1月12日(月)、天気は雨・雪・晴・曇と変化するも、寒さだけは変化なし。
世の中「成人の日」。当方は全く関係なく仕事でした。
朝一番に「無双」の漆をチェック。まだ十分に乾固していないものもありましたが、先ずは良好。もう少し湿度を加えて明日、写真撮影しようと思います。
本日は「巻菱湖」の盛り上げ。裏側の文字と歩兵・玉将・王将の盛り上げは、去年秋に終えていたものです。
本日は残っていた飛車・角行・金将・銀将・桂馬の16枚を今日一日で終了しました。
会報8号の解説です。
発行日は昭和53年3月1日。トップ記事は、愛媛県の川内史郎さん。
愛媛県のアマの強豪で、「史狼」の銘で駒づくりをしている川内さんが、松山市の三越百貨店・将棋まつりに自作駒が出品された模様をレポートしています。
会場では、この地に残る坂田三吉王将ゆかりの盤駒や、奥野作・龍山作・信華作の駒に並んで、川内さんの駒が「愛媛県内のアマチュアで初めて駒を作った人」のコメント付で陳列されたそうです。
なお、これまで作った5組は全て「無双」とのことです。
愛媛県は内藤九段のお師匠の藤内金吾八段の出身地。将棋は昔から盛んなところで、藤内さんのお師匠が坂田さんですから、坂田王将ゆかりの品も多いのです。
この頃、小生はある人の紹介で、松山市郊外に住まわれていた藤内さんのお兄さんの所で、幾つかの駒を拝見させていただきました。
藤内八段はすでに亡くなっていましたが、お兄さんは健在でした。
その足で宇和島の伊達博物館にも立ち寄って、所蔵されている江戸時代末期の盤駒も拝見し、「」でレポートしました。
会報に戻って、
香川県の丹生年光さんが、ツゲ以外のさまざまの木で駒を作っている作業の様子を発表されています。
さまざまの木で駒を作っている人で、最近では愛知県の神田和徳さんが有名になりましたが、古くは新潟県の阿部真千雄さんもいます。
4ページには、島根県の井川征夫さんが関の5本松で有名な美保関に近い海辺の町から、「今は駒づくり一筋」というエッセイを載せています。
警察官だった井川さんからは毎年夏になると、近くで獲ったアワビや海産物を頂いたり「熊澤さん、当地に来て一緒に潜りましょう」と、誘っていただいていたのですが、出不精の小生は何年も失礼しておりました。
ある年の秋、島根県の足立美術館に車で出かけることになり、そのとき急に思い立って井川さんの家へも立ち寄りました。
ところが、なんと言うことでしょうか。井川さんはその2ヶ月ほど前に海の事故で亡くなっていたのです。そんな悲しい思い出からおよそ17~8年が経ちます。
再び会報に戻って、「編集後記」には、近々、水無瀬神宮を訪ねる旨のことと、この年、世間では企業倒産や人員整理が多かったようで、親しい友人が失業したことが書いてあります。
当時のことは、ほとんど忘れかけておりましたが、会報を読み返すと、少しはよみがえります。
世の中「成人の日」。当方は全く関係なく仕事でした。
朝一番に「無双」の漆をチェック。まだ十分に乾固していないものもありましたが、先ずは良好。もう少し湿度を加えて明日、写真撮影しようと思います。
本日は「巻菱湖」の盛り上げ。裏側の文字と歩兵・玉将・王将の盛り上げは、去年秋に終えていたものです。
本日は残っていた飛車・角行・金将・銀将・桂馬の16枚を今日一日で終了しました。
会報8号の解説です。
発行日は昭和53年3月1日。トップ記事は、愛媛県の川内史郎さん。
愛媛県のアマの強豪で、「史狼」の銘で駒づくりをしている川内さんが、松山市の三越百貨店・将棋まつりに自作駒が出品された模様をレポートしています。
会場では、この地に残る坂田三吉王将ゆかりの盤駒や、奥野作・龍山作・信華作の駒に並んで、川内さんの駒が「愛媛県内のアマチュアで初めて駒を作った人」のコメント付で陳列されたそうです。
なお、これまで作った5組は全て「無双」とのことです。
愛媛県は内藤九段のお師匠の藤内金吾八段の出身地。将棋は昔から盛んなところで、藤内さんのお師匠が坂田さんですから、坂田王将ゆかりの品も多いのです。
この頃、小生はある人の紹介で、松山市郊外に住まわれていた藤内さんのお兄さんの所で、幾つかの駒を拝見させていただきました。
藤内八段はすでに亡くなっていましたが、お兄さんは健在でした。
その足で宇和島の伊達博物館にも立ち寄って、所蔵されている江戸時代末期の盤駒も拝見し、「」でレポートしました。
会報に戻って、
香川県の丹生年光さんが、ツゲ以外のさまざまの木で駒を作っている作業の様子を発表されています。
さまざまの木で駒を作っている人で、最近では愛知県の神田和徳さんが有名になりましたが、古くは新潟県の阿部真千雄さんもいます。
4ページには、島根県の井川征夫さんが関の5本松で有名な美保関に近い海辺の町から、「今は駒づくり一筋」というエッセイを載せています。
警察官だった井川さんからは毎年夏になると、近くで獲ったアワビや海産物を頂いたり「熊澤さん、当地に来て一緒に潜りましょう」と、誘っていただいていたのですが、出不精の小生は何年も失礼しておりました。
ある年の秋、島根県の足立美術館に車で出かけることになり、そのとき急に思い立って井川さんの家へも立ち寄りました。
