ウェブマガジンの幻冬舎plus「マインドフルネスな日々」として、2015年6月~2017年7月に連載されていたときから、毎回注目して読んでいた。それが本になったものである。本書を読むと、もうほとんど解脱しているか、悟りの境地に達しているのではないかと思われる内容なのだが、悟りを完成させるために、これまでの執筆活動や寺での活動を捨てて野宿による修行生活に旅立ったのである。解脱にはあと1年から7年くらいかかるだろうと書かれていた。それが2018年10月のこと。
ここまでの境地に至れたことを公言している人をあまり知らない。小池龍之介氏が解脱寸前にまで至れたのにはいくつか理由があるかもしれないと考えた。長い時間を瞑想修行に費やしてきたことは当然だろう。ほかには東大卒だけあって、地頭がそうとういいだろうということ。東大出身者は、我々凡人とはそもそも頭の出来が違うということを仕事上感じることは多い。頭がよいから脳の使い方がうまくて、解脱に近づけるのも早いんだろうなと思った。それから、特定の宗派に入っていないから、寺の行事や務めなど雑用に時間を取られないで修行に専念できる。また、師について修行していないので、自分が良いと思ったことだけを取り入れて瞑想していたのも早道だったかもしれない。とにかく、そういう理想的な形で修行して得られた解脱前の境地というものを、難しい仏教用語も使わずに平易な言葉で教えてくれているので、とても貴重な内容だと思って読んでいた。
ところがショッキングなことが起きた。小池龍之介氏から解脱失敗が報告されたのである。旅立ってからまだ半年も経たない2019年3月18日のことである。詳しいことはここでは書かないので、興味のある方は、ウェブサイト『サンガ-samgha- > ブログ > 編集部 > 解脱失敗とその懺悔――小池龍之介さんからの電話』を参照されたい。YouTubeで公開されている詳しい独白へのリンクも付いている。
そのような顛末があったので、本書の内容をどこまで本気にしていいのか疑わしくなってしまった現状ではあるが、ざっと簡単にまとめたい。
仏教系瞑想法は止観(しかん)といって、呼吸などに意識を集中させる「止=サマタ」と、心に現れてくる思考をそのまま観察する「観=ヴィパッサナー」に分けられる。止だけでも、あるいは観だけでも、悟りが得られると言われているが、著者の瞑想方法は観だけなのかもしれない。本書では、止については触れず(むしろ、集中することを意識しすぎると緊張して、感覚刺激や思念や気力が入ってこなくなると述べている)、観を実践することで「私=我」というものは存在しないことに気づくのだということを徹底的に説明していく。それは、長い瞑想修行をしないと得られない智慧であるが、著者の体験を私たちに教えてくれているのである。
例えば次のような記述がある。
『「自分が自らの意志でイラッとしているんだ」というのは思いこみで、①「先に勝手にイラ立ちが生じ」→②「後から気づく」ことしかできないのです。己の心にマインドルフであるとはすなわち、この「後から気づく」のスピードと精度を高めてゆくことにより、感情が生じるのと同時に、気づいているように修練を積むことです。』
このような感情や思考が生まれる仕組みとして、因果律に従って起きている、機械的に否応なく生じている、感情のパターンがプログラム化されていてそのプログラムに合致する刺激が入ることで一定の感情が生じる=「縁起」、などという言葉で説明されている。
ウェブマガジンに連載されていたときから印象深く覚えていたのが、心の中で起きているアレやコレやのお喋りを「頭の中に住む7000人のおばさんたちの、井戸端会議」というイメージで表現しているところだ。別におばさんでなくてもよく、イメージしやすいのが青年なら、青年でもいいのだが、こう書いている。
おばさんたちの声に対して『「いや、違う」と逆らいもせず、「その通りだ」と鵜呑みにもせず、「へー、そうなんだ!」と聞き流しておく。そうすれば、おばさんたちが騒いでいる真っ只中で、完璧に静かなのです。そして、ただ、なすべきことに取り組みます。Just do it!です。』
最後にこう述べている。
『仏道とは徹頭徹尾、体育というか実技なのでありまして、頭で理解して「分かったような気になる」ことは、有害極まりないという側面もあると申しておきましょう。...修行においては、心が揺らぐときに「パッ」と、一瞬のうちに対処できることこそが、大切なことです。...ですから、①内面への気づき、②集中、③無頓着の「ま、いっか」の三つだけで充分なのです。』
戒の大切さや、瞑想がうまくいかないときの心の持ち方も書かれていて参考にできると思った。