wakabyの物見遊山

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僕の読書ノート「解脱寸前 究極の悟りへの道(小池龍之介)」

2019-04-30 12:05:54 | 書評(仏教)


ウェブマガジンの幻冬舎plus「マインドフルネスな日々」として、2015年6月~2017年7月に連載されていたときから、毎回注目して読んでいた。それが本になったものである。本書を読むと、もうほとんど解脱しているか、悟りの境地に達しているのではないかと思われる内容なのだが、悟りを完成させるために、これまでの執筆活動や寺での活動を捨てて野宿による修行生活に旅立ったのである。解脱にはあと1年から7年くらいかかるだろうと書かれていた。それが2018年10月のこと。

ここまでの境地に至れたことを公言している人をあまり知らない。小池龍之介氏が解脱寸前にまで至れたのにはいくつか理由があるかもしれないと考えた。長い時間を瞑想修行に費やしてきたことは当然だろう。ほかには東大卒だけあって、地頭がそうとういいだろうということ。東大出身者は、我々凡人とはそもそも頭の出来が違うということを仕事上感じることは多い。頭がよいから脳の使い方がうまくて、解脱に近づけるのも早いんだろうなと思った。それから、特定の宗派に入っていないから、寺の行事や務めなど雑用に時間を取られないで修行に専念できる。また、師について修行していないので、自分が良いと思ったことだけを取り入れて瞑想していたのも早道だったかもしれない。とにかく、そういう理想的な形で修行して得られた解脱前の境地というものを、難しい仏教用語も使わずに平易な言葉で教えてくれているので、とても貴重な内容だと思って読んでいた。

ところがショッキングなことが起きた。小池龍之介氏から解脱失敗が報告されたのである。旅立ってからまだ半年も経たない2019年3月18日のことである。詳しいことはここでは書かないので、興味のある方は、ウェブサイト『サンガ-samgha- > ブログ > 編集部 > 解脱失敗とその懺悔――小池龍之介さんからの電話』を参照されたい。YouTubeで公開されている詳しい独白へのリンクも付いている。

そのような顛末があったので、本書の内容をどこまで本気にしていいのか疑わしくなってしまった現状ではあるが、ざっと簡単にまとめたい。
仏教系瞑想法は止観(しかん)といって、呼吸などに意識を集中させる「止=サマタ」と、心に現れてくる思考をそのまま観察する「観=ヴィパッサナー」に分けられる。止だけでも、あるいは観だけでも、悟りが得られると言われているが、著者の瞑想方法は観だけなのかもしれない。本書では、止については触れず(むしろ、集中することを意識しすぎると緊張して、感覚刺激や思念や気力が入ってこなくなると述べている)、観を実践することで「私=我」というものは存在しないことに気づくのだということを徹底的に説明していく。それは、長い瞑想修行をしないと得られない智慧であるが、著者の体験を私たちに教えてくれているのである。

例えば次のような記述がある。
『「自分が自らの意志でイラッとしているんだ」というのは思いこみで、①「先に勝手にイラ立ちが生じ」→②「後から気づく」ことしかできないのです。己の心にマインドルフであるとはすなわち、この「後から気づく」のスピードと精度を高めてゆくことにより、感情が生じるのと同時に、気づいているように修練を積むことです。』
このような感情や思考が生まれる仕組みとして、因果律に従って起きている、機械的に否応なく生じている、感情のパターンがプログラム化されていてそのプログラムに合致する刺激が入ることで一定の感情が生じる=「縁起」、などという言葉で説明されている。

ウェブマガジンに連載されていたときから印象深く覚えていたのが、心の中で起きているアレやコレやのお喋りを「頭の中に住む7000人のおばさんたちの、井戸端会議」というイメージで表現しているところだ。別におばさんでなくてもよく、イメージしやすいのが青年なら、青年でもいいのだが、こう書いている。
おばさんたちの声に対して『「いや、違う」と逆らいもせず、「その通りだ」と鵜呑みにもせず、「へー、そうなんだ!」と聞き流しておく。そうすれば、おばさんたちが騒いでいる真っ只中で、完璧に静かなのです。そして、ただ、なすべきことに取り組みます。Just do it!です。』

