大煙突メモリアルだ。
建設初期の頃の足場。
大きな煙突であることが分かる。
本当に実物を見たかったなあ。
さて,帰宅だ。
いつもの帰り道。
友人宅近くの〇〇酒保に寄るゆきたんく。
そして買ったドリンクはこれ。
「体のことを考えてるな。」
と思ってくれた方は,ありがとう。
いかにも健康そうなほうじ茶。
体のことを考えて,節制する偉いゆきたんくである。
と言えば聞こえは良いのだろうが・・・
ゆきたんくはカルピスソーダを飲みたかったのである。
寒くて方が上がらなかったからなのか,一つ下のボタンを押してしまったのだな。
まあ,美味しくいただいたのでよし。
ばらばらと・・・
いや,今までの日鉱記念館に係る投稿では様々なパーツが散らかっていたような気がする。
一番最初に記事にすれば良かったなという写真が撮ってあったことに気付いた。
それは,この写真である。
セットメニュー
今まで書いてきたものが,一緒に詰まっている写真だ。
これは,大雄院精錬所の全景である。
煙害対策として建築された「神峰煙道」,「八角煙突」,「ダルマ煙突(阿保煙突)」,「大煙突(建設中)」が写っている。
1914(大正3)年の風景だ。
何と,神峰煙道,八角煙突,そしてアホ煙突から煙が出ているように見える。
大煙突が建設中ということは,すでにそれまでの施設が役に立っていないことが分かっていてのことと思う。
近代史の資料としても,大変貴重なものである。
日本鉱業は,海外自主開発に挑んでいる。
ここに来て初めて得られた情報である。
日鉱の歴史を辿っていたら,突然展示の内容が変わった。
順路で回っていなかったのかもしれない。
基礎物資の開発のため・・・昭和40年代から海外に進出していたんだ・・・
そして上写真右のアブダビの油田の写真を見て検証してみた。
ドイツに行った時にトランジットでアブダビ国際空港に寄ったことを思い出したからだ。
空港から近いのかな・・・
グーグルさんでググル。
おお・・・
アブダビ国際空港(右側矢印)と油田(左側矢印)ね。
さて,少し大きいやつ。
先っちょに焦点をあてて。
角度を変えてみました。
造られた当時は油田と油田をつなぐ通路なんかなかったんだね。
こうやって一つ一つ検証できると楽しいな。
日立の山中にどのように坑道を造ったのか。
その様子を知ることができる資料があった。
坑道と鉱床の透視模型である。
いやぁ,凄いなぁ。
この細い線が坑道である。
最初見た時には,何か鉱石の結晶模型なのかと思った。
この細い線が坑道で,この中を人が通っているとは思わなかったのだ。
近寄ってみると・・・
坑道の中に竪坑(入四間竪抗)がある。
入四間というのは町の名前だった。
町の広さを超える範囲で坑道は掘られていたことが分かる。
竪抗と坑道の関係はこの模型で分かる。
坑道はこのように木で補強されていた。
全坑道がこのような造りであれば,木がどれだけ必要なのか。
まあ70年を超える歴史の中で,少しずつ坑道が伸びて行ったことは分かる。
1本1本の坑道に,このようにミスの許されない工夫を凝らす素晴らしさ。
日鉱記念館に来てよかった。
いつも出勤時にY氏の自宅の近くを通る。
その傍に駐車場があり,彼の車が停めてある。
今日は日曜日だが,どうしてもやらなければならない仕事があった。
そして彼の車のフロントガラス際に飲み物を置いた。
メールを打っておけば,毒入りの不審物でないことは伝わるだろう。
メールを打っている最中に写真が届いた。
Y氏が後ろから写真を撮っていた(笑)
不審物(者)は自分だったのである(笑)
今日は悪友が連れ出してくれた。
休日はけっこう家に引きこもっているゆきたんくである。
Y氏「何か,ミニ戦跡めぐりしない?」
ゆきたんく「はーい。計画します。」
てな感じで,ミニ戦跡巡り「習志野編」を敢行した。
ドライバーは性格と足の悪いゆきたんくの代わりにY氏がしてくれる。
そしてそのコースに,行きたかった店を加えた。
かつてゆきたんくの職場の近くにあった「好(コオ)」というラーメン屋さんである。
旭川らーめんは旨い。 → Map
習志野に移転して18年になる。
その間(かん),何回か訪れたがいずれもふられていた。
今日念願かなって,そこの旭川ラーメンを食すことができた。
マスターもお歳を召されて64歳。
ゆきたんく30代,マスター40代以来のご対面である。
当時の話をしながらラーメンをいだたく。
残念ながら「塩」は売り切れ。 海老醤油をいただく。旨い!
