心事である。いかに工夫していくかということしか興味がない。それだけ面白いからである。大学も、通信制高校も、学習塾もそうなのである。今やっていることの工夫をしていくことが実に楽しいからである。
過去にやったことを繰り返しやっているのだから、楽なもんだろうと家人も言う。
ちょっと待ってよとボキは言う。
だって、過去にやったことを副業でやっているわけではないからである。ボキは、歴史の会も、大学も、通信制高校も、学習塾も、そういう仕事をやっていたのではないからだ。
そういう意味では、全部素人であるから楽しいし、工夫改善をしているのだ。それでささやかな収入をいただければ、こんな嬉しいことはない。
以上で今朝の打鍵は終わりである。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