
7月26日のディスカバー・ビートルズは、「なぜビートルズは売れたのか」の考察だった。
解説はトライセラトップスの和田唱氏。
氏によるとまずは、自分たちで作詞作曲も歌も演奏も自分たちでやった新しさだという。
当時は日本の歌謡曲がそうだったように、分業制が当たり前で、今現在のバンドみたいに全部自分たちでやる人たちってすごく珍しかったという。
次に、最初のシングルがあまりパッとしない「Love Me Do」だったこと。
最初はちょっと地味なのから始まって、以降どんどんキャッチーで派手な曲がシングルとして売り出された戦略。
そしてアメリカに進出したときのテレビ番組「エド・サリバン・ショー」への出演。
このとき、硬派なジョンではなくあえてポールをフロントマンとして売り出したのも成功への道に繋がったという。
このときの選曲も、若者受けだけでなく、大人向けの「Till There Was You」なんかを取り上げてるセンスもすごい。
さらに4人のスター性。
4人が4人とも独自のキャラを持っていて、それぞれにファンがついたこと。
今のジャニーズなんかもその戦略を受け継いでいる。
そして、意外だったのは、「イエスタデイ」の存在の大きさだという。
世界一カバーされた曲として知られる名曲中の名曲だけど、60年代だけで1000人にカバーされたらしい。
これくらい存在感の大きな楽曲がある、というのは他のアーティストにはないことだ。
話は変わる。
マネージャーだったブライアン・エプスタインが、ビートルズを知ったときの伝説的なエピソードがある。
当時リバプールでレコード店をやってたエプスタインだが、ある日レイモンド・ジョーンズという若者がやってくる。
「ビートルズのレコードが欲しいのですが」
若者のいうビートルズというグループをエプスタインは知らなかった。
若い店員にビートルズを知っているか尋ねると、近くのライブハウスに出演しているという。
エプスタインはビートルズのレコードを取り寄せるよう注文し、ビートルズっていったいどんな音楽なんだ?と見に行ってみる。
そして実際にビートルズのライブを体験し、ものすごい衝撃を受ける。
音楽の良し悪しや売れる売れないに天才的な判断力をもつエプスタインは、まだダイヤの原石みたいなビートルズとマネージャー契約を結ぶ。
この伝説的エピソードは、エプスタインの自伝に書かれている。
これを読んだ読者は、レイモンド・ジョーンズがエプスタインとビートルズのキューピットだったんだなと理解する。
それならレイモンド・ジョーンズ本人にそのときのことを尋ねようと、マスコミが動き出すのだが、それが一向にレイモンド・ジョーンズが見つからないのである。
さらに、エプスタインはもっと早くからビートルズを知っていたはずだという。
というのも、リバプールのバンドシーンの専門誌「マージーピート」では頻繁にビートルズが取り上げられているのだが、その雑誌にエプスタインは音楽コラムを書いているのである。
そのうち、レイモンド・ジョーンズって本当にそんな人いたの?という話になってくる。
やがてエプスタインは若くして亡くなり、レイモンド・ジョーンズはエプスタインが話を盛るためにでっち上げた架空の人物という説がまかり通るようになる。
そして、当時エプスタインの店で働いていた店員の一人が、レイモンド・ジョーンズってのは自分が作りあげた架空の人物で、そんな奴はいないんだよと証言する。
この証言により、レイモンド・ジョーンズは実在しないことが決定的になった。
それが2010年にもなって、なんとレイモンド・ジョーンズ本人がスペインの農場で発見されたのだ。
当時二十歳だったレイモンド・ジョーンズは、キャバーンクラブでビートルズのライブを見て衝撃を受け大ファンになったという。
彼はよく仕事の昼休みにキャバーンクラブのランチショーを見に行ってビートルズのライブを楽しんだという。
なかでも当時のドラマー、ピート・ベストが歌う「マッチボックス」が好みだったらしい。
そしてレイモンド・ジョーンズの兄がバンドマンで、ビートルズがハンブルグで一枚レコードを録音したらしいという情報を得て、エプスタインの店に買いに行ったという。
結局、エプスタインはおそらくビートルズの名前だけは知っていたと思われる。
地元で人気のロックンロールバンドだということも知ってはいたのだろう。
しかしすでに20代後半だったエプスタインは、ライブを見に行くことに躊躇いがあったのだろう。
そこへレイモンド・ジョーンズがレコードを探しに来たことがきっかけで、ビートルズのライブを見に行く決心がついたのだと思う。
そう考えるとレイモンド・ジョーンズの役割は大きかったと思われる。