やっばり,旨い。
「また来るね!」
久しぶりに女房とランチ。
昼頃仕事が終わるというのでむかえに行った。
なにか,株主優待券というので食事ができるらしい。
そう,女房のおごりでガストへ行く。
ゆきたんくは男だ。
遠慮なくいただく。
肉盛りワイルドプレート
大満足なゆきたんである。
のりたん,ご馳走様。
いや,久しぶりに長男が来た。
のりたんの実家が引っ越すので,いろいろ運ぶために車を出してくれたのである。
ゆきたんくが帰宅した時には,ごろごろしていた。
次男も仕事疲れで食後にごろっ・・・
おーちゃん と つっくん
次男は飯後で眠いかな。
長男は栄養ドリンクを飲んで横になっている。
だんだんおっさんになってきたな。
しかしな,テーブルの上が・・・
久原氏の考え。
「自山の鉱量に制約されない急速な生産の拡大が出来れば,市場の変動に応じた弾力的コスト低減が可能になり,大規模経営と躍進できる。」
そして「買鉱精錬」を他社に先がけて,積極的に展開した。
自山の鉱量に合わせて,東北・関東・中部地方の中小鉱山から鉱石を買い入れて,日立で精錬したのである。
その舞台となったのが,写真の大雄院精錬所である。
大雄院精錬所
これにより,わずか2年で小阪,足尾,別子に次ぐ全国4位の鉱山となった。
これだけではなく,久原の人徳や時代背景がも発展の要因ではあった。
日立鉱山の誕生は1905(明治38)年だ。
久原氏は赤沢銅山を大橋真六氏から買受け,地名にちなんで「日立鉱山」の名前で開業したのだ。
これまで,農漁村であった日立地区の人口は増加し,1907年から1925年の18年間で5倍強(5975人→38914人)となった。
そして開業2か月後には,開削を始める。
第一竪抗を開削し,1924年に地下550m,1933年には600mに達した。
その間の1929年に櫓が木造から鉄骨に改造されたのである。
初期の木造櫓。
さて,月曜日だ。
気持ちに鞭打って頑張った今日。
帰り道に,自分のご褒美をあげた。
友人の名前を冠した酒保で,最高値の飲み物を買ったのだ。
サントリー・ピーク
天然水だ。
サントリー天然水で造ったビーカーだ。
正式名称「サントリー 南アルプス PEAKER(ピーカー) ビターエナジー」
ビターというのが大人っぽい響きに聞こえたゆきたんくである。
秋川高等学校の聖水ドクペ(ドクターペッパー)も捨てがたいが,
帰り道,友人宅近くの酒保では手に入らない。
「サントリー天然水」ブランドとアウトドアメーカーの「スノーピーク」の共同開発飲料の第4弾が「サントリー 南アルプス PEAKER(ピーカー) ビターエナジー」なのである。
で,味は・・・
ゆうじんと初めて田中さんちに行った。
うん,食事である。
田中さんちには厳しいルールがあると聞いた。
田中さんちのおてもと。
ソースの二度付けは禁止だということだ。
せっかくの串カツなのに,濃い味が楽しめないなんて・・・
これが,噂のソースだ。
そう,10本も食べたかな。
気を遣うと,腹がふくれないよな・・・
てなわけで,唐揚げ定食も頼みました。
今日はのりたんが出張から帰ってくる。
ゆきたんくは当然迎えに行く。
いつもと違う駅に迎えに行く。
新松戸駅前は狭くて,車を停めるスペースがない。
ぐぐるまっぷさんの画面で現在地を知らせる。
iPhoneの画面を写真にとって,lineで送ったのだ。
ここにいるよ。
いやあ,10年前には考えられなかったことがすぐできるんだね。
ホールに入ってすぐのところに,久原房之助氏のモニュメントがある。
久原房之助氏の像
現在のJX金属グループの大本が,久原房之助氏が1905年に日立鉱山を開業して始まったのだ。
日立鉱山を開業して、わずか数年で日本有数の銅山に成長させたのだ。
先に挙げた煙害との闘いもそこにあった。
1912年(大正元年)、久原鉱業を設立、「日産コンツェルン」形成の基盤を作った。その間(かん),久原鉱業は非鉄金属業界のトップ企業になり,国内外の事業を拡大した。
その後,政界に転じ、逓信大臣、立憲政友会総裁などを歴任した。
戦後は日中・日ソの国交回復に尽力した人物だったのである。
久原房之助氏略歴