伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

別れ…

2008-01-31 19:42:47 | 

別れというといろいろとあるが、今回の旅行で義兄夫婦には大変世話になった。正月休暇のほとんどをゆきたんくのために使ってくれたのである。まして、運転手つきで居住地・勤務地のインドネシアの首都ジャカルタと、義姉の故郷であり、世界遺産のあるジョグジャカルタを案内してくれた。

助手席で写真撮り放題

前にも記したが、「地球の歩き方」に乗っていない所へもたくさん連れて行ってくれた。ある意味大変贅沢な旅をしたのである。

タマン・サリからクラトンへ抜ける道

女の子がお菓子を買っている。

 

義兄のこだわりは、ホテルはサービスの良い高級ホテルである。前にシンガポールへ行った時にも、最高級のリッツ・カールトン・ミレニアを予約しておいてくれた。

今回もジャカルタ、そしてジョグジャカルタでも上位のホテルであった。旅の疲れも感じず快適だったのはそのためもあるだろう。何よりも日本でしていた耳鳴りが止んでいたのである。

インターコンチネンタル・ミッドプラザホテル

ジャカルタ

 

ハイヤットリージェンシー

ジョグジャカルタ

そしてジャワ島の誇る世界遺産の「ボロブドゥール遺跡群」と「プランバナン寺院遺跡群」。

ボロブドゥール

 

プランバナン

ジャカルタ市内の北部・中央・南部の有名所を隈なく回ってくれたのだ。もちろん、その中には義兄が初めての場所もあった。「カフェ・バタビア」はその一つである。

カフェ・バタビア

 7泊8日も日本を離れたのは初めてであるし、大体3~4日するとお茶漬けが恋しくなるゆきたんくが、今回の旅を満喫できたのはインドネシアの良いところを義兄夫婦が教えてくれたからだろう。 最後の日、空港に入る時に送ってくれた義兄がゆきたんく親子と別れる際に、いつまでも大きく手を振りながら、私たちの移動とともにガラス窓のなくなるところまでついてきてくれたのが嬉しくもあり、別れがたくもあり、何か寂しい思いをした。いつもだとジワッときて、寂しさに浸るゆきたんくであるが、長男のおーちゃが一緒だったのでそれは我慢した。 今度はいつ会えるのだろうか?普段はそんなことを考えることはないのだが別れとは心のどこかに穴を空けてしまうものなのだとあらためて思った。義兄夫婦に感謝している。

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生活って・・・

2008-01-30 19:11:11 | 

今回のインドネシアの旅で多く目にしたのが、物売りである。景勝地の入場口付近には売店が軒を連ねているが、その間を物を持って歩いている者がいる。

ボロブドゥール駐車場前の売店

 

黄色と緑のテントがあるところがボロブドゥールの入場口

両手にたくさんの現地みやげのようなものを持って近づいてくる。「安いよ、30万ね。」30万というのは30万ルフィアのことである。日本円にして2500円くらいである。「いらない」というとどんどん下げてくる。あっというまに半額になり、時には1/10くらいになる。(景勝地の入場料は外国人料金があって、地元の人の10倍の値段になる。)

目が合った瞬間に近づいてきた売り子

(黄色シャツとジーンズ)

買ってあげてもよいのだが相場をはっきりと知らなかったので無視することにした。でも商魂はすごい、いくらでもねばるし、ついてこれるところはどこまでもついてくる。不思議だったのは、一人がついている時には他の売人は来なかったのである。仁義のようなものがあるのかもしれない。

 そして泡を食ったのがプランバナンの出口だ。すぐそこに出口があるはずなのになかなか出ることができないのである。なぜって?売店のラビリンス状態であったのだ。

売店のラビリンス(プランバナン)

どこを歩いても売店、ちょっと広いところに出てみるとその広場は売店で囲まれている。売店と売店の間の細い通路を抜けるとまた売店。そんなことをしているうちに売り子は近づいてくる。そして日本語は堪能なのである。「おにいさん、おにいさん、安いよ。この笛」と言いながら耳元で「ヒューヒューポーポー」と鳴らすのである。日本語だとやばいと思い「No thank you.」と言っても日本語で追いかけてくる。「これ見て、すごいよ。」「いい音するよ」「こっち、こっち」ほんとに流暢な日本語で、こちらがいくら英語だけを使っても発音が幼稚なのでばれてしまっているのだと思った。

