夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

宮脇灯子(みやわき・とうこ)・著の『父・宮脇俊三への旅』を読みはじめ・・。

2010-04-26 18:31:22 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが.
駅前まで歩き、歯科医院で治療が終った後、本屋に寄ったが、
思いもかけずにひとつの文庫本にめぐり逢えて、購入した。

私が『昭和』から『平成』の時代に移り変る前後に、
鉄道に乗車しての旅をされる紀行作家の第一人者の宮脇俊三(みやわき・しゅんぞう)氏の著作に心酔し、
その後も氏の綴られた数多くの作品を殆ど愛読したひとりである。

今回、めぐり逢えた文庫本は、亡き作家の宮脇俊三氏のご長女・宮脇灯子さんが、
解説文に明記されている通り、
《・・娘がたどる「父・宮脇俊三」から「紀行作家・宮脇俊三」への旅――。》
である。

http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=200910000379
☆角川文庫 宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』 ☆


帰宅してしばらくした後、私は読み始めたのであるが、何となく読んだことのあるような綴りであったので、
この文庫の最後のヘージを開き、

《この文庫本は、2006年12月、グラフ社より刊行された単行本を文庫化したものです。》
と明記されていたので、
あれぇ、と思いながら、書庫に行き、宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』(グラフ社)を見かけて、
苦笑したのである。


私はこの単行本に関しては、このサイトの2007年2月23日に於いて、
【 宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』・・♪ 】
と題して投稿しているので、この時の思いもあるので、あえて再掲載をする。

【・・
東京の郊外は、小雨が降り続いていた・・。

昼過ぎに本を一冊携えて、布団にもぐり、読みはじめた・・。

昨夜から、読み始めた宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』であり、
娘からの父親に対する視線で描かれて折、鎮魂歌のように表現されている。

私は今は亡き紀行作家としての宮脇俊三氏の作品は、殆ど読んでいるので、
娘の愛憎には少し驚いたりしたが、単なる感傷にしたる父恋い記でない。
中でも《母と娘の後悔》は飛び抜けて表現力が優れている・・。
やはり、作家の血を受けた著作者と思ったりする。

本を読み終えた後、宮脇俊三氏の作品の数々を想い返しているうちに、眠り込んだ・・。

先程、目覚めると、雨はあがって、静寂な庭を眺め、
白梅の満開の花に宮脇俊三氏の紀行文を重ねたりしている・・。
・・】


このように投稿しているが、今回たまたま文庫本となったのを私は見かけて購入したが、
3年も過ぎ去っているので再読に良いかしら、と微苦笑を重ねたりしている。
それにしても、たった3年ばかりであるが私は忘れてしまっているので、
忘却とは忘れることなり、とある高名な方の言葉を思い出しながら、新鮮な気持ちで再読となっている・・。

その上、今回の文庫本の解説を作家・酒井順子さんが綴られて折、
宮脇俊三氏がご健在の時、この当時としては女流としては珍しく
鉄道に関して弟子志願のような思いで氏との対談で語られた酒井順子さんであったので、
最適な方が綴られている、と思いを重ねたりしている。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋本忍(はしもと・しのぶ)・著の『複眼の映像 私と黒澤明』・・。

2010-04-03 01:02:39 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
過日、本屋で偶然に目に留まった映画の脚本家の橋本忍氏の『複眼の映像 私と黒澤明』(文春文庫)を買い求め、
先程、読了した・・。

この文庫本の元となる単行本は文藝春秋より発刊されたのは、2006(平成18)年6月と明記されているが、
私は無念ながら見逃したひとつの本であった。

http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167773540
☆ 文藝春秋 文春文庫 橋本忍・著の『複眼の映像 私と黒澤明』 ☆


私の著者の橋本忍氏に関しての思いは、2006(平成18)年8月29日に於いて、
【 映画の脚本家・橋本忍は、ご健在・・。 】
と題して、このサイトにも投稿している。