最後にこう述べている。
『仏道とは徹頭徹尾、体育というか実技なのでありまして、頭で理解して「分かったような気になる」ことは、有害極まりないという側面もあると申しておきましょう。...修行においては、心が揺らぐときに「パッ」と、一瞬のうちに対処できることこそが、大切なことです。...ですから、①内面への気づき、②集中、③無頓着の「ま、いっか」の三つだけで充分なのです。』
戒の大切さや、瞑想がうまくいかないときの心の持ち方も書かれていて参考にできると思った。

書評「ブッダの真理のことば・感興のことば(中村元訳) 」

2017-10-01 16:36:29 | 書評(仏教)


原始仏教の経典、中村元訳による「真理のことば(ダンマパダ) 感興のことば(ウダーナヴァルガ)」である。平易な日本語の詩集のような形になっており、われわれのイメージする難解な言葉が連なる一般的なお経とは異なっている。いきなり本文から読み始めるより、あとがきを先によんで、これらの経典の出自や翻訳の方法などを知ってから本文を読んだほうが、内容が頭に入りやすいだろう。そして詳細な訳注が付いているが、翻訳する上で参考にした様々な原典や資料のこと、翻訳者の考えなどが書き留められているノートなので、本文を読みながら訳注をいちいち見ていくと、読むリズムが出なくなる。だから、訳注を見るのは後回しにすることをお勧めしたい。

では、あとがきから。まず「ダンマパダ」とは、パーリ語で書かれた短い詩集で、423の詩句が26章にまとめられており、主として出家修行僧のために説かれていて、仏教の実践を教えたおそらく最も著名で影響力のある詩集だという。これの成立年次はかなり古いが議論のあるところだとして、具体的には示されていない。漢訳の「法句経」に相当する。「ウダーナヴァルガ」は、「ダンマパダ」や他のいくつかの経典の詩句を集めたものである。カニシカ王(2~3世紀?)よりあとで作られたのであろうと述べられている。これのサンスクリット原本にもとづいて邦訳している。

『ダンマパダ』
・釈迦は、死んだらどうなるか述べなかったと言われているが、この経典では「あの世」や「死後」が頻繁に出てくる。例えば、「168 奮い起てよ。怠けてはならぬ。善い行いのことわりを実行せよ。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。」「224 真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。」
・悩みを持たないで楽しく生きることを勧めている。「198 悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。」
・「第20章 道」には、「八正道」「四諦」「諸行無常」「一切皆苦」「諸法無我」といった仏教の根本思想が出てくる。
・2種類の意識のはたらかせ方(瞑想法)が言及される。「384 バラモンが二つのことがら(=止と観)について彼岸に達した(=完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。」ここで、心を練って一切の外境や乱想に動かされず、心を特定の対象にそそいで心のはたらきを静めるのを「止」(サマタ)といい、それによって正しい智慧を起こし、対象を如実に観るのを「観」(ヴィパッサナー)という。
・「417 人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人、―かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。」ここで出てくる「天界の絆」とは、天の世界に住む神々といえども束縛の絆を受けていることをいう。神々といっても、人間よりはすぐれた存在であるというだけで、やはり変化や苦悩を受ける生存者であり、まだ解脱していない。初期仏教では、神々よりも、解脱した人間のほうがすぐれた存在なのである。

『ウダーナヴァルガ』
・「第16章の1 未来になすべきことをあらかじめ心がけておるべきである。―なすべき時に、わがなすべき仕事をそこなうことのないように。準備してなすべきことをつねに準備している人を、なすべき時になすべき仕事が害うことはない。」将来なすべきことがあるのなら、しっかり準備しておくべし。
・「第27章の41 (無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、その(無明が)あるが故に、すがたをさらに吟味して見るということが起こるのである。この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。」訳注で、多分に大乗仏教の空観、例えば「般若心経」を思わせる思想である。後代に挿入されたものであろうと述べている。大乗仏教の思想も一部含まれているのである。
・「ダンマパダ」では、ブッダは複数形で示されていたから、幾人もいて差し支えなかった。ところが「ウダーナヴァルガ」ではブッダは単数で示されており、初期の仏教から思想が変遷しつつあることがうかがえる。

