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wakabyの物見遊山

身近な観光、読書、進化学と硬軟とりまぜたブログ

僕の読書ノート「100分de名著 ハイデガー(存在と時間)」

2022-04-29 08:19:11 | 書評(その他)

約40年前のこと、私が大学の教養課程にいたころ、理系の学生ではあったが哲学にも興味があったので、哲学のゼミを取ることにした。そこで行われていたのが、指導教官である助教授の指導下でのハイデガー「存在と時間」の輪読会であった。しかし、3大難解哲学書の1つと言われるくらい難しくて、私が文章の解説をすると、よく間違っていると指摘された記憶がある。それに本の分量がとても多くて、半年間のゼミでは全体の1/5くらいしか読み進められなかったように思う。そんなやり残し感のとても強い本だったし、人生でもう一度読むこともたぶんないだろうなと思っていたので、ずるいのだけれど、本書を読むことでけりを付けたいと思ったのである。そして、読んでみたら(テレビ放映も見て)、ありがたいことにかんたんに内容がわかってしまった。あの難解な哲学書がとてもわかりやすく説明されているのである。結論としては、語弊もあるかもしれないが、自分らしく生きようという人生論の本であった。存在や時間というこの宇宙を構成する重要な概念の意味に踏み込んだ本だとばかり思っていた。そういうことは後編で書く予定だったのかもしれないが、結局それが世に出ることはなく、人間の生き方の分析とあるべき姿=人生論を述べた前編だけで終わってしまったのだ。いわゆる未完の大著という本である。

そしてもう一つ、私があまり知らなかった重要なことがあった。本書の刊行後、ハイデガーはナチスに加担するようになったことである。ナチスを許容するような要素が、「存在と時間」の中に含まれているのかどうかも本書で議論されている。解説者の戸谷洋志氏は、「存在と時間」をいじめなどの世間同調主義にまみれた現代社会のカウンターになり得ると肯定的にとらえているが、どうだろうか?「存在と時間」は、自己の安心のために世間に同調するな、死の可能性に向き合うことを契機に自分自身に戻る決意性を持ち、責任ある生き方をせよと言っている。ハイデガーの弟子たちが、「存在と時間」とナチスとの関係についてそれぞれに解釈している。

弟子の一人、ハンナ・アーレントの主張によると、「存在と時間」のなかで論じられる孤独な人間、すなわち他者とのつながりから切り離された人間には、もはや親しい仲間と意見を交わしたり、連帯して活動したりすることができない。そうした人々は、もともと馴染みのないイデオロギーによって「機械的」に統治されてしまう。ハイデガーの主張は、むしろ全体主義の支配に対して極めて脆弱であるという考えである。一方、別の弟子のハンス・ヨナスは、ヒトラーを支持し、ナチスに加担するという決断さえも、人間の本来性として擁護されてしまうのだと解釈した。戸谷氏も、「存在と時間」で足りていないこととして、本来性を取り戻した人間が、世間に飲み込まれるのとは違った形で、どのように他者と関わるのかということだと指摘している。「存在と時間」は、人生論の書としても未完なのかもしれない。

ところで、ACT(アクセプタンス&コミットメント)という認知行動療法の一つがあるが、そこで目指されている、世間や文化とフュージョンしたマインドから離れて、自己本来の価値を見い出す生き方は、「存在と時間」が目指す本来的な自己のあり方と似ているところがあると感じたが、いかがだろうか。


僕の読書ノート「取材・執筆・推敲 書く人の教科書(古賀史健)」

2021-09-18 08:04:32 | 書評(その他)

プロフェッショナルな文章の書き方を勉強したいと思って購入した、最近話題の書である。著者は「嫌われる勇気」の共著者だ。著者がそうとう気合を入れて3年かかって書いた本で、476ページあって内容は盛りだくさんであるが、文章は平易で読みやすかった。どれだけ頭に入るだろうかという不安はあるが、記憶をサポートするために、ここにこうしてノートとしてまとめておきたい。

 

[ガイダンス]

・著者は、書く人(ライター)である以前に、つくる人(クリエイター)であるとの自己認識を持っている。ライターは、ただ文章を書いているのではない。書くことを通じで、コンテンツをつくっている。コンテンツとは、「エンターテイン(お客さんをたのしませること)を目的につくられたもの」としている。