【・・
昨夕、NHKBS2で夜の9時から、
【『七人の侍』脚本家・橋本忍が黒澤監督との創作を語る】という番組を、1時間15分を視聴したのである。

NHKのBS2では、黒澤明・監督の没後10年に際し、遺された名作の数々を今後に於いて放映される。

この番組のまえぶれとして、黒澤明・監督と接触の多かった脚本家の橋本忍氏を招き、
インタビュー形式番組で、会場には若い映画研究生の方たちが50数名いる、状況の中で行われていた。

橋本忍は90代のご高齢にかかわらず、
『七人の侍』のエピソードを交え、脚本の完成までの創作のありかを、
明言され、私は安堵したりしたのである。

殆どの証言されていることは、氏の随筆、本、シナリオのメモで読んでいたのであるが、
改めてテレビでご健在の姿を拝見し、直接にインタビューに応(こた)えられ、
私なりの熱いひとときを過ごしたのである・・。


私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋の頃、大学を中退し、
映画青年の真似事をした時期があった。

この頃は、『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』、『切腹』等のシナリオを読み、
脚本家の橋本忍氏を神様のようにあがめ、絶賛し、名画座などに通ったりしていたので、
世の中は東京オリンピックの開催中の前後であったが、競技の行方なども眼中になかったのである。


番組の最後に若い映画研究生の質問に答えられたり、
最初から巧(うま)くシナリオを書こうと思うな、何故ならば書けなくなってしまうから、と云うような主旨を、
暖かなまなざしで研究生に明言されたのが、私なりに胸が熱くなったのである。


そして私は、数年前に読んだ一冊の本を本日の午後、再読したりしていた・・。

村井淳志・著の『脚本家・橋本忍の世界』(集英社新書)であるが、
映画評論家の専門家に寄る評論と違い、これもひとつの橋本忍の世界も見方である、
と微苦笑しながら、読んだりしていたのである。

http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0305-f/index.html
☆ 集英社 集英社新書 村井淳志・著の『脚本家・橋本忍の世界』 ☆

・・】

私は若き頃にシナリオ・ライターにあこがれながら、結果としては挫折し、
その後は民間会社に35年ばかり勤めて定年退職を迎えた拙(つたな)い私であるが、
創作者の橋本忍氏には、熱い思いで敬愛し注視しているひとりである。

今回の本書を読みながら、数々の映画作品を鑑賞したり、シナリオを読んだことも思い浮かべていたので、
私はここ数日は橋本忍の世界に熱中したのである。

そして氏の綴られた本書は、もとより映画の脚本を創作している人、
そして映画をこよなく愛し鑑賞されている方に、氏の暖かな視線で綴られた確かな遺言と私は受け止めたりした。

《・・
黒澤作品の最大の特質は共同脚本、黒澤さんが一人で脚本を書かず、他のライターと一緒に書く共同の脚本だが、
その実態はでの特異な作業なので、第三者にはすべてが不明で分からず察知も不可能である。

しかし、それがある程度分からないと、
黒澤作品の批判などはごく表面的な皮相なものにしかならず、
また映画監督やライター志望で、そのあり方の解明を切望する人も数多い。

いや、そんな批評家や映画界を目指す数少ない人々だけでなく、
映画の好きな映画を愛する圧倒的な膨大な映画ファンに、
映画の本質---映画は仕掛けの見世物であり、その仕掛けとはシナリオのことであり、
そのシナリオもまた仕掛けによって成立するものであること、
そうした映画脚本の在り方や作り方、
そして結果としての出来栄えが、いかに映画を左右し決定するかを、
我が国での最大の映画監督、黒澤明が自ら監督する作品の脚本製作への取り組みにジカに触れることにより、
映画への興味や面白さが、今までより以上にメリハリのは効く幅の広いより深いものにきっとなる。
・・》
注)引用文の原文(ページ383)に、あえて改行を多くした。


