伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

雷雨

2008-08-04 23:44:07 | Weblog

 数日前から天気のことを気にしていたゆきたんくである。
昨年白川郷を旅した3人組の今年の行き先は四国である。
高知龍馬空港に降り立ち 、ハイブリッドのレンタカーで龍馬脱藩後の道のりを辿ったり、鳴門の渦潮、さぬきのうどん、そして1泊2日では道後までは足を伸ばせないので、愛媛県東の別子銅山跡も計画に入れた。
これで四国4県を回ることが出来る訳だ。
 と、あくまでも計画上の話である。盛りだくさんの計画になっているので、何かを削らなくてはならないだろう。それも、晴天という条件を満たした上である。もちろん曇天でも可能なのだが、夏の四国は晴天の方がいいだろう。

 写真は、今夜ものすごい雷雨の時のものである。ゆきたんくの家の窓から撮ったのだが、あまりの凄さにコンピューターの電源を切った。近隣に落雷でもしようものならば、データが飛んでしまうからだ。
 台風も近づいているという。5~6日の2日間の旅が終わった後には2日間の出張が控えている。台風のため欠航なんてことになったらどうしよう。
 それよりも生まれて初めての四国に胸がわくわくしている自分がいる。
 あっ、徳島ラーメンを忘れていた。
 それと・・・・・・・出張後は胃カメラを飲む予約を入れている。

 うんうん、盛りだくさんの予定だ。
 その後も仕事が入っている。12日がお盆前の最後である。この中休みをどう過ごすかで、8月後半の仕事への身の入り方が決まる。

 「四国での研修をしっかりとやり、出張もあいつとめ、胃カメラも異常なし」これがベストのパターンである。

 そうなることを祈って、出かけてきまーす。

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ご用達

2008-08-03 23:34:05 | Weblog

またまた、野田市内のテーマだ。

宮内庁ご用達の品々と言えば、質の良いものが並ぶのではないかと思う。
千葉県北西部の東葛飾地方には6つの市があるが、その中で宮内庁ご用達の品を作っているところが野田市にあるというので写真を撮ってきた。

 一枚目の写真を見ていただきたい。ご用達醤油作りの場所である。まるで小さなお城の造りである。一般的な工場とは訳が違うらしい。

 実は野田市の報恩寺に防空壕の取材をしていた時、すぐとなりにあったお城造りの醤油工場を見つけたのだ。


お堀がある。白鳥がのどかに浮いている。

 醤油工場でなければ、何かの史跡の1つとして、頭の隅しまう癖がある。
しかし、前から現在地にお城造りの醤油工場があることは知っていた。

 突然表れた小さなお城にびっくりし、位置的に醤油工場と一致し、それがご用達の醤油を作っているお城だと知って、もう1回びっくりした。
 不意打ちであるから、その嬉しいショックはとても大きかった。
 


水と緑に囲まれた、醤油工場

  醤油の街「野田市」。野田市の中心地、愛宕の辺りに飯田家による「野田醤油発祥の地」がある。醤油醸造の歴史は1500年代から始まっている。キッコーマンのような大企業が醤油造りを始めるまでもなく、野田は醤油造りに適した場所ということが分る。


野田醤油発祥の地

 そのような環境で、宮内庁ご用達に使うことができるような、一級品が生まれるのだろう。人間がどんなに頑張って工夫しても、適した環境と、時間をかけたものよりも美味しいものはできないはずなのだ。

 

野田醤油発祥の地
野田醤油発祥の地

 

宮内庁醤油
お城の醤油醸造所

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暑い

2008-08-02 23:56:48 | Weblog

 今年も暑くなってきた。しかも、明朝は27度で寝苦しい夜になるという。これを打っている現在も、部屋の中は30度である。冷房が壊れ、縦型スリムファン(写真)というので涼をとっている次第だ。

 今日は、休日であったが、仕事はある。午前中の涼しい時に、少しでもやっておこうと職場に向かった。自宅から職場までは25分くらいだ。車に乗る時はまだ涼しかった。職場に到着し、ドアを開けたとたんに熱気に跳ね返され。そう、映画で鍛冶のシーンがあって、ドアを開けたら火の海なので慌ててドアを閉めるシーンがあるが、そんな感じだった。

