ゴールデン・リタイアーズ

S20年生、後期高齢ゾーン、人生最終コーナー「遊行期」の
徒然残日写真録

160517 時は立夏、タケノコ出る頃。上り坂、下り坂、まさかの坂、運命を考える!天才演出家逝く!!

2016年05月17日 | 旧暦のある暮らし

 時節は早、5月中旬、24節気では立夏の末候、タケノコ生ず頃。旬の味でゆがいて食べるとおいしい。京都では葵祭がおこなわれ、田園に水がはられる田水張る頃である。熊本地震から1か月たったが水田に水をひく水路がやられコメ作りも大変らしい。

22年前の週刊現代を市の図書館に返却したあと、書棚に五木寛之さんの「人間の運命」というのがあったので借りてきた。

 人間というのは神によって生かされている存在であるともいえるし、過去の宿業を背負ってどうすることもできない存在でもある。

 人生にはいろんな坂がある。上り坂、下り坂、そしてまさかの坂。熊本県民を襲ったH28熊本地震。自然災害とはいえ多くの県民のこれからの人生設計がおおきく狂った。死者48人、行方不明1人、生死の分け目はどこで生じたか、運、不運があった人もいたに違いない。14日21時の震度7をのりこえ、15日に室内整理に戻って16日午前1時の本震で家屋倒壊で亡くなった人、別荘を15日、点検のため福岡から阿蘇にやってきて16日倒壊下敷で亡くなった人、友達の家に遊びに行き、夜中阿蘇へ帰宅途中、阿蘇大橋の崩落に巻き込まれた学生。人間にとっての運命をどう考えるか

 (1)   運命の手は残酷である。個人の夢や努力、めざす生き方も大きな運命の前にはまったく無力なのだ。起こってしまったことは諦める、明らかに極める、真実、本質を理解する。人間は誕生からして自ら望んでしたわけでない。おギャーと泣いて生まれてくるのはこれからの生きる苦しみを味わされる世に生み出されたことへの嘆きの声であるという。誕生からして宿業をもって人間はうまれる。金持ちの家にうまれるか貧乏人の家か、甘んじて受け入れざるをえない。

(2)   歎異抄のなかの親鸞の言葉。しゅくごう(宿業)とはその人間をとりまく過去の状況と行動。両親の父母の血を両親は受け継ぎ、両親の血と行動が私を形成してゆく。そして私の思考行動が私の血とともに子供たちに引き継がれてゆく。人というのは状況次第で獣にも神にもなることができる。それが人間の業というものである。人の行為をその人の心が良いからとか悪いからとか簡単に決めてはいけない。人間の善悪など簡単にわかるものではない。人間の行為はすべて宿業によるもの。

(3) かつて自己啓発セミナーの講師として、「過去は変えられないが未来は変えられる。意識が変われば態度が変わる。態度が変われば行動が変わる。行動がかわれば性格が変わる。性格がかわれば出会いが変わる。出会いがかわれば人生がかわり運命が変わる」と講義したことを思い出す。演出家の蜷川先生に会えたことが私の役者人生、私の運命を変えたと演出家蜷川氏の葬儀で有名人たちが弔辞をのべた。ほんとに夢をみて努力をすれば必ず実現するのか?否である。9999人の落伍者のうえに一人の幸運者がいるのである。

(4)  現在の自分(現在業)は過去の自分の選択と行動の結果(過去業)である。現在の自分は未来の自分(未来業)をつくり子孫にひきつがれてゆく。あるがままの自分に従う。求めるのをやめれば今でも十分もっていることがわかると誰かが言っていた。

 平安時代の末期、末法の時代にでてきた親鸞は人間というのは本来悪である。歎異抄で「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と悪人正機説をといた。人間というのは動植物を殺してそれを食っていきながらえる存在。生きているエビやアワビをてっぱんの上で焼きながら平気で食べる。考えてみれば人間というのはおそろしい存在だ。理不尽な世の中で、ただひたすら南無阿弥陀仏を唱え信心すればどんな人間でも必ず浄土に行けると説いた。生きる望み、一条の光を与えた。

一条の光を信じつつ、ひたすら生きる。それが未来につながってゆく。過去業はどうしようもないがよき未来業は作っていける。たとえ世間一般の成功を獲得できなくともである。

 

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