伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

社会科嫌い…吉田松陰先生編4(岐阜県大垣市)

2016-05-19 23:05:08 | 史跡

岐阜県大垣市は、ゆきたんくの母の実家があるところだ。

この大垣の大垣城の城代である小原鉄心は山鹿流という兵学を山鹿素水から学んだ。

この山鹿流の祖である山鹿素行の女系・津軽山鹿氏の末裔で、始祖から6代目の子孫が山鹿素水である。

当時長州藩だった吉田松陰先生が入門して学んだという。

結局、小原鉄心に伝授した後は京都の綾部藩に招かれた。

吉田松陰先生はその時に入門したので、大垣とのつながりは無いと言って良いだろう。

まあ、元々綾部藩主の九鬼隆都に教えを授けていたので綾部に戻ることになったのだろうが、大垣での活躍が綾部藩に戻るきっかけではなかっただろうか。



大垣城(大垣市のホームベージから借りました。)


 

少しでも関連があることに喜びを感じているゆきたんくである。

 

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社会科嫌い…吉田松陰先生編3(長崎県平戸市)

2016-04-21 23:44:47 | 史跡

たまたまつけたテレビで見たのが宝亀教会。

女優の2人旅で素敵な場所巡りをしようというもの。

どんな番組だったか名前も忘れた。

脳裏に焼き付いたのが「宝亀教会」だったわけ。

あれは見に行きたい。

それが長崎旅行のメインになった。

他にも様々なメモリアルがあるのにもかかわらず自分の中では第1位だったのだ。

ゆきたんくの旅とはそういうものだ。

もし、事前に吉田松陰先生の足跡に触れていれば少しは感慨深く足を伸ばす場所が増えたのも事実である。



平戸城。 2011.08.04 → Map


この時は近くにある知り合いの母校猶興館高校を見に行くために車を停めた駐車場から撮影した。

もうそういう優先順位なのである。

さて、吉田松陰先生は1850年(嘉永3年)、山鹿流軍学を学ぶために平戸を訪れた。

儒学者で平戸藩家老でもあった葉山佐内に惹かれ、この地にあった紙屋に滞在しながら数多くの書物を書き写した。

いう話を事前知っていたら。

この平戸城には当然行っていただろう。

そして究極のニアミスの一つがあった。

まぁ、これは衝突回避ではなく、ぶつかりたかったニアミスで吉田松陰先生が滞在した紙屋敷のことだ。

「おぉ、これはいい。」と撮った写真がこれ。



宝を探し当てた気になった「ポルトガル船入港之地」 2011.08.04 → Map


まぁ、確かに貴重な史跡である。

そう、前述の紙屋敷のことだった。

なんとここから徒歩1分110mの所にあったのだ。

なんとも間抜けな話である。

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社会科嫌い…吉田松陰先生編2(東京都品川区)

2016-04-19 23:29:19 | 史跡

伊藤博文公はゆきたんくが小学校の時にすでに顔は知っていた。

そう、お年玉の千円札にある顔でだ。


 
1986年まで造られていたC号券(現在はE号券…野口英世)。

 


伊藤博文公と吉田松陰先生とのかかわりは17歳で松下村塾に入門してからのこと。

松陰先生には随分と可愛がられたという。

松下村塾で出会った木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞らとは公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策したり、品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ちしたりするなど尊皇攘夷の志士として活躍した人である。

 大日本帝国憲法制定の起草・主導的役割を果たし、初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長など数々の要職を歴任。立憲政友会を結成し初代総裁を務めた人物だった。



伊藤博文公墓所 → Map


10/26の伊藤博文公の命日しか中に入れない。



伊藤博文公の胸像


 東京都品川区の旧伊藤町にある伊藤博文公の墓所である。

かつてのゆきたんくの実家から歩いて13分の所にある。

中学校時代はその時の悪友とともに、何度も素通りした場所である。

ゆきたんくの母校、旧品川区立伊藤中学校には使われていない門があった。

いつも使っている正門とは反対の位置にあって、在校中も2回ほどしか見たことのない門である。

この門は、伊藤博文公墓所より門柱と門扉の寄贈を受け、それを正門としたそうだが、ゆきたんく在校時には使われていなかった。

現在では、入学式と卒業式の時のみ開門するそうだ。

学校章は伊藤家の家紋と同じ「上がり藤」で、学生帽中央にはそれがつけられていた。

その帽子はもう何処に行ったか・・・

今考えると非常に勿体ないことをしたと思う。

社会科嫌いは目の前にある宝物を見逃していたのと同様のことだと気づくのが遅かったように思う。

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社会科嫌い…吉田松陰先生編1(長野県長野市)