ところが、なんと言うことでしょうか。井川さんはその2ヶ月ほど前に海の事故で亡くなっていたのです。そんな悲しい思い出からおよそ17~8年が経ちます。
再び会報に戻って、「編集後記」には、近々、水無瀬神宮を訪ねる旨のことと、この年、世間では企業倒産や人員整理が多かったようで、親しい友人が失業したことが書いてあります。
当時のことは、ほとんど忘れかけておりましたが、会報を読み返すと、少しはよみがえります。
3日前のことです。
玄関のチャイムが「ピンポーン」となりました。
宅急便かな?と出てみると、知らない人でした。
用件を尋ねると、「妻の勤め先の同僚の甥っ子が中学2年生で、3月に修学旅行で京都に来る。その甥っ子が、自由時間を利用して、小生の工房を訪ねたいとのことで、今日はそのことを頼みに来ました」と言うことです。
「玄関先では何ですから」と、中に案内してお茶(コーヒーです)を飲みながらお話を聞きました。
その人は、電話では気持ちが伝わらないので、大阪からわざわざ往復3時間を掛けてきたそうです。ご丁寧さにさしもの小生も脱帽でした。
何でも、その中学生君は、日本の伝統工芸に興味があるとのことで、将棋の駒もその一つなんだそうです。
その中学2年生君がどんな子かは、それだけでは良く分からないですが、「どうぞ」と返事し、小生の工房でどんなことが見たいか知りたいか、一度本人から電話をして欲しいと伝えておきました。
ソレニシテモ、修学旅行で工房に来たいという中学2年生。電話か手紙で頼めば済みそうなことを、そして、他人の子供のことのもかかわらず、わざわざ訪ね来られたその人のこと。何だか、嬉しいことです。
どこで、小生のことを知ったんでしょうか。
玄関のチャイムが「ピンポーン」となりました。
宅急便かな?と出てみると、知らない人でした。
用件を尋ねると、「妻の勤め先の同僚の甥っ子が中学2年生で、3月に修学旅行で京都に来る。その甥っ子が、自由時間を利用して、小生の工房を訪ねたいとのことで、今日はそのことを頼みに来ました」と言うことです。
「玄関先では何ですから」と、中に案内してお茶(コーヒーです)を飲みながらお話を聞きました。
その人は、電話では気持ちが伝わらないので、大阪からわざわざ往復3時間を掛けてきたそうです。ご丁寧さにさしもの小生も脱帽でした。
何でも、その中学生君は、日本の伝統工芸に興味があるとのことで、将棋の駒もその一つなんだそうです。
その中学2年生君がどんな子かは、それだけでは良く分からないですが、「どうぞ」と返事し、小生の工房でどんなことが見たいか知りたいか、一度本人から電話をして欲しいと伝えておきました。
ソレニシテモ、修学旅行で工房に来たいという中学2年生。電話か手紙で頼めば済みそうなことを、そして、他人の子供のことのもかかわらず、わざわざ訪ね来られたその人のこと。何だか、嬉しいことです。
どこで、小生のことを知ったんでしょうか。
1月11日(日)、寒風強し、ほぼ快晴の空色。
昨日の30年前の記述に、何人かのお名前が登場しました。
その中で、多分、余りご存じない方のために、中村さんと渡辺さんについて補足しておきます。
中村新太郎さんの駒づくり歴は、小生より幾分早かったかも知れません。
数少ない先駆者の一人ですが、東京での講習会に参加されました。
出品作品は「巻菱湖」の盛り上げ。中々の出来ばえでした。
温厚な方で、歳は当時、小生の35歳より、ふた廻り以上、当時60歳を少し過ぎておられたように思います。
お住まいは八王子方面。
10年くらい年賀状のやり取りはしましたが、その後の消息は分かりません。
今は90歳を幾分過ぎておられると思います。
渡辺汀さんは、当時、鉄鋼関係の商社にお勤めでした。
東京での講習会に参加されて、駒づくりを始められたと記憶しています。
歳は50歳ほど。おしゃれで黒い皮ジャン。もう直ぐ、お嬢さんがお嫁に行くと言うことでした。
この方も熱心で、会報に何度か投稿されたり、刃物や材料を自作されたり、展示会では、自ら実演役をかって出られて、お願いしました。
出品作品は「錦旗」の彫り駒と「巻菱湖」の盛り上げなど3点。
作品展での打ち上げで、渡辺さんは「プロ」になるとの思いを熱く語っておられました。
「気持ちは分かるが、なまじっかな技術、並みのプロでは食えない世界ですよ」と、思いとどまるように何度も申し上げたのですが、熱い心が冷めることはありませんでした。
間もなく将棋雑誌「県南あおもり」で、渡辺さんがプロになったという記事を見ました。
それから30年が経ちます。お元気でしょうか。
今日は鏡開き、熱い「ぜんざい」が欲しくなりました。
昨日の30年前の記述に、何人かのお名前が登場しました。
その中で、多分、余りご存じない方のために、中村さんと渡辺さんについて補足しておきます。
中村新太郎さんの駒づくり歴は、小生より幾分早かったかも知れません。
数少ない先駆者の一人ですが、東京での講習会に参加されました。
出品作品は「巻菱湖」の盛り上げ。中々の出来ばえでした。
温厚な方で、歳は当時、小生の35歳より、ふた廻り以上、当時60歳を少し過ぎておられたように思います。
お住まいは八王子方面。
10年くらい年賀状のやり取りはしましたが、その後の消息は分かりません。
今は90歳を幾分過ぎておられると思います。