ところが、実際には英語も分からないので、見た目が完全に日本人のゆきたんくは日本語で断っていると思われたらしいのだ。そりゃあついてくるよね。

最初の写真にあるのは帰りに駐車場近くで見た初老のおばさんである。申し訳なかったが、目が合わないうちに車に乗り込んだ。おばさんは売店の間を駐車場に戻ってくる観光客がお目当てらしい。ここに写真はないが、昼食をとっている時にも物売りや物乞いの人は来た。ボロブドゥールのストゥパを模った置物を1個だけ持って一一生懸命話しかけてくる10歳くらいの子、2人組の8歳くらいの子供たち、靴磨きをするという。そしてワカメのようにぼろぼろの着物をまとった老婆である。右手を差し出してウーウー言葉にならない声を出している。インドネシア人の義姉もいたが取り合わなかった。「かわいそうだと思うけれど、ここであげたらみんな来てしまうからね。」ところが喉に腫瘍の塊があるのだろう。おおきなこぶをつけた老婆が日用品を売りに来た時には、買ってあげたのである。ゆきたんくはホッとした。

 

トントン葺きの屋根

ボロブドゥール観光が終わり、車でホテルに向かう際ボロブドゥール出口近くの建物を見ると、第二次大戦終戦時の写真によく見られる掘っ立て小屋の屋根、俗にいうトントン葺きの屋根が見えた。インドネシアでは貧しい人はとことん貧しいという。ここは店舗なのか店舗兼住宅なのか、その実際は分からないけれど当たらずとも遠からじだと思う。乾季と雨季があるにせよ、1年中暖かい(暑い)ことがなによりの救いである。

物売りの少年

渋滞するジョクジャカルタ市内を縫うように走る物売りの少年である。クラクションのシャワーを浴びても動じることなく、慣れた走りで去っていった。打っているものは紙のラッパである。ニューイヤーイブが近いので、今が稼ぎ時なのだろう。顔つきは中学生のようであった。まあ、こうして稼いだ金は遊興費ではなく、生活費なんだろう。日本の携帯を親の金で自由にしている者たちに、一回ぐらいはこのような苦労を味わわせるといいと思ったゆきたんくであった。

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夜景

2008-01-29 22:06:00 | 

夜景というと有名なのが香港のビクトリアピークからの眺めだという。「百万ドルの夜景」という名前がついていて格好いい。中には「電気代が百万ドルかかる」ことからそう呼ばれているという人もいる。 ゆきたんくは残念ながら香港の夜景を見ていない。ビクトリアピークに行くチャンスはあったのだが、行った時はちょうどピーク付近が霧っていたようでスタッブスロードというところからコーズウェイベイを見下ろしたのである。昼間行ったので、ビクトリアピークへ行って、晴れていたとしても夜景は見ることができなかったのである。

今回の旅行で泊まった義兄のマンションからはとてもきれいな夜景をみることができた。

窓からの夜景

ゆきたんくにとって今まで最高の夜景である。新規開拓の高層ビル群と、一般庶民のいる地域を照らす街灯のコラボレーションはなんともいえない。ビルのネオンは近代的な趣だし、街灯は色こそ違えど昴のように、そう、オレンジ色のプレヤデス星団というとわかりやすいだろうか。

