ジモティねた。
今日は久しぶりに写真アーカイブを覗いた。
ゆきたんくが撮りためた写真で、直径2~3cmくらいのものだが、ここにしかないもの。
それで、いつくあるかも分からない。
数えた訳ではないし、聞いた訳でもない。
これだ。
大多喜ガス。
そうでしょう、ここにしかない。
ジモティねた。
今日は久しぶりに写真アーカイブを覗いた。
ゆきたんくが撮りためた写真で、直径2~3cmくらいのものだが、ここにしかないもの。
それで、いつくあるかも分からない。
数えた訳ではないし、聞いた訳でもない。
これだ。
大多喜ガス。
そうでしょう、ここにしかない。
さて、連休明けの楽しみと言えば・・・
職場のみなさんは地元に帰ったり、旅行されたりする訳である。
うん、楽しみはお土産だ。
ご当地お土産ね。
こんな感じで楽しめた。
ゆきたんく 千葉・館山
名古屋
大阪。
京都。
食べただけで、ご当地旅行気分になれる。
ずっと行きたかった。
そう、コロナのおかげでずっと休業だったのだ。
ここの名前の通り、昭和の宝物が陳列されている。
屋外は電車や車、屋内は子供が喜ぶようなグッズたちであふれているのだ。
グーグルマップさんから画像を借りてきた。
これが俯瞰した様子である。
船、電車、飛行機、車がならんでいる。
手前の青い屋根部分の下に昭和の車が並んでいるのだ。
右下のボートの後ろにある建物が、小物の博物館になっている。
小物だけではなく、屋外の展示物に比べれば小さいが立派な模型も飾られているのだ。
「昭和の杜博物館全景」 → Map
もう、懐かしいものがたくさんあって、全部紹介したいくらいなんだけれど・・・
今日は一つに絞る。
ここに来たことで5歳くらいの時の思い出が急に脳みその地層の中から出てきたのだ。
ゆきたんくの親父殿は車は運転しなかった。
洗濯屋の職人で、外交はバイクでしていたからだ。
5歳の時のゆきたんくが友達家族と旅行に出かけた。
場所はどこだったのだろうか?
トヨタのコロナとパブリカの2台で行ったことは覚えている。
ゆきたんくが乗ったのはパブリカだった。
子どもの感覚だから、正確なものではないと思うが大渋滞にはまった。
ゆきたんくは渋滞なんか関係ない。
普段乗ることのできない自動車に乗れたことの嬉しさに包まれていた。
まぁ、落ち着きのない子供だったので目に入るものがたくさんあって退屈しなかったのだろう。
自分の乗った車で最初に名前を覚えたのはパブリカだった。
旅行後もしばらくパブリカがほしいとか、乗りたいとか、運転したいとか言っていたそうだ。
そのパブリカがここ「昭和の杜博物館」に展示されていたのだ。
トヨタ・パブリカ
一気に55年以上も昔に引き戻されたのである。
昭和ファンの方がいらっしゃったら行っていただきたい所である。
今日は女房を送る。
体に無理のない時には,歩いて職場に向かうのだ。
6000歩以上かな。
途中までは,ゆきたんくが自転車に荷物を積んでいく。
その帰りだ。
ダイエー松戸西口店前の公園に碑があるのでのぞいてみた。
高砂道路 とある。
ここから駅前大通りまでは「高砂通り」というのだそうだ。
あっ裏を見るのを忘れた。
今度は年代確認が必要だね。
ドーン!
そう,お聴きになったことはありますね。
笑ウせぇるすまんの主人公,喪黒福蔵氏の気合いである。
一口食べると
ドーン!とカレースパイスの刺激が脳まで響くラーメン。
そのお店の名前が「魔乃巣(アニメでは魔の巣)」さんだ。
その響き方は「旨い!旨い!旨い!」である。
基本のカレーヌードルズに味玉を入れた。 → Map
盛り付けのデコレーションも綺麗である。
ゆきたんくの地元松戸にあるカレーラーメンのお店だ。
喪黒氏の産みの親,藤子不二夫A氏のおひざ元の氷見にて喪黒氏とのツーショット。2018.02.18
→ Map
この日の夜に松戸に戻ったのだが,寒さに耐えたご褒美に,「魔乃巣」でカレーヌードルズをいただいたのである。
ゆきたんくの地元松戸唯一のデパート伊勢丹が21日に閉店する。
時代の流れの意外のなんでもないことだろう。
ゆきたんくの長男おーちゃんの通った小学校が中部小学校。
現在は松戸を流れる坂川沿いにある。
その前は,伊勢丹のあった場所が校地だったのである。
記念碑
碑には昭和49年1月30日と建立された年月日が入っている。
松戸伊勢丹は昭和49年4月開業だから,44年近い歴史に幕を下ろす訳だ。
閉店するのではと言う話は前から聞いていたが,現実となると寂しいな。
ゆきたんの仕事でのお師匠がいる。
その方の家の近くにそれはあった。
なんでこんな場所に?
