伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

義経岩

2008-02-29 20:28:04 | Weblog

 友人3人旅行白川郷ツアーの帰りは富山ルートで帰ることにした。身の丈180cm以上の男の三人旅である。富山の回転すし屋で腹いっぱい食べて3人で5千円行かなかったことに驚いた。そして腹ごなしにドライブ、目的地は義経岩である。

 源義経が奥州へ落ちのびる途中、にわか雨の晴れるのを待ったという岩が写真にあるやつ。地名「雨晴」の由来である。よく旅行誌などで紹介されているが、この岩のどこに雨宿りをする所があるのだろうか。近くの駐車場に車をとめ、義経岩を目指す。道路沿いにあるとばかり思っていたら、道路と義経岩の間に単線の軌道がある。

JR氷見線 写真左側に義経岩がある。

 近くに寄ってみたが、身を隠すところなぞない。まあ、せっかく来た生まれて初めての富山。富山湾の水でも触るかと岩横の階段を降りると澄んだ水が出迎えてくれた。富山は山、陸、海の幸が揃っている県である。その海の幸を育んでいる水はやはり綺麗なのだと思った。

雨晴海岸

 海岸で水に触れ、周囲の良景を撮り、一段落ついた所で後ろを見る。

雨宿りの場所(義経岩の下)

 すると人5人は十分に入れるくらいの広さはある。どうもこれが義経が雨を凌いだ岩下の空間のようだ。帰りに義経岩の前にある説明版に目をやる。すると次のように書いてあった。

「この岩は別の名を、「義経雨はらしの岩」といい文治三年(1187年)な源義経が北陸路を経て、奥州くだりの際ここを通りかかった時、にわか雨にあい、この岩の下に家来ともども、雨宿りをしたという伝説があり・・・」

…この岩の下…というのが、この写真のことだろう。いやいや義経様は様々な所にいらっしゃたようで・・・。

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玉子サンド

2008-02-28 20:47:57 | Weblog
 久しぶりに食い物ネタで。

 ゆきたんくの大好物の一つに玉子サンドがある。
 たまごは卵とも書くが、サンドイッチには玉子という表示が合っている気がする。多分、子供の頃からの好物なので、その頃に書けた漢字は玉子であったからだと思う。

 行き着けの喫茶店で、ウインナーコーヒーを頼み、玉子サンドを注文する。マスターはコーヒーを淹れてくれている。ママは玉子サンドを作ってくれている。

 卵は固ゆで卵、そうハードボイルドである。それを殻を剥いて小さなカップに入れ、マヨネーズを入れてスプーンで和える。卵の白身と黄身の大きさが一様ではないので、卵の味とマヨネーズの味と、合わさった味といろいろと楽しめる。

と、誰も注文をしていないのに、オムレツを作るママ。
そのオムレツがまた美味しそうなのである。
フライパンの上でクルクル回る箸、その下で透明な白身と黄身が固まりながら混ざっていくが、ツヤのあるトロリとした出来具合。
「あぁ~、喰いたい!」声に出さない、叫びをあげるゆきたんく。

ママは、その出来立てのオムレツをなんとスプーンですくってしまったのである。
せっかくの形が崩れるではないか。なんということをするのだ。

そのオムレツの行き先は、バターを塗った食パンである。丁寧に一定の厚さでオムレツをパンに塗り、マヨネーズをかけ、薄く切ったきゅうりを置き、もう一枚のパンを載せる。そして耳を落として皿に盛った。「誰が食べるんだ?」と思っていると、その皿の行き先はゆきたんくではないか。

そう、注文した玉子サンドは、はさんだ玉子がオムレツという品物であった。

普通、玉子サンドというと冷製である。この玉子サンドは温かいのである。そしてトロリとした玉子とマヨネーズのコラボレーション。そう、舌の上でトロケルのである。それをきゅうりのパリッとした感触がしめてくれる。
なんとも官能的な一品なのである。

あぁ、幸せである。

マスター、ごめん忘れてた。ウインナーコーヒーも最高だよ。
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竜宮城

2008-02-27 20:21:29 | Weblog

 山口県の名所秋吉台から更に21km北上すると、仙崎という町に着く。童謡詩人金子みすゞを輩出した町である。女房がファンということで山口県まで来た。泊まった宿が青海島観光ホテル、朝は決まってお散歩である。しかし、行動範囲が広いため、散歩ではなく、散走(さんそう)へ。

