wakabyの物見遊山

身近な観光、読書、進化学と硬軟とりまぜたブログ

横浜市歴史博物館に行ってきた

2024-07-27 08:10:14 | 博物館・科学館・図書館

横浜市歴史博物館に行ってきました(2024年7月14日)。昨年行ったときは休館中だったため、かわりに近くの大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡を見て帰ってきたという場所です。

 

横浜市営地下鉄センター北駅から歩いて5分ほどのところ。建物は立派なのですが、展示室は2Fの1フロアのみでした。

 

企画展の「サムライ Meets ペリー With 黒船」をやっていましたが、これはパス。常設展が見たかったのです。

常設展エリアは、原始Ⅰ、原始Ⅱ、古代、中世、近世、近現代に分かれていて、今回ここを周りました。また、歴史劇場で様々な映像プログラムが上映されていますが、今回は時間切れで見れなかったので、またの機会に見てみたいと思います。

 

原始Ⅰのエリア。先土器時代(ヨーロッパの旧石器時代に相当)と縄文時代の横浜の歴史を紹介しています。

 

矢指谷遺跡(旭区)の地層断面模型。場所は、聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院のあるあたりです。横浜市では最も古い約3万年前からの人間の生活の跡が残されています。下から、先土器時代、縄文時代、弥生~平安時代、鎌倉~江戸時代、現代と区切られています。こうやって全部、層になって残っているのはすごいことです。日本列島に最初に現生人類が進入してきたのは約4万年前と言われているので(人類の起源(篠田謙一))、わりと古い生活の跡が横浜にも残っているわけです。

 

先土器時代の生活の痕跡として、石を焼いて調理をした跡が残っています。

 

この頃の道具は全て石器です。そのころの石器の使い方が模型で示されています。上のほうには、石器をナイフのように使う方法、中央には槍の先に付ける使い方、下のほうには木の棒の両側に石器をはめ込んで包丁のようにして使う方法が示されています。

 

1万5千年前以降の縄文時代になると、縄文土器が使われるようになります。これは、縄文土器の鍋で貝の汁を煮炊きしている模型で、当時の生活のようすがよくわかりますね。

 

縄文土器には、後ろのほうの鍋のほか、手前の皿や液体を注ぐ器など様々な形態がありました。

 

髪飾り、耳飾り、腕輪といったアクセサリーも作られていました。右下にあるのは、大阪万博の太陽の塔に似ています。

 

縄文時代の南堀貝塚のムラの復元図。中央にたくさんの墓があるのが特徴で、この時代は死者を中心に生活が営まれていたのですね。弥生時代になると墓は村の外に作られるようになります。

 

原始Ⅱは、2.4~1.7千年前の弥生時代。

 

弥生時代は農耕が始まり、道具がより精巧になり、ここには木で作られた鍬などが展示されています。

 

弥生土器。鍋や壺。

 

左は石斧、右は木材などの道具。

 

古代は、古墳、奈良、平安時代まで。

 

左は銅鏡、右は横穴墓の副葬品、奥は刀。

 

左は様々な土器、右は鉄製品など。

 

8世紀(奈良・平安時代)ごろ仏教の影響で火葬が始まりました。これは人骨を納めた甕類。

 

8世紀ごろは、国(いまの県)と群(いまの市町村)に分かれていました。それぞれ、国府、郡衙という役所がおかれました。写真は都筑郡衙(長者原遺跡)の復元模型。

 

中世は、鎌倉から室町時代。

 

私の住んでいるあたりの当時の地図が示されています。入江川や大口駅がわかります。今は全て暗渠になっている足洗川らしき流れもちゃんとあります。大口駅の近くに「面滝」という地名がありますが、いままで聞いたことのない地名です。

 

近世は、江戸時代です。

 

江戸時代に、人口増加への対応として、海が埋め立てられ田んぼが作られました。その一つ、吉田新田は、大岡川、中村川、JR根岸線で囲まれる海だったところが埋め立てられて田んぼになったところです。今回これについて初めて知りましたね。そうとう広い区画で、当時としては大工事ですね。

 

写真は上から、吉田新田が海だったころ、田んぼになったころ、現在で比べてみることができます。吉田新田のまん中には水路が通っていて、今の大通り公園のあたりみたいです。一度、現地を見ておきたいものです。

 

神奈川宿の茶屋「桜屋」の復元模型。

 

現在は料亭「田中屋」として存続しています。

 

こちらは海側。ここからの眺めが絶景だったと言われています。今は埋め立てられて横浜駅などの市街地区になってしまいました。

 

近現代は、明治時代から現代まで。

 

伊勢佐木町にあった「横浜館」。様々な商店が1つの建物に入っている勧工場(かんこうば)という、今でいうデパートや複合商業施設のようなもの。

 

明治後半に、日本一の繁華街と言われた伊勢佐木町。海側が関内、伊勢佐木町のあたりが関外と呼ばれました。

こうやって、歴史博物館の展示を一通り見ることで断片的だった知識がすこし整理できたかもしれません。


今年の菊名池のカルガモ子育ては如何に?

