伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

ところで・・・

2008-09-08 23:22:31 | Weblog

 ゆきたんくの住んでいる松戸市の名物は梨だ。
それも二十世紀梨だ。

 松戸市の少年、松戸覚之助が親類宅のゴミ箱脇に生えていた梨の木を偶然発見し、植えて結実した梨である。後に渡瀬寅二郎が「二十世紀梨」と命名したのだ。

 なんのことはない、ドライブしていた時のことだ。
 松戸市の二十一世紀の森近くで信号待ちをしていて、ふと横を見るとでっかい梨があった。(最初の写真)
 もちろん食べ゜られる代物ではない。車を停め、近くで見ることにした。



いやいやいや、大きな梨だこと・・・
葉っぱのレリーフがかわいい。

 松戸市が二十世紀梨の誕生の地と知り、原木があった場所があるというのですぐに行ってみた。


二十世紀梨原樹跡地

そこには、原木がなく、モニュメントがあった。

 原木は、第二次世界大戦で焼かれ、残念ながら昭和22年(1947年)に枯死してしまったという。松戸市立博物館に原木があるというので行ってみた。


二十世紀梨の原木…松戸市立博物館

 原木は枯死してしまったけれど、現在二十世紀梨は鳥取県で栽培されている。
鳥取県の風土が二十世紀梨に合うのだという。
梅雨期の雨量が少ない、台風の直撃が少ないなどの、二十世紀梨にとっての好条件も持ち合わせている。

 そういえば、こちらの梨園では「二十世紀」の名前をあまり聞かない。今までに何度かなし園で買い物をしたが、「幸水」、「豊水」、「新高」と言ったところである。

 まあ、松戸ではその名前を発祥の地を中心に地名で残している。

 二十世紀梨原樹碑
二十世紀梨原樹碑の場所

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丁度一年前…

2008-09-07 21:58:13 | Weblog

 8/31の「夏、復活!」で使ったような写真だが、これは2007年9月9日のものだ。となると丁度一年前と言ってもいいかな。

場所は江戸川土手。
眺めは、大雨後の江戸川の様子だ。
この時は、「冠水のため…」は出ていなかったと思う。
まあ、見事に水面の方が土地の高さを上回っている。

土手土手様様である。


河川敷グラウンドに続く坂道を下る。

 見事なまでの冠水だ。中央右に見える柵の右側のグラウンドは若干土地の高さが高いのだが、水の下だ。

さらに下っていくと、異様な物体が待っていた。


なんと流されてきたゴミのようだ。


坂下からもパチリ。凄い量だ。

 植物の枯れたものならば分る。長い江戸川の河川敷を流れてくる間に、全部きれいに持ってきてしまったのだろう。よく見ると、ゴミの日に分別をしないで一度に集めた感じがするのだ。

 そうだねぇ、放牧をやっている地域を訪れたことのある方ならばお分かりになると思う。あの牧草ロール2個分の量はありそうだ。


ちなみに牧草ロールの写真(UK.ヘレフォード)

 「昨年と比べると、今年の方がまだまし。」という話をしたいのではない。この時期は大雨が多い時期なのかということだ。天気予報を見ると、関東・甲信と東北で強い雨とある。各地で被害も相次いでいる。

 天ぷらファストフードのてんやの社長のペーパーラジオにも、豪雨関係のことが書いてあった。まあ「命あってのものだね」という内容だった。までサイトの方にはアップされていないようなので、読みたい方は店舗までお出かけいただきたい。

 社長の言いたいことは、「農業を営む方にはなくてはならない雨も、降り方によっては命にかかわることもある。」だが、「雨なんか降らなければいい」と誤解しないでほしいということだった。

 自然というものは、功罪の両建ての現象なのでしょうね。

 

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天泉

2008-09-05 23:44:08 | Weblog

 千葉県は我孫子市にある、「手賀沼親水公園」と「水の館」に行ってきた。
この「手賀沼親水公園」の広場には、いつも気になるオブジェがある。
名前は「天泉」と書いて「てんせん」とでも読むのだろうか。