そして黒澤明監督の作品には共同脚本が多いが、このことについては、
《・・
日本の映画も演劇もそ根幹をなす作品の脚本は共に共同脚本である。
我々の感覚や才能はタカが知れている。
しかし三人寄れば文殊の知恵で、映画も演劇も、共同脚本とすることの出来るのが最大の特徴である。
・・》
注)引用文の原文(ページ390、391)に、あえて改行を多くした。

こうして本書は、黒澤明・監督の作品の数々で、共同脚本の出来るまで、
《ライター先行型》、或いは《いきなり決定稿》の方式でも、それぞれの脚本家が壮絶まで創作の過程を明記されている。

もとより《ライター先行型》の場合においては、
《・・
仕事を引き受けたライターが出来不出来は別として、
テーマ、ストーリー、人物設定、さらに構成と、脚本作りの準備作業を事前にこし、
第一稿を作り上げる。
・・》
注)引用文の原文(ページ242)に、あえて改行を多くした。

こうした時の重要なことのひとつとして、
《・・
人間は恐ろしいほど数多くの共通点を持ちながら、一人一人に特質があって違うのだ。
だからドラマが成立する。
・・》
注)引用文の原文(ページ183)に、あえて改行を多くした。

《・・
作品に緊張感や深い陰影を与えるのには、
シナリオライターが登場人物に、どれほど明確なイメージを、書く以前に持ち得るかで決まる。

本文に手をつける前に、徹底してそれをやらない限り、本文が始まってからでは、
いかなる熟練者といえど、経験とか技術力でカバー出来るものではない。

・・》
注)引用文の原文(ページ183、184)に、あえて改行を多くした。

このような重要なことも氏の体験から、余すところなく発露され、
特に映画脚本を書かれる方への暖かなアドバイスを披露しているのである。


そして創作の分野のひとつにシナリオライターと小説家が存在するが、
氏は明確に提示し、今後もこの分野にめざす方たちに指針を与えているのである。

《・・
シナリオライターを目指したが脱落し、小説家に方向転換して有名になった人や、
現役のシナリオライターから小説家に転じて大成した人もかなり多い。

シナリオライターに脱落し、小説で成功した人は、
読み物の面白さに惹かれ設計書の意識が皆無だったからだ。

シナリオライターからの転職は、映画会社との軋轢、不和なども原因だが、
設計書のラインを引く根気や忍耐よりも、多少の出来不出来は許容してくれる読み物の包容力、そして手の定まり・・・
一瞬のリズムの狂いや弛みも許されないシナリオに比べ、ある程度はそれほど気にしない、
読み物の鷹揚さと気楽さと気安さに安住の地を見出したともいえる。
(略)

ところが、小説家からシナリオライターになった例は一例もなく、
これからもそれはあり得ない。
これはシナリオが特別に難しいものという意味ではない。

小説は読み物、シナリオは設計書、という全くの性質の異なる別々の生き物であるひとと、
後は経済的な問題---シナリオで稼ぐよりは小説のほうが楽に稼げるということではあるまいか。

・・》
注)引用文の原文(ページ80、81)に、あえて改行を多くした。


本書の表題に掲げた『複眼の映像』は、もとより映画の根幹となす共同脚本の《設計書》に基づいて、
その後は監督の指令で各スタッフが躍動して映画が完成されるので『複眼の映像』と称していると私は解釈しているが、
ひとつの脚本を完成させるまで過程だけでも、私は息を止めるかのように精読したことを付記をする。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉本聰(くらもと・そう)・著の『疚(やま)しき沈黙 ~富良野風話(五)~』

2010-03-17 15:37:58 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
過日、駅前の本屋に寄って、店の棚から偶然に倉本聰・著『疚(やま)しき沈黙 ~富良野風話(五)~』(理論社)が目に留まり、
購入して、ここ4日ばかりで読みながら、多々教示を受けたのである。

