wakabyの物見遊山

身近な観光、読書、進化学と硬軟とりまぜたブログ

鎌倉五山第五位の浄妙寺に行く

2023-11-25 07:39:18 | 遺跡・寺社

鎌倉の浄妙寺に行ってきました(2023年11月12日)。

毎週日曜日、1万歩以上のウォーキングをこなしています。しかし、ただ歩くだけではつまらないので、毎回テーマを決めて行っています。今回は、鎌倉にとびました。鎌倉五山のうち、第一位の建長寺、何度も坐禅に行った第二位円覚寺第三位の寿福寺、第四位の浄智寺(ブログ記事はなし)には行ったことがありますが、第五位の浄妙寺には行ったことがないので、ずっと気にはなっていました。それで、今回の行先は浄妙寺にしました。

 

鎌倉駅を出ます。久しぶりの鎌倉。

 

若宮大路を来て、鶴岡八幡宮の前で右に曲がり金沢街道をひたすら歩きます。

 

浄妙寺に到着。

説明板に寺の歴史が書かれています。室町時代には23の塔頭をかかえた大寺院だったとのこと。今では国指定史跡になっています。

 

境内の庭園。

 

本堂。

 

右側が庫裏。

 

茶室の喜泉庵。だれでも抹茶がいただけるようです。

 

喜泉庵と枯山水の庭園。

 

寺の裏側は墓地になっていて、手前右の方に足利貞氏の墓がありますが、そこは見ていません。足利貞氏は足利尊氏の父です。足利尊氏は室町幕府を開いた大人物ですが、あまり時代劇とかで見た記憶がありません。なぜでしょうか。

 

寺の左奥には石窯ガーデンテラスという英国式レストランがあります。

豪華なアフタヌーンティーのセット。普通にランチもやっているようです。

 

鎌倉街道をへだてたむこう側に衣張山が望めます。

 

境内には紅葉の進んでいる木もあります。このお寺で見た人は10人くらいかな。こじんまりとしていますが、静かで綺麗な寺院でした。

 

金沢街道を戻ります。これは滑川。

 

鶴岡八幡宮のところまで戻りました。ここはいつ見ても賑わっていますね。


大塚・歳勝土遺跡に行く

2023-11-18 08:15:10 | 遺跡・寺社

大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡に行ってきました(2023年11月5日)。先日行った綱島遺跡の発掘物が収蔵されているという横浜市歴史博物館を見ようとして行ったのですが、そちらは休業中だったため、かわりに近くにある大塚・歳勝土遺跡を見たという次第です。

 

横浜市営地下鉄のセンター北駅から歩いて5分のところに横浜市歴史博物館がありました。立派な建物です。

 

残念ながら休館中とのことで、大塚・歳勝土遺跡公園に向かいます。

 

その公園は、博物館から1本の道路(歴博通り)を越えたところにあります。

 

高台になっているところが、遺跡を中心に公園として整備されています。大塚・歳勝土遺跡は国指定史跡です。

 

芝生広場。家族連れが遊びに来ています。

 

大塚遺跡の入口。木の柵は後から作ったものでしょうか。

 

大塚遺跡は弥生時代のムラの跡です。発見された遺跡の上に、1.5mほど盛土がされていて、我々が見れるのはその盛土の上に復元された住居のレプリカということになります。また、真ん中の図を見ると色が付いている右側1/3が遺跡として残っていて、色が薄い左側2/3は開発によって消滅してしまったようです。左側2/3は今は道路(歴博通り)が通っています。小机城もそうでしたが、貴重な歴史的遺物がいとも簡単に破壊されていた高度経済成長期の日本の開発でした。

 

竪穴住居が立ち並んでいます。

 

これは、型どり復元住居跡という、住居のあとを型どりして土で埋めた上に、発掘跡を再現したものです。

 

復元された竪穴式住居。

 

復元された高床式倉庫。

 

周りには広葉樹の木々が生えていて、

ドングリ(コナラ?)がたくさん落ちています。縄文時代にはこうした木の実が主食とされていたのですが、弥生時代にも食べていたのかもしれません。今年、クマが全国の町に出没して人災を起こしているのは、エサとなるドングリの凶作が原因とされていますね。

これはクヌギ?