2024-07-20 08:01:35 | バイオフィリア(身近な生き物たち)

毎年7月になるとカルガモのヒナが見られる菊名池ですが、今年の子育ての状況はどうでしょうか?

 

6月30日、家から虹が見えました。二重になっています。梅雨の日の空。

 

7月7日、もしヒナがかえっていれば見れるだろうと思い菊名池に来てみましたが、ヒナはいません。

 

池の横に井戸のような構造物があり、水がカラカラに枯れているときもありますが、

この日は水が溜まっていました。どういう仕組みになっているのかわかりませんが、雨が降ったあとは溜まるのかもしれません。

 

この井戸のような構造物から池に向かって水の流路があるので、池の水源の1つになっているのかもしれません。

 

カルガモが1羽こちらに向かって泳いできました。

そして、向う側へ帰っていきました。なにか危険はないかと偵察に来たのでしょうか。

 

7月14日は、昼過ぎと夕方の2回、菊名池を見に来ましたが、ヒナは見られません。というか、カルガモが1羽も出てきません。

かわりに、セミが羽化しているところを目撃しました。米国では、13年ゼミと17年ゼミが221年ぶりに一度に羽化するので、1兆匹のセミが現れると予想されています。セミと大統領選で相当うるさそうな今年の米国です。

さて、カルガモの今年の子育てはうまくいかなかったんでしょうか。また、見に行ってみます。


映画「シド・バレット 独りぼっちの狂気」を見た

2024-07-13 07:49:06 | 音楽

映画「シド・バレット 独りぼっちの狂気」を見てきました(2024年6月29日)。

 

映画「シド・バレット 独りぼっちの狂気」予告編

 

シド・バレットは、イギリスのとても売れたロック・バンド「ピンク・フロイド」の創始者で、非常にインパクトがあり評価の高いサイケデリック・ロックという音楽を作っていた男です。しかし、嗜好していた幻覚性麻薬LSDの影響で精神に異常をきたし、音楽活動ができなくなってしまい、半隠遁生活をしていましたが、2006年に60歳で亡くなりました。

上の映画ポスターに、デヴィッド・ボウイ、マーク・ボラン、グレアム・コクソンが夢中になったと書かれています。他にも、ブライアン・イーノやジミー・ペイジがシドのソロアルバムのプロデューサーに名乗り出るなど、錚々たるミュージシャン達がシド・バレットの音楽に心酔し影響を受けた、伝説的な存在です。

私は、20、30年前、個人的な事情で、シド・バレットを当時の身近な人間に投影していた時代がありましたが、その後ずっと遠ざかっていました。最近、シド・バレットの限定1000部の詩集が出たときも、もう今の自分には必要ないと思い買いませんでした。今回の映画は、シド・バレットを知っている人たちが彼を回顧する内容です。少しまよったのですが、見に行くことにしました。

映画館は、渋谷のシネクイント。渋谷の駅を出ると、このあたりの変化が激しくて少し道に迷ってしまいました。駅前では、都知事選に立候補した田母神さんが演説していましたが、なんかよわよわしく感じましたよ。

で、映画のほうは、劇場の前のほうで見たせいか、字幕を目で追うのがたいへんでストーリーが正確に頭に入ってこなくて、雰囲気を楽しんだかんじですかね。映画を見て印象的だったのは、「ピンク・フロイド」の音楽が売れ始めて、周りからの期待やプレッシャーが大きくなってきた頃の表情です。以前の快活で笑顔の多かった表情が、とても暗くなっているのです。この頃以降のシドは、「ジョン・レノンだったらこうはならないんだろうな」「絵描きになれば、ステージで歌えなくなっても文句は言われないよね」などの発言を残し、絵を描く半隠遁生活に入っていきます。

映画ではなんだかよくわからないモヤモヤが残ったのでネットで調べてみると、半隠遁生活のシドの面倒をずっと見てきた妹がシドの死後に、彼は「共感覚を持ったアスペルガー症候群だった」と語っていたことをはじめて知りました。アスペルガー症候群は今では、自閉スペクトラム症(ASD)とよばれています。シドが精神的に異常をきたしたのは、LSDの影響もあったのでしょうが、バンド活動でのストレスが原因で、ASDの二次症状としてのうつ病になっていた可能性があるのではないでしょうか。薬物に耽溺していたのは、依存症になりやすいASDの性質も影響していそうです。シドの精神病理について、専門家に解説してもらいたいものです。そして、シドの作った音楽を自閉症者の芸術として見直してみるのもおもしろそうです。さらに、私がシド・バレットをずっと気になっていたのは、何か自分に似たところをうすうす感じていたからかもしれません。

 

シドのソロ・アルバムの中で一番好きな曲。

Syd Barrett - Wined and dined


菊名川(暗渠)を上流から下流までたどる・後半

2024-07-06 08:10:12 | 横浜

わが町の菊名池を源流とする菊名川(ほぼ暗渠)について、2週にわたって上流から下流までたどってみました(2024年6月9・16日)。

前半では、菊名川を源流の菊名池から新横浜の東海道新幹線架線下のあたりまでたどりました。今回、後半では、東海道新幹線架線横で合流する烏山川の傍流を見てから、鶴見川への合流ポイントまでをたどります。