 そのオブジェの近くに、千葉県知事だった沼田武氏が題字を書いたという「天泉」というネームプレートがあることで漢字表記は分った。


「天泉」のネームプレート
当時の千葉県知事は沼田武氏

 初めて見た時は、失敬な言い方たが「抜かれた歯みたい」だった。このオブジェについて再び考える機会をもらったと思って調べてみた。

 このオブジェの作者は、安田侃氏だ。時間が封じ込まれた白い大理石の泉をモチーフにしたのが「天泉」という訳だ。


水の館から見た手賀大橋と親水公園。白いのが天泉

 難しいことは分らないが、上写真の中で天泉の有無によって景色の味わいが変わる気がする。天泉自体は現実的な形ではないが、周囲の景色の中に溶け込んでいる。

 
天泉正面。このくぼみに入って記念撮影している人達もいた。

 緑の芝生の中に、ポツンといった感じだが、これがあるだけで手賀沼浸水公園が浮かんでくる存在なのだ。

天泉

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ミニポケット・パーク

2008-09-04 23:47:40 | Weblog

 JR柏駅を南口で降り、少し離れたところに、ミニポケットパークがある。

 感じとしては、待合場所だ。東京駅の「銀の鈴」のような役割を果たしているのだろう。と思ったが人影が少ない、このポケットパークを利用する人がいないのだ。


ポケットパーク手前は入らないように鎖がかかっている。


さらにアップすると・・・

 立ち入り禁止のステッカー、表示がある。
 今、ここは入ってはいけない場所になっているようだ。

 よく見ると立ち入り禁止のステッカーではなく、駐輪禁止のやつのようだ。
 小さな公園としての機能よりも、駅に近くて丁度いい大きさということで駐輪場として使用されていた経緯があるようだ。

 本来の使われ方をされないと、場所というのはその命を失う。
この駅に近い通りには、店舗がいくも入っている。そしてその店舗に用のある人が沢山いるはずだ。その人たちの憩いの場として設けられたミニポケットパーク。
 その名前から人々から愛されるだろうと思われていたミニポケットパーク。
 人間でいうと、ただの便利屋として生涯を終えてしまったミニポケットパーク。

 一人の人間が、自分の都合の良いように物事を理解する。するとその良し悪しにかかわらず追従する者が現れる。人々の心の中には「人がやっているから…」と逃げ道が用意され、自分の都合の良いように行動する。

 そして、とどのつまりは追い込んでしまう。追い込んでいるつもりはなくても、集団の力と言うものは恐ろしいものである。
 このミニポケットパークを死に追いやった集団の力は、今どこに向かっているのだろうか。

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シンプルって・・・

2008-09-02 23:57:54 | Weblog

♪「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うをみた よさこい よさこい」

よさこい節だ。

今年の夏に、初めて四国の地を踏んだ。
一泊二日の旅立ったので、名所・旧跡などは絞り込んだ。

その1つに「はりまや橋」があった。


現在のはりまや橋付近

 江戸時代の始めに山内一豊が高知城を築いたとき、 その工事場で唄われた”木遣り節”が変化したのがよさこい節だという。

 ”よさこい” は、石材や木材を運ぶ掛け声の”ヨイショコイ”が起こりだそうだ。

 よさこい節は10番まで歌詞がつけられているようだが、その一番は、今日の記事の冒頭に書いたやつだ。
 まあ、坊主の破戒と、番所破りのために離れ離れにされてしまった恋仲の2人の歌なのである。悲恋物語とも言える。
 坊主がかんざしを買うか。
 それがばれて評判になってしまったからと言って駆け落ちをし、番所破りまですれば立派な犯罪者である。 


はりまや橋脇のみやげもの屋「はりま家」

 そんな2人の恋の行方を知っているのかいないのか・・・
この「はりまや橋」脇には、純信とお馬の像が建っている。
とはいってもデフォルメされた白いこけしのような像だ。
そのお馬の髪に当たる部分には、金の塗料でかんざしが書いてある。


銘菓「かんざし」の店前
ゆきたんくはここで土佐ミルクアイスを買って食べた。

シンプルゆえに、心に残る2人の一番幸せな時の姿である。

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夏、復活?