 ここ仙崎の町までは、JR山口駅で借りたレンタカー(トレンタ君)で来た。その乗用車に乗っての散走である。仙崎界隈の寺は周るわ、市場へ行くわで30分もすると走りつくしてしまった。ひょいと顔を上げると青海大橋なる橋がある。その時は、地図など持っておらず、事前の予習などもしていない。この橋を渡ると一体どこへ行くのだろうか。橋を渡って道沿いに走っていくと、「大日々夏みかん原樹」や「鯨墓」、そして通小学校(かよいしょうがっこう)で行き止まりであった。朝食の時間も迫っていたので、急いで戻った。女房の「さて、この後どこへ行こうか?」の声に、「この先にいい所があるから行ってみない。」と私。それが青海島だと知ったのは旅行が終わってからだった。

 

大日々夏みかん原樹の下で

 原樹とは、その名の通りで、日本における最初の夏みかんである。18世紀初頭に、山口県長門市の青海島(おうみじま)の海岸で西本於長(にしもとちょう)さんという女の子が、漂着した大きなミカンのような実を拾った。彼女はその実を持ち帰って種をまき、大きな美しい実を実らせたのが夏みかんのはじまり(原樹)である。大日比(おおひび)の海岸に近い西本家邸内に1本だけ残る夏みかんの原樹の下でおばか写真をとるゆきたんくである。恥ずかしい…

鯨 墓

 これみびっくりしたが、山口県のような本州の最南端に位置(緯度的には今住んでいる千葉県とそんなに変わらないか…)する暖かい場所で捕鯨が行われていたという点である。当時の命がけの鯨漁の漁師達は鯨に真摯な思いを持っていたという。そして海を見ずに逝った鯨の胎児を丁重に葬ったのが、この鯨墓である。この写真のメインはくじら墓の説明版と長男のおーちゃんになっている。肝心の墓標は写真左端のゆきたんくの影にその大部分が隠れている。(ちゃんと写真を撮れば良かった。)

 その他くじら資料館、早川家住宅(外観のみ)、波の橋立(日本三景、京都の天橋立の1/3の大きさ)など見所は結構あった。島の裏側に奇岩ギャラリーがあるというが、そちらは行かなかった。

そして仙崎に戻る前に、橋の手前にあった公園で一休みした。王子山公園である。何気なく仙崎の町をフレームに入れ、シャッターを押した。それが、最初の写真である。小学校高学年の国語の教科書を見る機会があったが、それにまったく同じ写真が載っていたのである。童謡詩人金子みすゞを題材にした学習内容であった。仙崎の町を愛したみすゞは、この風景を見て、竜宮城と言ったそうである。

 浦島太郎の物語について思いを馳せた訳ではなく、「絵にもかけないほど美しい」ことを言いたかったのだと思う。今度は、晴れの日に、この風景を撮りたい。

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津軽海峡

2008-02-26 23:51:37 | Weblog

 津軽海峡と言えば、青森県と北海道の境目にある海峡である。その青森県側の突端の一つが竜飛崎である。竜飛崎の辺りの海はいつも渦が巻いており、難所の一つとして認識されているそうだ。写真の一つ一つの渦は小さくも感じるが、距離が離れているのでそう見えるのに過ぎない。

 近くには白亜の燈台と言うと格好が良いが、小ぶりのかわいい燈台が建っている。「竜飛崎燈台」である。日本で有人の燈台が、この竜飛崎燈台ともう一つあるいうが、今でもそうなのだろうか。

竜飛崎燈台

 1932年7月1日からずっと津軽海峡を見守っている竜飛崎燈台だが、メンテナンスが行き届いているのだろう。とても綺麗である。

 このような場所は、戦争時に敵国からの防衛の要になることがあった。この燈台の周囲に残る戦争遺跡がそれを物語っている。

竜飛崎望楼跡

 

 左と写真はゆきたんく撮影、右写真は「ようこそ要塞探訪へ」管理人のMKNJ様よりいただいた。

 竜飛崎望楼跡と、撤去される前の望楼の写真である。日清戦争直前当時、勅令第七十七号により、「海岸望楼条例」が公布され、全国海岸の要所に望楼を設置し、沿岸監視態勢がとられた。望楼は、陸上と艦船との信号、海上監視、気象観測などを担当した。後に海岸望楼は海軍望楼となった。(MKNJ様のサイトより)