新しいテクニックも覚えた。三脚を使い、手振れ補正を切ってタイマーをかけてシャッターを押すと素人の腕では追いつかないほどきれいな写真が撮れたのである。

親子のようなビル

義兄の家族も自分のマンションの窓からは写真を撮っていないだろうから、世界で数枚の写真であろう。

ムルデカ広場方面

中央の2本のビルの間に小さくモナスが見える。

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ビジネス・クラス

2008-01-28 23:46:56 | 

インドネシアネタが続いている。今月一杯続けて、その後は小出しにしていこうと思う。 ところで、私は飛行機が嫌いである。その理由は三大恐怖症によるものだ。 ①暗所恐怖症…昔悪いことをして押入れに閉じ込められたことがある。あの暗闇の中、「自分はここで一生を終えるんだ。」という表現は知らなかったが、そのような気分を味わった。 ②高所恐怖症…時は・・・・まっいいか。自分が小学校1年生の時、鉄棒遊びをしていて、頭から落ちたことがある。あの顔面と地面の距離は30cmもなかったはずなのだが、次第に地面が近づいてくるシーンは未だにゆきたんくの網膜に焼きついているのである。高いところから景色をみると、その時の痛みや怖さを思い出すのである。 ③閉所恐怖症…発端はゆきたんくの嘘である。小学校低学年かなぁ、テレビで「キャプテンウルトラ」という特撮ヒーローものをやっていた。そこに登場する乗り物がシュピーゲル号である。当時としては画期的な分離合体する乗り物であった。(後にウルトラホーク…ウルトラセブン…が登場する。)そのプラモデルで遊んでいた時だ。シュビーゲル号の車でいうライトの部分にはライトはもちろんのこと、銃のようなものもついていた。そして棘のような部品も着いていたのである。ゆきたんくはそれで押入れのふすまを刺した。「サクッ」面白い。どんどんサクサクして気がついた時には押入れは二目と見られない状態になっていた。 実家は自営業で住まいの下が店である。下から人の上がってくる音が聞こえた。音が大きいから親父である。ふすまを見たとたんに「なんだ、これは!、おまえちょっと来い」ということで親父の前で正座である。親父も分かっているくせに(ちなみにゆきたんくは一人っ子である。)「誰がやったんだ。」と聞く。しめた、俺だとは思われていないらしい…さすが小学校の低学年である。「僕が遊んでいたら、だれかが入ってきてやったの」現在ならばありえるような話であるが、当時は通用しなかった。もし自分がやったことがばれたら(とっくにばれているのだが…)どんな目に遭うか分からない。親父は怖いのだ。ゆきたんくは最初の主張を曲げなかった。途中で親父が怖いモードに入ったが、今更理由変更はご法度である。約1時間ねばったのである。親父は、「それならば、つかまえるしかない。捕まえて警察に突き出さないといけない。」と言って私に見張りを命じた。住まいの6畳間の隅においてあったミシン(足踏み式)の横にあった板で囲まれた狭い場所でくるはずもない犯人をずっと見張った。というよりは、その姿を親父はずっと見ていたのである。最終的にはゆきたんくが根負けして白状したのだが、トラウマになったのは周囲を壁(板)に囲まれた時の息苦しさ、自分と壁の距離が存在することの怖さである。 以上3つの恐怖症の条件を満たすのには飛行機は最適できないか。エコノミー・ヨーロッパ方面なんて地獄である。拘束具で固定されたハンニバル・レクター博士状態である。 前にも述べたと思うが、今回のインドネシア旅行はゆきたんく一家4人で行くつもりでいた。ところが年末の航空券が取れず、キャンセル待ちをしていた。そして取れたのは2人分。前にいったことのある奥方ののりたんと

デザート(ミルクティーとシュークリーム)

次男のつっくんがお留守番となった。 そのキャンセル待ちの席だが、なんと、ゆきたんく初めてのビジネスシートだったのである。なんと広いことか。話には聞いていたがゆったりとした席である。周囲の席数が少ないので、明るいのである。3つの恐怖症のうち2つはクリアーである。そしてもう一つ、飛行機旅行を重ねるうちに考え方も枯淡の域に達したゆきたんくである。10mの高さのピルから落ちても、10万メートルの上空から落ちても結果は同じだと考えられるようになったのだ。もう空に浮いてしまえば機長さんたちに身をゆだねるしかないのである。 という訳で、窓際の席から雲や山を撮って楽しんでいた。ところで不意打ちがあった。食事である。シートが違うとこうも食事が違うものか。デザートも、そしておやつもついている。

おやつのかわいいサンドウィッチ

隣の席では義父がビールのおかわりをしている。ブランデーの小瓶のも飲んでいる。まるでレストランである。こうなるとエコノミーは小学校の頃にいただいた学校給食の趣さえある。そこまで差があるのだ。 何が話の中心か分からなくなってきたので、この辺で筆を置こう。

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ジョグジャカルタのランドマーク

2008-01-27 22:19:19 | 

乗用車の助手席から、巷の観光をしているゆきたんくの目に飛び込んできたのは、高級な装飾蝋燭のような形をしているトゥグの塔であった。調べてみると、ジョグジャカルタの町のシンボルの塔だそうである。 ここから北を望めば、遥かにムラピ山がそびえ、南に一直線に行くと、町一番の繁華街マリオボロ通り(Jl.Malioboro)を経て王宮(Kraton)、さらにはパラン・トゥリティス海岸(Pantai Parang Tritis)へと至るそうだ。

マリオボロ通り

この山と海岸へは行かなかったが、マリオボロ通りの賑わい、かつてジョグジャカルタを統治してきた王侯の子孫がいまだに生活をしている王宮の文化には触れることができた。

 マリオボロ通りの商店街

トゥグの塔の役割は何だろうか。ジョクジャカルタのシンボルであり、ランドマークなのだろう。しかし、インターネットや文献で調べてもほとんど情報がなかったのだ。

ジョグジャカルタの地図

 上はジャカルタの紀伊国屋に一つだけあったジョグジャカルタの地図の表紙である。ここにはトゥグの塔とボロブドゥールの仏像の絵が描かれている。ということはジョグジャカルタの象徴ともとれるのだ。また帰国時の空港でも詳細な地図が売っていが、こちらは碑の記号とTugu Monumentの名称があるだけだった。

