この本は素晴らしい。哺乳類の進化を論じている本であるが、現在どこまでわかっているかが書かれているだけではない。どういう仮説が立てられて、どうやって研究が進展してきたか、ナゾ解きの道筋が書かれているのである。これだけの情報を収集してまとめるのに、相当な時間と労力を要したことと思われるが、自分や家族のこともときおり話題にしながら(自分たちも哺乳類である)、飄々とした語り口で話は進んでいく。一度読んだだけではなかなか頭に入らないくらい情報は膨大であり、私にとってはずいぶんと勉強になった。
章ごとに、興味をひかれた内容をピックアップしてみた。
第1章 なぜ精巣は体外に出たのか
・精巣を包む袋、陰嚢は、はじめは腹部の中で作られるが、ヒトでは筋肉と靭帯からなる滑車システムに乗り、腹部を渡る7週間の旅に出る。その後、数週間の後、筋収縮の波により鼠径管を通って外に押し出される。この旅の複雑さゆえに、うまくいかないケースが頻発し、男児の3%は精巣の下降が途中で止まった状態で生まれてくる。鼠径管というトンネルも、腹壁の大きな弱点になっていて、この管を通って内臓が滑り落ちてしまい鼠径ヘルニアとなることが多い。また、陰嚢は、体外に露出していることで、ケガをしやすいというリスクも持った。このようにデメリットが多いのに、哺乳類の陰嚢はなぜ体の外部に出たのか?
・陰嚢が体の外部にある理由として、精子の生成にとって高い体温が障害になるという説がこれまで一般的に信じられてきた。また、メスへのアピール説や、「ギャロッピング(全力疾走)仮説」と言って運動による腹圧の上昇を避けるためだという考えもある。最近になって研究の進展があり、精巣を下降させるシグナル物質となるインスリン様ペプチド・INSL3が発見された。より哺乳類の祖先に近いと考えられているカモノハシには、この遺伝子の原型があり、そのあとに登場した哺乳類ではこの遺伝子の重複が起き、一方の型が精巣の下降に関する機能を、もう一方の型が乳首の発達に関する機能を進化させるに至ったことがわかった。これは、哺乳類の特殊性の創造に貢献した、遺伝的大事件の1例だとも考えられる。しかし、精巣が体外に出た理由はまだ解明されたとは言えない段階だ。
第2章 カモノハシに学ぶ
・現存する哺乳類は、ヒトを含む有胎盤類、カンガルーなどの有袋類、カモノハシなどの単孔類に分類される。単孔類は、1億6600万年前に哺乳類の主流派から飛び出した系統の生き残りだ。そして、有袋類と有胎盤類は、1億4800万年前に共通の祖先から進化した。したがって、単孔類のカモノハシとハリモグラは、それ以外のすべての現生哺乳類の受け継いだ形態ができるよりも2000万年ほど前に、哺乳類がどのような特徴を持っていたのかを示す証拠になる。しかしながら、カモノハシを「生きた化石」と呼んだダーウィンの記述は正しいとは言えない。現存する種はどんなものでも進化している。カモノハシは泳ぎ、潜り、穴を掘り、生殖しながら、彼ら独自の曲がりくねった道を歩み、独自の特徴を進化させてきた。
第3章 性を決める新たな発明
・一般的に哺乳類は、メスがXX染色体、オスがXY染色体を持っている。Y染色体がオスらしさを作っている。このY染色体の性決定領域(Sex Region of the Y)の頭文字をとってSRYと名づけた遺伝子の存在が、1990年にネイチャー誌で報告された。SRYは有胎盤類と有袋類のY染色体上にある哺乳類固有の遺伝子であり、オスをオスたらしめている。カモノハシは、メスがXXXXXXXXXX染色体、オスがXYXYXYXYXY染色体を持っている。ところが、SRYは、カモノハシにもハリモグラにも見られなかった。そして、カモノハシの性染色体はXXXXXXXXXXとXYXYXYXYXYでさえない可能性が出てきた。一方、齧歯類のモグラレミングはY染色体遺伝子そのものを持たない。別の齧歯類アマミトゲネズミはY染色体上にSRY遺伝子を持たない。これらのことから、すべての哺乳類でSRYを持つ持たないにかかわらずオスかメスという性表現型は残っている。そして、オスとメスという身体の形態は、SRYが登場する以前から脈々と続いてきたものだ。つまり、この遺伝子は、性的二型を生みだした張本人ではなく、単にそれを表現するための手段として、獣亜綱(有袋類と有胎盤類)の哺乳類が利用するようになったものにすぎないということだ。この事実は、性という形質(表現型)がその基礎となる特定の遺伝子とはかかわりなく存続することを示唆している。
第4章 風変わりな生殖器