 この場所は中国からも旧ロシアからも近いので、重要な地点だったかもしれない。

その様子を燈台はずっと見守っていたのだと思う。

 

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日本人に欠かせない醤油

2008-02-25 23:24:00 | Weblog

キッコーマン野田工場

 ゆきたんくが住んでいる千葉県東葛飾地方には素晴らしい地場産業がある。野田市の醤油づくりだ。キッコーマンの大きな工場もある。

 ここ野田市は醤油の町と言って過言ではない。訪れる時期にもよるが、自動車から降りたら、醤油の香りがすることもあるのだ。

 ある時、この工場内にある「ものしり醤油館」行ったことがあった。工場の遠隔や歴史、そして何よりも醤油の製造過程を惜しみなく解説してある。野田市は水運に恵まれ、原材料の大豆、塩が容易に手に入る。適度な湿気と気温があるので、発酵食品にとっては発酵しやすい。そこに麹を加えれば、醤油はできるのである。もっとも野田市で最初に醤油を作ったのは飯田市郎兵衛で飯田家亀屋蔵が醸造場であった。

野田醤油発祥の地

由 緒

 醤油の歴史については考えたことがなかったが、この碑を見ると、なんと室町時代に創業のようである。一種の食文化と伝承されたきた醤油が、野田市のような地でなくては造れないのは確かなようである。

 また特別な醤油として造られて場所がある。江戸川沿いにある城のような建物がその醸造所である。

昔の醸造所

 ここでできた醤油はたいそう旨いらしい。一般家庭には味わうことのできない旨さで、なんと宮内庁後用達のようである。一度でいいから、味わってみたいものである。

 

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改革の痛み

2008-02-24 23:00:02 | Weblog

 写真に写っている風光明媚な場所は、今はなき行川(なめがわ)アイランドの近くにある。行川アイランド駅から100mほどの所にある「おせんころがし」である。

 そこには地蔵尊があって、そばに説明版がある。そこには

 高さ20メートル、幅4キロメートルにもおよぶこの「おせんころがし」には、いくつかの悲話が残されています。豪族の一人娘お仙は日ごろから年貢に苦しむ領民に心痛め、強欲な父を見かねて説得しましたが聞き入れてくれません。ある日のこと、領民が父の殺害を計画し機会をうかがっているのを知ったお仙ーは、自ら父の身代わりとなり領民に断崖から夜の海へ投げこまれてしまいました。領民たちは、それが身代わりのお仙であったことを翌朝まで知りませんでした。悲嘆にくれる領民たちは、わびを入れ、ここに地蔵尊を建てて供養しました。さすがの父も心を入れかえたということです。

と記されている。

おせんころがしの地蔵尊

 痛みを伴わない改革はないなんて聞くことがある。それを言う人で、その痛みが分っている人ってどれくらいいるのだろうか。この「おせんころがし」まつわる秘話というのはまだまだ数パターンあるのだという。そもそもゆきたんくが、ここ「おせんころがし」に寄ったのはまったくの偶然であった。実は和田町にある、義理の兄貴の会社の別荘に旅行に出かけていて、旅行につき物の朝の散歩の延長であった。(車だから散歩じゃなくて散走ね)、海岸線を和田町からどんどん上がり、行川まで来てしまったのである。ふと見たときに「おせんころがし」の表示が目に入り、この写真の所まで来たという訳だ。その時に旅の本(絶版になったのでしょうかじゃぱん)に「おせんころがし」のことが出ていたのである。ここに載せた(茶字の部分)とは違ったストーリーが載っていた。

おせんころがしから見た海岸線

 いずれにしても共通しているのは、自己犠牲の精神の元、父と領民の両者の融和を図った点である。お仙の目指していたのは、父を大切にしたいということと、領民が苦しまないことであった。父が殺されるかもしれないということで自分が身代わりになり、それが領民の心を打ち、父を改心させ、領民との間を取り持った形になっている。様々なパターンの話があるので、もしかしたら作り話かもしれないが、この話が地域の和平を側面から支えいていたような気がしてならない。

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曰くつき

2008-02-23 23:52:57 | Weblog

日光東照宮・一ノ鳥居

 名所と言われる所には、ワンポイントとして曰くつきの場所があるものだと思う。「じゃあ、言ってみろよ!」と言われてすぐに出てこないほど、頭の引き出しはガタツイテきている。