どなたか詳しい方がいらっしゃったら教えていただきたい。

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サウザン・ジャカルタ

2008-01-26 23:58:25 | 

新年を向かえ、街中はお祭り気分である。日本で失われたお正月の臨場感を感じることができるのだ。 1月1日のこの日、行った先の一つはサウザン・ジャカルタにある「タマン・ミニ・インドネシア・インダー」である。東西がアメリカ大陸に匹敵する幅を持つインドネシアをまるごと展示している施設である。100ヘクタールを超える広大な土地にインドネシア全州のパビリオンが並ぶ。中央の人造湖の周囲には周回する道がある。ジャカルタの街中でも渋滞はつき物であるが、この日は1月1日、人の出も半端ではなくこの周回する道が丸々一週、車で埋まって大渋滞である。自動車が隙間なく詰まっているところで、ちょっとした隙間があろうものならば、そこにオートバイが入ってくる。そうそうに車を降り、歩いて回ることにした。ところが外は30度を超える暑さ。売店の中は暖房状態である。一番みたいと思っていたスマトラのパダンの住居を早い段階で見てしまったのでそこで集中力が途切れてしまっていた。少ない正月休みを、ゆきたんくのためにいろいろと観光させてくれている義兄には申しわけなかった。

しかし住居などは出入りが自由で、各州の様子を見るのには楽々できた。周囲の道路ほど、展示場の方が混んでいなかったのである。3つ4つ回ったが、パビリオンの上ではなんと涼しい。インドネシアの気候にあった造りを再現した住居であるから涼を取り入れる工夫があるのだろう。

今度は乾季に行く機会を持ちたいと思っている。

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ガイドさんの話

2008-01-25 23:59:41 | 

インドネシア旅行2日目でいきなりハイライトを迎えた。ジョグジャカルタにある大乗仏教の遺跡、ボロブドゥールである。 ことわっておくが、写真は京都の金閣である。 なぜトップの写真が金閣なのか… ボロブドゥール見学に際して、義兄は日本語の上手なガイドさんをつけてくれた。義兄夫婦と義父母は以前に訪れたことがあるという。とにかくゆきたんくと長男のおーちゃんで行くことにした。しかし、"遺跡内の狭い通路ではスリに気をつけなくてはならない"とガイドブックにあったので不安だったが、ガイドさんのおかげで心強かった。

第一回廊にあるレリーフの説明、他の宗教との共通点、東西南北に座る仏像の手の形と意味を細かく説明してくれた。レリーフの色が黄色なのは、旅行者のフラッシュからレリーフが痛むのを防ぐためだという。 説明の中で印象的だったのは、このボロブドゥールは全部安山岩で作られていること。それに対比して日本には金閣寺があり、全部金でできていてとてもきれいなこと。そして日本人はお金持ちだということを言っていた。 ガイドさんは日本の史跡を褒め、私たち親子が気持ちよく感じるように気を遣ってくれたのだと思った。しかしそれを3度話したので、伝わるかどうかは挑戦だったが、日本の文化の中には「侘・寂」があることを話した。びっくりしたのは、ガイドさんにそれが伝わっただけではなく興味を持ったということだ。現在、日本語について毎日数時間勉強しているという。もっと日本の文化を知りたいからだそうだ。その中で、侘・寂という枯れた味わいを日本人が好むということに新たな興味が涌いたようだ。

 

 そこで、日本の奈良県にあるミニボロブドゥールの「頭塔」のことも話してみた。ガイドさんは「日本とインドネシアは仏教文化でつながっているんですね。」と日本語で言ってくれた。とても嬉しかった。

またいつか、このガイドさんと話をしてみたい。

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クラトン

2008-01-24 23:12:15 | 

インドネシアに着いた次の日の早朝に早速お出かけ。
そしてガルーダ・インドネシアの小型ジェット機でジョクジャカルタに移動である。小型機と聞いてプロペラ機だったらいやだなと思っていたら、ちゃんと小型のジェットエンジンがあったので安心した。


午前中にボロブドゥール観光の後、ジョグジャカルタの中心地へ向かう。
クラトン(王宮)を観るためだ。
ジョグジャカルタを長年統治してきた王侯の王宮である。

表情豊かなガイドさんがインドネシア語で解説をしてくれる。
そしてクラトンの中を案内してくれるのだ。
インドネシア語は良く分からないが、義姉がすぐに通訳をしてくれるのでとても楽しめた、王宮南側には建物の両端に2棟ずつガラス張りの博物館がある。
その中には王侯の時代に流れに沿った展示物が並んでいた。


周囲も観光客だらけだったので、王様の子孫はもうここにはいないと思っていたが
第10代のれっきとした王様がいらっしゃるという。
昔は一夫多妻であったが、今の王様は奥様は一人だけだという。