渡辺汀さんは、当時、鉄鋼関係の商社にお勤めでした。
東京での講習会に参加されて、駒づくりを始められたと記憶しています。
歳は50歳ほど。おしゃれで黒い皮ジャン。もう直ぐ、お嬢さんがお嫁に行くと言うことでした。
この方も熱心で、会報に何度か投稿されたり、刃物や材料を自作されたり、展示会では、自ら実演役をかって出られて、お願いしました。
出品作品は「錦旗」の彫り駒と「巻菱湖」の盛り上げなど3点。
作品展での打ち上げで、渡辺さんは「プロ」になるとの思いを熱く語っておられました。
「気持ちは分かるが、なまじっかな技術、並みのプロでは食えない世界ですよ」と、思いとどまるように何度も申し上げたのですが、熱い心が冷めることはありませんでした。
間もなく将棋雑誌「県南あおもり」で、渡辺さんがプロになったという記事を見ました。
それから30年が経ちます。お元気でしょうか。
今日は鏡開き、熱い「ぜんざい」が欲しくなりました。
1月10日(土)、曇一時雨。
シベリアから寒波襲来とか。確かに寒いですネ。
本日は「無双」の盛り上げをしました。
去年からの残っていた歩兵の一部と、香車・桂馬・銀将・飛車・角行。これらを夕方までに済ませました。
外気温が低いので、盛り上げた漆が順調にうまく固まるかどうか。明日にならないと結果は分かりません。
一昨日、3回目の漆を塗った「はらだ山荘」の看板(表札)は、表面を盛り上げ駒のようにふっくらとした仕上げでなく、ぐっと湿度を加えて、メロン肌のように仕上げてみました。
山荘の看板には、この方が趣が出ると思ったからです。
使った漆は、京都の漆店で2年前に購入した「生地蝋色漆」。この漆は、新しい精製技術で精製したもの。従来技術で精製した漆と比べてキメが細かいです。同じ生地蝋色漆といっても、表面の光沢が少し違います。
ところで、本日は会報7号。昭和53年1月の発行です。
トップ記事は、池袋・西武百貨店での第2回作品展示会。
会期は、1月2日から4日までの3日間でした。
会場の設営は大晦日の31日。百貨店の営業が終わってから深夜に及びました。
東京の渡辺汀さん・堀内和雄さんにも協力してもらい、作業を終わって一息つこうと近くの喫茶店に入って、3人で延々3時間も駒談義。気が付くと元旦になっていました。
小生は東京に5泊。若かったしエネルギーがあったのですね。
出品点数は、前回よりやや少ない23点でしたが、会場では渡辺汀さんが、日ごろ使っている道具を持ち込んでの駒彫りの実演がありました。中村新太郎さん・北田義之さんも説明役を引き受けてくれました。会場での模様は、北田さんがレポートしています。このときの出品者で岡本研さんや松尾仁任さんは、今でも駒づくりを続けておられます。今や大ベテランですね。
初日の朝、大山名人が会場に駆けつけて頂いて、花村元司九段もお見えになるなど皆は大感激でした。
大感激といえば、忘れられない思い出があります。
展示会会場で店番をしていると、初老の女性が来られて、
「熊澤さん、ありがとうございます。私はMの母親です。貴方のおかげで息子が駒のことをやり始めるようになりました。それまでは言っても聞かなかったパチンコを、今ではぷっつりとやめて、一生懸命駒に打ち込んでいます。貴方のおかげです。本当にありがとうございました」。と涙を流さんばかり。
そのMさんは、前年に東京での駒づくり講習会に参加した一人で、当時は確か明治大学の学生でした。
息子の変わりようがお母さんはよほど嬉しかったのでしょう。わざわざ会場に小生を訪ねて来られたのでした。
小生は予期せぬお礼にびっくり。胸にジンと来てしまいました。忘れえぬ思い出です。
その後、お母さんにはmさん宅で何度かお会いして、あれから30年たちました。
熱心だったそのMさん。近年は駒の本を出したり、今や誰れでも知らない人はいないでしょう。
おっと、書くのを忘れていました。
7号から、文字は手書きではなく活字になり、見やすくなりました。
スタートして一年。会員数は、295名でした。
シベリアから寒波襲来とか。確かに寒いですネ。
本日は「無双」の盛り上げをしました。
去年からの残っていた歩兵の一部と、香車・桂馬・銀将・飛車・角行。これらを夕方までに済ませました。
外気温が低いので、盛り上げた漆が順調にうまく固まるかどうか。明日にならないと結果は分かりません。
一昨日、3回目の漆を塗った「はらだ山荘」の看板(表札)は、表面を盛り上げ駒のようにふっくらとした仕上げでなく、ぐっと湿度を加えて、メロン肌のように仕上げてみました。
山荘の看板には、この方が趣が出ると思ったからです。
使った漆は、京都の漆店で2年前に購入した「生地蝋色漆」。この漆は、新しい精製技術で精製したもの。従来技術で精製した漆と比べてキメが細かいです。同じ生地蝋色漆といっても、表面の光沢が少し違います。
ところで、本日は会報7号。昭和53年1月の発行です。
トップ記事は、池袋・西武百貨店での第2回作品展示会。
会期は、1月2日から4日までの3日間でした。
会場の設営は大晦日の31日。百貨店の営業が終わってから深夜に及びました。
東京の渡辺汀さん・堀内和雄さんにも協力してもらい、作業を終わって一息つこうと近くの喫茶店に入って、3人で延々3時間も駒談義。気が付くと元旦になっていました。