・哺乳類が進化するあいだに、陰茎のもとになる細胞が肢の前駆細胞から尾の前駆細胞に変わっていた。つまり、進化の途中で陰茎はまったく違う細胞から作られるようになったが、なぜそうなったかはわかっていない。陰茎の形態には多様性があり、ネコのは棘に覆われていて、ヒツジのは螺旋状をしており、セイウチのは骨があり、有袋類とカモノハシのは双頭であり、ハリモグラのは4つの亀頭がある。そのため、陰茎は動物界でもっとも急速に進化した構造だとも言われている。
・メスの生殖器も多様性がある。ヒトでは、2本の卵管が単一の子宮、子宮頸部、膣とつながっている。一方、齧歯類とウサギでは、2本の卵管に別々の子宮と子宮頸部がある。シカ、ウマ、ネコでは、2つの子宮が1つの子宮頚部を共有している。有袋類は2つの子宮と3つの膣があり、2つの膣は精子を運び入れるため、1つの膣は赤ん坊を送り出すためのものである。
第5章 受胎と発生ー細胞進化のイノベーション
・個体は死んでいく。一方、精子と卵子という生殖細胞系列は、その動物の身体の構築にはまったく寄与しない細胞の系列で、実質的に不死であり、世代から世代へ受け継がれながら分裂を続けていく。私たちの身体と心は、ホモ・サピエンスの生殖細胞が末永く分裂し続けるための生物学的構造の要素にすぎない。精子や卵子を自分の所有物とする常識は完全に覆され、生殖細胞に所有される身体、それが私たちなのだ。
第6章 胎内で対立する父母の遺伝子
・哺乳類の妊娠期間中には、母と子の対立が起こるという。胚が子宮壁に埋め込まれた瞬間から、父系遺伝子は胚を動かし、母親の利益よりも胚の利益を優先することができるという。デイヴィッド・ヘイグの論文によると、妊娠のごく初期から、栄養膜細胞は母体組織を分解する酵素を分泌し、母体組織はその酵素を阻害する化学物質を分泌する。また、胎盤が自身の発生を加速させる成長因子を分泌するのに対し、母体の脱落膜化間質細胞はその成長因子を中和するタンパク質を分泌する。そうした相互作用は、捕食者と被捕食者、あるいは宿主と寄生者のあいだに見られる軍拡競争に似ているととらえている。他にも、胎盤は母体のインスリン抵抗性を高め、ひいては血糖値を高めるホルモンを分泌している。母親の側もこれに対抗して、母体でのインスリン産生量を増やしたり、さまざまなホルモン受容体を適応させている。子をつくるDNAを用意する親の性別によって、子に受け渡されたときに、どの遺伝子がオンになるかオフになるかが決まる。こうした現象を「遺伝的刷り込み(ゲノムインプリンティング)」といい、有袋類と有胎盤類で見られ、ヒトでは200の遺伝子が知られている。現在では、子が子宮を出た後も、それらの遺伝子の影響が続くことがわかっている。
第7章 ミルキーウェイ
・ダーウィンは、眼や翼のような複雑な形質の初期形態は現在とは同じ機能を持っていなかった例もあるだろうと述べていた。一方で、ダーウィンは、母乳の先駆物質は、現在の母乳よりも栄養価の低い、おおざっぱににじみ出る液体(現在と同じ機能)だったと主張した。しかし、現在の権威者のほとんどは、母乳の原型、あるいはそのまた原型は、栄養摂取とは関係のない別の機能を担っていたと考えている。その例として、二つの説がある。一つは、ダニエル・ブラックバーンとヴァージニア・ヘイセンが1980年代に提唱したもので、母乳は抗菌液として生まれたというものだ。二つめは、オラフ・オフタデルの説で、母乳の原型は当初、卵を乾燥から守るうえで重要な役割を果たしていたというものだ。
・哺乳類を他の動物類と区別する性質はたくさんあるが、メスだけの形質にちなんで”哺乳”類と呼ばれるようになったのはなぜか。カール・リンネが命名者であるが、哺乳類と名づけた理由は説明されていなかった。後に、ロンダ・シービンガーの調査によって、リンネが乳母制度をめぐる熾烈な社会政治闘争にかかわっていたことがわかった。1700年代のヨーロッパでは、富裕層の大多数は子を代理母に委ねていた。乳母制度が非常に高い乳幼児死亡率に寄与していると確信したリンネは、乳母制度を攻撃する論文を発表し、授乳の自然さを訴え、獣たちでさえ母親が子をやさしく養っていると強調し、おおいなる自然そのものが「愛情に満ちたつつましい母」であると力説した。その6年後に「哺乳綱」という語を考案している。シービンガーは、リンネの命名の選択は、そうした政治的信念から生まれたものだと考えている。
第8章 夫婦が先か、子育てが先か
第9章 歯と骨と恐竜