かつてヒンドゥー文化のルーツの地であったが、それは今現在はバリ島で生きている。そのヒンドゥーに変わってイスラム教徒が全体の90%を占めるジャワだから細々と暮らしているのだろう。

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ベチャ②

2008-01-23 19:32:04 | 

1/5にベチャ①をアップした。今日はその第2段。 ゆきたんくの楽しみの一つに車の運転がある。どこへ行くのにも車で行く。そして遠くなければ、電車よりも早い。抜け道は知っているは、狭い道は平気で通るは車の幅があればどこでも行くのである。 今回行ったインドネシアでも車の運転をしてみたいと思った。そうしたら義兄が「絶対にやめた方がいい。」とのこと。ならば迷惑をかけてはいけないから、心残りはあったがやめることにした。 実際にインドネシアでは義兄の会社の運転手さんが運転する車で助手席に座ることが多かった。 結論・・・インドネシアで車を運転するのなんてとんでもない。日本で、「乱暴な・・」「オートバイが並んで走り、道を塞いでいる。」「車間距離ギリギリでの割り込み」「少しでも隙間があればクラクションを鳴らして入ってくる。」 本当にびっくりしたのである。ゆきたんくが運転したら、1分と経たないうちに事故である。インドネシア滞在中、事故らしい事故の情報はなかった。義兄いわく、インドネシアの人たちは動体視力が日本人とは違うとのことである。そして日本では通常(ほとんどの人たち)が免許を取ってから公道を走るのは常識である。インドネシアでは運転免許はお金で買うのだそうだ。そして免許を取得できる歳になったら、もう車を自由自在に操れるようになっている。免許を手に入れるのはその後だという。車は高いので比較的安価なオートバイもたくさん走っている。3人乗りなんておどろくなかれ、ノーヘルで5人乗りなんてぇのも当たり前だ。義姉いわく、「中学生くらいになったらみんなオートバイを運転できるよ。」そういえばクラトン(王宮)の廃墟からの帰り道で、小学校中学年くらいの女の子が3歳くらいの子供を乗せてエンジンをかけていたっけ。 まあ、インドネシアでは法律に対する認識がみんなアバウトなんだろうな。 てな訳でインドネシアでは道の真ん中を走る快感はあきらめなければならないと思っていた。その欲求を満たしてくれたのがベチャなのである。 写真は自分たち(義父と一緒)の乗っていたベチャから義母の乗っているベチャを撮ったものである。場所はジャラン・マリオボロ、ジョクジャカルタ一番の繁華街である。道路の両側には様々な店舗が並び、食事をとれる屋台も並び、大変賑わっている。やたらめったらにフラッシュを焚くのを遠慮したのである。結果、ブレてはいるが動きのある写真になった。そう、公道の中を堂々と移動しているのである。この道は、ジョクジャカルタにいる間、何度も車で通ってはいるが人の運転だと走ったという気分にはならないものだ。(その代わり写真はたくさん撮れたけれども…) ベチャは自分で運転する訳ではないが、前面が開放されていて運転手さんが後ろにいるので自ら運転している気分になれたのである。自動車よりも視界が広く、ベチャの移動による自然の風が涼しく、余所見をしても事故にはならない。自分でインドネシアの道路を運転することの何倍も得をした気分である。途中クラトン廃墟裏通り、JL Sidomukti(シドムクティ通り)の店「PTRA LIGA(プトラ・リガ)」でTシャツを買った。どこの国でもツアーで旅行をすると土産物屋さんに連れて行かれるが、ここインドネシアではガイドさんやベチャのドライバーは土産物屋で止まる。

ティーシャツ屋さん「プトラ・リガ」

もっともゆきたんくがTシャツを土産に欲しがったので前もってドライバーに言っておいてくれたのだろう。ここで誰でも着れるオールサイズを7着、ゆきたんくの体を見て店主が用意してくれたXXXLの黒いシャツを1枚買った。店主はうれしそうな顔で日本語を連発する。(オオキイネェー、ユウメイなスポーツセンシュダショー、ワタシノニホンゴツウジルゥ)なんて具合だ。店の外に出れば、ベチャのドライバー達が寄ってきて良いムードである。そして何よりも英語が日本人よりもしゃべることができるのである。義兄の長男が小学校4年生だが、週3時間英語の時間があるというがジャカルタの話である。

泥除けに「HIDUP BARU(結婚)」とある

ここはジョグジャカルタなので少し田舎であるがゆきたんくほどの年齢のベチャドライバーが英語を話すことには驚いた。私を乗せてくれたドライバーはベチャの泥除けの絵を説明してくれたり、スポーツ好きのドライバーはサッカーをやっていたことや、ナカタを知っていることを話してくれた。日本のどこからきたんだとか、何をやっているんだとか、こちらは片言の英語で、どうにかコミュニケーションは図れたようである。それは私と一行がたくさんシャツを買ったことで面目が果たせたこととも関係あるだろう。