・本を作るうえで、編集者がいる。「誰が、なにを、どう語るか」を編集するのが編集者である。一方、原稿そのものを編集していくのは、作家であり、ライターである。ライターは、編集という武器を手に入れ、「書く人」から「つくる人」にならなければならない。

・価値あるコンテンツを生まれるのは、「情報の希少性」「課題の鏡面性(自分ごととして感じられること)」「構造の頑強性(精緻なロジックによる構成力)」の3つが揃ったときである。

 

[取材]

・悪文とは、技術的に未熟な文章を指すのではないし、そこに投じられた時間も関係ない。ただただ「雑に書かれた文章」はすべて悪文である。悪文に厳しい読者になれば、自分の書く文章に対しても厳しくなれる。

・悪文と同じく、「嫌いな文章」も大切に読んでほしい。ある文章について、自分が抱いた嫌悪感をことばにしていく。自分の「嫌い」に向き合い、掘り進めていくと、私という人間が見えてくる。わたしがどうありたいのかが、理解できる。

・取材で能動的に聴くことができるのは、①相手の話がおもしろい、②相手のことが大好きである、③自分にとってものすごく大切な話をしている、の条件の2つ以上を満たしているときである。①はこちらでコントロールできない。一方、②③は、自分次第でどうにでもコントロール可能な要素だ。そのために、取材前に入念に下調べをする。

・質問力をつけるのには、接続詞「つなぎことば」を使うことだ。接続詞を置くと、「でも、○○じゃないですか」「ということは、○○なのですか?」と質問が出てくる。ほかにも、「そうすると」「だとしたら」「とはいえ」「それにしても」などと言うと、いい質問につながっていく。

・プロのライターでも筆が乗っていないと、わかりにくい文章を書くことがある。わかりにくい文章とは、書き手自身が「わかっていない」文章である。

・優秀なライターたちはみな、「ほんとうに言いたいことなど、なにもない」と語る。なにかを書くことは好きかもしれないが、自己表現欲や創作欲、自己顕示欲はほとんど持っていない。ではなぜライターは書くのかというと、「言いたいこと」を持たなかったのに、取材を通じて「どうしても伝えたいこと」を手にしてしまうからだという。

 

[執筆]

・ライターの職業的役割、機能は、「録音機」「拡声器」「翻訳機」である。世のなかには、声のおおきな人と、声のちいさな人がいる。研究者、経営者、社会活動家、アスリート、政治家、アーティスト、そして市井の人びと。それぞれの専門領域ではすばらしい活動を続けながらも、ただ「声がちいさい=発信力に乏しい」というだけで世間に知られていなかったり、誤解されていたりする人びとがいる。もしも遠くにまで届けられれば、世界を変えるかもしれない大事な声が、そこにとどまっている。ライターは、そんな声に寄り添う「拡声器」だ。

・論理的文章は、上から主張、理由、事実の三層構造になっていて、下が上を支えている。この事実のパートは、データ、数値、実例、類例を論拠とする。誰もが膝を打つような類例ー見事な「たとえ」ーを論拠にできてこそ、ライターである。

・日本人に馴染み深い作文構造は起承転結で、展開のおもしろさがある。一方、アメリカの教育現場で叩き込まれる小論文の構造は、「序論」「本論」「結論」の三部構成で、論理的である。著者が提案するのは、それぞれのいいとこ取りである、起転承結である。価値あるコンテンツの条件として「課題の鏡面性」=「課題共有」があった。読者との「課題共有」のために、「起転承結」の「転」が使える。世間で常識とされていること(起)を、いきなりひっくり返してみずからの主張を述べる(転)。驚いた読者は、「どういうことか、説明してみろ」と身を乗り出して聴く姿勢ができる。課題はここで、共有される。

・原稿の構成を考えるにあたって指針になるのが、ガイダンスで述べられたコンテンツの三角形「情報の希少性」「課題の鏡面性」「構造の頑強性」である。それによって、集められた素材から原稿の構成を選択できる。