 ストーンヘンジとウッドヘンジ、頭塔とボロブドゥールなど歴史上でつながるものだとカッコ良いのだが、今回は寄せ集めということでご勘弁願いたいと思っていたらつながりがありました。

 日本の誇る世界遺産の一つに日光の社寺がある。その一つ東照宮の一ノ鳥居の前に石段がある。その十段目の真ん中にある「照降の石(てりふりのいし)」は一つの石がツートンカラーという不思議な石である。この二色の違いが強まると翌日天気が崩れるそうだ。  

照降…てりふり…の石(栃木県日光市)

 一方、ゆきたんくの住む千葉県の市川市には弘法寺(ぐほうじ)という日蓮宗の寺がある。時代劇の撮影に使われることもあるそうだ。その境内に上がる石段の途中に「涙石(なみだいし)」という石がある。弘法寺のホームページによると

弘法寺の石段(千葉県市川市)

涙石

 江戸時代、作事奉行であった鈴木修理長頼は、日光東照宮の造営のために使う石材を伊豆から海を越え江戸川を通って運ぶ途中、市川の根本付近にさしかかったとき、どうしたことか船が全く動かなくなってしまった。 そこで長頼は、近くの弘法寺に仏縁あり、と思い、石を国府台のふもとに降ろし、当山の石段に使用してしまった。 長頼は幕府から責任を問われ、涙ながらに当山の石段にて割腹して果てた。それからというもの、石段の一つはいつも濡れており、これはこの時に流した長頼の血と涙である、という伝承が残っている。

とある。ということは、どちらの石も東照宮の造営のための石材であったのだ。一つは日光に、一つは市川にということだが、曰くつきの濡れ石であるようだ。 

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2008-02-22 23:14:10 | Weblog

昆明湖

 身分とか力とか、日本人にはあまり理解できない領域ではある。かつての士農工商の影響が今の自分にあるとも思えない。少し乱暴な言い方になってしまったが、地域によってはその時の問題が解決していないところもあると聞く。  今の政治に対して、文句があってもどうやって伝えればよいのか、そういう教育は実施してはいない。世界中から見ても大人しいと映るのではないだろうか。 かつて中国には清という絶大な権力を誇った王朝があった。その皇帝は、中国全土を支配するというのだ。

故宮の午門

 その象徴の紫禁城(故宮博物院)などは、映画ラストエンペラーや北京への旅行で見ることができる。その壮大さにびっくりするとともに、何代にも渡ってその権力を維持したことに驚いた。権力を立ち上げることは大変なことだが、維持することはもっと大変である。考え方の違う家臣や、下克上を狙うもの、一枚岩になることの難しさというのは、小さな組織であっても存在するものだからだ。  もっとびっくりしたのは、古くからの王室・皇帝の遊楽地の頤和園(いわえん)でのことである。頤和園の中には敷地の3/4を占める昆明湖という大きな湖がある。

頤和園の仁寿殿の前で

 1860年英仏連合軍によりほとんどが破壊されてしまったが、この公園がお気に入りだった西太后は、1880年軍費を流用して修復した。こんなことが許されるのか。そんな訳はなく、その後西太后の晩年には清朝は衰退し、時の皇帝溥儀はラストエンペラーになってしまった。その大きな湖が人口湖だと知った時には、国のことを考えず、自分の贅沢のために人を馬車馬のように働かせしまうことができる人間がいることに憤りを感じた。

 力というものは正しい方向に向けて使わなければ、やがて自らを滅ぼしてしまうものであることは今までの歴史の中でいくつも事例があるはずである。もっとも、近代史は最低60年経たないとその正しい評価が出ないから、今現在の状態については自分の死後何十年か経て分るものである。清王朝を引き合いに出して屁理屈を述べたが、今の自分に満足していない自分がいることを認識した次第である。

失礼いたしました。はい。

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自分にとって…

2008-02-21 23:23:46 | Weblog

 イギリスにソールズベリという街がある。

 そこにはイングランドで一番高い尖塔を持つ大聖堂がある。

 名前は「ソールズベリ大聖堂」。少しでも神に近づきたいために建築当初の建物に後から尖塔がつけられたという。

 しかし、ここソールズベリは大聖堂よりも有名な世界遺産「ストーンヘンジ」があるのだ。

ストーンヘンジ

 世界の七不思議の一つに数えられているストーンヘンジには観光客は多いが、ここソールズベリ大聖堂には珍しく日本人がいなかった、というよりも自分を含むグループだけであった。荘厳な雰囲気を持った大聖堂なのでここまで来て、これを見ないことにはもったいないと思うので、ご旅行の際は寄られてみると良いと思う。