2008-08-31 21:05:41 | Weblog

 再び暑い日が始まったことは前に書いた。
これから徐々に気温が上がっていくことを思うと、つらくなる。
まあ、このところ雷が多かったが、雨のおかげで涼しい思いをしてきたが、地域によっては被害を被られているのでお気の毒である。


なんだぁ、こりゃあ

 今日、長男のおーちゃんと休日のデザートを千菓進(ちかしん…ゆきたんく行き着けの喫茶店)で食べた後、家の近くに土手に行ってみた。昨日の降雨のためにどれくらい江戸川の水が増水しているかを見に行ったのだ。

 土手に上る坂には車がいつもより多く止まっていた。それらの車を抜いていって目に入った表示が「なんだぁ、こりゃあ」である。


このように、車は通れない。イプサム置き去り

 柵が有っては車では行けない。満腹で眠りについたおーちゃんを車に残し、カメラを持っていざ出陣だ。


あらら、土手を境に左が町中、右が江戸川
土地よりも水位の方が高くなっている。

夏模様の青空には似合わない景色が眼前に広がっているのだ。


河川敷グラウンドに続く坂道を降りた・・・

 おぉ、様々な施設が水没している。いつもはあと100mは移動しないと江戸川には着かないのに、目の前から埼玉県まで泳いでいけるではないか。


おーちゃんと遊んだサッカーゴールが・・・

これじゃあ、小さい子が遊んだら溺死する深さだ。
閉鎖もうなづける状況であった。

さあ、これから季節感はどう変わるのか。

 

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感動のバニラのはずが・・・

2008-08-29 20:15:38 | Weblog

 現在8月29日20時13分だ。
なぜこの書き出しなのか。
空が踊っているのだ。
ドンドコドンドコドンの世界だ。
今日の御題は「感動のパニラ」のはずだった。

先日、知り合いと雷の話をしていた。
 友達の家に4台のコンピュータがあって、そのうち3台が雷にやられ、テレビと電子レンジが壊れたという話を聞いた。まあ、相当近くに雷が落ちたということだ。

今、これを書いている時にもビカビカと空は光り、唸っている。

ひとまず、草稿で保存し、コンピュータの電源を落とし、元からプラグも抜いておく。

 30日5時35分
 おはうございます。昨日はあまりにも雷が凄かったので「伝えたんく」の投稿をやめ、雷の動画撮影をすることにした。
 もう、記事を書くのは諦めた。コンピュータが壊れるのは避けたい。
で、ネタは「感動のバニラ」ではない。

 動画を撮ったので見てほしい。
ゆきたんくの家の窓から撮った雷である。
動画を動画で見るのではなく、レタッチソフトでキャプチャーした画面だ。

では、連続9枚。


おっ、やってきた


おぉっ、延びてきた


おおぉっ、さらに…


枝分かれ


それが延びて


あっ、明るい


そしてまた延びて


拡がって


片方だけ延びて

まあ、私も馬鹿なことをやっている。20秒毎に動画を12も撮った。
そのどれにも、大小あれど光っているのが写っていた。
まあ、コンピュータはやめておいて正解だったようだ。

 この連続写真を見ると、雷が光って延びていく間に明るい時と暗い時があるのにはびっくりした。どんどん明るくなっていくと思っていたからだ。

 まだまだ、今までに目にしてきたもので実際のものとは違う理解をしているものがあるのだろう。

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やぁ、びっくり!

2008-08-28 23:30:09 | Weblog

美味い卵

 日本人のご馳走の1つに卵かけご飯がある。
 そう書いたのは、他国の方々は、卵を生で食べることをあまりしないと聞いたからだ。今日ゆきたんくは10年ぶりくらいに「卵かけご飯」を食べた。

 先日、知り合いの仕事を手伝ったお礼にと、いただいた卵があった。
なんと箱入り娘ならぬ箱入り卵だった。16個入りケースとでもいうのだろうか。
下さった方は「これ、お礼ね。卵かけご飯で食べるための卵よ。」と言われていたと思う。生で食べて美味いというのは相当の卵だ。何しろ卵かけご飯などという食べ物を忘れていたくらいだから。