・本の構成において、章立てを設計するにあたって著者が提案しているのが、百貨店の設計である。百貨店の各フロアには「コンテンツ」が配置されている。本とはおおきな建造物であり、コンテンツの百貨店である。具体的に並べていく。1F(化粧品、ハイブランド)=世界観の提示=はじめに・第1章。2F(レディース)=本論=第2章。3F(カジュアル、ユニセックス)=具体の展開=第3章。4F(メンズ、フォーマル)=視点の転換=第4章。5F(専門店、インテリア)=専門的議論=第5章。6F(レストラン)=反芻と達成=第6章。屋上=絶景の提供=あとがき。

・本は、立ち読みを入口とするメディアだ。導入で「おもしろくない」と判定されれば、そこで試合終了である。だから、何かを論じる本は、導入ー上記の第1章から第2章までーが勝負である。

・本は雑誌と違って、賞味期限の長い、この先何年、何十年と読まれる、普遍的なコンテンツをつくらなければならない。多くの人は、これから先、10年後の読者をイメージして、どんなコンテンツをつくるべきかを考える。しかし、未来のことなんてわかるわけがないのだ。見るべきは「未来」ではなく「過去」である。古典とされる作品群は、先駆的だったわけでも進歩的だったわけでもなく、ただただ「普遍的」だったのだ。著者は、2013年に上梓した「嫌われる勇気」の執筆にあたって、これを古典にしたいと考えた。具体的にどうしたかというと、100年前の読者をイメージしたのだ。だからこの本には、コンピューターもインターネットもテレビでさえも登場しない。そして、世界中で読まれることを想定して、日本社会特有の悩み、受験や就活、儒教的な価値観などはあえて避けた。その結果というわけではないものの、同書は現在、世界数十ヵ国で翻訳されて読まれている。人間の根源的な悩みを探った、普遍性を意識したコンテンツだったのである。

・どのような文章が、原稿のエンターテインを生み出し、読者の満足につながるのかという文章表現レベルに特化して考えると、ポイントは文章の「リズム」「レトリック(とくに比喩)」「ストーリー」である。

・文章の「リズム」を自習するのに、音読するのはいちばんの自学習慣であるが、自分の書いた文章については客観性が保ちにくい。そこで、筆写が推奨される。「自分が気持ちいいと思う文章」を読むだけでなく、ひと文字ずつ正確に筆写していく。書き写すことで、読点の位置に驚いたり、語尾や文末表現のゆたかさに驚くだろう。

・小説や映画の世界であれば、「起伏」も重要であるが、論文的ストーリーの鍵は、導入から結末までの「距離」である。その展開の妙にこそ、論文的ストーリーのおもしろさが宿る。結末からなるべく遠いところ、本論とはおよそ無関係に思えるようなところから、語りはじめるのである。

 

[推敲]

・他人が書いた文章については、客観的に読むことができる。しかし、自分が書いた文章は「客観」がむずかしい。自分の原稿を読み返すとき、大切なのは距離の置き方である。距離のつくり方には、「時間的な距離」「物理的な距離」「精神的な距離」の3つがある。

・時間的な距離の取り方は、書き終えた原稿をひと晩寝かせて、翌日にフレッシュな目とあたまでもう一度読み返す。物理的な距離の取り方は、原稿の見た目を変えることだ。たとえば著者は、原稿をスクリブナーというワープロソフトを使って「横書き」の「明朝体」で書いている。そして、ざっと読み返す際には、ワードに書き出して「縦書き」の「ゴシック体」で表示させる。そして最終的には紙にプリントアウトし、赤ペンでチェックする。精神的な距離の取り方は、推敲前の原稿を、編集者や家族、友だちに送って読んでもらい、もう自分ひとりのものじゃないという既成事実をつくることで、精神的な距離を生んでいく。

・原稿について迷ったら捨てる。あんなに苦労して書いたのに、あれだけ調べてまわったのに、あんなに時間をかけて考えたのに、と考えてしまうが、読者はあなたの「苦労」を読むのではない。読者はただ「おもしろいコンテンツ」を読みたいのだ。

・立ち位置として、実際に書くことをしない編集者はロマンチストであり、それを書くライターリアリストであるべきだ。編集者とは無責任な大ボラ吹きであり、ライターは嘘を禁じられた人間だ。そんな両者が手を結ぶからこそ、いいコンテンツが生まれるのだ。