ダンマパダにもウダーナヴァルガにも、安心の境地という意味のニルヴァーナという言葉が頻出する。ニルヴァーナという名のバンドがいたが、そんな境地からは遠かった。きっと憧れていたんだろうけれど。YouTubeには、ビートルズのアクロス・ザ・ユニバースをニルヴァーナのボーカリスト、カート・コバーンがカバーしたという音源が出ているが、これの真贋ははっきりしない。ここでは、本家本物のビートルズのアクロス・ザ・ユニバースをどうぞ。仏教観を感じる曲だ。
Beatles - Across the universe (Best version)


書評「別冊100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した(佐々木閑) 」

2017-05-02 22:20:44 | 書評(仏教)


佐々木閑氏の著作は、釈迦の仏教から大乗仏教まで、あいまいさを排した理路整然とした論述が特徴で、そこが好きなところである。今回は別冊100分de名著として、大乗仏教がどうやって生まれてきたのか、とくに「般若経」「法華経」「浄土教」「華厳経」「密教」「禅」といった主要な経典や思想がどうやって生まれてきたのか、その内容は何かについて、仏教研究の新しい知見も含めて解説している。そして、「嫌われる勇気」ばりに、青年と講師の対話の形式を取って話を進めていく。最初の釈迦の仏教から、社会状況に対応して各種の大乗仏教が生まれ、それぞれがさらに変形し分岐して多様化し、あるものは遠くの場所へ移動して栄え、生まれた元の場所ではすたれてしまうといった大きな躍動があった。それは、あたかも生物の進化のようだ。仏教の変遷と生物の進化という一見なんの関係もないはずの事象は、構造主義的でいうところの「構造」なのだろうか。何かの宗派に帰依していたり、仏教に親しみを持っている人でも、こうした仏教のでき方を知っている人は少ないのじゃないだろうか。
私なりに本書のポイントをまとめてみた。

