伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

そうだったんだ

2024-01-04 23:51:24 | 偉人

 文武両道ってかっこいいね。

 その昔徳川家康が江戸城に入る前に江戸城を築いた人。

 城を築く技術、兵の扱い、歌を詠む才能は京の都に知れ渡る。

 最期は妬んだ上司に殺されてしまう・・・(諸説の一つ)

 このくらいの知識しかなかったが名前は知っていた。



女房の友人の関係で訪れた越生町役場。


 前からの女房との約束でこの日は埼玉県の後世に出かけた。

 「越生梅林」で有名な所である。

 その越生町役場の前に幟があった。



役場入口にあった幟


 太田道灌は、ここ越生の山枝庵砦跡で誕生したそうだ。

 知っておられる方はいらっしゃったと思うが、ゆきたんくにとっては

 「そうだったんだ。」

 だった。

 こどもの頃の不勉強って悔やむよなぁ。

 

 

扇谷上杉家の家宰(筆頭家老)として主家のために懸命に働くものの、思慮の浅い上司に謀殺された悲劇の名将です。
当時も道灌は関東一円で人気が高く、相模にいた上司の扇谷上杉家当主上杉定正がこうした道灌の才能・名声を妬んでの凶行でした。

道灌は最後に「当方滅亡」と言って息絶えますが、「当方」とは自分のことではなく、主家である上杉家のことでした。
この予言通り上杉家は以後衰退の一途を辿り、その間に小田原の北条氏が関東へ進出し、上杉家は越後の長尾景虎に上杉の名前を譲らざるを得なくなったのです。

江戸時代になり、道灌の人気が高まり、「太田道灌雄飛録」という書物がベストセラーになりました。
これは道灌の生き方や最期が、判官贔屓の江戸市民に愛されたからです。言ってみれば道灌はサラリーマンの鑑ですが、最近になって道灌の人気が再び高まっています。
定年退職した団塊の世代が「上司ために働きながら報われることが少なかったサラリーマン生活」を、道灌に重ねて共感を覚えるからではないでしょうか。

関東一円には道灌が関係した神社仏閣が多数あり、道灌に関する逸話や言い伝え,更 には合戦場や城があちこちに残っております。銅像も12体あります。


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