・哺乳類の進化において、頭部の骨格構造が大きく変化してきた。その一つが、口腔と鼻腔の変化である。爬虫類は口腔と鼻腔に分かれていなくて、ひとつの腔しかない。哺乳類の祖先は、第二の骨口蓋を進化させた。オープン構造の大きなビルに中2階を組み込むかのように、上顎のふたつの側面から伸びた部分が中央で融合し、独立した口腔と鼻腔を形成した。奥のほうでつながっているが、鼻はにおいを嗅ぎ、口はものを食べることができる。呼吸はどちらを使ってもできる。しかし、第二の口蓋が進化した理由については、まだ論争が続いている。新たにできた口蓋には複数の有益な機能がある。一つは上顎を強くする機能ができ、顎にかかる力が強くなっていったことの助けになっている。二つめは、食事と同時に呼吸するのを可能とし、温血動物の燃料である食べ物と酸素の摂取速度を上げることができた。三つめは、鼻腔に並ぶ鼻甲介という渦巻き状の骨からなる組織が作られるようになり、鼻腔の表面積を拡大し、感覚細胞が多くなることで嗅覚が鋭くなった。また、鼻に入る空気を温め、汚れを粘液で付着し、加湿することで、肺の受ける衝撃を和らげている。さらに空気を吐くときには、呼気に含まれていた水分が鼻甲介で吸着されて回収される。
・哺乳類は2億1000万年前に進化したが、恐竜が陸の動物の支配者であったため、陸に君臨する動物相を築くまでに1億4500万年ほどの時を待たなければならなかった。その間、哺乳類は恐竜の脇役といてすごしてきたのか?最近の化石研究から、ジュラ紀の中期に当たる1億8000万年前~1億6000万年前ごろに、哺乳類の爆発的な形態学的変化が起きていたことが突き止められた。この時期は、有胎盤類と有袋類の祖先にあたる、最古の獣亜綱の哺乳類が生息していた時期になる。
・2001年、マーク・スプリンガーの研究チームとスティーヴン・オブライエンの研究チームは、それぞれ同じ結論の研究結果を発表した。それは、大量の遺伝学的データをまとめることで有胎盤類は次の4つの系統群で表せるというものだ。
①アフリカ獣上目。アフリカに起源を持つグループに与えられた新しい名称。
②移節上目。南米に生息し、貧歯類とも呼ばれるナマケモノ、アリクイ、アルマジロで構成される。
③ローランド獣上目。現在の北米、グリーンランド、欧州、アジアの大半で構成されている超大陸ローラシアから名づけられたグループ。ローラシアでは、食虫類、食肉類、有蹄類、クジラ、センザンコウ、コウモリの祖先たちが進化した。
④真主齧上目。ヒトはここに含まれる。この単系統群は、霊長類とその近縁、齧歯類、ウサギとその仲間で構成される。
上記の分類法は、これまでの哺乳類の系統樹を完全にひっくり返すものだった。大陸ごとに個別に哺乳類が進化したことになる。この分類法には目印となる形態学的特徴はなにもない。4つの地理的に大きく分かれた哺乳類たちが、それぞれよく似た形態を収斂進化させたということになる。
第10章 高速で燃える生命
・同じ大きさの冷血性の脊椎動物に比べ、温血動物である哺乳類や鳥類は、最大20倍ものカロリーを消費している。そのため、ナイルワニなら年に1回の食事ですむが、サイズの近いトラは2週間か3週間ごとに食事をとる必要がある。爬虫類のヒョウモントカゲモドキは餌なしで何週間も生きられるが、トガリネズミは絶食が5時間を超えると死んでしまう。哺乳類はじっと座っているときでさえ、周囲温度より高い体温を保つためだけにかなりのエネルギーを費やしている。われわれの祖先はなぜこれほど不経済な生理的特性を身につけたのか、理由はまだわかっていない。
第11章 夜につちかわれた感覚
・嗅覚は哺乳類の感覚のなかでも地位が高い。たいていの哺乳類は、鼻から来る情報の処理に脳のかなりの部分を割いている。1991年、リンダ・バックとリチャード・アクセルは、ラットの嗅覚受容体の遺伝子を分離し、1000種類の嗅覚受容体を持つことを示した。その功績により、二人はノーベル生理学・医学賞を受賞した。他の有胎盤類も同じくらいの数の遺伝子を持っている。有袋類のオポッサムも1000前後であるが、カモノハシは350ほどだ。アリゲーターで400、鳥類とカメは200ほど、トカゲと鳥類は100前後である。このことから、受容体の拡張は主に、単孔類が分岐してから、有胎盤類と有袋類が分岐するまでに起きた可能性が高い。しかし、有胎盤類の中でも、ハクジラでは嗅覚受容体のほぼすべてが退化、霊長類では400ほどになっていて嗅覚の縮小が示唆される一方、ゾウは機能するものだけでも2000、さらに機能していないものが2000もあり、優れた嗅覚を表わしている。
第12章 悩ましきは多層の脳