私は氏の書かれたシナリオ、映画の脚本の一部を除き、随筆に関しては殆ど拝読してきたが、
今回の本書は昨年の2009(平成21)年10月に発行されて折、
私が少しボケて気付くのが遅かったのか、氏の意向の中小の出版社であり広告の少なさからしら、と苦笑しながら読みはじめた。

拝読後、氏は1935(昭和10)年生まれで75歳となるが、
世界の人々少なくとも日本の人々に、真摯な警告の数々を認めた遺書のように私は受け止めたのである。
もとより氏は現在でも第一線のテレビドラマのシナリオ、自身の演劇劇団を統括し、
講演などを含めて常に第一線で活躍されている人であり、私は秘かに敬愛しつづけて20年は過ぎている。


http://rironsha.bookmall.co.jp/search/series.php?isbn=D9784652071618
☆ 理論社 倉本聰・富良野風話シリーズ ☆

本書は氏が『富良野風話』の第5集の随筆であり、本に明記されている通り、
《『財界』(財界研究所)2006(平成18)年2月28日号~2009(平成21)年9月8日号に連載された文章に一部加筆した》
と表していて、
この時期の氏の思考されていることや社会の出来事に対しての思いを発露している。

今回も氏が長らく言動してきた環境問題、日本人の昨今の劣化、鈍感さ、そしてテレビのもたらす社会への悪影響を
具体的な出来事に重ねて明確に表現している。

そして組織の中で、いかがわしいことがあっても、それぞれの人々が沈黙すれば保全となり、自己の保身となり、
《疚(やま)しき沈黙》と称して問題の提起をしている。


地球の命として環境問題を命題されている氏であるが、
『石油』の章に於いて、
《・・
46億年の地球の歴史の中で、石油が地中に備蓄され始めたのは、わずかに凡そ2億年前から。
・・
このままのペースで石油を使えば・・2040年には掘りつくして終了、と予測されている。
・・》
と明記された後、近年の人の余りにも利便性のみを追求し、地球の高温化を招こうとしている警告している。

そして『あと、40年』の章では、
私達の生活に欠かせない石油であるが、石油に依存した現状をむやみに続けると、あと40年ぐらいで枯渇する事態に対して、
《・・
そこまでの重大事を判っていながら、メディアも政治も行政も避けて、
見ぬふりをするというなら、人類は今やよくよく脳天気な動物になり下がってしまったという他はない。
あと40年。・・少なくとも我々は今、予測される最悪の事態に、
一人ひとりが智恵を使うべき時ではないか。
・・》

そして環境問題を疎(おろそ)かに放置すれば最悪の場合は、
『うやむや』の章で、地球気象の変化を明記された後、
《・・
この星はかって6億年前、CO2の温室効果による地球高温化によって、
海水温度が45度を超え、数千年に及びハイパーハリケーンの時代を経ている。
この時代に吹き荒れたハリケーンの気圧は実に300ヘクトパスカル。風速300メートルといわれている。
これはSFの世界ではなく、近未来に再発し得る我々の星の世界である。
・・》

このような余りにも利便性に人は頼り過ぎた上、
農作物ひとつにとっても、食料自給率40パーセント弱となり、単に安ければ輸入品に頼る現状に、
『中国ギョーザ』の章に於いて、
《・・
戦後の飢餓の時期、日本の農村には、農の技術と伝承者達がいた。
今もし食糧が輸入できなくなったら、日本の腹はどうなるのだろう。
目先の利に走り体を使うことを避け、人間生活り根源を忘れた日本人。
・・》

或いは道路の新設・拡張などで『道路特定財源』の章に於いては、
《・・
ガソリンで大気を汚している以上、そこから徴収される税金は、
まず環境にこそ使われるのが筋ではないかということである。
汚した上に更に汚染を助長するもののためにその税金が使われるというのはおかしい。