 

 また、ここが他の寺院などと決定的に違うのは、大聖堂の建物の周囲が芝で囲まれて、綺麗な芝があるのだ。とてもきれいな目に優しいグリーンの中に大聖堂は映えるのである。

建物を囲む芝の緑が美しい

また中庭もあり、そこも綺麗なグリーンなのだ。この中庭で特に印象に残っていることがある。中庭に2本の樹木があるのだが、その葉の影が中庭の殆どを覆ってしまうほどなのである。「この木、何の木、気になる木」なんてコマーシャルがあったが、そこに出てくる木の様であった。

 

大聖堂中庭

 

大聖堂中庭通路

 大聖堂の中庭に面している通路である。何か祭典をする時にはギャラリーになるような造りである。

ウッドヘンジ

 上記のストーンヘンジから3kmほどいくとウッドヘンジがある。こちらはあまり有名ではないが、ストーンヘンジよりも前の時代に祭事に使用されていたものの遺跡である。朽ちてしまった木の代わりに、コンクリートポッドが埋めてある。

 有名ではなくても、自分にとっての見所であれば、それはそれで立派な思い出になると思うのだ。そういう思いで物を見れば、貴重なものはいくらでもあると思う。

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かつて

2008-02-20 22:54:20 | Weblog

 太陽の輝く青空に、工場の煙突のシルエットが不自然である。

 ここはかつて銅の生産量の日本で4番目の産出を誇る、栃木県は足尾銅山近くにある本山精錬場である。もう今は稼動していない。そして廃墟化している。

北から

 職場の仕事の関係で、この川沿いの施設の上流にある銅(あかがね)親水公園に取材に出かけた帰りに、車を止めて撮影したものである。

 親水公園に向かって車を走らせている時に、最初に目に飛び込んできたのは、巨大な煙突であった。そしてその周囲に施設のようなものがあることにも気づいていたので帰りの取材が楽しみになった。また、そこが現在は稼動してないことも知らないゆきたんくであった。

北東から

 豪快な音がしたが、煙突の右下の崖から排水されている。まるでまだ、ここが生きているかのような錯覚を起こさせるのに十分なものであった。

東から

 中央の白い建物に、足尾精錬の文字を見て取れる。まだ自分が稼動しているかを主張しているように。

現在の「わたらせ渓谷鉄道」の終点は間道(まとう)駅が終点である。

線路はその先にも伸びていて、現古河鉱業の再び開くことのないこの扉の前で本当の終点となる。もうここを走る列車はない。しかし、地図上にも旧精錬所の名前で乗っているし、近くには鉱山への抗入り口がたくさんあいている。

 かつて鉱毒事件に悩みながらも、潤った足尾の町。今の姿とどちらが良いのだろうか。

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リージェント・ストリート

2008-02-19 23:59:11 | Weblog

 イギリスはロンドンにリージェントストリートという通りがある。

  大きく弧を描いて、同じ高さ・同じ色合いの建物がきれいに並んでいる通りである。その景色はそれだけで芸術品のような趣がある。

  残念だったのは、訪れた時が丁度熱波が来ているときで気温は38℃を超えており、とてもゆっくりと歩ける状態ではなかったことだ。 この暑さのため、食べ物をお土産にするのはあきらめた。

 驚いてしまったのは、この通りにあるスターバックスに寄った時に、氷が作れないから(暑さで製氷機が働かない)飲み物を提供できないということだった。

  それでもせっかく来たのだから、所々要所を押さえておかねばと思った。

 

ピカデリー・サーカス

エロスの像で有名

 待ち合わせの場所のメッカでもある。

 

ヴァージン・メガ・ストアー

売っていました、Mike Oldfield

 ヴァッキンガム宮殿

リージェント・ストリートのヴァージンメガストアーと

アーチ部分の構造が非常によく似ている。

  

昼食クルクル寿司

 久しぶりの日本食。やっぱり寿司じゃ 回転寿司KULUKULU

鮭の油の乗りが、少しきつかったと思う。

でもうまかった。

 