小生は東京に5泊。若かったしエネルギーがあったのですね。
出品点数は、前回よりやや少ない23点でしたが、会場では渡辺汀さんが、日ごろ使っている道具を持ち込んでの駒彫りの実演がありました。中村新太郎さん・北田義之さんも説明役を引き受けてくれました。会場での模様は、北田さんがレポートしています。このときの出品者で岡本研さんや松尾仁任さんは、今でも駒づくりを続けておられます。今や大ベテランですね。
初日の朝、大山名人が会場に駆けつけて頂いて、花村元司九段もお見えになるなど皆は大感激でした。
大感激といえば、忘れられない思い出があります。
展示会会場で店番をしていると、初老の女性が来られて、
「熊澤さん、ありがとうございます。私はMの母親です。貴方のおかげで息子が駒のことをやり始めるようになりました。それまでは言っても聞かなかったパチンコを、今ではぷっつりとやめて、一生懸命駒に打ち込んでいます。貴方のおかげです。本当にありがとうございました」。と涙を流さんばかり。
そのMさんは、前年に東京での駒づくり講習会に参加した一人で、当時は確か明治大学の学生でした。
息子の変わりようがお母さんはよほど嬉しかったのでしょう。わざわざ会場に小生を訪ねて来られたのでした。
小生は予期せぬお礼にびっくり。胸にジンと来てしまいました。忘れえぬ思い出です。
その後、お母さんにはmさん宅で何度かお会いして、あれから30年たちました。
熱心だったそのMさん。近年は駒の本を出したり、今や誰れでも知らない人はいないでしょう。
おっと、書くのを忘れていました。
7号から、文字は手書きではなく活字になり、見やすくなりました。
スタートして一年。会員数は、295名でした。
1月9日(金)、雨が降ったり止んだり。
夕刻から一段と寒くなっています。テレビの予報では、明日は今日よりも7~8度気温が低下し、近畿地方の行きは北部で60センチ、中部で30センチ、南部でも5センチくらいは雪が積もるとのことです。
昨日あたりから、あて先不明の年賀状が戻り始めています。10日間ぐらい日本のどこかで、うろうろとしていた葉書です。昨日は2通、今日は3通でした。
あて先の町の名前を間違って書いていたり、部屋番号を書き忘れて不完全だったり、ひどいのは名前のみで住所を書いていなかったものが1通ありました。
無記入だった1通は、後から調べて書くつもりが、そのままブランクで出してしまったのです。お粗末。
ソレニシテモ、頂いた葉書に時折り住所が書かれていないものがあります。書くのを忘れたものは別として、名前のみだったり、住所の後ろの方が書かれていないと、返事のとき、わざわざ住所を調べないといけないし、ちょっと手間で困るのですね。
ところで、戻ってきた年賀状ですが、貴方ならどうしますか。
方法として、①出し直すのをあきらめる。②新しい年賀状で出し直す。③帰ってきた年賀状のあて先を正しく書いて出しなおす。が考えられますね。
だが、果たして③は、郵便会社が再配達してくれるのかどうか良く分かりません。
結局、2通は新しいものに書き直して出し直し、残りの3通は、たまたま届けたかった別の資料があったので、一緒に封書に入れて出し直しました。
最近は、所番地の後、マンションでは部屋の号数を書かないと届かないご時世ですが、昔は(といっても50年以上前ですが)「大阪市 〇〇〇〇様」という表書きだけで、我が家に正確に届いた手紙がありました。のんびりと言うか、世の中、ゆったりしていたんですね。
夕刻から一段と寒くなっています。テレビの予報では、明日は今日よりも7~8度気温が低下し、近畿地方の行きは北部で60センチ、中部で30センチ、南部でも5センチくらいは雪が積もるとのことです。
昨日あたりから、あて先不明の年賀状が戻り始めています。10日間ぐらい日本のどこかで、うろうろとしていた葉書です。昨日は2通、今日は3通でした。
あて先の町の名前を間違って書いていたり、部屋番号を書き忘れて不完全だったり、ひどいのは名前のみで住所を書いていなかったものが1通ありました。
無記入だった1通は、後から調べて書くつもりが、そのままブランクで出してしまったのです。お粗末。
ソレニシテモ、頂いた葉書に時折り住所が書かれていないものがあります。書くのを忘れたものは別として、名前のみだったり、住所の後ろの方が書かれていないと、返事のとき、わざわざ住所を調べないといけないし、ちょっと手間で困るのですね。
ところで、戻ってきた年賀状ですが、貴方ならどうしますか。
方法として、①出し直すのをあきらめる。②新しい年賀状で出し直す。③帰ってきた年賀状のあて先を正しく書いて出しなおす。が考えられますね。
だが、果たして③は、郵便会社が再配達してくれるのかどうか良く分かりません。
結局、2通は新しいものに書き直して出し直し、残りの3通は、たまたま届けたかった別の資料があったので、一緒に封書に入れて出し直しました。
最近は、所番地の後、マンションでは部屋の号数を書かないと届かないご時世ですが、昔は(といっても50年以上前ですが)「大阪市 〇〇〇〇様」という表書きだけで、我が家に正確に届いた手紙がありました。のんびりと言うか、世の中、ゆったりしていたんですね。
