横浜市歴史博物館に行ってきました(2024年7月14日)。昨年行ったときは休館中だったため、かわりに近くの大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡を見て帰ってきたという場所です。
横浜市営地下鉄センター北駅から歩いて5分ほどのところ。建物は立派なのですが、展示室は2Fの1フロアのみでした。
企画展の「サムライ Meets ペリー With 黒船」をやっていましたが、これはパス。常設展が見たかったのです。
常設展エリアは、原始Ⅰ、原始Ⅱ、古代、中世、近世、近現代に分かれていて、今回ここを周りました。また、歴史劇場で様々な映像プログラムが上映されていますが、今回は時間切れで見れなかったので、またの機会に見てみたいと思います。
原始Ⅰのエリア。先土器時代(ヨーロッパの旧石器時代に相当)と縄文時代の横浜の歴史を紹介しています。
矢指谷遺跡(旭区)の地層断面模型。場所は、聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院のあるあたりです。横浜市では最も古い約3万年前からの人間の生活の跡が残されています。下から、先土器時代、縄文時代、弥生~平安時代、鎌倉~江戸時代、現代と区切られています。こうやって全部、層になって残っているのはすごいことです。日本列島に最初に現生人類が進入してきたのは約4万年前と言われているので(人類の起源(篠田謙一))、わりと古い生活の跡が横浜にも残っているわけです。
先土器時代の生活の痕跡として、石を焼いて調理をした跡が残っています。
この頃の道具は全て石器です。そのころの石器の使い方が模型で示されています。上のほうには、石器をナイフのように使う方法、中央には槍の先に付ける使い方、下のほうには木の棒の両側に石器をはめ込んで包丁のようにして使う方法が示されています。
1万5千年前以降の縄文時代になると、縄文土器が使われるようになります。これは、縄文土器の鍋で貝の汁を煮炊きしている模型で、当時の生活のようすがよくわかりますね。
縄文土器には、後ろのほうの鍋のほか、手前の皿や液体を注ぐ器など様々な形態がありました。
髪飾り、耳飾り、腕輪といったアクセサリーも作られていました。右下にあるのは、大阪万博の太陽の塔に似ています。
縄文時代の南堀貝塚のムラの復元図。中央にたくさんの墓があるのが特徴で、この時代は死者を中心に生活が営まれていたのですね。弥生時代になると墓は村の外に作られるようになります。
原始Ⅱは、2.4~1.7千年前の弥生時代。
弥生時代は農耕が始まり、道具がより精巧になり、ここには木で作られた鍬などが展示されています。
弥生土器。鍋や壺。
左は石斧、右は木材などの道具。
古代は、古墳、奈良、平安時代まで。
左は銅鏡、右は横穴墓の副葬品、奥は刀。
左は様々な土器、右は鉄製品など。
8世紀(奈良・平安時代)ごろ仏教の影響で火葬が始まりました。これは人骨を納めた甕類。
8世紀ごろは、国(いまの県)と群(いまの市町村)に分かれていました。それぞれ、国府、郡衙という役所がおかれました。写真は都筑郡衙(長者原遺跡)の復元模型。
中世は、鎌倉から室町時代。
私の住んでいるあたりの当時の地図が示されています。入江川や大口駅がわかります。今は全て暗渠になっている足洗川らしき流れもちゃんとあります。大口駅の近くに「面滝」という地名がありますが、いままで聞いたことのない地名です。
近世は、江戸時代です。
江戸時代に、人口増加への対応として、海が埋め立てられ田んぼが作られました。その一つ、吉田新田は、大岡川、中村川、JR根岸線で囲まれる海だったところが埋め立てられて田んぼになったところです。今回これについて初めて知りましたね。そうとう広い区画で、当時としては大工事ですね。
写真は上から、吉田新田が海だったころ、田んぼになったころ、現在で比べてみることができます。吉田新田のまん中には水路が通っていて、今の大通り公園のあたりみたいです。一度、現地を見ておきたいものです。
神奈川宿の茶屋「桜屋」の復元模型。
現在は料亭「田中屋」として存続しています。
こちらは海側。ここからの眺めが絶景だったと言われています。今は埋め立てられて横浜駅などの市街地区になってしまいました。
近現代は、明治時代から現代まで。
伊勢佐木町にあった「横浜館」。様々な商店が1つの建物に入っている勧工場(かんこうば)という、今でいうデパートや複合商業施設のようなもの。
明治後半に、日本一の繁華街と言われた伊勢佐木町。海側が関内、伊勢佐木町のあたりが関外と呼ばれました。
こうやって、歴史博物館の展示を一通り見ることで断片的だった知識がすこし整理できたかもしれません。