フレッシュ・エッグである。

 昨日はのりたん(ゆきたんくの奥方)がおかずをたくさん作ってくれていたので卵かけご飯はやめておいた。いつものように「ごはーん」と呼ばれて行った先のテーブルに乗っていたのが、最初の写真の卵である。

 ご飯は炊きたてで熱々、それものりたんが研究していた発芽玄米入りである。そのご飯の真ん中に箸でくぼみを作る。
卵を割る。
殻も厚手で丈夫だ。
健康そうな卵。
 ごはんのくぼみに卵を落とす。


黄身の色が鮮やかだ。味が濃そうだ。

 いつも食べている卵より、黄身のオレンジが濃い。白身も粘度が強くしっかりとしている。カラザなんて気にしない。本当に美味そうだ。

 黄身に箸で穴をチョイと開け、醤油を少し垂らす。黄身が気持ち膨らんだ気がする。それを箸でかき混ぜる。ご飯が熱いうちが勝負だ。


久しぶりの卵かけご飯。美味そー!

 味は最高だった。ご飯がどんどん喉の奥に吸い込まれていく感じだった。
胃がご飯を欲しがっているようだった。下さった方が言われたことが良く分った。
この卵ならば、どんな料理を作ってもうまいだろう。生卵でこんなに美味いのは初めて食べた。

 最後に卵の生まれた地を記しておく。このブログで迷惑をかけてはいけないので電話番号は載せないでおく。興味がある方は調べていただきたい。

 (有)押木養鶏場
   千葉県船橋市二和西5-8―5 

たまごやさん

 


 (有)押木養鶏場龍ヶ崎農場
   茨城県龍ヶ崎市貝原塚町2963 

たまごやさん

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鎌ヶ谷大仏

2008-08-27 21:01:53 | Weblog

鎌ヶ谷大仏

 26の時に埼玉県から千葉県に越した。
最初は船橋市に住んだのだが、アパートを探す時に新京成線に乗った。
松戸から北習志野までの初めての乗車がすごく長く感じられた。

「なんかゆっくりと走る電車だなぁ。」
 それもそのはず、新京成電鉄の松戸・習志野間はとくにグニャグニャしているからだ。その時は軍用線の軌道敷跡を利用しているなんて知らなかった。

 途中我に返ったのは、「・・・・・大仏ぅ~、鎌ヶ谷ぁ~大仏ぅ~でございます。」の車内アナウンスが聞こえたからだ。最初の方は聞いていなかったといって良い。

 それほど衝撃的なアナウンスだった。聞いたことがない大仏だったからだ。

 それから3年間、船橋市民として暮らした。その次は3年間鎌ヶ谷市民になった。その6年間のうちの5年間は鎌ヶ谷在勤だったのにもかかわらず鎌ヶ谷大仏のことは記憶から消えていた。

 松戸に引越したその年、父親の実家へ行った帰りに鎌ヶ谷大仏のことを思い出し、地図を頼りに行って見た。

 


墓地の中にある鎌ヶ谷大仏
蓮の花の台座から頭頂までは1.8mで、ゆきたんくの身長と同じ
周囲の墓石と比べると、その大きさが想像できると思う。

 地図に載っている墓地の前を通った。大仏らしきものは目に入らなかった。
途中で向きを変え、再び墓地の前を通った。また大仏らしきものは目に入らなかった。ゆきたんくの目は、そう7mくらいの大仏を想像して上を見ていたのだが空しか目に入らなかったのだ。

 近くの路地に車を停め、地図で確認しながら墓地に着いた。
すると目の前にかわいい大仏様がいるではないか。


正面から見た、鎌ヶ谷大仏

大仏様の横には鎌ヶ谷市教育委員会の解説版があった。
そこには

 通称鎌ヶ谷大仏と呼ばれている。
 安永5年(1776年)11月、当時鎌ヶ谷邑の住人福田文右エ門が先祖の冥福を祈 るため、江戸神田の鋳物師多川主膳に鋳造させた高さ1.8米の青銅で作られた露座の大仏である。
 その柔和なまなざしは、永く後世の人々に平和をさとすかのようである。これが開眼に当たっては上記福田文右エ門宅より大仏墓地に至る迄の約300米にわたる道路にござがしきつめられ、供養を行う関係者の歩行をたすけたという。これによっても当時の盛況をしのぶことができよう。