 まあ、悪戦苦闘しながら、仕事を終えた。帰宅途中で給水のボトルは空になり、車内の冷房も効きが悪い。UVカットのはずの窓から差し込む日光が肌を焼く。もう、そのまま涼しい所で昼食を摂ることにした。

行き先は、ゆきたんくのフェバリットな店「千菓進(ちかしん)」である。
まずはトマトジュースで喉を潤し、最近始めた「冷やし中華」を2玉で頼んだ。通常が1.5玉だから、それよりも多いのだ。


涼味と酸味のバランスが抜群。千菓進の冷やし中華
写真は2玉のやつ。近くのタバコの箱で大きさが分るでしょう。

 行儀が悪いが、食後には冷たい水を飲みながら。置いてある漫画に目を通し、しばらくの間、体を冷やしていた。
 気が済んだので、おあいそをして帰ろうとした時、マスターからお土産をもらった。


葉山夏みかんサイダー

 暑いから今すぐ飲みますか?と聞かれたが、葉山ワインが使ってあって0.5%だという。普通の人は大丈夫かもしれないが、ゆきたんくはビールツーフィンガーで寝るやつである。これを飲んで、警察につかまってたらたくさんの人に迷惑をかけてしまうので遠慮した。

 奥さんのお土産にでも・・・・

 そう言って、キンキンに冷えたサイダーをいただいた。
 温かい思いやりの心が、体も気持ちも爽やかにしてくれた。

 今日、2玉の冷やし中華をペロリと食べたら、となりにいたお客様(常連でゆきたんくの知り合い)が、「え~っ、もう食べちゃったのぉ」と驚かれていたが、自分でも速いのに驚いた。
 熱いお茶は、ゆっくりとすするのに対し、冷たい麦茶は一気に喉を通るだろう。そんな感覚で冷やし中華を食べていたようだ。

 さて、前日私の上司と昼飯を一緒に食べたのだが、上司は「暑い時には、熱いやつを汗を流して食べるのが健康的なんだ。」と言って、写真のラーメン(3玉)を完食した。さすがのゆきたんくも驚いた。ここのラーメンは旨い。実に旨い。ゆきたんくの中では、ナンバー1(しょうゆ)であるのだ。
 今から10年前くらいだと、いつも大盛りを食べていたが、今では食べることはない。それなりに歳をとったのだと自覚せざる得ない。


ラーメンハウス中島の大盛りラーメン
流山市平和台駅そば

 ゆきたんくの長男、おーちゃんの話である。家族4人で中島に行った時、大盛りラーメンを食べ、女房が食べ切れなかった2玉(通常の盛り)ラーメンの1玉分をスープごとペロリでまだ食べられそうだった。その食べっぷりは熱い。

 あっ、時間が随分経った。そろそろ寝ますわ。明朝は暑さで目が覚めるのかなぁ。

お休みなさい。

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間(ま)が・・・

2008-08-01 23:00:46 | Weblog

 私の特性として、興の乗ったものはすぐに取り掛かる習性がある。だが、今回は3ヶ月も間が空いてしまった。知人が4月に紹介してくれた物件があった。しかしながら、それは家作ではなく街に残る史跡の類である。

 今は夏、日がまだ長いので、5時で仕事を終わり、現場へ直行した。場所は野田市立福田第一小学校北東の角になる。


福田第一小学校の北東の角地にある庚申塔群

 知人が4月に紹介してくれてから、3カ月。取材までにこんなに間が空いたのは初めてである。仕事が忙しいのを理由にノビノビになっていたのだ。
 しかしである。物件があると聞き、期待に胸を膨らませて行って、も分らなかったり、そんなにたいしたことなかったりが相場である。

 今回の物件は知人のお勧めだけあって、とてもりっばな庚申塔群だ。特に4つ並んだ「面金剛(しょうめんこんごう)」様の顔が整っている。こんなに綺麗な状態の面金剛様を見たのは初めてである。