・推敲は、どこまで行けば終わるのか。それは、原稿から「わたし」の跡が消えたとき、「最初からこのかたちで存在していたとしか思えない文章」になったときだ。苦しんで書いた跡、迷いながら書いた跡、自信のないまま書いた跡、強引につないだ跡、いかにも自分っぽい手癖の跡などがすべて消え、むしろ「これ、ほんとにおれが書いたんだっけ?」と思える姿になったとき、ようやく推敲は終わる。


僕の読書ノート「はじめての小さな庭づくり(監修 山元和実)」

2021-08-07 14:25:57 | 書評(その他)

ベランダガーデンを始めたので、参考になるような本を探したのだが、最近出版されたようなベランダガーデンの本は見つからなかった。その代わりに選んだのが本書である。小さな庭づくりの入門書だから、ベランダガーデン作りにも役に立つだろうと考えたのである。

読んでおどろいたのは、知らない植物ばかり出てくることである。私も今から45年くらい前の小学生時代、図鑑を読んだり庭いじりをしたりして、少しは園芸植物のことを知ってはいたのだが、本書に出てくる植物品種で知っているのは1/5くらいしかなかった。それくらい、この間にとても多くの園芸品種が輸入や品種改良によって導入されたのだろう。

それから、本のタイトルには「はじめての」と書いてあるものの、この本に出てくる庭はほんとに見事な出来栄えで、ほとんどプロフェッショナルなレベルのものと思えた。だから、初心者には真似はできなくても、見ることで感性を磨くのには役に立つのかもしれない。ナチュラルな庭というよりは、フラワーアレンジメントのようなアートに近い世界だ。

巻頭言にこう書かれている。「小さな庭は、いわば植物を使ったアートのようなもの。キャンバスに絵を描くように、あなたならではの表現を、ぜひ楽しんでください」

小さな庭づくり5か条を引用する。

① 枯れることを恐れない、枯れてもがっかりしない。

② どんな小さなスペースでもあきらめない。

③ 最初から完璧を求めない。

④ アイデアが湧いたら、とにかく実行!

⑤ よく観察し、記録をとる。

①枯れてしまったら環境に合わなかったのだと、⑤学習して次に活かし、③無理せず少しずつ、②④チャレンジしていくことが肝要のようだ。枯れたり、病気になってしまうと、がっかりしたり後悔したりしやすい自分だが、さっさと諦めることも大事のようだ。

葉物野菜やハーブ類を集めた、実用と美しさを兼ね備えた「キッチンガーデン」も紹介されていて、おもしろいアイデアに思えた。ベランダガーデンにも活かせそうなのが「寄せ植え」で、一つの鉢に10種類もの植物を植えている例が紹介されている。そこまで多種類で構成しなくてもいいので、「寄せ植え」はいつかチャレンジしてみたいと思った。

この本は全体的なデザインのまとめ方が主に書かれているが、個々の植物の性質や育て方については、別途、地道に覚えていくしかないのだろうなと思った。


僕の読書ノート「国道16号線 「日本」を創った道(柳瀬博一)」

2021-02-27 16:46:17 | 書評(その他)

私は30歳過ぎから45歳くらいまでの間、国道16号線エリアである横浜の西谷や二俣川に住んでいた。その当時は車好きだったから、どこへ行くにも16号線を使っていたし、人生において重大なイベントの多くは16号線エリアで起きていた。しかし、苦悩と迷いに満ちた時代でもあった。今はそこから抜け出すことができているが、当時のことはあまり思い出したくないという気持ちでここまでやってきた。だから本書で、「国道16号線は日本を創った」と持ち上げられているのを見て、ええ?どういうこと?読んで確認してみなければと思ったし、著者の柳瀬博一氏は小網代の森の再生を書いた「奇跡の自然の守りかた」の共著者として知っていたので読んでみたのである。