 

大塚遺跡は環濠という溝で囲まれています。そこに復元された木橋がかけられています。この時代はムラどおしの戦があったと考えられているので、この溝は防御のために作られたように思えますが、どの程度効果があったのでしょうか。

 

大塚遺跡から80mほど離れたところにあるのが、歳勝土遺跡という墓(方形周溝墓)の跡。

木棺も復元されています。

 

復元されていない墓の跡には、このような石が敷かれて場所がわかるようになっています。

 

公園内にある都築民家園は、近くにあった江戸時代中期の旧長沢家住宅が移築されたものです。

 

広間。ちょうど、上野雄次さんという花道家による展示もやっていました。竹にいけられた植物がそれです。

 

馬屋には、様々な道具が並んでいます。

 

旧長沢家住宅の横に建てられた茶室。

 

茶室の前には池と庭園が作られています。

 

庭に柿がなっていると、昔のいなかの屋敷を思い出します。

 

公園の奥に行くと遊具広場があって、ジップラインなどで子供たちが遊んできます。ジップラインは楽しいんだけれど、なかなか設置されている公園は少ないんですよね。

 

センター北駅前に戻りました。商業施設の上に観覧車もあるし、とても活気があります。港北ニュータウンとして高度経済成長の時代に作られた街ですね。

私が知っている場所だと多摩センター駅前にも似ている感じがします。

センター北は、古くて新しい街でした。


僕の読書ノート「がん-4000年の歴史ー下(シッダールタ・ムカジー)」

2023-11-11 07:38:56 | 書評(生物医学、サイエンス)

 

「がん-4000年の歴史」の下巻では、臨床試験の解析方法がより的確・合理的になり、がんの予防や早期診断が重要視されるようになり、がんについての生物学が進展しそれに伴う新しい治療法が開発されつつあることなど、ここ60年くらいの歴史について述べられている。

私なりに注目したところを下記に記録しておきたい。

・1940年代初め、遺伝学者エドモンド・フォードは進化を直接証明するために、「前向き研究」を考案して、10年近くにわたって蛾の個体群の毛の色のわずかな変化(つまり遺伝子の変化)や個体群の構成の大幅な変化、さらに蛾を捕食する鳥による自然淘汰の痕跡を、記録することに成功した。この研究に深い興味を抱いた、オースティン・ブラッドフォード・ヒルとリチャード・ドールは、1951年、ヒトの集団(コホート)を対象に同じような研究を行うことを思いついた。1954年までの29か月間に、肺がんによる死亡は喫煙と関連していることが明白な結果が出た。36人の肺がんによる死亡者のうち全員が喫煙者だったのだ。

・喫煙と肺がんの関連についての証拠をまとめるための諮問委員会が立ち上げられた。委員会のメンバーの一人、統計学者のウィリアム・コクランは、臨床試験を分析するための新たな数学的方法を考案した。どれか一つの臨床試験だけに注目するのではなく、すべての臨床試験の結果を統合し、得られた数値から相対的リスクを導き出すという方法だ。メタアナリシスと呼ばれるこの解析法は疫学の将来に多大な影響を与えることになる。

・1960年代末、細菌学者ブルース・エイムズは、発がん物質の検査法を発見した。サルモネラ菌が持つ、糖の一種であるガラクトースの「消化」をつかさどる遺伝子は、糖の供給源としてガラクトースしかない培養皿のなかで細菌が生育するために不可欠の遺伝子だ。ガラクトースを消化できないサルモネラの一種を寒天培地に撒いても増殖しないが、ガラクトースを消化できるような遺伝子変異を獲得すれば、サルモネラは増殖できるようになる。このとき、1個の細菌が培地上にコロニーを形成するので、そのコロニー数を数えれば、そこに添加した物質の持つ突然変異誘発性を定量化できる。この方法を用いることで、変異原性物質を探し出すことができるようになった。変異原性物質は同時に発がん物質である場合が多かった。

・疫学者は、予防を二つの観点からとらえる。原因を攻撃することによって病気を予防する一次予防(肺がんを予防するための禁煙や、肝炎を予防するためのB型肝炎ワクチンなど)と、スクリーニング検査による二次予防だ。二次予防は、症状出現前の初期病変をスクリーニング検査で発見することによって病気を予防するものだ。子宮頸がんを早期発見するパップスメアや、乳がんを早期発見するマンモグラフィーが二次予防にあたる。

・「芸術は長く、人生は短し」と、ヒポクラテスは言った。これは「医術の習得は長い時間を要す」という意味である。(後に「人の一生は短いが、芸術作品は作者の死後も後世に残る」という意味でも使われ、坂本龍一氏が好んだ言葉だ)

・1976年、がん生物学の世界を根本から再編成しなおし、遺伝子をその中心に押し戻した。ハロルド・ヴァーマスとマイケル・ビショップの原がん遺伝子説は、発がんのメカニズムについての初めての説得力ある包括的な理論となった。その理論は、放射線や煤やたばこの煙といったなんの共通点もないように思われる多様な原因がなぜ一様にがんを誘発するのかを説明していたー細胞内の原がん遺伝子を変異させ、活性化させることによって誘発する、と。二人は1989年に、レトロウイルスのがん遺伝子が正常細胞に由来することを発見した功績で、ノーベル賞を受賞した。