一番大きいのは庚申が彫ってある。

 そして何よりも謎なのは、この場所に来なかったことだ。別に面倒くさかった訳ではない。今までの取材生活(笑)の中では考えられなかったのだ。
 かつて、この場所がこの地域の情報交換の中心になったのではないだろうか。それとも、この地域に散らばっていた庚申様達を一元管理するために、この場所にあるのだろうか。と考えればキリがない。

 知人との約束を守ると言えば、ちょっと大袈裟だが、気分がすっきりした。

 また、福田第一小学校敷地内の体育館横に、小さな石碑が立っていた。道路側からでも写真はとれたのだが、背を向けているので今回は諦めた。福田第一小学校の先生がいらっしゃる時に、断って撮影をしたいと思う。

福田庚申塔群

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今は昔

2008-07-31 23:15:50 | Weblog

えーっ、千葉県野田市のシリーズが続いています。

最近たばこを購入するためのカードとか、値上げとか、訳の分らない話が多い。
というよりも、ゆきたんくはタバコを吸わないので興味がないと言った方が正解に近い。

日本専売公社というのが1985年まであった。現在の日本たばこ産業(JT)の前身である。

 かつて存在した特殊法人で、「三公社五現業」の一つだった。

昔、社会科の時間に聞いたことがあるような言葉「三公社五現業」ってなんだったっけ。

 調べてみた。
三公社は、日本国有鉄道→JR
       日本電信電話公社 → NTT
       日本専売公社 → 日本たばこ産業(JT)

五現業は、日本郵政公社に移管の後
                →日本郵政及び傘下の4事業会社に分割・移管
       国有林野事業
       日本銀行券、紙幣、国債、印紙、郵便切手、郵便はがき等の印刷
       の事業     → 独立行政法人国立印刷局に移管
       造幣事業 → 独立行政法人造幣局に移管
       アルコール専売事業 → 日本アルコール産業株式会社となる

結局、その時その時の都合の良いように形が変わってきたのだと考えればいいのか・・・。

 えっ、野田市に何の関係があるかって?
そうでした。離合集散はいたるところであるが、後始末がどうもね。


専売公社跡地(避難場所)の表示

という、ゆきたんくなりの感じ方かもしれない。千葉県野田市の避難場所である「専売公社跡地」看板を見つけ中(最初の写真)を覗いたら一抹の寂しさを感じた。

「アパートの部屋の中が、前に住んでいた人が荷物を持って出て行った。大家さんは何もやっていない。」という感じだ。跡地入り口の門はボロボロ。新品のぴかぴかである必要はないだろうが、普通に開け閉めできるコンディションだといいと思う。
 中は草が生え放題。敷地内の古い建物はそのまま。跡地であり、史跡だというカテゴリーならばしっかりと保存してほしい。専売公社が歴史を閉じて23年。ずっと放って置かれたのだろう。同じ市内の旧関宿小学校跡地のように活用されないのだろうか。最も、土地の所有はどこなのかでも変わるだろう。

 

旧専売公社跡地

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いよいよ8月

2008-07-30 23:29:25 | Weblog

日本人にとって、忘れてはならない日がある。
そう、8月15日。終戦記念日である。
太平洋戦争に負けた日であるが、敗戦とは言わず終戦という。

テレビで終戦記念日に流される、昭和天皇の玉音放送は何回か聞いたことがある。
つまり、日本が戦争を終わらすために天皇陛下がご英断をされたということだ。
その英断の影にいたのが、終戦時に内閣総理大臣であった鈴木貫太郎氏である。


鈴木貫太郎氏の墓

鈴木氏は、大正~昭和中期までの軍人であり、政治家であった。
早くから海軍を志した。卒業後、日清・日露戦争で活躍。水雷戦術に優れ、特に日露戦争では、駆逐隊を率いて戦艦3隻を撃沈するなどの戦果を挙げた。

その後、海兵校長・海軍次官などを歴任し、特に海軍次官の時には「シーメンス事件」が発生、今で言う収賄の類だ。政治問題に発展し、八代六郎海相を補佐し、山本権兵衛や斉藤実らの海軍の長老を次々と待命とするなど、強硬な態度で臨んだという。あっぱれである。待命は半年の猶予を持つ事実上の解雇ではないか。
東郷平八郎元帥も抗議したが、突っぱねられたという。
国を動かす者は、それくらいの厳しさを持っていないといけないだろう。鈴木氏は自分にも厳しかったことが伺える。