地形は、古代から現代に至るまで人間の思考や精神、文化に影響を及ぼしてきたという考え方を、私は中沢新一の「アースダイバー(2005年初版)」ではじめて知ったのだが、同様の視点はすでにジャレド・ダイアモンドが「銃・病原菌・鉄(2000年日本版出版)」で示していたのだという。ダイアモンドによれば、人々が暮らしている土地の地理的な条件、「地形」や「気候」や「自然環境」の違いが、それぞれの地域の文明のかたちを規定する大きな要因となる、という。その説に基づくならば、この日本の文明と文化を形成する前提となった地理的な条件があるはずで、その地理的な条件を備えた典型的な地域は日本のどこにあるのかと考えたら、「国道16号線エリア」であるという結論に至っている。

国道16号線は、東京の中心部を遠巻きにして東京湾の周囲をぐるりとまわる環状道路である。三浦半島から始まり、横浜、八王子、春日部、野田、千葉などを通って、房総半島で終わる。国道16号線エリアには、3万数千年前の旧石器時代から、縄文時代、中世、現代にいたるまでずっと人々が暮らし続けてきた。柳瀬氏の仮説では、「山と谷と湿原と水辺」がワンセットになった小流域地形が人々を呼び寄せ、この小流域地形がジグソーパズルのようにびっしり並んで東京湾をぐるりと囲んでいる地域が現在の16号線になるのだという。現在は、16号線エリアの小流域のほとんどは、住宅地になったり、商業地になったり、川は暗渠となり、原型をとどめていない。三浦半島の小網代の森で、その小流域の原風景を見ることができる(一度は訪れることをお勧めしたい)。こうした16号線エリアの地形は、地球の活動が作った。本州が逆「く」の字に折れ曲がっている房総半島の沖合には、3つのプレートが接する三重会合点ができていて、「オホーツクプレート」の下に「フィリピン海プレート」が潜り込み、「太平洋プレート」がそれらの下に潜り込んでいるため、関東地方は地形がダイナミックに変化している(これが巨大地震の原因でもある)。さらに、気候変動による海面の上昇と低下、火山の爆発と火山灰、河川の運動によって、16号線エリアの地形ができあがった。

本書では、16号線エリアが日本を牽引してきた例として、現代の繁栄、戦後日本音楽の発祥、江戸時代以前の歴史的躍動、養蚕と生糸の輸出による殖産興業といった面で掘り下げている。個人的には、音楽の話とカイコの話が興味深かった。

第二次世界大戦後、16号線エリアには米軍基地が作られた。そして、そこは洋楽をはじめとする米国文化の発信地となり、進駐軍クラブや米軍キャンプで日本人ミュージシャンたちが育ってきた。日本のジャズシーン、コミックグループ、歌謡曲の女性歌手たち、芸能プロダクション、グループサウンズ、矢沢永吉、ユーミン、細野晴臣たちが、みなこのエリアから出てきた。(私は今でこそ、ユーミンも細野晴臣も大好きだが、その良さがわかってきたのは、私が16号線エリアを抜け出した後である)矢沢永吉は「レイニー・ウェイ」で、ユーミンは「哀しみのルート16」で、国道16号線を舞台とした曲を歌っていて、どちらも別れや涙が出てくる悲しい歌のはずなのに、曲調はなぜかイケイケドンドンである。なにか底知れぬポジティビティが湧き出ている。

私は大学時代、カイコの研究をやって修士号の学位を取ったし、母は絹織物の和服を作る仕事をしていたし、母方の祖母は絹糸を紡ぐ仕事をしていたから、三代にわたってカイコのお世話になってきた。そして、16号線は日本のシルクロードとよばれている。八王子は養蚕業が盛んで、各地からも生糸が集積し、織物が生産された。八王子から大量の生糸や蚕卵が横浜港へ運ばれて輸出された。この街道が「絹の道(シルクロード)」と呼ばれるようになったが、これは現在の16号線と重なるルートである。明治時代の日本は、生糸で稼いだ外貨で鉄や機械や軍艦や兵器を購入した。生糸のおかげで殖産興業と富国強兵を果たすことができ、先進国の仲間入りをしたのだという。

