寺山修司は様々な分野で活躍したが、作品のほとんどが前衛とよばれる領域であったため、読者やお客を選んでしまって、十分なポピュラリティーが得られなかったのは残念だ。それでも我々を惹きつける瑞々しい、あるいは妖しい魅力があって、なんとか近づきたいと思って入っていくのである。
本書はもう20年くらい前に買って途中まで読んだのだけれど、けっこう読むのがたいへんでずっと放置していたのだが、あらためてちゃんと最後まで読み直してみた。今読んでもやっぱり難しくて意味がわからない短歌が多い。一つには、語尾に古語がよく使われていることもある。そして、これは脈絡のない2つや3つのパーツをコラージュして一つの歌にして、さあどう感じる?と提示している作品なのだとすれば、意図としては納得できる。ダダイズムなのだろう、シュルレアリズムなのだろう。しかし、それぞれのパーツがマーブルのようにきれいな模様を描いていれば何かを感じることができるが、水と油のように完全に分離しているとほとんど理解できない。さらに、前者の場合でも、読んだ人がどう解釈するかについては、許容範囲がとても広い感じがする。だから、ものすごく自分勝手、自己流の読み方ができてしまうように思う。
本書は、寺山の歌集4編と石川啄木論、エッセー、他の歌人による寺山論2編からなる次のような構成になっている。
・歌集「空には本」 1958年刊、青春と田園を感じさせる。寺山言「ただ冗漫に自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位に告白性を失くさせた」
・歌集「血と麦」 1962年刊、戦後の時代性や家族のこと。4年間も入院していたときに創作された歌。寺山言「私が詩人でありながら、いわゆる現代詩の多くに興味をもっていないのはそれが単に行為の結果であり、スタティックな記録にすぎないからなのだ」
・歌集「田園に死す」 1965年刊、土俗性と残酷性が一気に爆発する寺山らしい世界。寺山言「これは、私の「記録」である。自分の原体験を、立ちどまって反芻してみることで、私が一体どこから来て、どこへ行こうとしているのかを考えてみることは意味のないことではなかったと思う」
・歌集「未完歌集 テーブルの上の荒野」 1971年刊。
・石川啄木論
・エッセー(プライベート・ルーム) 寺山言「短歌は、言わば私の質問である」
・寺山論「アルカディアの魔王(塚本邦夫)」
・寺山論「寺山修司さびしき鴎(福島泰樹)」
「血と麦」の章「わが時、その始まり」には、「空には本」の中の有名な歌が再録されている。下記に引用したい。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし
ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
一転して、「田園に死す」はまるでバロウズのような醜悪な世界になり、下記のような歌がある。
新しき仏壇買ひ行きしまま行方不明のおとうとと鳥
間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子
いまだ首吊らざりし縄たばねられ背後の壁に古びつつあり
ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな
「未完歌集 テーブルの上の荒野」には次にような歌もある。
人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ
寺山修司は日本語のフェチだと言っていたらしい。たしかに、あるときは瑞々しく、あるときは禍々しく、言葉が立ってるな。