 ロンドン三越地下

ここで久しぶりに日本語を聞いた

「いらっしゃいませ~」

そして冷房がガンガン効いていた。

他のデパートでは、扇風機は回っているものの、送られてくるのは熱風ばかりであった。ここでしばらくまどろんでしまったが、体力の回復を図ることができた。

 今度ここを訪れる機会があったら、涼しい風が吹く中で景色を楽しみたいと思う。

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鉄牛

2008-02-18 23:40:29 | Weblog

椿の海の写真

鉄牛(てつぎゅう)

 最初に聞いた時は、そりゃなんてぇ食い物だと思ったゆきたんくである。

 今でこそ日本人が当たり前のように飲んでいるウーロン茶のことでこんな思い出がある。ウーロン茶の最高級品種に「鉄観音」というのがある。

母とデパートへ行った時に、ウーロン茶を買った。包装箱には「鉄観音入り」と書いてある。昔よく食べたコーンフレークと同じくらいのサイズの箱であった。

 当時コーンフレークのおまけにはプラスチックでできた小さなキャラクターがついていた。そのおまけは、なんとフレークと一緒にアルミ包装の袋の中に入っていた。  

 さあ、当時小学校4年生くらいのゆきたんくが何をしたか気がついたであろう。そう、「鉄観音入り」と記してあったので袋の口を開け、中を指でまさぐって中に入っているであろう、「鉄観音」という観音様のキャラクターを探したのである。当然見つかるわけはない。そうしてガサガサやっているところを母親に見つかってしまったのである。必死で言い訳を探した。そして「母さん、これ不良品だよ。鉄観音入りって書いてあるけれど、何も入っていなかったよ。ひどいねぇー。」ひどいのはお前(ゆきたんく)である。「振ってみてお茶の音しかしなかったので、中を開けて調べてたんだよ。」(お茶の音しかしないはずである。幼稚ないい訳だ)  それを聞いて母は、「あのねえ、鉄観音というのはお茶の種類のことなの。それに、箱から袋を出す必要なんてないじゃないの。」とその後はあきれ返られた。 そうして鉄と名前の着く物と口に入れる物との関連性が勝手に頭の中にできあがってしまったのである。 鉄牛(てつぎゅう)と聞いて、なるほどと思ったゆきたんくである。鉄板で牛肉を焼いて食べることをいうのだと。その時小学校5年生。

 しばらくして、それがお寺の和尚さんの名前だと知り、自分の馬鹿さ加減を知った次第である。

 かつて千葉県には東庄町、干潟町(現旭氏)、海上町(現旭市)、八日市場市(現匝瑳市)と1市3町に跨る大きな低湿地帯があった。名前を「椿の海」という。この椿の海を32年かけて干拓し、18村の形成、三寺・三社を勧請して建立した偉大な人物の名前が鉄牛であったのだ。そして椿の海は良田に生まれ変わり、干潟8万石といわれる穀物地帯に生まれ変わったそうだ。

 

 そしてその偉大な功績に対して寄進されたのが福聚寺(ふくしゅうじ…千葉県東庄町)である。

境内の祠の中には、2mにもおよび丈の石塔がある。

 

鉄牛和尚の墓

その祠の手前の両脇には石柱があり、

 

左には 「鉄牛道機老大和尚墓所」

   右には「干潟八万石開拓功労者」と彫ってある。

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インパクト

2008-02-17 22:55:43 | Weblog

 いきなりですが何の写真だと思います ?

第13世将棋名人、関根金次郎氏の墓にある記念碑である。

そう、記念碑の形がが将棋の駒になっているのだ。

いやぁ、分かりやすいしインパクトがあるなあと思う。

10年ほど前に、山形県の天童市に所用で出かけた時に、町中いたるところにで将棋の駒があり、さすが駒作りの町と感心したが、その時以上の衝撃だった。

ゆきたんくは将棋はやらないので、詳しいことは分らないが、名人の坂田三吉の名前くらいは知っている。将史最強の名人と聞いている。

関根金次郎氏は坂田三吉氏とライバル関係にあったと言われているそうだ。

初手合わせは三度戦って関根の2勝1敗。最後の対局(1918年大正7年))までに生涯32局戦い、関根の15勝16敗1分だった。 53歳(1921年(大正10年))で、13世名人の位に就く。

