岬に立つ老ライオン・・・なんてねぇ(^0^)
九十九里浜の最北端に刑部岬がある。
夕陽の落ちる時が実にいい。平坦な九十九里の浜が一望にできる。晴れていれば筑波山も見える。富士山も見える。
岬の真下には、飯岡漁港がある。東日本大震災で犠牲になった街並みが見える。16名の尊い命を奪った津浪であった。
その飯岡漁港をスタートしてなだらかな左カーブを描きながら、九十九里浜が展開している。さすがに、南端まではなかなか見えない。
この岬には二人連れが多い。風景の良いところは、恋を語るにふさわしいからである。ボキは一人である。語るべき相手もいない。
ジャマにならないように、隅っこから九十九里浜を見ている。もっとも、冬の間は二人連れもあまりいない。
シャッターポイントで良い場所がある。岬の上にある料亭である。この料亭に一年に一回は来ることがある。ボランティアでやらせていただいている某文芸賞の審査である。文芸賞の女性会長が経営なさっている。だから、この料亭で作業をさせていただいているのだ。
今年の冬も多くの作品を目の前にして、鑑賞と仕分けをさせていただいていた。
実は、その時に刑部岬の夕陽に気がついたのだ。二月であった。風が強かった。道を挟んで何人かのカメラマンも来ていた。
休憩時間に料亭から出ていって、近くにいた一人のカメラマンに話しかけてみた。
やはり穴場であった。この場所が一番良いのだと言われていた。東京からも撮影にくる人がいるのだという。なるほど、これで富士も見えるのなら絶景である。
納得した。その日は、富士は見えなかった。見えなかったが、筑波山は見えた。
冬の風が冷たかった。寒風である。しかも、横殴りである。ボキのぶ厚い面構えでも痛いような風であった。たいていのことには動じない面構えでも、痛い時は痛い。
もう九十九里浜に来てから45年以上は過ぎた。なんとも時間の過ぎるのは早い。
故郷米沢から集団就職列車で東京まで出てきたのだった。それも入れると50年近い。労働のために上京してきたのだった。新聞配達をして大学に通うためであった。花も恥じらう18歳の時から、ずっとこんな風に当てられてきたのだった。
しかし、風がボキを強くしてくれたのだ。
痛ければ痛いほど、抵抗していく。自分の内部から、強くなっていく。
他人の痛みもわかるようになった。自分がエリートでもなんでもなかったからである。ただの苦学生であった。だから、他者に優しくして生きようと思っていた。自分が痛ければ、他人も痛いのである。
ボキは老いた。柔道でモーレツに闘っていた時はもう戻らない。体重も戻らない。
やせ衰えた老ライオンである。
ううううううううううううううううううむ。
天は見ているのだろうけど。
今のボキの現状を。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