それは陸軍の境界標柱であった。
こんな感じで建っていた。
石だよなぁ。何でだと思っていた。
戦争遺跡に興味を持つようになって、松戸の相模台ではたくさんの境界標柱を見つけることがてきた。
それに似ているとは思っていたが、知り合いの家近くにあると思わなかった。
陸軍に関係のある施設や、鉄道第二連隊の施設とも離れている。
だいぶ削られてはいるが、「陸軍」の文字は確認できる。
遺跡探訪の仲間とライトで照らして影になった「陸軍」の字を確認した。2007.08.18
現在は、ここに私宅が建ち境界標柱も姿を消した。
どこにあるのかは分からない。
博物館とかにいないかなぁ。
それは30年以上前の寒い日のことだった。
ゆきたんくは初めて武蔵野線新松戸駅のホームにいた。
そのホームから目に飛び込んできたのはカタカナ7文字。
「マツモトキヨシ」
現在のマツモトキヨシ新松戸駅前店のことだろう。
駅のホームから大きく見えた人の名前。
何だろうと思っていたら、数年後に全国展開されたドラッグストアに成長した。
テレビでコマーシャルを見ない日はなかった。
かつての勢いはどこへ消えたのだろう。
松本清記念館に立つ碑。 こうして見るとかっこいい。
表側。この辺りの地名「大金平」は松戸市長、松本清氏の直筆。→ Map
松戸に住むものとしては、もう一度盛り上がってほしいと思う。
松戸市で一番大きな石像だ。
近くのお寺は西蓮寺と西願寺。
どちらのお寺に関係があるのだろうか。
道路をはさんで飛び地のような場所にある。
ゆきたんくが知っている限りで松戸市で一番大きな石像である。→ Map
こんな風に写真を撮っておいて、その調査を進めなければいけないのだが・・・
いつも見ていたはず。
そういうものが突如消えたことはないだろうか。
ゆきたんくの住む松戸市は、市役所の近くに京葉ガス㈱がある。
その社屋の前にガス灯があった。
歴史を感じさせるガス灯だった。 → Mapの辺りにあった。
そして今はない。
どこへ行ったのか。
知っている人は知っているだろう。
いつでもそこにあると思って安心してゆきたんくのような者は、ある日突然気づくのである。
さて、松戸市の歴史を語る上で欠かすことのできないのが坂川(さかがわ)である。
かつて治水が上手くいかず、農民たちが苦しんだ水害。
時には、川下と川上の住民の間で殺人事件も起こったくらい申告な問題だったのである。
また流山街道と土手沿いの道の間には、いくつもの「水神宮」があることがそれを物語っているのではないか。
その坂川の流れを改善する過程でできた樋門の1つが赤圦樋門(あかいりひもん)である。
その赤圦とはなんぞや。
赤圦樋門
赤圦橋
樋門全景(江戸川側から) → Map
この辺りにへばりつく水垢が大変赤いことから赤圦との名前が付けられたそうだ。
地域にある名称には、しっかりとした根拠がちゃんとあるのだ。
水戸街道、千住宿から2番目の宿場町が松戸宿だ。
今回はその歴史に触れた話ではない。
この写真を撮ったのは2005年9月4日だ。
ゆきたんくが松戸市に住み始めたのが1993年のことだから12年後のことである。
それも、探していたのではなく偶然目に入ったのである。
この写真は「松戸宿本陣跡地」の碑である。
ここには2004年6月まで本陣の建物があったのだ。
1993年から2000年までの7年間、この本陣から50mしか離れていない場所を毎日通っていたのである。
ここは気づかなかった。 → Map
この隣にある郵便局には何度も足を運んでいたのに気づかないなんて、なんてドジであろうか。
この写真を見る度に反省するゆきたんくである。
今回の投稿をジモティネタにするか、戦争遺跡ネタにするか少し迷った。
まあジモティネタにすることにした。
場所は相模台公園。
その昔「松戸工兵学校」の敷地だった所だ。
陸軍境界標柱という標柱を意識して初めて、発見した標柱がある。
その記念すべき初対面がこれ。
階段を登り切ったところで左右を見る。
何か石のでっぱりがあるな・・・
コンクリート製の石柱。何か字が見える。
泥を落としたらはっきりと「陸軍用」が見えた。その下に「地」がある。→ Map
ゆきたんくの戦争に対する考え方を大きく変えたきっかけになった境界標柱である。
分岐点の標柱である。
また会いに行かねば・・・
松戸市にはいくつかの桜通りがある。
新京成の沿線が有名であるが、今日紹介するのは八ヶ崎付近の「桜通り」である。
あっ、桜通りの紹介文ではないのでここで断っておく。
桜通り。八ヶ崎交差点から八ヶ崎5丁目6番地まで
この桜通りの丁度真ん中付近に民家の庭があって、底に木を剪定したお猿さん(ゆきたんくはそう思っている。)があった。
そして交通事故とゴミ捨ての防止に一役買っていたのである。
この場所に6/8開通で道路ができた。
ゆきたんくは気にいっていた。
この右下部分の道路の起点(終点?)に剪定された木があった。
なんか、残念だなぁ。
松戸市には「21世紀の森と広場」という場所がある。
博物館や、ホールがあるが駐車場は高く、電車だと不便。
あまり行かないな。
一時期、戦跡オタクのゆきたんくは塹壕跡を見に行ったり、周囲の鉄道第二連隊との関連を調べていた。
その調査も終了し、あまり行かなくなった。
子ども達が小さい時には随分とお世話になったのに恩知らずな奴である。
反省。
マスコットの「ドンちゃん」と「グリちゃん」 黄昏時。