墓の周りを囲むように設置されている貫太郎氏の略年譜

その後、連合艦隊司令長官や海軍軍令部長などを歴任し、侍従長として7年間、2.26事件で重傷を負うまで、昭和天皇の側で仕えたという。

ここまでで信頼の厚い人物であることは理解できる。
その鈴木氏が79歳の時だ。昭和20年の4月、沖縄で激しい戦闘が繰り広げられていたころ、首相指名の依頼があった。高齢を理由に固辞したが、天皇直々に「どうかまげてやってもらいたい」などと説得されて首相の座に着く。天皇陛下の信任厚い人間であった。

その年、原爆投下による甚大な被害やソ連の満州侵攻が起こった。それでも徹底抗戦を主張する陸軍に対して、鈴木は天皇に「聖断」を仰いだ。その結果、終戦を迎えることができた。その後鈴木氏は暴徒に官邸、私邸を焼き討ちに遭ったが、危うく難を逃れ、関宿に居を構え悠々自適の静かな生活を楽しんだ。

終戦後2~3年の時間だった。

 現在は野田市関宿の実相寺に眠っておられる。

 


鈴木貫太郎記念館

 

 

実相寺

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ずっと・・・

2008-07-29 23:45:48 | Weblog

野田市(旧関宿町)の小さな街道に、お地蔵様がいらっしゃる。
きっと後から作られたであろう小さな祠に守られて・・・

 お地蔵様は、一般的には「子供の守り神」として信じられており、よく子供がよろこぶお菓子が供えられていることがある。親しみをこめて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼んでいるが、詳しいことは知らない方の方が多いだろう。
調べてみた。


きれいなお地蔵さまだ。
赤い字は作られた当時のものだと言われている。

 地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)、梵名クシティ・ガルバは、仏教の信仰対象である菩薩の一尊だ。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言うのだそうだ。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ、救う所から名付けられたとされる。

 今までは何気に「お地蔵様」、「お地蔵さん」と読んでいたが、随分と深い意味があるのだなと思った。もっとも宗教に関係することで意味の軽いものはないだろう。また地蔵十王経によれば閻魔大王の化身ともされている。地獄の門番の化身にはどうしても見えないが、そうであれば道端ではなく、分岐点に立っているお地蔵様の持つ意味はどうなるのだろう。

 お地蔵さまの役目は、お釈迦様が亡くなってから五十六億七千万年後に救済者弥勒菩薩が登場するまでの間、私達を救うことだという。
 釈尊が入滅し、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの仏のいない時代に、地獄・飢餓・畜生・阿修羅・人・天の六道(りくどう)に輪廻(さまようこと)して苦しむ人々を救うという菩薩だという。実際に真言宗のお寺では、六地蔵が必ずある。



道の分岐点に立つお地蔵さま

 上の写真を見て思うことだが、現在では何軒かの家屋が建っている。このお地蔵様が作られた頃はきっと何もなかっただろう。このように舗装された道路も、植え込みも存在しなかったはずだ。

 お地蔵様を良く見ると、「是より右は大町通」、「是より左は木町通」と刻まれている。道しるべの役割も果たしていたようだ。それらの字の下には、「桐ケ作村施工」と施工年月日(はっきりと読み取れない)があるから、刻まれた道案内は最初からあったと考えられる。今日の項を書きはじめた時、深く考えすぎて、分岐点に立つお地蔵様の意味を捉えようとした。そんなことではなく、道を確かめたり、ここを通る時に拝んだりしたのだろう。道行く時にお地蔵様のありがたみ、日常に幸せに感謝していたのに違いない。

 

 

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その昔

2008-07-28 22:45:04 | Weblog

「…夜の交通安全を守ったんだろうなぁ。」と思う常夜灯。

 様々な場所に遺されているが、元の場所に設置されているかどうかははっきりしないものが多い。写真の常夜灯は、流山街道(千葉県野田市山崎)にあるものだ。ここを所用で通るたびに目にしていたものである。コンクリートは土台だけで、そこから上は木でできるいる。屋根は金属でお覆われているが昔はどうだったのだろう。
 ある家の囲いが、鮮やかな水色のトタンなので場所を見失うことはない。
何の説明もないが、野田市の史跡みたいな扱いか、私物ということで同じ場所にあるのだろうと思っていた。