                         昭和48年10月  鎌ヶ谷市教育委員会

とある。 なんと一民間人が造った大仏なのである。
一般的には知られていない大仏であるが、ご先祖様に対しての気持ちをこのように表すことができることもすごいと思う。

 

鎌ヶ谷大仏

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青春の続きは

2008-08-18 23:37:07 | Weblog

昨日は少し寂しい記事を書いてしまった。

室伏選手の父親の談話では、現役続行とのこと。
本人は腰の痛みについては語らず。

「自分のできることをやった。」ことの大切さを以前から話していた。
 ハンマーヘッドの加速についての博士論文を書いていることから、それを検証しなくてはならない立場にもある。それを自らの体をでやるのか、他の選手がやるのかでは自分の人生における満足度も違ってくるのではないだろうか。

 昨日の記事を、自分の耳に入ってきた事実を元に、自分のものさしの常識で膨らませてしまって、室伏選手には申し訳ないと思っている。

 そして、それを長男のおーちゃんの引退に絡めてドラマチックな展開にひたっていたのかもしれない。

 室伏選手の青春は「ハンマー投げ」なのだろう。今から30年ほど前、八カ国対抗陸上という大会があった。その時のハンマー投げ日本代表は室伏重信選手だった。
 その室伏選手を見たいために集中していたのだが、目の前の通路で騒いでいる子供がいた。
 「パパァー、頑張れー」と繰り返し叫んでいた。
 競技を終えた室伏選手は、私の近くのスタンド席に座った。さっきの子供はその席に走りよっていった。そう、その子供が広治選手だったのだ。
 まだ3~4歳の頃だ。その頃からハンマーに親しんでいたという。人生の殆どをハンマー投げとともに過ごしてきたのだ。

 これからの残り少ない現役生活を、自らの研究の検証材料として完全燃焼するのだろう。自らの肉体がその検証に耐えられなくなった時、彼に変わるタレントが日本に存在するのだろうか。学者・指導者としての彼の人生がロンドン・オリンピック以降に始まるのかもしれない。

 バレーボールでいうアメリカ監督の郎平氏(中国)のように他国のコーチになっている可能性もある。旧ソ連(ロシア)のリトビノフ選手(ハンマー投げ…世界歴代3位86m06)は世界歴代2位のイワン・ティホン選手と世界歴代4位のワジム・デビャトフスキー選手のベラルーシ勢を育てている。
 室伏選手も英語をはじめ、言葉には堪能だというから可能性が高いだろう。
まずは、自らの肉体で検証・考察し強い日本人選手を育てる指導者になっていただきたい。

 そうすると私も、長男のおーちゃんもずっと青春をしていられる気になるからだ。

これからも室伏選手には、様々な形で頑張っていただきたい。

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青春・・・

2008-08-17 23:59:05 | Weblog

北京オリンピックで楽しみにしていたハンマー投げが終了した。

日本の期待を背負った室伏選手は5位入賞を果たした。
33歳という年齢から、優勝は難しいのではと思っていたので十分だった。4年間お疲れ様でした。

 金メダルを獲得したアテネオリンピックの次の年は休養に当て、休養明けの一昨年は世界大会は82m以上の記録で負け知らずであった。博士号課程の論文に忙殺された昨年は82m以上が1回で、後は満足のいく投げは出来なかったと思われる。
 良い時と悪い時が混在するのは、「伸び盛りの時」と「衰えてきた時」だ。今年に入り、調整しながら頑張っていることは分ったが、腰椎捻挫になったと聞いた時には体の衰えが迫ってきている、今までの負荷に体が耐えられなくなってきたことを感じた。

 今日の投げをテレビで見ていたが、技術的にはこれ以上ないという完璧な投げではなかったかと思う。それプラス体力でさらに記録は伸びたはずだ。

 今から23年前、室伏選手の父の室伏重信選手が日本新記録を出した。25歳の時の記録を12年ぶりに更新したのだ。ゆきたんくは大学を卒業し、ハンマー投げやる環境にはなかったので、重信選手の情報はかかさずに集めて青春を楽しんでいた。
 そしてロス五輪(1984)で自己記録には程遠く、予選落ちした姿を見て年齢にはどんな名選手も勝てないことを感じた。後に水を抜くほど、膝に水が溜まっていたことがわかるが、これぞ体の衰えだ。しかし、当時は「中年の星」とか言われて話題になっていたし重信選手も頑張っていた。

