千葉県の佐倉には佐倉宗吾という英雄がいた。時代劇を見ていると、悪代官がいて年貢の取立てが厳しかったりする。大抵、水戸黄門のような方がいて、成敗してくださるのがパターンだったりする。 まあ、ウルトラマンみたいなものなのだが、実話には存在しないのである。 すると逆境に耐えている主役はどうなるのか?大抵は報われずに命を落とすのである。
今日記す、佐倉宗吾もそんな人生の終わり方をしたのであった。 次に示すのは一般的な捉えられ方である。
佐倉宗吾は下総国印旛郡公津村の名主総代で、その出身については諸説があり確証はない。一揆や直訴についての根本資料が全く存在せず、宗吾伝説が形成される過程で、後人の手によって作られたものがほとんどといってよい。 それによると、宗吾は佐倉藩の重税に耐えかねた農民を代表して、藩の役人や江戸の役所に訴えたが取り上げられず、老中に駕籠訴をしても果たさず、やむなく将軍に直訴して租税は軽減されたが、宗吾夫妻は磔刑、男子3名は死罪に処されたという。宗吾伝説は百姓一揆の高揚期の中でも様々の要素を添加されながら成長し、明治以後も民権論の高まりの中で再評価され、脚光を浴びた。宗吾の処刑の地である千葉県成田市には、現在、宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺)が建っている。
時代劇でも取り上げられたことがあるという佐倉宗吾。どんな人物か、その詳細は分からないままで終わるだろうと思っていた。
宗吾霊堂を訪れた帰り、「宗吾旧宅」なる看板を見つけ、向かった。写真の家がそうだ。かつて宗吾が生活した家屋を保存してあるんだなくらいに思っていた。
家屋の写真を撮り、近寄って見ていたら…
突然「おはいんなさいよ」という低い声が聞こえた。さすがにびびったゆきたんくであった。どうやら幽霊などではないらしい。もう一度家に近づいてみる。「どうぞ、おはいなさいよ」どうやら家には人がいるようだ。
家にお邪魔をすると、80近いご老人が椅子に腰掛けている。
看板を見て来たことを告げたら、「宗吾に興味があるのなら、お話してあげましょう。」と言われるのでお願いした。
すると次のようだ。上の紹介文を使って書き直してみよう。
佐倉宗吾は下総国印旛郡公津村の名主総代である。宗吾は佐倉藩の重税に耐えかねた農民を代表して、藩の役人や江戸の役所に訴えたが取り上げられず、老中に駕籠訴をしても果たさず、やむなく将軍に直訴して租税は軽減されたが、本人はもとより、妻も死罪、子どもは男子は死刑であった。実は、男子3名のうち2名は女子であったが、男の名前をつけられて殺されたという。
であれば子孫はいない訳だから、今目の前にいらっしゃるご老人は他人であるはずだ。ここで自分が宗吾の子孫であることを明かした。しかし、ゆきたんくは納得がいかなかった。なんかおかしい。
実は宗吾の娘の一人は茨城に嫁に出ていたという。宗吾事件のほとぼりが冷めた頃、実家に戻ってきたという。そしてその子孫が、目の前にいるご老人だそうなのだ。
宗吾伝説は百姓一揆の高揚期の中でも様々の要素を添加されながら成長し、明治以後も民権論の高まりの中で再評価され、脚光を浴びた。宗吾の処刑の地である千葉県成田市には、現在、宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺)が建っている。
旧宅の奥では家族が食事をしているらしい。かつて宗吾が暮らした住居の中で生活の音がしている。勝手に住まうことが許されない空間に人がいるということは、もう宗吾の子孫でしかないと考えた。
お礼を言って家を出た。佐倉宗吾の本名は木内惣五郎。
ゆきたんくに親切にお話をして下さったご老人の名前は現当主16代木内利左衛門氏。