 ある日、ここを通りかかった時に交通量が少ない時があった。この場所で自分の車1台しかいない時があったのだ。すかさず道路脇に車を停め、この常夜灯をアップで撮った。中に白熱電球がはまっていて、屋根の端には電線がつなげてあるではないか。


アップですぅ

 「もしかして、これは点くのかな。」と考えもしたが、いつの間にか忘れていた。

 その後もいくつか常夜灯を見つけたが、ここのやつほどのインパクトはなかった。
 所用で、この常夜灯の前を通ることは何回もあったのだが、目も留めないことが多くなった。
 ある日のことである。関宿方面に夜から出かけ、松戸方面に戻っている最中にこの常夜灯を見つけた。夜で薄暗いはずなのになぜ見つけることができたか。

 常夜灯にハマっている白熱電球が点灯していたのだ。
 とても不思議な光景だった。いくつもの時代を超えて来たのかもしれないような常夜灯が、今現役として役に立っていることはうれしいことだ。

  常夜灯

 いつ行っても見れる常夜灯。不思議な存在感があります。

どなたか詳しいことを知っておられる方はいらっしゃるでしょうか。

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先人の苦労

2008-07-27 22:32:21 | Weblog

ゆきたんくが現在住んでいる所は、その昔水はけが悪く、洪水に見舞われたり、作物(稲)がとれなくなったりした所だそうだ。一枚目の写真は、松戸市博物館で学芸員さんの許しを得て撮った写真だ。下の写真は現在の様子。ほぼ同じ位置といってよいと思う。

 話を戻そう、大雨の際には洪水になる要素がたくさんあるだろう。農業用の水路はあったが、藻や葦などで、川がせき止められ、水が溢れるのだという。
 あの溢れた川は現在の坂川だ。逆さまに流れるので逆川というありがたくない名前も頂戴している。ここらの住民は、坂川の下流側の住民にお願いした。水が溢れた時のためにそれを流す樋門を作ったり、新たに川を掘ったりしたいと。

 下流側の住民は大反対、自分達も上流側の人間と同じ思いをしたくないのは人情だ。また莫大な金と労働力がいるということで幕府に願い出ようとする者もいたが、江戸へ行くためには下流側の土地を通らねばならないので、邪魔をされたこともあるし、命を落とした者もいるという。

そんな様々な苦労を味わい、苦労、工夫して、現在の形になってきたのだ。


現在の様子

 ゆきたんくは、ここに住んで15年目を迎えるが、すねの真ん中まで水が上がってきたことが2回ある。どちらも台風の時であった。翌日は水は引いていたが、水が運んできた物の始末に追われた。

 道路も舗装されているので、しばらくすると元に戻ったが、あの当時はどのような状況だったのだろうか。

 先人の苦労があって初めて、後につづく若者たちに近づくのだ。

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どこまで・・・

2008-07-26 23:55:45 | Weblog

今年の夏も暑くなるのは目に見えている。
え?、もう暑いって。
その通りでございます。

 地球温暖化が叫ばれているが、もう人間の手には負えないほどの存在になっているのだろうか。ヨーロッパ方面はもう暑いという。イタリアでは40度を記録したのではないだろうか。赤道直下のインドネシアに住んでいる義兄は、「日本はモンスーン気候だからここよりも暑いよ。」と言っているが、それだけではない気がする。
夏の茨城(父の田舎)
カメラの絞りが自然にかかる日差しの強さ

