長続きすることのポイントは、デカルトに通じるかも
勉強というのは、長続きしてこそ勉強である。まったくそう思う。厭きたら捨てる、やらない、もう金輪際こんなのやるかと怒ってばかりいたら、おしまいである。
ちなみに、結婚生活と一緒である。
わははははっははっはははっはははっはは。
自戒して書いているんだが。
まったく、まったく。
もっともアレか。
結婚をしたことがない人にはわからないか。つまり、長続きしてこそ・・・というのがキーワードである。これである。これ。
さっきまで、NHKのラジオ英語講座を二本聞いていたから、そんなことを書きたくなったのだよーん。
マジに。
それを録音しながら聞いていたから、長続きもしているんだけど。録音している以上、また聞く。つまり、身の回りから離さないことである。ICレコーダーというのがあるからである。これがテレビ講座だと、持ち運びができない。だからいつでも身の回りにあるわけではない。
しかし、最近はKindleで実現可能になっているから、テレビの録画も楽しんでいるけど。
でも、映像はよくない。見入ってしまうからである。つまり「ながら視聴」ができない。それ一本になってしまうからだ。
こいつは二宮尊徳のような「ながら読書」の精神に反する。
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毎日、毎日どうでもいいようなことばかり書いているなぁ。
他にやることもないからだが。
まったくまったく。
まだ社会に対して、興味があるからいいのか。これで。なんにも興味がなくなってしまったら、惚けるな。惚ける。
考えているというのでもない。さりとて感覚でもって書いているのでもない。さらに、見たままを書いているわけでもない。
もっともデカルトは、感覚も信用していないし、考えの方も信用していない。むしろ、入力よりも出力の方を信用している。「自分が考えている」という意識が最後に残ったというのが、正解であろう。
デカルトは、①なにかを考える、②考えることを意識する、③そこに実在感が生じる・・・という三題噺を主張したのだ。
それが惚け防止になるのだ。
プラス「わかった」という快感である。
わかったという経験は、さらに繰り返しを要求してくる。自分にである。だから、勉強するのである。わかったという快感をもう一度味わいたいからである。またまた同じ経験をしたくなるわけである。これが、学問と発見につながるのである。だから、学者という商売がなくならないのだ。
学者にはとうていなれそうもなかったが、こういう思考システムはわかるような気がする。
惚け防止のシステムというのも、これである。これ。
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今日も天気がいい。
散歩日和である。
図書館にも行く。
Gymにも行く。
ヨルバイトにも行く。
塾である。
楽しみである。楽しみ。
他人にはどうでもいいことであろうけど。
私のことであるから。
じゃぁねぇ。
Bye-bye