殆ど五分の戦いといえよう。それだけ強かったことが分る。

この記念碑のあるのは、野田市(旧関宿町)の共同墓地の中である。

そしてその向かいには、日枝神社があり、関根金次郎氏が奉納したことを示す石碑があったり、鳥居の柱には建立年月日と関根新次郎氏の名前が彫ってある。

ふるさと関宿に生きた人であった。

東宝珠花共同墓地

将棋が好きな方、興味のある方は、実際に見に行かれるとよいと思います。

上の「東宝珠花共同墓地」をクリックするとマップが見られます。

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新撰組陣屋跡

2008-02-16 23:47:15 | Weblog

 

その昔、幕末の動乱の中を、駆け抜けていった新撰組という一団がいた。 何かっこつけてんだ、俺?

 幕末の一時期、慶応4年(1868)正月鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸へ戻った。 そして組の建て直しを図るべく、酒造家長岡屋の日増しに集まる隊士のために諸家に分宿したという。近藤勇はこの時すでに時勢の流れを見極め、これ以上官軍と戦うことは徳川慶喜公の志にそむき、また、流山に兵火をあげることは町の人々を苦しめることになると考えた。 そして、諸人を救い、自分一人死んでも恨みはないと決意をかためたという。幕末史に大きな波乱を残した近藤勇は板橋に護送された。近藤の処置については、官軍の中でも賛否両論で紛糾したが、ついに3週間後の4月25日板橋の霧と消えた。時に近藤勇35歳の若さであった。

この茶色の文字の部分が晩年の近藤勇の大まかなストーリーである。

ゆきたんくの住む松戸市の隣、流山市にある陣屋跡は何回も見ている。

しかし、NHKの放映が始まると、掲示物が新しくなったり、かび臭かったサイン帳も真新しいのにかわっていた。

新しいもの

 

古いもの

 何のことない、町並みの一角にこういうところがあるというのはまことに興味深いものである。仮に近藤勇が、手段を選ばない人であったならば流山市の住民はこのような形で残さないであろう。

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やよい食堂

2008-02-15 23:59:07 | Weblog

 胃袋で格闘技をさせたら負けなかった時代があった。もちろん、今から25年以上前の大学生の時のことである。当時は大食い番組などなく、自分以上に食べる奴なんて滅多にいなかったのでそう思ったのだ。

 ところで、千葉県野田市にある「やよい食堂」という、外見(上写真)はなんてこない食堂がある。しかし、ここは知る人ぞ知る爆盛りの店なのである。いいですか?大盛りではありませんよ。「爆盛り」ですよ。

  最近では長州小力が9kgのオムライスに挑戦して敗れ去っている。 噂には聞いていたので、ゆきたんくは「カレーライス」の普通盛りを注文した。普通盛り550円。これならば大したことないだろうと思ったが、出てきたのがこれである。

やよい食堂「カレーライス普通盛り」

 お盆に載ったお皿の上に、ご飯や付け合せの福神漬けが見えないくらいたっぷりとかけられたカレーソース。玉ねぎたっぷりのちょっと甘みのある逸品である。あまりにもルーを多くかけるのでお盆の上にもこぼれているのである。ここの客は、カレーをきれいに食べた後、お盆に残ったカレーをすくって食べるのである。

 このカレーが出てきた時に店員さんに言ってしまった。「すみません、普通盛りを頼んだんですけれど…」と。

店員さんの口からは「あっ、これは普通盛りなんです。」という言葉が出てきた。普通の店のカレーライス普通盛りの3倍から4倍は量がある。周囲では、カツカレーの大盛りを頼んでもりもりと食べている人もいる。店内に掲示してある本の切り抜きによるとカツカレー大盛りは2.8キログラムだそうだ。苦もなくいとも簡単に平らげて店を出て行く。「こりゃあ、すげぇ店にきてしまったな」と思っている時にオムライスの到着である。

やよい食堂オムライスである

 おいししそうなオムライスがたっぷり、そしてスパゲティ・ナポリタンがそれだけで1人前の量、キャベツの千切りがたくさんである。中に入っているチキンライスの量も四合から五合はある。まさに爆盛りである。

 そして肝心の味は・・・・・・・おいしいのである。

住所:野田市中野台351
TEL:0471-22-3791
営業時間:10:30~15:00 17:00~19:00
定休日:金曜日

ぜひ一度試していただきたい。

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