 青空に浮かぶ雲が綿菓子のように見えるのを待っていた幼い頃。あの時の夏は宝物にように感じた。

 道路に見えた水溜りを、追いかけても追いかけても触ることが出来なくて悩んだ小学校1年生の頃。水は意思を持っていると信じていた。

 サンダル履きで足の爪を割り、痛みを感じながらも遊びの楽しさの方が大きかった小学校中学年の頃。夢中になると痛みを感じないことを不思議に思った。

 ヒーヒーハーハーいいながら、日の暮れるまで遊んだ記憶は、数え切れない。その乾ききった喉に、本の一口のヤクルトが美味しかった。

 夏って、沢山の思い出が宝物になる季節だったと思う。

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どっち

2008-07-25 23:56:48 | Weblog

 写真は、群馬サファリパークのフラミンゴだ。
フラミンゴの体の色、正確には羽毛の色は鮮やかな明るい紅である。
 この色はフラミンゴの餌である藍藻類の色素によるもので、動物園で飼育する場合、飼料に色素を添加する事で保っている。

①しかしねぇ、そんなにまでして鮮やかなフラミンゴにすることが良いのだろうか。
動物園の動物は「見世物」には違いない。一般的には自然な形態を見てもらうための工夫はしているだろう。白熊の所にはプールを作ったり、ナマケモノの所にはぶら下がるための枝をを用意したり・・・。 動物園では、野生のフラミンゴが摂っている栄養を補填した餌を与えているのだというが、そんなことをしなくてもフラミンゴは生命を保つことはできるだろう。

②もともとフラミンゴという名称は、ラテン語で炎を意味するflamma由来しているのだという。ならばフラミンゴは自然界に属する自然な姿の紅色でなくてはならないだろう。よって飼料に色素を加えることは必須だ。

さて、皆さんの意見はどちらですか?

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AED

2008-07-24 22:44:13 | Weblog

 とは、
心室細動とは心臓の心室が小刻みに震えて全身に血液を送ることができず、心停止の一状態だ。 心臓は電気刺激が順番に伝わることによって規則的に収縮し、血液を送り出すポンプの役目を果たしている。
 心室細動ではこの電気刺激がうまく伝わらず、心筋が無秩序に収縮している状態だ。
 これに電気ショックを与えて、心臓の働きを戻すことを試みる医療機器のことをAED(Automated External Defibrillator)という。

 自分が初めて心室細動という言葉を聞いたのは、高円宮様がお亡くなりになった時である。少しだが、サッカーに興味を持ち始めた頃で、高円宮杯という冠試合があることも知った。その直後に、テニスをやられた時に心室細動で亡くなったのだ。

 スポーツに深い造詣のあった宮様のことだから、こういう形で少しでも安全にスポーツが出来る環境が整えば喜ばれると思ってのことだろう。

 会社で学校で、官公庁でAEDの研修は必修になってきた。
写真のAEDは北陸道の新潟県名立谷浜サービスエリアにあったものである。公的な場所に頒布され、様々な所で研修が行われ、そして何よりもその物があること。そういう環境は良い環境である。このような三位一体の取り組みが国をあげて行われることは良いことである。

 たまには、やるじゃないか日本。

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意外

2008-07-23 20:25:22 | Weblog

いやぁ、夏の暑い時に暑い話で恐縮する。
旅行で青森に行ったが、「東北地方は涼しい。」というイメージは崩れ去った。
東北自動車道を北上していくと、道路沿いにデジタル電光温度計が設置されているのだ。それが、途中一泊した岩手辺りでは32℃となり、中尊寺の参道、月見坂付近で熱中症の症状が出始めたのだ。

 衣川荘という国民宿舎で、氷で頭を冷やし、夜中に何度もトイレに行くという体調であった。青森に行けば涼しくなるだろうという期待は・・・・

 高速の温度計は、33度、34度と上がっていく。「もうだめだ。この世のなごりに十和田湖を見たい。そしてゆきたんくに初めてハンマー投げを教えてくれた菅原武男さんの母校(毛馬内高校…現十和田高校)のある毛馬内に行きたい。」と大げさを装いながら寄り道をした。十和田湖畔は涼しかったような気がするが、車を停めたところがキャンプ地で公衆トイレがあり、それに駆け込む有様であった。

 青森は暑かった。十三湖畔にある「岩亮」という旅館に泊まり、夜の涼しさも手伝って体調が回復してきた。(そんなこと言って、五所川原の立佞武多は見に行ったのだ)そして次の日は竜飛崎に行くことにした。(結構無計画、弾力的扱いの旅行だ。)