 そしてゆきたんくの陸上競技にかける青春の火は重信選手のフェードアウトともに静かに消えていった。

 先日、ハンマー投げをやっている長男のおーちゃん(写真)が、大学を卒業したら陸上は終わりにすることを言っていた。来シーズンを10年間の青春の締めくくりにするつもりらしい。日々衰えていく室伏広治選手の姿を見て、引退が近いことを感じ自分に投影したのだろうか。
 テレビ観戦で室伏選手が投げる度、納得いかない顔をしているのを、きっとこうだと解説してくれる。もう自分が投げているつもりなのだろう。
 ゆきたんくは、息子と話をしながら、青春時代に引き戻されていた。もう体はハンマーを投げるどころではないが、テレビを見ている時にサークルの中に立っている自分を感じることができたからだ。いわゆるバーチャルな青春である。

 そんなゆきたんくとは逆に、現役としての現在進行形の青春のまとめに入っているおーちゃんを見て、大人になったなあと思うゆきたんくであった。

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忘れないで・・・

2008-08-14 22:19:36 | Weblog

もう平成も20年を数えた。
ゆきたんくの生まれた昭和に直すと昭和83年。
戦後63年になるのだ。

戦争を経験された方で、記憶が定かな方が年々減っている。
終戦時20歳だった方でも、今年は83歳になられるのだ。

 ゆきたんくは戦後15年に当たる昭和35年の生まれなので、戦争については、人の話や文献や調査で知る意外には手だてはないのだ。

 本日柏方面に用事があってでかけた帰り、何か気になって柏公園の方に行ってみた。柏公園の入り口近くの民家の塀には陸軍境界標柱のようなものを2本見つけたことがある。通常、「陸軍」、「陸軍用地」と彫ってあるのだが、この2本には彫ったような形跡が見られなかった。
 ところが、柏公園入り口の門柱の近くには陸軍とはっきり読み取れる境界標柱を見つけたのだ。それが写真の標柱だ。上の部分が、欠けているがはっきりと字が読み取れる。
 すると前に見たことのある境界標柱に似ているものは境界標柱に間違いはない。

 ゆきたんくは戦争遺跡に興味を持つ前は、境界標柱なんて抜いてしまえばいいくらいに思っていたことがある。標柱に刻まれている「陸軍」の文字にさえ気づかなかった。

 人の証言を得にくくなった現在、無言の会話をできるものと言ったら、写真にある境界標柱などのものだろう。

 ゆきたんくの住んでいる松戸市の調査でも、境界標柱の位置から、昔あった施設の大きさをシュミレーションしながら計画を立てた。
 

 その元になる情報というのは、日本各地の戦争遺跡からなのだ。
戦後63年。生き証人が減り、遺跡も減る。今のところ保存などをする予定も聞いたことはない。そうなると、写真にあるような遺跡が頼りになる。

この標柱に口があったら、なんていうだろう。
自分の存在を忘れない゛てほしいに違いない。 

陸軍境界標柱柏公園
写真の境界標柱の位置

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一生懸命

2008-08-13 23:52:25 | Weblog

 昨晩から、先ほどまでにかけて所用ででかけていた。
そして、長時間ドライブの時に思い出したことがあった。
友人と運転を交代しながらのドライブであったが、助手席にいる時には、景色を撮るカメラマンと化してしたゆきたんくである。

 そして、熱せられた道路がどのようになるか。
「逃げ水」というのをご存知だろうか。
地面が濡れているように見えるのだが、近づくと水などはどこにもない。そればかりか、目の前にあるのは、カラカラに乾いた熱せられた地面なのだ。

子供の頃、田舎に数日預けられれば、その間は遊んで暮らすのは当たり前であった。
そして、中には直線で長い道路が存在していた。その頃(40年前)は舗装なんてしてない、土に砂利が混じった道なんてぇのは田舎では当たり前だった。