1月7日(水)、曇。
当地では今年一番の寒さ。凍えそうな寒い日であった。
会報6号の紹介をします。
発効日は11月1日。トップ記事は「アンケート結果」報告。回答があったのは110名。回収率は40%でした。
年齢は15歳から66まで。20代・30代・40代で80%を占めています。
女性は2人。
棋力は有段者が大半を占めています。
「これまで何組つくりましたか」という質問に対しては、数10組作ったという人が3人もいたのには、小生もたまげました。
「できばえ」については、「まあまあ満足」と「不満」が半々で拮抗。「大いに満足」と答えた人もいます。
「書体研究」は「清安」。
第2回会展のお知らせとして、正月2日から4日までの3日間、東京・池袋、西武百貨店での「将棋祭り」会場での開催と作品募集が出ています。
会を立ち上げて10か月。ここまで、近鉄将棋まつりでの作品展、西武将棋まつりでの作品展と、非常に順調に進んでいます。
今思い返しても良く思い出せませんが、将棋連盟や百貨店など各方面との折衝で特に苦労したと言うことは、ほとんど無かったと思います。
勿論、何回かは上京して、いろいろお願いしたりはしました。上京するといっても、わざわざその用事で上京するという訳ではなく、会社の仕事でたびたび東京へ行きましたから、そのついでに連盟に立ち寄るとか、その辺は随分恵まれていました。
当時、会社の出張のついでに、良くあちこちに足を伸ばしました。
自分で駒づくりをしようと思い立って、天童に駒木地を探しに訪れたときは、仙台支店への出張の時でした。
仕事は月曜日の午後からにして、2日前の土曜日の夜行で大阪を発って、翌日の早朝、天童駅のプラットホームに立ちました。
駅前のお店「天童将棋」が開くのを待って、無理を言って1組木地を分けて貰いました。
街中の「栄春堂」では、観光客向けにやっていた駒彫りを、何時間も飽きずに眺めていました。彫り師の名前は覚えていませんが、字母紙を使わず、楷書の錦旗の「銀将」だけを何百枚もシャッシャッシャと表2文字を45秒で彫るんですね。うまいもんです。
店の前がバス停で11時の山寺行きのバスに乗るつもりでした。感心して見ていて気が付いたら、バスは緩やかに発車するところ。おかげさまで、バスには乗り損ねてしまいました。こんなことは良く覚えています。
その日は天童に宿泊。「王将風呂」で有名な旅館でした。今はもうありません。
買って帰った駒木地は「シャムツゲ」でした。
そのときは分からないまま、自分で文字を起こし彫り終えて、ウキウキして黒い塗料を塗りこんだ訳ですが、見事失敗でした。「目止め」が必要だとは知らなかったのですね。
事実上の初作は、大阪の盤屋さんに頼んで取り寄せてもらった「薩摩ツゲ」の1組です。それが南口先生に名づけて頂いた「無双」です。
当地では今年一番の寒さ。凍えそうな寒い日であった。
会報6号の紹介をします。
発効日は11月1日。トップ記事は「アンケート結果」報告。回答があったのは110名。回収率は40%でした。
年齢は15歳から66まで。20代・30代・40代で80%を占めています。
女性は2人。
棋力は有段者が大半を占めています。
「これまで何組つくりましたか」という質問に対しては、数10組作ったという人が3人もいたのには、小生もたまげました。
「できばえ」については、「まあまあ満足」と「不満」が半々で拮抗。「大いに満足」と答えた人もいます。
「書体研究」は「清安」。
第2回会展のお知らせとして、正月2日から4日までの3日間、東京・池袋、西武百貨店での「将棋祭り」会場での開催と作品募集が出ています。
会を立ち上げて10か月。ここまで、近鉄将棋まつりでの作品展、西武将棋まつりでの作品展と、非常に順調に進んでいます。
今思い返しても良く思い出せませんが、将棋連盟や百貨店など各方面との折衝で特に苦労したと言うことは、ほとんど無かったと思います。
勿論、何回かは上京して、いろいろお願いしたりはしました。上京するといっても、わざわざその用事で上京するという訳ではなく、会社の仕事でたびたび東京へ行きましたから、そのついでに連盟に立ち寄るとか、その辺は随分恵まれていました。
当時、会社の出張のついでに、良くあちこちに足を伸ばしました。
自分で駒づくりをしようと思い立って、天童に駒木地を探しに訪れたときは、仙台支店への出張の時でした。
仕事は月曜日の午後からにして、2日前の土曜日の夜行で大阪を発って、翌日の早朝、天童駅のプラットホームに立ちました。
駅前のお店「天童将棋」が開くのを待って、無理を言って1組木地を分けて貰いました。
街中の「栄春堂」では、観光客向けにやっていた駒彫りを、何時間も飽きずに眺めていました。彫り師の名前は覚えていませんが、字母紙を使わず、楷書の錦旗の「銀将」だけを何百枚もシャッシャッシャと表2文字を45秒で彫るんですね。うまいもんです。
店の前がバス停で11時の山寺行きのバスに乗るつもりでした。感心して見ていて気が付いたら、バスは緩やかに発車するところ。おかげさまで、バスには乗り損ねてしまいました。こんなことは良く覚えています。
その日は天童に宿泊。「王将風呂」で有名な旅館でした。今はもうありません。
買って帰った駒木地は「シャムツゲ」でした。