我々人間は酸素を吸って生きている。酸素なしには数分と生きていられない。
歩くことも眠ることも食べることも恋をすることも、
家族のことを考えることも国会で議論することも出来ない。
・・
そして、その酸素を作ってくれるのは植物である。
植物はCO2を吸収し酸素を放出し、それに対して我々動物、特に人類はその酸素を吸収し、CO2を放出している。
中でも人類の行動の中でCO2を放出しているものの一つがガソリンであるとするならば、
そのことのもたらす害毒に対し、償うべき義務が我々にはある。

・・
日本にも不毛の地はいっぱいある。・・
都心がそうである。道路がそうである。
コンクリートやアスファルトに覆われた地面は、作物ができないから不毛の地である。
それでもまだ人々は不毛の地を増やせというのだろうか。

今日の便利のため、明日の選挙のため、
そういう小さすぎる利益のために国会で叫ぶのはいいかげんにして欲しい。
いやしくも選ばれた国会議員であるなら、
少なくとももう少し大きな視野をもって地球というものを考えてほしい。
・・
我々は日本国民である前に、地球の上に生きる生物なのだ。
あなた方は多分自分の家族、子供、孫の孫の暮らしのことなど
どうでも良いと思っているのではあるまいか。
・・》
注)引用した原文にあえて改行を多くした。


このように環境問題のひとつとっても、水のこと、家庭廃棄物などを含めて、提示している。
そして社会の劣化も問題を掘り下げて、私達に提示している。


私は本書を拝読した後、地方の方はもとより都心で生活されている方に読んで頂きたいと思ったりしている。
そして何よりも国家議員、自治体の幹部の諸兄諸姉に、たとえ睡眠時間を削ってもお読み頂きたいと念願している。


href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改めて、私の本棚の上には・・。

2010-01-22 16:37:40 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
私は小説、随筆、歴史書、ノンフィクションなどの読書が好きなので、
若き頃に映画、文学青年の真似事をした時期もあり、同世代の人々に比べれば、本は多く持っている方と思っている・・。

私は映画青年の真似事を挫折した後、
映画の雑誌の『キネマ旬報』の300冊ぐらい、シナリオ集の20冊前後を映画の世界に熱愛する友人に上げたり、
月刊の雑誌などは二年毎に捨てるようにしてきたが、
結果として高校時代より買い求めた5000冊前後の本となっている。

この中には、私の青年期に定職に就かず、食事を抜いて買い求めた本もある。

そして私は本棚を居間に4本、書庫に4本、2階の洋間に2本、そして溢れて捨てるのが欲しまれるので、
やむえず押入れに入れたりしている。

居間にあるのは、頻繁に見返す本を置いている。
この中の本棚のひとつには、最上段の右側に最も敬意している本を置いている。

『世阿弥芸術論集』(新潮日本古典集成 4) 新潮社 1976(昭和51)年、
栗山理一・編の『日本文学における美の構造』 雄山閣 1976(昭和51)年、
北 一明・著の『ある伝統美への反逆 ~焼きもの伝説決別の美学~』 三一書房 1982(昭和57)年、
上田三四二・著の『この世 この生~西行・良寛・明恵・道元~』 新潮社 1983(昭和58)年、
安田章生・著の『西行』 彌生書房 1982(昭和57)年、
中野孝次・著の『西行の花 ~中世紀行~』 淡交社 1982(昭和57)年、
と並び、ここ10年ぐらいは変らないが、
私の定年退職後には、この並びに、
稲田利徳、山崎正和・共著の『方丈記・徒然草』(新潮古典文学アルバム 12) 新潮社1990(平成2)年が加入しているくらいである。

3年前の頃、この本棚の上に、ディズニーのキャラクター・グッズが並ぶようになったのである。
家内がディズニーランド、ディズニーシーで買い求めた品であり、
ミッキー・マウスが中心となり、七つばかりがちょこんと居座っているのである。