・釈迦が亡くなってから百~二百年後の紀元前3世紀中ごろ、インド亜大陸の統一を果たしたアショーカ王が仏教に帰依したことが、仏教がインド全土に広まった一番の理由であると考えられている。その時代に、釈迦の教えの解釈の違いによって、仏教世界が20ほどのグループ(部派)に分かれていった。しかし、「破僧の定義変更」が行われたことで、部派は仲間割れせずに並存できた。釈迦が生きていた時代は、破僧とは本来の釈迦の教えに背く解釈を提唱して独自の教団を作ろうとする行為で謹慎処分となる決まりになっていたが、アショーカ王の時代に、釈迦の教えについて互いに違った考え方や解釈を持っていたとしても、同じ領域内に居住し、集団儀式をともに行っているかぎりは破僧ではない、と定義が変更された。このことで一気に多様化が進み、大乗仏教への扉が開かれたと考えられる。在家のままでブッダになれる方法として、日常の中で行う善行が大切な修行になると考えられるようになり、その善行とはブッダと出会い、崇め、供養することとなっていった。
・大乗仏教の最初の経典は「般若心経」などを含む「般若経」で、紀元前後に誕生したと考えられる。最古の「般若経」はガンダーラ地方(パキスタン北西部)で発見されている。釈迦は、輪廻を断ち切り涅槃を目指すには、この世では善いことも悪いこともしてはならない、つまり業を消しなさいと言う。一方「般若経」は、過去でブッダと出会い、請願を立てて菩薩となり、そのあとの長い生まれ変わり死に変わりの中、ひたすら日常的な善行を積むことによって、自分自身がブッダとなり最後には涅槃に入ると言う。だから釈迦の教えと「般若経」の教えは全く別のものである。
・「法華経」は「般若経」の進化形として、紀元50~150年ごろに北インドで作られた。「般若経」は「三乗思想」といって、悟りを開くために3つの修行方法(乗り物)があると考えた。一つは、釈迦の教えを聞きながら阿羅漢を目指して修行すること(声聞乗)。二つ目は誰にも頼らず独自に悟ること(独覚乗)。ここまでは「釈迦の仏教」の教え。三つ目は自らを菩薩と認識し、日常の善行を積むことでブッダを目指す方法(菩薩乗)で、「般若経」はこれを他の二つより優れているとした。一方、「法華経」は、「一仏乗」といって、すべての人々は平等にブッダになることが可能であるという教えを説き、「三乗思想」よりもさらに上に位置すると考えた。釈迦の仏教とは明らかに違っているのだが、釈迦の説教のあとに、じつは釈迦自身が真実の教えである「法華経」を説いたのだとして辻褄を合わせている。このような新たな教義の導入の仕方は、多くの大乗経典で用いられている手法である。「法華経」はもはやブッダ信仰ではなく、お経そのものを信じる信仰に変容しているが、今まで救うことができなかった人を救えるようになったと考えれば、プラスの進化ととらえることもできると著者は述べる。
・浄土教のうち「無量寿経」と「阿弥陀経」は、「法華経」とほぼ同じころ、紀元1世紀ごろ、インド(ガンダーラ地方?)で成立したと考えられている。「般若経」や「法華経」が時間軸に注目したのに対して、浄土教は私たちが生きているこの世界とは別の場所に無限の多世界が存在しているとして空間軸に目を向けた。「般若経」や「法華経」は、日々の善行が悟りのエネルギーに使えるとし「自力」による割合がまだ大きかったが、「浄土教」は善行さえも不要で「南無阿弥陀仏」と称えるだけでいいとし「他力」の度合いが高まった。釈迦の教えとはかけ離れたものになっているが、それを信じた人が幸せになれるのならその価値を認めるべきだとしている。
・「華厳経」は紀元3世紀ごろに中央アジアで作られた。「華厳経」には悟りについての方法は説かれていない。「毘盧遮那仏は宇宙の真理である」という教えや、私たち人間はその宇宙の一微塵だという考えを説き、日本では奈良時代の鎮護国家の根拠になった。
・その毘盧遮那仏と同じ仏様である大日如来を最重要仏としたのが密教である。密教は、紀元4~5世紀ごろのインドで、ヒンドゥー教やバラモン教の呪術的な要素を取り入れて誕生した。主要経典の「大日経」と「金剛頂経」は7世紀ごろにインドで体系化された。密教では、自分がすでにブッダであることを自覚することが唯一必須の作業で、「三密加持の行」として、印、真言、宇宙の真理を心に思い描くことを行う。自分がブッダであることを自覚した後は、護摩を焚いて加持祈祷をしたり、祭祀を執り行ったり、現世利益のための行為を行う。
・仏教は様々なかたちに変容して選択肢の多い宗教になったことで、世界に拡大していくことになった。一方で、仏教が誕生したインドではヒンドゥー教によって仏教は消滅していった。ヒンドゥー教では、宇宙を貫く根本原理として「ブラフマン(梵(ぼん))」というものがあり、私たち個人には個体原理「アートマン(永遠不変の自我)」が存在していて、この二つが一体化したときに悟りに至ると説いた。これを「梵我一如」と呼ぶ。「釈迦の仏教」では、自我という錯覚の存在を自力で打ち消し、煩悩を断ち切ることが悟りに至るための道と考えたので、アートマンの存在を認めていない。しかし、大乗仏教が成立して、次第にヒンドゥー教の教えに近づいていったことがインド仏教衰退の最大の原因であると著者は考える。つまり、大乗仏教では、ブッダの世界の中に私は存在している、さらにブッダは私の中にいるととらえることで、梵我一如=ヒンドゥー教の教えと同じになってしまい、仏教の存在意義がうすれてしまったのである。
・禅はインドでなく中国において、道教などをベースとした出家者コミュニティと、「釈迦の仏教」の修行の一つである「禅定」(瞑想によって心を集中する修行)が結びついて、仏教集団となっていったのが起源である。開祖は、紀元5世紀に南インドから中国に来た達磨とされる。私たちの内側には仏性があり、それに気づくことが悟りへの道であるととらえ「坐禅修行」をする。自分の心の中を探りながら煩悩を取り払っていくスタイルは、「釈迦の仏教」の教えに極めて近い。道元はそれを大乗仏教の教えとの整合性をはかるために、「禅における坐禅は煩悩を消すための修行ではなく、自分がブッダであるということを確認する作業だ」ととらえ直した。鈴木大拙は仏教をうまく説明しているが、それは日本固有の大乗仏教についての思想であり、「大拙大乗経」ともいうべき新たな仏教経典だと著者はとらえている。
・これからの宗教は、仏教に限らずキリスト教もイスラーム教も、科学と擦り合わせができ神秘的な概念の薄まった「こころ教」と、反対に原点回帰に向かう「宗教原理主義」の二極分化が起こると著者は考えている。最後に著者自身の立場として、釈迦の教えのうち、現代の科学的世界観においても通用する部分を抽出して、業や輪廻といった2500年前には当然と考えられていたが現在では受け入れられない部分は除外して、それを自分の生きる杖にするほかに生きる道はないと述べている。

