憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥
芭蕉の作品だということだが、ちょっと似合わない。こんな直接的な寂寥を扱ったのであろうかというささやかな疑問があるからだ。土曜日に、千葉市民会館で二時間ほどお話をさせていただくが、聞いている方々には俳句の達人もおられる。だから、逆質問でやってみる。教えていただきたいと。
それにしても、芭蕉は達人である。体力的にも、みちのくを歩いたのであるから。こんなことは、ボキのような疑似せーねんにはできっこない。左膝がいてぇとか泣き言ばかり言っているからだよん。アホですなぁ。
それにしても今朝は寒い。寒波が来ているのだとテレビの天気予報が言っていた。冬でもあったかい九十九里浜は、普段あったかいから寒いと参っちまう。
ボキは、こんなんじゃなかったのだがなぁ。夏も暑くて、冬は寒い東北に生まれて育ったからだ。けっして住みやすい土地ではなかったが、それでも根性だけは鍛えられた。こいつを一番感謝しているのだ。だから、新聞配達しながらでも大学学部を卒業できた。しかし、成績は最低である。学部から、一番最初の大学に設置してある修士課程に進学したかったのだが、優の数が足りなくてそれじゃぁダメだよと大学の事務方に言われたからである。
わははっははっはははっははっははっはははっははっははっははは。
つまりアホなのである。それでも憧れだけは持っていた。学問への憧憬である。大学院ならそれができると今でも思っている。柔道は無理だったけど。武道の高段者というのは、技も力もそうだが、なにしろ人格が高邁でなくてはならない。だから、ボキには無理なのである。こっちは、人格最低。話にならん。アルコールの匂ってくる場所に何度も行ったし、今でも好きだ。我慢しているだけであるから。それにカラオケもずいぶん行った。点数の出るカラオケマシーンに一喜一憂していた。アホである。
だから罪悪を重ねてきたと思っているのである。悪人。悪人こそ救われると言われたのが、親鸞である。こんなボキでも救われるらしい。らしいというのは、よくわかっていないからで。
今日は、夜バイトの塾がある。楽しみである。国立大学二次試験と高校入試がある。若い方々と話をしていると、死ぬことを忘れてしまう。これからの人間と、もうひたすら棺桶直行のジジイと奇妙な取り合わせではあるけれども。
(ToT)/~~~!