次はジョグジャカルタのお菓子の調達だ。店に着くと、地元の人で満員だ。こういう店は本当に旨いという。果物の餡が入った小さな円筒形のお饅頭を買った。出来立てはとてもおいしい。日持ちもしないというので、ここで翌日に食べる分を買い、饅頭を焼いているオーブンの写真を撮らせていただいて店を出た。またまた、ドライバーたちはニコニコしている。インドネシアの言葉が話せたらどんなに楽しいだろうか。もとっも義兄はペラペラとやって楽しくやっているが… ジャラン・マリオボロが終点。とても楽しいドライブだった。

お菓子「バピア」

バピアを焼いている釜

あれ、運転をしたいという話はどこかへ行っちゃった。

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2008-01-22 23:55:55 | 

スカルノ・ハッタ空港に日航機の車輪が触れた時に、とても嬉しい気持ちになったゆきたんくである。初めてのインドネシアである。10年間お預けだったインドネシアである。入国審査を終えて空港出口に向かうと、愛想よく話しかけてくる人、人、人。「荷物を持ちますよ」とインドネシア語で言っているのだろう。ところがゆきたんくとおーちゃんは力があるので「大丈夫ですよ」とにこやかに対応したのだが、中国での物売りと同じでこは任せてチップをあげることが習慣のようだ。異国の文化をよく理解していなかったのがいけないようだ。
義姉が迎えに来てくれるというので心強いのだが、途中でタクシーの呼び込みが大きな声で「タクシー」と言いながら手招きする。旅の本にシルバーバードとブルーバードは安心と書いてあったので、それ以外のタクシーは怖いと思っていた。義姉によると「そんなことはない。心配ならばシルバーにしようか?」と言ってタクシーをひろった。

高速道路を走っている時に北京で見たような近代的な建物がズラッと並んでいるのが見えた。かなり高層である。地震が日本に比べて少ないせいだろう。なんて話をしていたら、最近では地殻変動の影響のせいか、ジャワ島でも大きな地震があるそうだ。

アパート(どう見ても超高級マンションなのだが、地元ではアパートと呼ばれている。)に着いた。二重、三重のセキュリティがあり、関係者以外は一番最初のゲートで入場不可である。日本で言う新宿辺りのデパートの駐車場のような大きな駐車場で車を降りる。通路の脇が大きな池になっている。大きな魚が泳いでいると思ったら人だった。住人が自由に泳げるプールがあるのだった。全部で六棟ある建物の一つに着き、エレベーターに乗る。扉が開くとそこはもう義兄の家の入り口であった。分かりますか?エレベーターのドアの向こうには義兄の生活するフロアーしかないということを。

大きな窓から景色を見る。素晴らしい。遠くにはモナス(独立記念塔)も見える。「ああ、ついにジャカルタに来たんだなあ。」と背伸びしてふと見ると、近代的なビル郡の手前には赤瓦の屋根で、壁がところどころ崩れた家屋がたくさん立ち並んでいる。夕方なるとイスラムのお祈りも聞こえ始めた。近くにはモスクがあるという。

ここインドネシアでは貧富の差が大きい。金持ちはものすごい金持ちだが、貧しい人はすごく貧しい。そのコントラストが窓から広がる景色の中に見えるのだ。

その後旅行中には、日本では考えられないような体験をすることになる。イスラムでは、「富む者は、そうでないものに施しをする」ことが教えにあるそうだ。とりわけ驚いたのは、世界遺産の観光地の入場料が日本人料金というのがあって地元民の十倍の値段ということだ。ここジャカルタでも日本人は金持ちの象徴のようだ。繁華街などの場所では、周囲の人たちの視線が気になったが生きるのに必死な人たちのエネルギーを肌で感じることもできた。それは差がないと生まれないのかもしれない。

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ランブータン

2008-01-21 23:59:29 | Weblog

義兄がジャカルタ南部に行こうと連れて行ってくれた、タマン・ミニ・インドネシア・インダー。東西に長いインドネシアの国に散らばる宝石のような風土を一所に集めた施設だ。その内容についてはまた触れることにして、今日は行く途中で買った果物について書きたいと思う。義兄と運転手さんのインドネシア語の会話に、「すげぇーなぁ、なんでこんなにしゃべることができるようになるんだろう。」と感心している時に、突然に大きな声で何か言ったかと思うと車を脇に寄せて止めた。義兄の乗る助手席の窓の外には物売りのおじさんがいる。 どうやら果物を買ったようだ。見たことのない果物だ。そう、ダーツで矢の代わりのボールと的がマジックテープでくっつくやつがあるが、そのボールそっくりなのだ。 