そして竜飛崎は暑かった。しかし風の強いこと。体感温度は高くなく、これまでの旅程の中では快適であった。

 そして目が覚める出来事が・・・
 1枚目の写真は、竜飛崎にある歌碑だ。
♪ごらん あれが 竜飛岬 ♪
お聞きになったことがあるだろう。石川さゆり氏の「津軽海峡冬景色」の2番である。
この歌碑にある赤いボタンを女房が押したとたん、大音量で流れたのである。かなり強い風が吹く場所なので、音も大きめにしたのだろう。


日本三大潮流の津軽海峡の渦がイメージされた歌碑
真ん中の赤いボタンを押すと歌が流れる
ここをクリックすると聴けます

さて結論、歌で目が覚めたゆきたんくが最初に意識したのは意外・・・暑さだった。

 

竜飛崎

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無…夾雑物

2008-07-22 23:59:50 | Weblog

♪果てしない 大空と 広い台地の♪

松山千春氏の歌の歌詞である。北海道出身の松山氏らしい歌詞である。
もっとも彼の故郷は足寄であり、ゆきたんくが泊まった「あしたの城…豊富町豊徳」からはだいぶ離れている。

 しかし、今までで1回だけの北海道旅行で北海道らしいと思ったのはサロベツであった。


サロベツの牛と

 放し飼いの牛、何十頭いるのだろうか。それを一人で移動させる牧人。
素直に移動する牛。300kg以上もある牛が大移動である。しかし、台地はびくともせず、揺れも感じないのだ。

 


稚咲内漁港にて

足を西に伸ばしてみる。漁港にぶつかった。そしてその先は日本海だ。
サロベツは稚内のすぐ南にあるが、ここから仙台までの距離を西に行けばもうそこはロシアだ。

 ゆきたんくは、建物1つない風景を普段は見ることができない所に住んでいる。人が作った人工物の中で、当たり前のように存在しているのが建物であり、写真の中にあっても違和感がないものだ。しかし、あらためて松山千春氏の歌詞にあったような北海道の景色を見ると、建物も本来は夾雑物であるのかもしれない。

 夾雑物のない世界はすっきりとしている。
 あっ、ゆきたんくが夾雑物になっているか・・・。

 

 

稚咲内漁港

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消えていくもの・・・

2008-07-21 23:41:58 | Weblog

♪ペンフレンドの 2人の恋は こと・・・・♪

 爆風スランプの名曲「大きな玉ねぎの下で」の出だしである。
「大きな玉ねぎって何だ。」と思っていたら、日本武道館の屋根についている金色の宝珠のことだそうだ。
 ペンフレンドの2人が、初めて会うのは誰かのコンサート。その会場が日本武道館という訳である。このことについては、この歌が物語の本になるというので、そちらを見ていただきたい。


日本武道館正面玄関である。
この日は用事で立ち寄った。食堂でカレーを食べた。

この日本武道館のある北の丸公園には、史跡といえるものが沢山ある。もちろん、都の史跡と認定されている訳ではないので、人によってそう思えるものなのかもしれないが。


近衛歩兵第一連隊跡

 ここは皇居の近くだ。戦争から皇居を守るために、日夜守護に任じた日本陸軍最初の近衛歩兵連隊の跡があった。終戦と共に解散。目標を失った若者達はどうしたのだろうか。


千鳥が淵公園の麹町高等小学校校舎跡

 学校編成によりなくなった麹町高等小学校

 現在の学校は少子化で減っているね。
 ゆきたんくの母校は、小学校が単学級でやばい。
 中学校は統合でなくなり、高等学校は閉校でなくなり
と、母校がなくなってきているのであります。


千鳥が淵池畔の高射砲台跡
終戦後、蓋がつけられた。
この下に弾薬庫があり、穴から爆弾を引き上げていたようだ。

 今は、休憩所として弁当を食べる人のベンチになったり、某大学応援団の方の練習する時の台として活躍している。
しかし、当初の目的としては、もうお払い箱なのである。

 歳を取ったのだろう。人ごととして見ていた出来事が、自分の問題として捉えられるようになってきた。消えていく物の数も増えてきた。

 

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