もとより私はディズニーのキャラクターは苦手であるが、
長年苦楽を共にした家内の悦ぶ表情を見つめると、なぜか撤去命令を云えないのである。

そして、私はミッキー・マウスなどに顔を合わせた最初の頃には、
人生を過ごす折、たとえ夫婦でも、ときには妥協も必要なの、判るかい、
とミッキー・マウスに向いながら、心の中で呟(つぶや)いたりしたのである。


href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改めて、言霊(ことだま)に魅せられて・・。

2010-01-22 07:01:28 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
私は短歌の三十一文字(みそひともじ)、俳句の十七音に関して、
詠(よ)む素養がないが、ときたま人さまの詠(よ)まれたのを拝読し、味わいを得て多々教示を受けている。

そして無念ながら、詩も詠めないので、もっぱら散文の世界で小説、随筆を読んだりしていることが多い。

私は東京郊外の農家の児として、1944(昭和19)年の秋に生を受けたが、
小学生に入学した当時は、幼い記憶をたどれば、家には農協の月刊誌のひとつの『家の光』しか見当たらなかった。

私は人生の歩みは、多くの日本人の方たちより、遥かに奥手であり、
高校生になり、やっと読書の魅力に目覚めたが、
古文の短歌、俳句や漢詩などの世界の基礎学習の授業をさぼったので、今だに不明なことが多いのである。

文は人格を表す、と古人から伝えられているが、
つたない私は、遅ればせながら散文の修行と思い立ち、せめてこのサイトに毎日綴り投稿している。

齢ばかり重ねた定年退職後の6年生の身であるが、つたない才能なりに綴っているが、
テーマがすんなりと決まることもあるが、苦心惨憺の時が多い。

後で読み返せば、月平均50前後に投稿しているが、
大半は気恥ずかしく、数編程度は私なりの独創性ある特有の綴りと思ったりしている。

いずれにしても、言葉の綴りは魔力が秘めている。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遅ればせながら、上野千鶴子・著の『男おひとりさま道』を読書中・・。

2010-01-08 18:29:17 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
ここ数日、ひとつの本にまるで雷を打たれたように読んでいる・・。

上野千鶴子(うえの・ちずこ)氏・著作の『男おひとりさま道』(法研)であり、
話題となった『おひとりさまの老後』の続編である。

http://www.sociohealth.co.jp/book/db1/data.cfm?code=5890753
☆ 上野千鶴子・著作 『男おひとりさま道』(法研) ☆

前作の『おひとりさまの老後』に関しては、
何かと話題になり、私は色々な本、ネットで概要は学んだりしていた。

私達夫婦は、子供も恵まれず、たった2人の家族であり、
いずれは片割れとなるが、私は煙草を喫うし、お酒が大好き、そして運動不足の日々を過ごしているので、
私の方が先に死ぬことの確立は圧倒的に高い、と思ったりしている。

しかし、こればかりは予期できなく、家内に先立たれた思いは、このサイトに綴っているので、省略するが、
老後設計の再チエックとして買い求めたのである。


このような思いで、ここ数日、読んだりして、私は齢ばかり重ね無知なことが多く、
唖然としながら、多々教示を受けている・・。

たとえば、第2章の『下り坂を降りるスキル』に於いて、
この中のひとつに『男の定年、女の定年』があり、
私の考えていた《女の定年》とは全く予想外だったので、この後しばらく考えさせられたのである。

このように男性諸氏の定年後の確かな人生の教科書に、
私はページをめくるたびに、ため息をしたりしているので、八割方を読んだりしているが、
最後のページには道なかばである。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日中のひとときは、散策、買物、本屋、そして古本屋・・。

2009-12-16 19:03:32 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
冬めいた曇り空の朝を迎え、6時過ぎは3度、昼下がりは7度ばかり、
夜の6時は5度ぐらいで、少し寒い一日となった。