 「ランブータン食べる?」と義兄。へぇー世の中にこんな果物があるんだぁと思いながら「まるで、毛玉だよね」と言ったら「そう、ランブータンは毛玉だよという意味なんだよ(笑)」と義兄。どうらや直訳が当たったようである。タマン・ミニ・インドネシア・インダーの見学を終え、ホテルの部屋で食してみた。ライチに似た味でサッパリとしている。日本でも大きなスーパーだと売っているとか。今度探しにいこうと思う。

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インドネシアンサイズ

2008-01-20 22:55:25 | Weblog

ゆきんたくはインドネシアの食べ物が、口に合うことを言った。 まぁ、コーラやファンタは日本のとほとんど味は変わらないのだが、うれしかったこと… 写真はボロブドゥール寺院の境内にある食堂(吹き抜けだが)である。ここで食べたのは揚げ菓子とラーメンだ。「へぇ、インドネシアで食べれるラーメンってどんなだろ?」ラーメンが来るまでの間、のども渇いたこともあって(気温が30度以上あるからね)ジュースを飲むことにした。目の前には、ファンタ(ストロベリーがあるぅ)、コーラ、スプライト、ポカリスウェットがある。見たことがないのは前述のストロベリーファンタとお茶のような飲み物(これは後日、タマン・ミニ・インドネシア・インダーで飲んだ。インドネシアでは定番の飲み物だそうだ。砂糖が入っていて甘い。)である。ストロベリーファンタなんてそう飲む機会はなさそうなので飲むことにした。 よく見るとビンが細い、内容量は295mlということで「なんだ少ないじゃんよ。」と缶ジュースのアメリカンサイズ350mlをものさしにして少ないと思った。しかし、よく考えるとビンジュースは日本では6と1/2オンスのやつが売られている。つまり190mlのやつである。ビンが細いのは内容量が少ないのではなく多かったのである。しかも砂糖たっぷりで甘いこと甘いこと。酒が飲めないゆきたんくは甘いのが大好きなのである。(だから太るのか…)結果的に満足である。 その後きたラーメンは、サッ○ロ一番塩ラーメンの味を薄くしたようにやつで、ポーチドエッグみたいな卵とトマトの輪切りが乗っている。それをフォークとスプーンで食すのだが、日本人には箸の方が食べやすい。 今日の昼食の中では、ジュースのビンサイズが気に入った。仮にインドネシアサイズと名づけよう。もっともゆきたんくが他国の事をそんなに知っているわけではないので悪しからず。量は多いにこしたことはない。

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ナシ・ゴレン

2008-01-19 23:51:05 | Weblog
インドネシア・シリーズ復活。

さて、サテを食べに行った。
サテというのは日本で言う焼き鳥のことだ。
とはいっても、注文したのは牛とラムとチキン。
イスラムなので豚肉はおいてない。

辛いタレと、ピーナッツをベースにした甘いタレがある。
前にも書いたが、インドネシアの食べ物はゆきたんくの味覚にバッチリはまった。サテは炭の入った丸い器の上に網を置いて、その上に乗ってくる。
いつでもアツアツのまま食せる訳だ。時間が経つと硬くなるので早めに食べる。
ガドガドというジャガイモ・キャベツ・ゆで卵・揚げ豆腐にピーナッツソースをかけたサラダもうまい。

今回気に入ったのは、ナシ・ゴレンである。ナシはご飯のこと。ナシ・プティとも言う。ゴレンは炒める・揚げるの意味である。ナシとゴレンでチャーハンのことだ。ちょっと甘味のある味付けだが、かなりスパイシーでもある。アチャール(漬物)とミニサテが3本、そして目玉焼き(というよりも目玉揚げ)が付く。揚げせんべい(日本のエビセンに似ている)は口が辛くなった時の口直しだという。

アチャールの中に青唐辛子が入っていたが、これはノーサンキュー。ジョグジャカルタでナシ・グドゥッを食べた時に、イブ(おばちゃん)にもらった、ミンタ・サンバルという唐辛子ソースであえた野菜と一緒に出てきた。義姉に「これはやめたほうがいいよ」と言われたので、食べないでおいた。ためしに軽くかじってみたら、辛いというよりも、口全体が痛くなってしまっほど強烈だった。

ナシ・ゴレンは何皿でもいけそうなほど気に入った。
実際には油が強いので、そんなに量は食べれないだろうが、口がほしがる味付けなのである。実際、年明けの1月3日にデパートで土産などの買い物を済ませた後の昼食でも、最初はバーガーキング気分であったが、サテを食べたのと同じ店があったのでナシ・ゴレンを注文した。とにかくその土地の食べ物が合うということは幸せなことだと思った。
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アルプス