・哺乳類の脳に特徴的な構造に新皮質がある。厚さ0.5ミリから3ミリほどの神経組織の薄層で、脳の外側を覆っている。複雑なしわを描いているヒトの脳をコーティングしている灰白質の大部分は新皮質からなる。新皮質には6つの層が存在する。層1はもっとも外側で、ここに含まれるニューロンの細胞体はごくわずかで、軸索が走り、他の層のニューロンの樹状突起の最上部と接している。その下にあるのが、層2/3(層2と3の区別はマニアックなので、この二つはひとまとめにされることが多い)には、新皮質回路の中心となるニューロンが含まれる。層4にあるのは、それよりも小さいニューロンで、視床と呼ばれる領域から来る情報を受け取っている。皮質に届くほとんどの感覚情報は、視床から送られている。層5と6には、それぞれ数は少ないが大型のニューロンが含まれている。このニューロンの軸索が皮質の外へ出ている。新皮質を流れる情報には基本的なルートが存在していて、視床からインプットされた情報が、層4→層2/3→層5/6の順に流れてアウトプットされる。
・一方、爬虫類の背側皮質では、一層の興奮性ニューロン層がインプット層としても機能している。視床から情報を受け取ったのと同じニューロンが軸索にスパイクを送り出し、その軸索がまた皮質を出ている。このため、情報をあちらこちらにすばやく届けるための回路にはなっていない。つまり、マルチタスクを単一のニューロン層でこなしているが、それを4つか5つのスペシャリストに置き換えるプロセスが、哺乳類の新皮質の起源であるという仮説がある。
・以前は、鳥類の脳が哺乳類の脳と同じように機能するとは考えられていなかった。多層構造になった哺乳類の皮質とは異なり、鳥類の前脳は小塊のような核が寄り集まったもので、一見すると解剖学的構造はまったく異なっている。アナ・カラブレーゼとサラ・ウーリーはキンカチョウの鳴き声に対するニューロンの反応様式を発表した。ケン・ハリスは、その内容の哺乳類との共通性に注目し、2015年に論文で示した。鳥類の「L2野」にあるニューロンが哺乳類の層4のニューロンと同じように機能していた。どちらも最初に発火し、同じように情報をコーディングしているのだ。哺乳類でも鳥類でも、この領域が、視床から伸びる軸索の最初の標的になっている。次いで、鳥類の別の核にあるニューロンが、層2/3と同じように機能する。そして、哺乳類の層5ニューロンに相当するのが、鳥類の脳の「L3野」である。このことから、ハリスは次のように結論している。「皮質に標準的な微小回路が存在し、実際に鳥類と哺乳類で相同しているのなら、その回路は3億年以上前に生息していた哺乳類と鳥類の最後の共通祖先で稼働していたということだ」
・おそらく、動物には心がない、擬人化して考えるなという、これまでの機械論的な心理学的研究の流れにたいする反論だと思うが、「現代の行動神経化学ー動物の認知能力を推測する科学ーでようやくわかりはじめているのは、動物たちの知能を理解しようとするなら、さまざまな動物の行動をもっと共感的に、もっと注意深く観察して調べる必要があるということだ」と述べている。最近日本でも話題になっている(「アレックスと私(アイリーン・M・ペパーバーグ)」)、オウムのアレックスにひたすら話しかけ、ちょっと変わり者と見なされてきたアイリーン・ペパーバーグによる研究によって、アレックスが理解可能な語彙を増やしたこと、色の概念を理解していること、そして単純な算数ができることを証明し、鳥類の知能に対する理解を深めたことを例に挙げている。
第13章 絡みあいループする進化
・身体の各部位の機能の相互作用は、その進化を理解するための重要なポイントになる。相互作用は相互依存性を生む。したがって、ある生物グループを定義する、あるいは生み出しうる、ただ一つの特性ー「鍵を握るイノベーション」ーなどありえない。つまり、様々な特性がお互いに依存、影響し合いながら進化してきたということになる。例えば、乳腺のような複雑なものが進化するためには、汗腺を母乳ディスペンサーに変えるだけでは足りず、大量の食糧から乳製品に変換できるよう余分なエネルギーを保存する能力が必要だったし、卵の世話をする動物でなければならなかった。そうしたものの同時進行の適応のどれが欠けても、哺乳は存在しえなかった。そして、母親が子に母乳を与えるようになると、今度は上下が完全に噛みあう歯を生体の顎で進化させることが可能になり、より効率的にエネルギーを収集できるようになり、増えたエネルギーはより大きな脳を養い、それが優れたハンティングにつながり....と、複雑な相互依存性のループは果てしなく続いていく。