そのときは分からないまま、自分で文字を起こし彫り終えて、ウキウキして黒い塗料を塗りこんだ訳ですが、見事失敗でした。「目止め」が必要だとは知らなかったのですね。
事実上の初作は、大阪の盤屋さんに頼んで取り寄せてもらった「薩摩ツゲ」の1組です。それが南口先生に名づけて頂いた「無双」です。
1月6日(火)、晴れ。
2日目の本日も駒づくりはパス。名刺など書類整理を夕刻までやりました。
「駒づくりを楽しむ会・会報」本日の解説は5号です。
発効日は昭和52年9月1日。ここまで2ヶ月ごとの発行で推移しています。
トップ記事は、第1回作品展。場所は、大阪上六の近鉄百貨店です。
出品者は20名、31作品。会場には、大阪近辺の会員はもとより、東京から木村茂夫さん、愛知県から松尾仁任さん、天津和明さん、岡山の小山章さんなどが駆けつけてくれました。
「会の記録」では、入会者数は、8月22日現在で250人に達しました。
当初は何人の入会者があるか全く見当もつきませんでしたが、この調子で行くと、ひょっとすると1000人くらいになるかなとも思いました。
駒形木地の発送は、この頃にようやく追いつきました。細かいことは覚えていませんが、一息ついてやれやれだったと思います。木地の作成発送が追いつくまでは、自分の駒づくりは棚上げ状態だったのですが、それでも小生は、源兵衛清安・菱湖・無双の3組を出品しているので、我ながらびっくりデス。
「書体研究」は、巻菱湖。
「技術講座」は、漆の使い方や用具について述べています。
また、日昔さん、渡辺さん、松尾さん、辻本さん、山田さんに、これからの催し物や運営面で相談するため、幹事役をお願いしています。
会員からの投稿は、いわき市の萩坂昭洋さんから。
「楽我棋だより」という将棋のミニコミ誌を発行されていて、そこに「駒づくり雑感」という体験談を載せておられます。その記事を紹介します。
「自分で作るようになって、駒を見る目が変わってきました。今まではいい駒があっても、ただ感心して眺めるだけで、その素晴らしさが分からなかったが、自分で彫ってみると、名の通った駒師の仕上げ、彫り、塗りなどを一つ一つ吟味してみるようになり、その作品の良さが分かるようになった。まだ3作目しかっ作っていない私などは、到底足元にも及ばないが、下手は下手なりに丹精を込めて仕上げれば、駒1枚1枚に心が通うのがいい。市販の駒では味わえない手作りの味である。
萩坂さんは岩城地区アマチュアのリーダーで、小生よりひと回り半くらい年上だったように思います。お元気なら80歳は過ぎておられることでしょう。
2日目の本日も駒づくりはパス。名刺など書類整理を夕刻までやりました。
「駒づくりを楽しむ会・会報」本日の解説は5号です。
発効日は昭和52年9月1日。ここまで2ヶ月ごとの発行で推移しています。
トップ記事は、第1回作品展。場所は、大阪上六の近鉄百貨店です。
出品者は20名、31作品。会場には、大阪近辺の会員はもとより、東京から木村茂夫さん、愛知県から松尾仁任さん、天津和明さん、岡山の小山章さんなどが駆けつけてくれました。
「会の記録」では、入会者数は、8月22日現在で250人に達しました。
当初は何人の入会者があるか全く見当もつきませんでしたが、この調子で行くと、ひょっとすると1000人くらいになるかなとも思いました。
駒形木地の発送は、この頃にようやく追いつきました。細かいことは覚えていませんが、一息ついてやれやれだったと思います。木地の作成発送が追いつくまでは、自分の駒づくりは棚上げ状態だったのですが、それでも小生は、源兵衛清安・菱湖・無双の3組を出品しているので、我ながらびっくりデス。
「書体研究」は、巻菱湖。
「技術講座」は、漆の使い方や用具について述べています。
また、日昔さん、渡辺さん、松尾さん、辻本さん、山田さんに、これからの催し物や運営面で相談するため、幹事役をお願いしています。
会員からの投稿は、いわき市の萩坂昭洋さんから。
「楽我棋だより」という将棋のミニコミ誌を発行されていて、そこに「駒づくり雑感」という体験談を載せておられます。その記事を紹介します。
「自分で作るようになって、駒を見る目が変わってきました。今まではいい駒があっても、ただ感心して眺めるだけで、その素晴らしさが分からなかったが、自分で彫ってみると、名の通った駒師の仕上げ、彫り、塗りなどを一つ一つ吟味してみるようになり、その作品の良さが分かるようになった。まだ3作目しかっ作っていない私などは、到底足元にも及ばないが、下手は下手なりに丹精を込めて仕上げれば、駒1枚1枚に心が通うのがいい。市販の駒では味わえない手作りの味である。
萩坂さんは岩城地区アマチュアのリーダーで、小生よりひと回り半くらい年上だったように思います。お元気なら80歳は過ぎておられることでしょう。
1月5日(月)、昨日までとは違ってすばらしい快晴の朝。温暖。午後は雲多し。
世間では元旦から仕事をしている方も多いが、当方は今日が仕事始め。
とは言っても、仕事らしい仕事はせず、仕事場の整理、表札「はらだ山荘」の漆塗り、象牙箸の修理などで終始。本日は早めに切り上げました。
会報4号の紹介です。発行日は7月1日。