2008-01-18 23:59:27 | Weblog
イギリス人鉱山技師のウィリアム・ゴーランドが、飛騨山脈を調査した後の、1881年に刊行された『日本案内』の中で、ヨーロッパのアルプス山脈に因んで「日本アルプス」と紹介した。

後に小島烏水がこれを3つに区分し、飛騨山脈を「北アルプス」、木曽山脈を「中央アルプス」、赤石山脈を「南アルプス」とした。

と「日本アルプス」について調べれば、たいていはこのような説明がつく。
ゆきたんくは山登りはあまりしない。登ったとしても筑波山くらいのものである。

昨年4月15日に、高山祭りを日帰りの強行軍で見に行った時に、「わぁ、きれいだ」と思い何枚も写真を撮った。「このような景色を空から見ることができた素敵だよなぁ。」と思いながらバスに揺られていた。このブログを打っている時も、高山に向かうバスの中から見えたアルプスの写真を使って、当時の臨場感を思い出していた。

そして2006年の3月に北京に行った時、飛行機の窓から写真を撮った覚えがあるので探してみた。あの時は成田から太平洋に向けて飛び立ち、ある程度高度を得た後で福井県の若狭湾から日本海へ出たことを記憶している。もしかしたら…

ちょうど長野県と岐阜県の県境上空を撮ったであろう写真を見つけた。

細かい山の名前まではよく分からない。しかし、この写真より少し前の時刻に撮った写真には八ヶ岳の牧場がはっきりと写っていたので、そこと若狭湾を結ぶ線上から取れる写真といえば北アルプスの辺りだ。
写真の中で一番高い穂高岳で3190m。飛行機の飛行高度、10万メートル。こうなるともう3Dの絵を見ているようでもある。

山は上から見下ろすよりも、下から見上げた方が美しい感じがする。
コメント (2)
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ノスタルジー

2008-01-17 23:00:48 | Weblog
小江戸と呼ばれている所がある。埼玉県の川越である。
「蔵造りの町並み」や「時の鐘」、「菓子屋横丁」は有名だ。
その菓子屋横丁はかぎの手に曲がった小さな通りの両側に、ハッカ飴、駄菓子、だんごなど、ほのかな懐かしいかおりが漂い、幼かった頃の舌が甦る。物売りの呼びこみの声や買い物のやり取りはコンビニエンス全盛の今では見られなくなった光景である。

昭和35年生まれのゆきたんくが幼い頃を過ごした東京の下町では、学校のそばには必ずと言っていいほどある、駄菓子や文房具を売っている店、おばあちゃんの駄菓子屋、おじさんの紙芝居、おじさんの蒔絵、おじさんのおでんがあった。

ノートを買いに行った時に、お菓子コーナーにあるコップ一杯5円のカレーせんべいを袋に入れてもらい、そのまま学校の校庭で遊んだこともあった。

水飴を買って紙芝居を見る。そう、20円だったかなぁ。もう5円出すと、粉ミルクの中で水飴を練ってミルク水飴にしてくれた。型抜きも楽しかった。うさぎの絵のやつがうまくできなくて割ってしまい、ナスそっくりの形になったやつを「おやじ、ナスができたぞ。」と言うと「よくできたねぇ」と普通に買うとまん丸のソースせんべいを1/4に割ったものに梅ジャムをつけてくれたっけ。小学校2年生ぐらいのがきがおやじと言っても怒らずに、そのやんちゃに答えてくれたのである。

型抜きした粘土に金粉やら銀粉やらを蒔いた、そうウルトラマンのやつ。当時100円くらいだったかなぁ。ほしかったけれど、とても手が出なかった。

いつも屋台を引いていたやさしいおでんやさん。大人相手の商売だから、一品50円とか80円とかするものだった。けれど子供が大好きだったんだろうな。魚肉ソーセージを縦に4つに割って、さらに長さを半分にして串に刺したものを用意してくれていた。たしか5円だったかな。

子供ながらにじじばばを喜ばせる手段は知っていたのだろう。駄菓子屋のおばあちゃんの所に行き、「おばあちゃんは、僕の田舎におばあちゃんに似ているんだよ。」なんて言ってその喜ぶ姿を見てから買い物をする。おまけをしてくれるんだよなぁ。でもね丸きりのうそではない。実際に祖母に似ていた訳だからね。

菓子屋横丁の通りに、一歩足を踏み入れた時にそんな40年昔のことを思い出してしまった。こういうのをノスタルジーというのだろうなぁ。

写真は川越市元町2丁目 菓子屋横丁
コメント (2)
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