2016-04-15 23:31:02 | 史跡

いやぁ、ゆきたんくは勉強が嫌いだった。

今でもあまり好きではない。

特に社会科。

地理、歴史なんてとんでもない。

ただね、このままではみっともない。

とっかかりはどうしようか?

という訳で吉田松陰先生にした。

吉田松陰先生縁のものから一つ一つ調べていくのだ。

まずは、「ペリー艦隊の大砲に衝撃を受け、国防のために海外先進国を知るための海外渡航への憬れ」から

ロシア艦隊のブチャーチンが開国を迫りに長崎に来航していることを聞いた吉田松陰先生は密航先をロシアに決めた。

佐久間象山先生も、餞別と壮行の詩を送って松陰先生を励ましているが、この渡航は実現しなかった。



象山神社 2004.08.15 象山神社


佐久間象山先生象


佐久間象山先生 解説


 昭和13年建立の総桧材桃山式流造の雄大な社殿 


 その後、アメリカへの密航が失敗に終わり、佐久間象山先生は8年間松代での謹慎を受けることになる。

松陰先生が師事した一人が象山先生だということは、ここを訪れた時には知らなかった。

そう、知ったのは5年くらい後ではないかな。

旅の話でも書いたことがあるが、訪れる場所の事前の予習は大切だとつくづく思った。

 象山神社2004.05.15

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たまらず・・・

2016-01-24 23:54:17 | 史跡

ゆきたんくの戦争遺跡関係の友達のブログを見た。

そこに煉瓦遺構があった。

正確に言うと遺構ではない。

現役の祠である。

その祠は輪福寺参道脇にあるという。

調べたら車で30分かからない。

観たい。

たまらず家を飛び出した。



これだ。


前に廻ると。

 


あらら、アンパンマンのマフラーをしている。撮影時には気付かなかった。

 


輪福寺標柱。 奥に見えるのが本堂。


 しばらく鳴りを潜めていた、ゆきたんくの徘徊が久しぶりに出た。

行ったというだけで、満足してしまうゆきたんくであった。

 

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旧万世橋駅

2014-02-05 23:26:57 | 史跡

ゆきたんくが小さい頃に母によく連れて行ってもらった交通博物館。

その交通博物館が閉館してから7年余りが経つ。

閉館間際には、かつて東京駅よりも規模が大きかったという旧万世橋駅の遺構を参加者限定の枠に入り見ることもできた。

現在では、交通博物館は埼玉の鉄道博物館にバトンタッチをしている。

とは言っても運営団体が違い、研究等の継承もないと聞いている。

非常に残念なことであるが、ぶっちゃけ金にならないのであろう。

さて、この旧万世橋駅の遺構は昨年リニューアルされてデッキとして利用されているそうだ。

交通博物館がなくなったあとどうなるのかと気にはしていたのであるが、再び人の目に触れるのであれば嬉しいことである。

さて2006年4月22日に交通博物館に行った。

そして次男と旧万世橋駅遺構を見てきた中から写真を載せる。



交通博物館と次男のつっくん 万世橋の上で



交通博物館入り口横にあった新幹線


 

 

 

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偲ぶ2

2012-03-28 23:21:59 | 史跡

いつもと言う訳ではないが、ゆきたんの通り道のことだ。

松戸に千檀屋という宿がある。

近頃は何かリニューアルをしてかつての面影はない。

その千檀屋の入り口に道しるべがあった。

能書きもついていて、近藤勇が泊まったことが書いてあった。

この間、千檀屋の前を通ったら、玄関がリフォームされていて道しるべがなかった。

別の日に通ったら見つけることができた。

建物脇のスペースにあったのだ。


 