トップには「第1回会展」。大阪・上六の近鉄百貨店将棋祭り会場での開催が決まったとのお知らせと、出品作品の募集記事です。30組から50組を集めたいとあります。
近鉄将棋祭りは、この年に始まりました。
この年の将棋祭りには、新進気鋭の小林健二四段がゲストで来ていられた記憶があります。
「会の記録」には、5月1日に大和郡山で講習会を開催し、5月22日には東京で講習会を開催したとあります。6月12日には名古屋でも開催し、参加者は3箇所で延べ70人ほど。
東京での講習会には、木村茂夫(後の香順)さん親子や、当時大学生だった増山雅人(後の酔棋)さんなどが参加され、その模様は、「(えい)」という将棋専門誌に載りました。
また、前号の「駒銘」の問題提起に対しては、他人の駒を複写しても何らかまわないと言う意見、全く機械的に写し取るのは問題だと言う意見、どうせ全く同じものは作れないだろうなどと、対立する意見が寄せられています。
「研究発表」には「駒の寸法、形」について、渡辺さんの考え方が2ページにわたって載っています。
表紙を入れて、たかが8ページの薄っぺらな会報ですが、各ページを文字で埋めるのは大変です。会員諸氏から寄せられる原稿があると大いに助かりました。
ところで、修理した象牙箸。これは結婚祝いに上司から頂いたものです。
40年以上使い続けていますが、私用と家内用の内、最近、家内の箸の先が1センチほどひびが入り半分欠けてしまいました。因みに、小生の箸は全く傷みはありません。
貰ったものですし、捨てるのは忍び難く暫くそのまま使っていたのですが、今日は初仕事といってもエンジンのかかりも今一。と言うことで、家内に内緒で元通り直してやろうと、俄かに思いたちました。
どのように修理するか。丁度、象牙の材料は手元にあります。割れた部分は削り、代わりに手元を新しい象牙で継ぎ足す。
通常、男用は22センチ。女用は18.5センチが多いようです。
女用はもう少し長い方が使いやすいのではないか。と言うことで、箸先を1センチ削る代わりに、手元を3センチ継ぎ足すことにしました。
結果は上々。全長20.5センチ。2センチ大きくなって、新品同様(?)になりました。まだまだ使えます。
ソレニシテモ、結婚以来40年間も。物持ちがよろしいネ。
世間では元旦から仕事をしている方も多いが、当方は今日が仕事始め。
とは言っても、仕事らしい仕事はせず、仕事場の整理、表札「はらだ山荘」の漆塗り、象牙箸の修理などで終始。本日は早めに切り上げました。
会報4号の紹介です。発行日は7月1日。
トップには「第1回会展」。大阪・上六の近鉄百貨店将棋祭り会場での開催が決まったとのお知らせと、出品作品の募集記事です。30組から50組を集めたいとあります。
近鉄将棋祭りは、この年に始まりました。
この年の将棋祭りには、新進気鋭の小林健二四段がゲストで来ていられた記憶があります。
「会の記録」には、5月1日に大和郡山で講習会を開催し、5月22日には東京で講習会を開催したとあります。6月12日には名古屋でも開催し、参加者は3箇所で延べ70人ほど。
東京での講習会には、木村茂夫(後の香順)さん親子や、当時大学生だった増山雅人(後の酔棋)さんなどが参加され、その模様は、「(えい)」という将棋専門誌に載りました。
また、前号の「駒銘」の問題提起に対しては、他人の駒を複写しても何らかまわないと言う意見、全く機械的に写し取るのは問題だと言う意見、どうせ全く同じものは作れないだろうなどと、対立する意見が寄せられています。
「研究発表」には「駒の寸法、形」について、渡辺さんの考え方が2ページにわたって載っています。
表紙を入れて、たかが8ページの薄っぺらな会報ですが、各ページを文字で埋めるのは大変です。会員諸氏から寄せられる原稿があると大いに助かりました。
ところで、修理した象牙箸。これは結婚祝いに上司から頂いたものです。
40年以上使い続けていますが、私用と家内用の内、最近、家内の箸の先が1センチほどひびが入り半分欠けてしまいました。因みに、小生の箸は全く傷みはありません。
貰ったものですし、捨てるのは忍び難く暫くそのまま使っていたのですが、今日は初仕事といってもエンジンのかかりも今一。と言うことで、家内に内緒で元通り直してやろうと、俄かに思いたちました。
どのように修理するか。丁度、象牙の材料は手元にあります。割れた部分は削り、代わりに手元を新しい象牙で継ぎ足す。
通常、男用は22センチ。女用は18.5センチが多いようです。
女用はもう少し長い方が使いやすいのではないか。と言うことで、箸先を1センチ削る代わりに、手元を3センチ継ぎ足すことにしました。
結果は上々。全長20.5センチ。2センチ大きくなって、新品同様(?)になりました。まだまだ使えます。
ソレニシテモ、結婚以来40年間も。物持ちがよろしいネ。
1月4日(日)、一面に群雲。
今日も仕事は、お休みです。
会報3号は5月1日付けの発行です。若干補足しますと、
3月3日現在の入会者数は150人。木地は3月末時点でやっと会員97番まで。
4月末時点では入会者210人。木地の発送は166番まで。
残りの人にはゴールデンウイークに駒づくりしようと思っている人が多いと思うのですが、未だ届けられない状況が続いていました。