書評「100分de名著 道元 正法眼蔵(ひろさちや)」

2016-11-27 20:19:11 | 書評(仏教)


私が坐禅のやり方を最初に覚えたのは、お寺でではなく本からだった。その本は、ひろさちや監修による「禅を楽しむ本」で、とっつきにくい印象のあった坐禅をとてもわかりやすく教えていただいたのである。そして、ひろさちや氏は、100分de名著において、道元著による難解そうな正法眼蔵を平易な言葉で解説してくれている。テレビでは優しくてとても熱意のこもった語り口が印象的であった。ひろ氏によると、正法眼蔵は仏教の智慧を言語化した哲学書であるという。そして、日本の仏教者で哲学者でもあったのは、道元、空海、親鸞の3人だという。大著である正法眼蔵からエッセンスを抜き出し、第1回・「心身脱落」とは何か?、第2回・迷いと悟りは一体である、第3回・全宇宙が仏性である、第4回・すべての行為が修行である、の4つにまとめている。

第1回・「心身脱落」とは何か?、では、「悟り」とは求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させる、つまり心身脱落させるのだと言う。悟りは捉えるものではなく、その世界に溶け込むののだと説く。ひろ氏は、全て心身脱落したら死んだも同然、少しだけ心身脱落すればいいのだよとテレビで語っていた。
第2回・迷いと悟りは一体である、では、迷いながら歩もうと言う。悟りの世界をすべて学びきってから歩もうとしてはだめである。自分の必要な分だけ悟っていればいいのである。そして一歩一歩歩んでいけば、自然にまた次の道が見えてくるようになるのだと考える。坐禅や瞑想をしたり、はたまた禅門で修行したりしていても、まだまだ迷うことがあるけれど、そのままでいいので、さらに前へ歩いていこうということだ。とても勇気を与えてくれる言葉だと思う。
第3回・全宇宙が仏性である、において、道元は「存在と時間」で知られるドイツの哲学者ハイデガーをも超える哲学的な時間論を展開していると説明する。時間というものは、「過去→現在→未来」へと流れていくものではなく、「現在・現在・現在」なのだとする。今だけあるのだ。
第4回・すべての行為が修行である、においては、あらゆるものが仏性であるのに、なぜ修行をするのか?と問う。それは、仏性を観点的に理解していてもだめで、仏性を仏性として活性化させるために必要なのだと説く。そして、修行とは、禅堂で坐ることだけではなく、食べるのも眠るのもすべて、日常生活すべてがそうなのだと言う。そして、修行に向けて実践すべき徳目として、布施・愛語・利行・同事を挙げている。これは、利他の実践と言えるだろう。ここのところはほんとにできていないと思う。できるようにしていこう、ちょっとずつちょっとずつ。


書評(NHK趣味どきっ! お寺の知恵拝借)

2016-08-28 07:50:48 | 書評(仏教)


毎週放映で8回分の番組のテキスト。寺で行われている仏教の修行の一端を、一般人の我々が体験するための講座だ。仏門に入って修行することに憧れたとしても、現実的にはとてもできることではない。だけど家にいてもできることはたくさんあり、そんな仏教の修行のエッセンス、あるいは一面を日々の生活に取り入れることができそうだ。
内容は前半の4回が、作務、坐禅、精進料理、滝行。後半の4回は、曹洞宗僧侶で庭園デザイナーの枡野俊明氏が講師となって、心を磨く作務、心を調える坐禅、精進料理のおもてなし、“心の庭”づくり、となっている。前半4回目の滝行は密教系の天台宗によるものだが、それ以外は全て禅宗から取材したものである。
おもしろかったのは前半2回目に紹介されている「考える禅」。禅宗の臨済宗の修行では、公案禅という、老師から公案という問題を出されて坐禅中にその回答を考える修行法が行われるが、門外不出であり一般人が体験することは難しい。その公案禅の考え方を取り入れて、ある問いかけに対する答えを坐禅中に考えるやり方が提案されている。心を一つのことを考えることに注意集中させる方法であり雑念にとらわれないやり方として、こういう坐禅法があるのもなっとくできる。ただし、一人で坐禅するときでもこれはできるのだろうか?そこが問題だ。