ずっと立っていたから、しばしお休みかな・・・


 建物脇に仰向けに寝ていたのである。

 とりあえずその存在を確認できただけでも一安心である。

 この先どうなるのか・・・

 偲ぶようにならなければ良いのだが・・・

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ソールズベリでは

2011-12-04 23:00:43 | 史跡

今回の旅で2日目によるソールズベリでは、2003年に訪れたソールズベリ大聖堂に寄る予定である。



ソールズベリ大聖堂


 

そのソールズベリの予習をしている時に、分かったことがある。

今回はソールズベリのキュードスという宿に泊まる。

ゆっくりと街中を見ることができる訳である。

現在のソールズベリのことをニュー・セーラムとも呼ぶ。

街の史跡でオールド・セーラムがある。

小高い丘の上に残された遺跡である。

今回の予習では、大聖堂の中に、オールド・セーラムの模型があるという記述を見つけた。

ハッとした私は、2003年の旅をひも解いてみた。

こんな写真があった。


 


大聖堂中庭の通路にあった模型


私は、それにこんなコメントをつけている。

 「これはソールズベリ大聖堂初期の頃の模型だと思う。旧ドイツのベルリンの壁ではないが、周囲を壁で囲んである。」

 かの地を訪れ時のことを思い出すと、大聖堂や町のあった場所は限りなく平らであった。

 小高い丘の上の訳がなかった。

 自分で運転する自動車は坂道を上がらなかったからである。

 ゆっくりと街中をみれるというので、候補に挙げたのがオールド・セーラムであった。



公式サイトの写真


 間違いない、大聖堂の中で見た模型はオールド・セーラムである。 

 青字のところを読んでただくと分かると思うが、根拠なき考察である。

 汗顔のいたりである。

 拙サイト幸たんくには、そんな箇所が他にもあるんだろうな。

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あららぁ

2011-09-02 23:16:38 | 史跡

千葉県の松戸市と流山市の境目辺りの土地が変化している。

田んぼだったところが住宅地になろうとしているのだ。

そこでびっくりしたのが、ゆきたんくの休憩所が1つ減ることに気づいたからである。

千葉県松戸市の新松戸7丁目に小さな神社がある。

豊受神社という名前だ。

その神社が無くなっていたのである。

その場所は、田んぼの中に土が盛られていたはずである。

その土台に当たる部分だけがあるのだ。



土台だけ・・・


2005.06.19撮影。土台の上に、神社が。


この神社の手前が休憩場所として、良かったんだよな。静かだし。

何処に行ったかと探した。



お引越しだったんだ。


 元の場所から約100mほどのところに移されていた。

 階段がまだ固まっていないので上には乗らなかった。

 疱瘡神が祀られていたが、それがちゃんとあったので安心した。

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見つけたぁ

2011-06-07 23:25:28 | 史跡

いやぁ、整理整頓の整理というのは余分なものを捨てることである。

前に紹介したハンギングフォルダーを購入したことをいいことに、重複したものや、確実にいらないものは捨て、随分と部屋の中が減量した。

そして、整頓を始めた時、宝物の一つだった「頭塔(ずとう)」のパンフレットが見つからなかったのである。

よって奈良県のフォルダーも後回しになり、2回目の購入時に作ったのである。



現在1つだけ色違いの奈良県のフォルダー


 そしてフォルダーの中の書類を整理していた時のことである。

 保険証券関係を綴じたファイルの中に「頭塔」のパンフレットが見つかったのである。

久しぶりのご対面である。



「頭塔」のパンフレット


 これで現在の奈良県のフォルダーは、完成したのである。

 なお、旅たんくの「頭塔」の記事はこちら→「頭塔(ずとう)

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ご親切に・・・

2011-02-19 23:19:18 | 史跡

次男の受験が終わり、それに伴って様々な手続きが発生します。

その間隙を縫って、松戸七不思議の「切られ地蔵」の取材に行きました。

切られ地蔵は

「むかし 近くの覚蔵院の境内で盆踊りがあった。そこへ怪しげな大男が乱入してきて巧みに踊りだした。これを見た一人の若者が怒って刀で斬りつけると悲鳴とともに消え失せた。
翌朝境内を見ると寺内の石地蔵の胸に生々しい刀傷があって驚き皆地面にひれ伏したとさ」