初めての作品展を8月ごろに大阪と東京で開催する旨、応募作品を呼びかけています。
「書体研究」は先号に引き続いて「淇洲」です。
「QアンドA」には、目止めについて触れています。
「目止め」とは、漆を塗る前に木地の木目の穴を透明の塗料などで塞いで、漆が滲まないようにしておくための作業ですが、駒づくりの中で重要な工程です。
と、言うのは、目止めが不十分だと漆が滲む結果になりますし、やりすぎると漆の食いつきが悪くなって、漆が飛ぶことに繋がるので、実際は微妙で難しい工程でもあります。
「会議室」のコラムでは、渡辺汀さんから「書体銘の複写」についての質問や意見の提議が出ています。
道義的な視点、あるいは法的な問題について触れています。
他人が作った駒をそのままコピイして良いのかよくないのか。平気なのか平気でないか。モラルにかかわることですね。
それだけに、ややもすると忘れがちになってしまうことが多いと思うのです。趣味なら許されるかもしれませんが、趣味の領域を超える場合はどうでしょうか。
1月2月ごろは、入会について問い合わせる手紙が多かったのですが、この頃になると、駒づくりを初めて経験した方々から、「駒づくりをして良かった」という便りや写真が続々と寄せられて、皆さんの熱気が伝わってきました。
ところで、話を半年前に戻します。
サラリーマンだった小生は、「会」を立ち上げるに先立って、勤め先の人事部に、これから始めようとすることを説明し、事前の許可が欲しいと許可を求めました。
会社の就業規則に「会社以外の業務をしてはいけない」という条項があります。「会」では駒づくりの道具とか、材料とかを販売することが不可欠だと思うので、事前に許可を取り付けておけば、コソコソしないで済みます。
第一、後から発覚し問題になれば会社を首になる可能性もあります。
そうなると、小生・家族ま勿論、会員諸氏にも迷惑をかけることになります。
相談の相手は、人事部係長でした。小生のやろうとしていることを概略説明して、これが就業規則に抵触するのかしないのかを尋ね、許可を求めたわけです。
結論はOK。と言うことで、心置きなく「会」を立ち上げることが出来ました。
その相手の人事係長は、現在の会長・出原さんです。
その会社には30年余、52歳まで勤めさせていただきました。
おおらかで家族的、いい会社でした。
今日も仕事は、お休みです。
会報3号は5月1日付けの発行です。若干補足しますと、
3月3日現在の入会者数は150人。木地は3月末時点でやっと会員97番まで。
4月末時点では入会者210人。木地の発送は166番まで。
残りの人にはゴールデンウイークに駒づくりしようと思っている人が多いと思うのですが、未だ届けられない状況が続いていました。
初めての作品展を8月ごろに大阪と東京で開催する旨、応募作品を呼びかけています。
「書体研究」は先号に引き続いて「淇洲」です。
「QアンドA」には、目止めについて触れています。
「目止め」とは、漆を塗る前に木地の木目の穴を透明の塗料などで塞いで、漆が滲まないようにしておくための作業ですが、駒づくりの中で重要な工程です。
と、言うのは、目止めが不十分だと漆が滲む結果になりますし、やりすぎると漆の食いつきが悪くなって、漆が飛ぶことに繋がるので、実際は微妙で難しい工程でもあります。
「会議室」のコラムでは、渡辺汀さんから「書体銘の複写」についての質問や意見の提議が出ています。
道義的な視点、あるいは法的な問題について触れています。
他人が作った駒をそのままコピイして良いのかよくないのか。平気なのか平気でないか。モラルにかかわることですね。
それだけに、ややもすると忘れがちになってしまうことが多いと思うのです。趣味なら許されるかもしれませんが、趣味の領域を超える場合はどうでしょうか。
1月2月ごろは、入会について問い合わせる手紙が多かったのですが、この頃になると、駒づくりを初めて経験した方々から、「駒づくりをして良かった」という便りや写真が続々と寄せられて、皆さんの熱気が伝わってきました。
ところで、話を半年前に戻します。
サラリーマンだった小生は、「会」を立ち上げるに先立って、勤め先の人事部に、これから始めようとすることを説明し、事前の許可が欲しいと許可を求めました。
会社の就業規則に「会社以外の業務をしてはいけない」という条項があります。「会」では駒づくりの道具とか、材料とかを販売することが不可欠だと思うので、事前に許可を取り付けておけば、コソコソしないで済みます。
第一、後から発覚し問題になれば会社を首になる可能性もあります。
そうなると、小生・家族ま勿論、会員諸氏にも迷惑をかけることになります。
相談の相手は、人事部係長でした。小生のやろうとしていることを概略説明して、これが就業規則に抵触するのかしないのかを尋ね、許可を求めたわけです。
結論はOK。と言うことで、心置きなく「会」を立ち上げることが出来ました。
その相手の人事係長は、現在の会長・出原さんです。
その会社には30年余、52歳まで勤めさせていただきました。
おおらかで家族的、いい会社でした。
駒の写真集
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