・がんは、たった1個の遺伝子の変異で引き起こされるわけではない。乳がんや大腸がんでは、50~80もの変異が存在し、すい臓がんでは50~60もの変異が存在する。比較的若い世代のがんであるために変異の蓄積が少ないと予想された脳腫瘍ですら、40~50もの変異を有している。一方、ゲノム変異が比較的少ないがんもわずかに存在する。その一つ、急性リンパ性白血病では、わずか5~10個の変異が存在しているにすぎない。しかし全ての変異ががんに影響しているわけではなく、無害な「パッセンジャー(乗客)」変異と、がん細胞の増殖と生物学的挙動を惹起する「ドライバー」変異がある。例えば、127個の遺伝子変異を持つ乳がん患者の標本では、ドライバー変異は10個しかなく、残りの変異はパッセンジャー変異であった。

・フォーゲルシュタインのチームは、がんゲノムの変異を別の戦略を用いて再分析した。個々の変異遺伝子に注目するのではなく、がん細胞内の変異した経路(シグナル経路)の数を数えたのだ。Ras - Mek - Erk経路の構成要素の遺伝子に変異が見られるたびに、それは「Ras経路変異」と分類された。同様に、Rbシグナル経路の構成要素に変異のある細部は「Rb経路変異」と分類され、すべてのドライバー変異が経路ごとに分類された。1個のがん細胞には異常なシグナル経路が11~15個、平均して13個存在すると判明している。ある膀胱がんの標本ではRasが活性化しており、別の膀胱がんではMekが、さらに別の膀胱がんではErkが活性化しているが、結局のところどれも、Ras経路変異だということになる。

・われわれが50年後にがんとの闘いで使っている道具はがらりと変わっているはずであり、がんの予防と治療の地形も大きく様変わりしているはずだ。未来の医者は、ヒトという種にとってもっとも本質的かつ高圧的な病気を殺すのにわれわれが用いてきた原始的な毒のカクテルをきっと嘲笑うことだろう。しかしこの闘いの多くは今と変わっていないはずだ。執拗な努力も、創意も、立ち直りも、敗北主義と希望とのあいだで揺れ動く不安な心も、普遍的な解決策を求める強い衝動も、敗北がもたらす失望も、傲慢とうぬぼれも。

《仲野徹氏による解説》

・国際がんゲノムコンソーシアムなどにより、大腸、肺、肝臓、乳腺、胃など、多くの臓器のがんゲノムが解析され、いろいろなことがわかってきた。我が国では、その一環として、肝臓がん300症例の全ゲノム解析がおこなわれ、遺伝子異常のパターンから、肝臓がんを6つの種類に分類できること、そして、それぞれの死亡率が大きく異なることなどが明らかにされた。

・がんの原因となる突然変異によってもたらされる異常を狙い撃ちにする分子標的治療薬の開発が進み、すでに、約30種類の遺伝子異常に対して、50~60種類ほどの分子標的治療薬が使用可能になっている。ゲノム解析により、がんをがんたらしめている「ドライバー変異」をあぶりだし、次いで、そこに照準を定めた分子標的治療薬を選んで使用する、という時代がやってきつつあるのだ。


綱島古墳を見に行く

2023-11-04 07:55:37 | 遺跡・寺社

綱島古墳を見に行ってきました(2023年10月29日)。東横線に乗っていると、綱島駅と日吉駅の間にこんもりした小山が2つほどあり、地図で見るとそのうちの1つは古墳と書いてあって、以前から気になっていました。その古墳はどんな感じになっているのか見るために、行ってきました。

 

綱島駅から歩いて3,4分くらいのところに小山があって、綱島公園として整備されています。

 

この図の下のあたりが古墳らしいです。

 

古墳の方向に上がっていきます。

 

市指定史跡 綱島古墳の説明板がありました。5世紀だから古墳時代に作られた円墳で、地域の首長の墓だろうということです。木棺の周りからは、刀や土器、埴輪などの遺物が出土し、横浜市歴史博物館に所蔵されているそうです。そちらはそのうち見に行ってみます。綱島古墳は鶴見川から近いところにあり、以前見に行った小机城寺尾城も含め、鶴見川流域には古くからの文化圏があったことが想像できます。暴れ川の鶴見川の氾濫を避けてか、このような歴史的遺物はみな小高い丘の上に作られています。

 

古墳の頂上部分の周囲を歩いてみますが、中には入れません。残念。木棺室などが残っていると思われますが、見ることができません。まだ遺物も残っているかもしれず、墓荒らしに合わないように対策しているのでしょう。

これは、戦後に建てられた茶室、桃里庵の跡だとか。

 

さて、綱島公園を奥まで歩いてみます。

 

グランドとログハウスがあります。

子どもたちがログハウスの中で遊べるようです。

 

丘の先端まで行くと見晴台のようになっていて、

町の風景が見渡せます。

 

小山を下ります。この後、日吉に用事があるので、歩いていきます。

 

帰りに寄った地元の菊名池。木の色合いが少し秋めいてきました。まだまだ暖かい日が続きますが。

鳥たちは少ないです。確認できたのはカルガモが2羽とバンが1羽だけでした。3、4年前の、カルガモが10羽以上いたころから状況が変わっていますが、理由はわかりません。