ゆきたんくが大学4年の時である。
大好きなさだまさし氏の楽曲で「しあわせについて」という曲を聴いた。
しあわせについて/ひめゆりの塔主題歌
さだ氏らしさが満載の歌で、もうすぐに好きになった。
この歌が、映画「ひめゆりの塔」の主題歌であった。
当時、戦争についは何の興味も持たなかったゆきたんくである。
この10年くらい戦争遺跡に興味を持ち、そしてその歴史的裏付けが大切なことに気づいた。
そしてそれは、後の趣味となる日本各地の旅行とシンクロすることもあった。
今回の沖縄訪問で、絶対に落としてはいけないことに「ひめゆりの塔」があった。
小さな塔だった。
思ったよりも、小さな小さな塔。
終戦直後の物資難な時代に建立された事と、その当時アメリカ軍統治下に建立されたという事情のためだ。
50~60㎝くらいだろうか。
そして、その塔の後ろにはひめゆりを配した戦没者碑が建てられている。
ひめゆりの塔 戦没者碑
この場所は、正式正式名称は「伊原第三外科壕(沖縄陸軍病院第三外科壕跡)」と言う。
今までいくつかの地下壕を見て来ているゆきたんくであるが、それは軍が造った地下壕でコンクリート製の造りであった。
ここ沖縄の壕は鍾乳洞(ガマ)を活用したものが殆どである。
そして戦没者碑の手前の穴を見た。
この中でひめゆり学徒が傷病兵の手当を行っていたのだ。
この項を書いているうちに、自分の勉強不足がだんだん露呈してきた。
ゆきたんくのフェバリット・アーティストのさだまさし氏が歌う「しあわせについて」は映画「ひめゆりの塔(1982)」の主題歌である。
その舞台がここだとばかり思っていた。
それは後のことで、従軍したのは240名。
ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員)は、南風原(はえばる→Map)にある沖縄陸軍病院に「看護要員」として従軍した。
しかしその後激しい戦闘により、日本軍が前田高地附近に撤退した。
戦闘は激しさを増し、その1か月後には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退した。
分散して地下壕に潜んだのだが、この際患者を収容する壕が確保できず、負傷兵は原隊への復帰が命じられ、病院としての機能は失われていたそうだ。
戦局が絶望的になると、学徒隊は解散を命じられた。(看護婦採用試験合格者を除く)。
しかし、行き場はなかった。既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配していた。
また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。
その時に最も被害を受けたのが、この第三外科壕の学徒隊なのだ。
壕にいた96名のうち、87名が死亡した。
ひめゆりの塔がここに建てられたのは、こういう経緯があったのかと推測できる。
しかし、第一外科壕(訪問済)、第二外科壕(未確認)でも、戦闘による死傷者は出ているのだ。
今回同行したY氏により、悲惨な目にあった方々はここの「ひめゆりの塔」ばかりではないことを聞聞いた。
この伊原第三外科壕跡だけに献花することはやめにした。
何度も作られた映画により有名になり、観光地化したことに違和感を覚えたのも確かだ。