 ゆきたんくは、晴れの日になると見える、その「水たまり」を今日こそは確認するぞと一生懸命であった。それこそ夜も寝ないで、「水たまり」のことを考えた。

 どうすれば、あの水に触ることができるのか。どうすれば見失わないのか。
本気で真剣に考えた。親戚のおじさん、おばさんに聞くなんてつもりは全然なかった。

 毎日毎日、一生懸命に水を追いかけた。
そのうちに気がついたことは、雨や曇りの日には出現しないことだった。

理屈は分らないけれど必死になることってこどもの頃は多かったように思う。

「逃げ水」を見てそんなことを思い出したゆきたんくであった。

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ものさし5

2008-08-07 23:31:07 | Weblog

 今回の大男3人衆の旅のプランナーはゆきたんくである。
昨年の白川郷が大うけであったからだ。
今年は、その3人の未踏の地として四国を選んだ。
それも一泊二日で4件を制覇しようという試みだ。

徳島の鳴門、徳島ラーメン
高知の桂浜、かつおのたたき
香川の金比羅、さぬきうどん
愛媛の道後温泉、ぼっちゃんだんごにじゃこてん

史跡と食べ物のセットが、その地の文化を知るのに一番だ。
そして、後は「思いつきオプション」を加えて旅を満喫しようと言う訳だ。

 HISの企画の中から、飛行機、ホテル、フリープランというカテゴリーで安いやつを見つけた。そして、レンタカーの手配、羽田での駐車場の確保をして準備万端だ。

そして、気ままな旅の中で考えさせられたのが写真の所である。
鳥取県の鳥取砂丘の一部もこのように見えるが、鳥取砂丘ではない。


鳥取砂丘である。

写真は、香川県最西端にある琴弾公園の銭型だ。
近くで見ても何だか分らない。
公園の展望台まで行く。そこからだと、

 
銭型が良く見える。
そしてその向こうには瀬戸内海が広がる。


見事な「寛永通宝」だ。

 

 銭型のサイトを見て分りやすいのがあったので引用した。読んでほしい。

 琴弾山一帯に広がる公園で、展望台から眺める銭形砂絵が有名。これは寛永通宝をかたどった東西122m、南北90m、周囲345mの巨大な砂の芸術で、1633年(寛永10)高松藩主・生駒高俊[いこまたかとし]の領内巡視を歓迎するため一夜で造ったという。

ということだ。今でも台風後や、年に2回は補修をして景観を保っているという。
 この銭型、近くにあると、訳が分らない。しかし離れてみると全体像を見ることができる。対する見事によって、ものさしを変えねばならない好例であると思う。  

琴弾公園
琴弾公園(香川県)の位置

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1日目

2008-08-05 23:57:06 | Weblog

さて、大いに騒いでホテルに帰った。疲れていたのか携帯片手に力尽きた。後で編集する。はい。

 ここまでが、先日打ち込んだやつである。


高知行きの旅客機の窓から

 いやいや、大男3人がゆきたんくのイプサムに乗って羽田に向かう。
小1時間でイエローパーキングに到着。車を預けて空港まで送ってもらう。

ゆきたんくは羽田から飛行機に乗るのはのりたんと新婚旅行で北海道に行った時以来だから21年ぶりである。当時飛んでいた東亜国内航空は今はもうない。今日はJALの中型機である。

 日本で初めて人名の着いた高知龍馬空港まで1時間強。速いよねぇ。

 高知からは、かねてから手配のレンタカーでホテルオリエント高知に向かう。


高知の路面電車「土佐電気鉄道」だ。
行き先は「ごめん」。綺麗な女性運転士だった。

 高知の人は、道路センターラインから、随分遠慮して走るんだなぁと思っていたら、路面電車が走っていたのだった。
 東京の都電と違い、庶民の足として市民権を得ている感じがするなぁ。


ホテルオリエント高知である。
北京オリンピックのオーストラリア陸上チームが宿泊していた。

 ホテルインも済まし、飯を食べ、市内観光をした。

 詳しくはまた。

 最初の写真は「はりまや橋」である。

 

はりまや橋
はりまや橋の位置

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