新型コロナウイルスの感染拡大により、リモートワークやリモートスタディが日常化した中で興味深い動きがあるという。都会の人々が「身近な自然」に興味を示すようになったというのだ。首都圏では、ベランダ・ガーデニング市場、ペット市場が活況を呈し、緑地公園や庭園に多くの人が足を運ぶようになり、街を流れる小川でザリガニとりをしたり、海辺で魚釣りをする親子が増えたり、といった変化が起きている。都心のオフィスに通うこともできるが、もう少し大きな自然が近所に欲しい人たちに都合のいいエリアが16号線エリアである。たしかに、あそこには身近な自然もあったし、田舎っぽさもあった。生物学者のエドワード・O・ウィルソンは「生命の多様性(1995年日本版出版)」において、人間が住むのを好む場所として、見晴らしのいい山があって、谷があって、湿原があって水辺へとつながっている、まさに16号線に備わった小流域地形の特徴と一致する特徴を示していた。さらに、こうした地形は自然が豊かで「生物多様性」が存在しているから、人間は好むのだ。人間のこうした他の生命とのつながりを求める本性を「バイオフィリア(生物愛)」と呼んだ。

本書を読んでの感想としては、国道16号線でよくここまで論考できたものだと感心するとともに、読んで楽しかったというのが素直な気持ちである。


僕の読書ノート「在野研究ビギナーズ(荒木優太)」

2020-11-28 08:37:06 | 書評(その他)

 

研究者にもいろいろいる。家で趣味のような研究をしている自称研究者から、アカデミズムの頂点に君臨する東大教授まで。以前、東大の物理学科教授の本「研究者としてうまくやっていくには(長谷川修司)」を読んだことがある。自信にみなぎった筆致で書かれていて、こういうレベルの研究者は研究力だけでなくコミュニケーション力とプレゼンテーション力に長けていて、大学でも企業でも行政でもどこに行っても成功できるような人材なのだろうと思った。それに比べると、「在野研究ビギナーズ」に出てくる在野研究者たちは、自らの生き方に悩みながらも、研究をやりたいという強い欲求を実現するために精一杯苦労して生きている人たちで、一言で研究者と言ってもずいぶんと違う印象がある。

世界の中で見ると、日本の科学研究の競争力はそうとう低下してきているとよく言われる。それは海外と比べて、国から大学に支給される研究費が減り続けているからだという。さらに、多くの大学は学生の教育機関になってしまっていて、研究ができていない。研究しかできない「研究バカ」を雇う覚悟もなければ、資金もない。そんな時代になると、在野研究の価値も高まってくるのではないだろうか。本書を読んで見えてきた研究者の定義とは、研究をやって、論文あるいは著書を出す人、つまり研究成果を世の中にアウトプットしている人たちである。残念ながら「在野研究ビギナーズ」に出てくる18名の研究者のうち、理系の研究者は1名のみであった。また、大学でも在野でもない、企業の研究者については触れられていなかった。文系の研究法は基本的に文献調査なので、比較的、在野でも研究をやりやすいということもあるのかもしれない。在野研究者の先駆者として出てくるのは、イバン・イリイチや山本哲士だ。

本書に出てくる唯一の理系研究者は、昆虫のハエ類(双翅目)の分類を研究している熊澤辰徳氏である。熊澤氏は、ウェブサイト「知られざる双翅目のために」やプロ・アマ問わず投稿ができるウェブ雑誌「ニッチェ・ライフ」を運営している。どちらも覗いてみたが、「ニッチェ・ライフ」のほうは生物に関する研究や様々な文章が掲載されていて内容も読みやすそうである。その中の熊澤氏によるコラム「自宅に研究室を持つ――DIY Biology の現在とこれから」には、専門的な実験装置をいかに安価にそろえるかという海外での試みが紹介されていて興味深かった。こうした在野研究がもっと盛り上がれば面白いのにと思った。

人文学を研究する石井雅巳氏による文章では、図書館の利用や大学院生との共同研究なども可能な島根県立大学の市民研究員制度が紹介されていた。こうした制度は他の公的研究機関でも実施しているところがあるようなので、在野研究者が研究機関の資産を活用したり人的なつながりを持つのに役に立つ可能性がある。

本書に出てくる研究者たちはそれぞれ、推薦本を紹介している。その中で、山本貴光氏+吉川浩満氏が紹介している「アイデア大全ー創造力とブレイクスルーを生み出す42のツール(読書猿)」は勉強になりそうだ。