という逸話が残っています。



切られ地蔵


 本福寺というお寺。このお寺の境内を歩くと、センサーがあって住職のお住まいに聞こえるようです。

 「見学ですか?」と出てきた住職様は親切な方でいろいろなことを教えていただきました。

 寺の周囲の歴史や、かつての様子など、近くの湧水や、本堂にある、かつての田んぼからでた石塔婆まで紹介して下さいました。その間1時間30分。

 この時の様子はいずれ「旅たんく」の松戸編で紹介したいと思います。

 人待ち時間の3/4くらいを有意義に過ごすことができたことに感謝したいと思います。



上本郷第二小学校脇を流れる宮下湧水と案内して下さる住職様



花台から降りた花島の田んぼから出てきた石塔婆

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物足りなさ

2010-06-02 23:11:43 | 史跡

 素敵な楽曲を数多く生み出しているコブクロ。

 その中で「蕾」という曲が好きで楽譜を購入した。

 ゆきたんくは好きな曲があると、そのアーティストの楽譜全集を買い、他の曲でおもしろそうなやつも探す。

 そしてだんだんに深みにはまっていくのである。

 フィバリットミュージシャンさだまさし氏の楽譜全集を買った時にはグレープ時代の「朝刊」を弾きたいがために楽譜全集を買った。そしてさだ氏の虜になったのである。


コブクロ楽譜全集

 この写真の本は全84曲、500ページ以上のボリュームだ。

 ところがだ。

 さだ氏と比べるのは酷かもしれないが、物足りない。

 さだ氏のはギターの奏法については、ストローク、アルペジオ、スリーフィンガー、そしてジャズやボサノバまで多様な表現である。

 このコブクロの楽譜にはスリーフィンガーの曲が1つもないのだ。

 一つ一つの曲は素晴らしいが、フィンガーピッカーにとっては物足りない。

 とても意外な気がしたのだ。

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英雄

2007-12-13 23:50:36 | 史跡

千葉県の佐倉には佐倉宗吾という英雄がいた。時代劇を見ていると、悪代官がいて年貢の取立てが厳しかったりする。大抵、水戸黄門のような方がいて、成敗してくださるのがパターンだったりする。 まあ、ウルトラマンみたいなものなのだが、実話には存在しないのである。 すると逆境に耐えている主役はどうなるのか?大抵は報われずに命を落とすのである。

 今日記す、佐倉宗吾もそんな人生の終わり方をしたのであった。 次に示すのは一般的な捉えられ方である。

 佐倉宗吾は下総国印旛郡公津村の名主総代で、その出身については諸説があり確証はない。一揆や直訴についての根本資料が全く存在せず、宗吾伝説が形成される過程で、後人の手によって作られたものがほとんどといってよい。 それによると、宗吾は佐倉藩の重税に耐えかねた農民を代表して、藩の役人や江戸の役所に訴えたが取り上げられず、老中に駕籠訴をしても果たさず、やむなく将軍に直訴して租税は軽減されたが、宗吾夫妻は磔刑、男子3名は死罪に処されたという。宗吾伝説は百姓一揆の高揚期の中でも様々の要素を添加されながら成長し、明治以後も民権論の高まりの中で再評価され、脚光を浴びた。宗吾の処刑の地である千葉県成田市には、現在、宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺)が建っている。

時代劇でも取り上げられたことがあるという佐倉宗吾。どんな人物か、その詳細は分からないままで終わるだろうと思っていた。

宗吾霊堂を訪れた帰り、「宗吾旧宅」なる看板を見つけ、向かった。写真の家がそうだ。かつて宗吾が生活した家屋を保存してあるんだなくらいに思っていた。

家屋の写真を撮り、近寄って見ていたら…

突然「おはいんなさいよ」という低い声が聞こえた。さすがにびびったゆきたんくであった。どうやら幽霊などではないらしい。もう一度家に近づいてみる。「どうぞ、おはいなさいよ」どうやら家には人がいるようだ。

