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映画「座頭市 THE LAST」:阪本順治が,勝新太郎の兄である若山富三郎で「王手」を撮ったという縁を思う

2010年06月26日 10時41分31秒 | 映画(新作レヴュー)
「天才 勝新太郎」(春日太一著,文春新書)には,当たり役である「座頭市」に魂を捧げ,芸術感の違いから黒澤明の「影武者」を途中で降板した,正に天才肌のクリエイターという勝新太郎のイメージを裏付けるエピソードが満載だ。特に役者として出演するだけでなく,自らが監督し,映像の殆ど全てをコントロールしていたと思しきTVシリーズの「座頭市」における完璧主義者振りには,文字通り圧倒される。実際そのTVシリーズに関しては,記憶に残っているエピソードはそう多くはないのだが,映像に宿っていた情念が発する熱のようなものが,「他のドラマとは違うんだ」ということを雄弁過ぎるくらいに物語っていた気がする。

その「座頭市」の最終章となる作品を,阪本順治が撮ると聞いた時には,正直驚いた。時代劇が初めてということもそうだが,映像に対する拘りを持ちつつも,あくまで物語に生命を与えることで数多くの傑作をものしてきた監督だけに,勝「座頭市」が追求してきた映像美至上主義とは,肌合いを異にするという印象が強かったからだ。
果たして出来上がった作品は,勝新太郎が「座頭市」に対して持っていた執念が受け継がれたかのような,物語のダイナミズムを遙かに凌駕するシャープな映像に満ちたものとなった。

作品の心臓部とも言える殺陣のシークエンスを筆頭に,舞台となる海辺の寒村のセットを捉えたショット,そして仲代達也,原田芳雄,そして倍賞智恵子ら,主演の香取慎吾が霞んでしまうくらい豪華な助演陣の出入りまで,あらゆるショットは,計算され尽くした「構図」で構成されている。それはリメイクも含めて多数制作された過去の「座頭市」シリーズへの敬意と同時に,新しい「座頭市」を創り出そうという意識も漂わせた,意欲的な映像と言うことが出来よう。

しかし,何故か映像がひたすら決まれば決まるほど,肝心の物語の方は,市の情念を置き去りにして,四方に拡散していくばかりだった。
冒頭に描かれる石原さとみとの純愛エピソードは,何の説明もないうちにあっという間に終わりを告げ,物語の軸となるべきやくざ同士の抗争も,争いに至ったいきさつがうやむやのまま,市の友情と義憤の話にすり替わってしまう。そのため,座頭市につきものの「情念」は昇華することなく空回りしてしまい,香取慎吾が作り出す妙な「間」を引きずった聞き取りにくい呟きだけが,ふわふわと画面を漂っていくのだった。

阪本順治が,勝新太郎の兄である若山富三郎を物語の鍵を握る勝負師に据え,将棋の世界でしのぎを削る男たちを描いた「王手」には確かに存在していた,滾るようなダイナミズムを,ここには見つけることは出来ない。でも,枯れるのはまだ早い。これだけの筆力を持った監督に描いてもらうべき「物語」はまだたくさんあるはずなのだから。
★★☆
(★★★★★が最高)


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