 

横浜線新横浜駅の南口である篠原口から初めて降りました。開発の進んだ北口とはまったく趣の異なるいなかの駅というかんじです。篠原口から横浜線下をくぐって新幹線脇に出ると、駐輪場があり、その向こうに川が流れています。

水はきれいなので下水は流れ込んでなさそうです。鶴見川の支流である烏山川の傍流だろうと地図を見て思っているのですが、この川がほんとうに烏山川から分かれてきているのか、自分の目で確かめたわけではないので確信はありません。

 

この烏山川の傍流とおぼしき川はしばらく新幹線脇を流れていきます。

 

前半のラストに出てきたセブンイレブン十字路の近くで、菊名川に合流します。

で、新幹線下を横切って、

 

二股に分かれます。一方は、写真左の横浜アリーナ脇を流れ、

 

もう一方は、うなぎ大黒屋前の道路、太尾(ふとお)新道沿いを流れていきます。

 

そして、太尾堤緑道となります。鶴見川に並行して100~300m離れたところを通るとても長い緑道で、この下を川が流れているのですが、太尾堤排水路と呼ばれています。菊名川はここで太尾堤排水路に合流して終わりともいえますが、太尾堤排水路を下流に向かって行けるところまで行ってみます。

 

近くの駐車場にかっこいいスポーツカーが停まっているとつい見てしまいます。メルセデスAMG SL。

 

水鳥の飾りをぶら下げたゲートには、

ハトが2羽、仲よく並んでいます。

 

このような緑道が延々と続きます。

 

港北水再生センター。このあたりの下水を集めて浄化して鶴見川に流しています。太尾堤排水路がその下水の通り道です。しかしながら、太尾堤排水路のある場所には、この上流で鶴見川に合流している烏山川が昔は通っていて農業用水路として使用されていたようです。

 

水再生センターの南側には太尾南公園が、

北側には太尾公園があります。公園は水再生センターの浄化槽の屋上に作られています。

 

水再生センターを越えても太尾堤排水路は続きます。大雨の時に処理しきれない水がこの流路に流れるという話もあります。次のゲートを越えると、

 

横浜市立太尾小学校が見えます。

このブロンズ像は、「プリーズ・リクエスト(黒川晃彦、1989)」と書かれています。

 

さらに次のゲートを越えると、

緑道はあまり手入れがされていないかんじになってきました。

 

道路を越えます。しっかり橋のような跡が残っています。

 

道はさらに野原化していきます。

 

ここで立ち入り禁止となりました。

 

立ち入り禁止の先にあるのが太尾ポンプ場。古い排水処理場のようで、港北水再生センターで水処理が間に合わないときは現在もこちらが稼働している可能性があります。

 

太尾ポンプ場から鶴見川への水門。

鶴見川の土手に登って見てみます。

水門を、鶴見川から太尾ポンプ場に向かって見る。

鶴見川への排水路。太尾堤排水路の終点と言ってもいいかもしれません。

 

鶴見川土手を下流に少し歩くと、空き地にビニールシートがかけられた場所があります。遺跡のにおいがぷんぷんします。

太尾河岸跡 舟運(しゅううん)と書かれた石碑が立っていました。このあたりが、鶴見川を利用した河川交通の船着場があった跡です。おそらく、ここから旧烏山川(太尾堤排水路)にも繋がっていたのでしょう。

ビニールシートの下には、船着場の遺跡があって、発掘・保全とかがまだ進んでいないような様子に見えます。江戸時代の頃に使われていたのでしょうか。

 

太尾河岸跡から、鶴見川河岸に下りて、Uターンして新横浜に戻ります。

 

太尾ポンプ場からの排水路の水は動きがありませんので、現在は稼働していないことがわかります。

 

しばらく歩くと、鶴見川にかかった水道橋があります。対岸から港北水再生センターに下水が流れているものと思われます。

 

新横浜プリンスホテルが見えてきました。この建物が新横浜のランドマークになっていて、これが見えると新横浜駅が近いことがわかります。

 

港北水再生センターの排水口。フェノール系の薬品臭がします。鶴見川のもっと下流に、北部第一水再生センターというのがあるのですが、そこの排水口より下流も同じにおいがします。下水の処理は、物理的、生物的、化学的な方法を組み合わせて行われますが、病原性大腸菌やノロウイルスなどを完全に死滅させなければいけないので、薬品の力は必要なのでしょう。

 

水再生センターの施設。

 

鶴見川の対岸には、横浜市営地下鉄の新羽車両基地が見えます。

 

水再生センターの排水口がもう一つあります。

 

鶴見川はここで分岐していて、右が鶴見川の本流で、左の烏山川(川面が見えませんが)と合流しています。奥に見えるのは、日産スタジアム。

 

すこし上流の橋の上から烏山川が見えます。

2週にわたって菊名川と下流の太尾堤排水路(旧烏山川)を見てきました。その流路はほぼ暗渠となり、現在は横浜市の下水処理行政に取り込まれてしまい、昔の姿がわかりにくくなっていますが、八杉神社の神橋や太尾河岸跡なども残り、川の痕跡は消えることがないのでした。