家にお邪魔をすると、80近いご老人が椅子に腰掛けている。

看板を見て来たことを告げたら、「宗吾に興味があるのなら、お話してあげましょう。」と言われるのでお願いした。

すると次のようだ。上の紹介文を使って書き直してみよう。

 佐倉宗吾は下総国印旛郡公津村の名主総代である。宗吾は佐倉藩の重税に耐えかねた農民を代表して、藩の役人や江戸の役所に訴えたが取り上げられず、老中に駕籠訴をしても果たさず、やむなく将軍に直訴して租税は軽減されたが、本人はもとより、妻も死罪、子どもは男子は死刑であった。実は、男子3名のうち2名は女子であったが、男の名前をつけられて殺されたという。

であれば子孫はいない訳だから、今目の前にいらっしゃるご老人は他人であるはずだ。ここで自分が宗吾の子孫であることを明かした。しかし、ゆきたんくは納得がいかなかった。なんかおかしい。

 実は宗吾の娘の一人は茨城に嫁に出ていたという。宗吾事件のほとぼりが冷めた頃、実家に戻ってきたという。そしてその子孫が、目の前にいるご老人だそうなのだ。

宗吾伝説は百姓一揆の高揚期の中でも様々の要素を添加されながら成長し、明治以後も民権論の高まりの中で再評価され、脚光を浴びた。宗吾の処刑の地である千葉県成田市には、現在、宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺)が建っている。

旧宅の奥では家族が食事をしているらしい。かつて宗吾が暮らした住居の中で生活の音がしている。勝手に住まうことが許されない空間に人がいるということは、もう宗吾の子孫でしかないと考えた。

お礼を言って家を出た。佐倉宗吾の本名は木内惣五郎。

ゆきたんくに親切にお話をして下さったご老人の名前は現当主16代木内利左衛門氏。

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次男と

2007-10-28 23:52:31 | 史跡
川を見に行った。地元の川、「坂川」をだ。えっ? 何の意味があるのかって。ゆきたんくはどこに何があるのかを取材し、記録する趣味を持っているのである。今回の興味の対象は川。きっと地元の歴史に関係あるにちがいないからである。 その坂川の終点で、江戸川への出口である「柳原水閘門…やなぎはらすいこうもん」はもう見に行ったことがある。その逆、上流にある坂川の源はどこか? なんてさだまさし氏が「長江の最初の一滴を見たい」と映画を撮られていたことがあったが、ゆきたんくのはなんてスケールの小さいこと。でも地元松戸の歴史には欠かせない川の一つである「坂川」は、死人が出るほどの人の争いを引き起こしているのだ。先人の苦労を少しでも感じることができたらと出かけたものの、次男のつっくんは車の後部座席で気持ちよく寝ている。要所と感じるところで車を降り、カメラに様子を収める。上流に近づくにつれだんだんと川幅が細くなる。カーナビを頼りに流山市の野々下というところまで来ると、もう車では行けない。適当なところで車を止め、歩くことにした。歩くこと300m、台地から低地にかけて坂を下る。途中で千葉県企業庁の看板が目に入り、それ以上は進めなかった。源流の辺りには近づくことはできなかったが、可愛いチョロチョロという音を聴くことかできた。その昔、大水害を起こしていた坂川の源流はまことにかわいいものであった。 写真は坂川終点の親水公園近くにある柳原水閘門。
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不動尊

2007-10-17 23:00:38 | 史跡
 ゆきたんくの通勤路に江戸川土手沿いの道がある。
その途中に市内最古の不動尊がある。あるというよりはあったと言った方が適切であろう。あるひ突然重機によって建物が壊されている場面に出くわしたのである。「なんで?」という言葉が頭の中で反復する。多分の土地の所有者が業者に売り渡したのだと思われるが、市で守っていかねばならない文化財の一つだったのではないかと思うのだ。不動尊の中には不動明王様の象と高さ1m20はある庚申塔が祀られていた。建物の外にはかわいいお地蔵様があったのだ。いまだにその土地は更地のままである。周囲には高級住宅街と銘打った幟が立ち、新築の一戸建ても数件建った。その場所を通るたびに不動尊があったことを思い出す。あの庚申塔と不動明王様の像は今どこにあるのだろうか。
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