朝10時過ぎ、市から依頼で市道と私の宅地の境界腺の立会いをした後、
駅前の本屋に向った。

福田和也・著の『大作家”ろくでなし”列伝~名作99篇で読む大人の痛みと歓び~』(ワニブックス【PLUS】新書)の本を注文していたが、
本が到着したという電話連絡を受けていたので、出かけたのである。

いつもと違った住宅街の中の遊歩道を歩いたのであるが、
この地域の古き時代からあったコナラ、クヌギなどの落葉樹が多く歩道の両脇に植えられて、
四季折々の移ろいを明確に彩(いろど)るから、私の好きな遊歩道のひとつである。

群生した朱紅色、紅色に染められたドウタン・ツツジの鮮やかなたわわの葉の上に、
イチョウの落葉した黄色い葉が幾重にも重なり、
こうした情景を眺めると、私は微笑んだりした。

帰宅後、昼食を頂いた後は、家内から依頼された日常雑貨を買い求めに、
買物のカート車を引きずり、15分ばかり歩いた大型スーパーで購入したりした。
店内の出入り口の中に、新年を迎える注連(しめ)飾り、門松などの販売コーナーがあり、
早くも歳末の準備か、と私は思わず微笑みを頂いたのである。

その後、帰路、何気なしに古本屋に寄ったのである。

結果として、三冊の本を買い求めたのである。

ひとつは、捜し求めていた篠田節子・著の『斎藤家の核弾頭』(朝日新聞社)である。
私は著作者に関しては、『女たちのジハード』を読み感心したのであるが、
『カノン』に失望して遠ざかっていたのであるが、
【OCN Cafe】のサイトで知り逢えた人が、この作品を絶賛していたので、
この作品に興味をもっていたので、購入したのである。


この後の本は、瀬戸内晴美・瀬戸内寂聴・著の『わが性と生』(新潮社)であり、
もとより同一の著作者であり、往復書簡の形式の本である。

私は作家・瀬戸内寂聴さんに関しては、このサイトに数多く投稿しているが、
【・・
私は東京オリンピックの開催された頃、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしていた。

この当時の頃、瀬戸内晴美の『夏の終り』を読み終えて、友人らに絶賛したりし、
初期の作品の『女子大生・曲愛玲』、『花芯』などの短編小説集を読み耽ったりしていた。

この後、『女徳』などで大衆文学を精力的に発表された後は、
私は瀬戸内晴美の小説から離れた。

私が25歳から民間会社に中途入社した後、
『美は乱調にあり』を本屋の店頭で見かけたが、タイトルの命名に魅了されたが、
購入する意志はなかったのである。

その後は、瀬戸内晴美は仏門に入った、と月刊総合雑誌などで知り、
私は有数の小説家なのにどうした心境なのか、と思ったりしていた。
そして、のちに晴美から寂聴と改名され、
私は少し寂しさを隠し切れなかったのである。
・・】

このような思いがあったので、何かと関心があり、購入したのであった。

三冊目は、店内で偶然に見かけて、思わず魅せられた教養雑誌である。
神田文人、小林英夫の両氏に寄る編集の『戦後史(1945~2005)年表』(小学館)である。

それぞれの年に、政治・経済、世界、社会、文化・芸術、世相の欄が設けられ、
左右のページで、その一年を短く出来事を明記され、何かと判りやすいのである。
そして後半には、人口の推移、進学率・教育費の推移、国民医療費と原因別死亡者数・・等、
敗戦後から2005年までをグラフで表示されて、
少しボケた私でも判りやすいのである。

この後、古本屋の主人と立ち話をした折、
『最近の若い人ほど・・本を読まなくなった・・』
と私に云われたりした。

私の若き20代の前半は、アルバイトをしながらが、映画・文学青年の真似事をしていた時代には、
欲しい本があった時などは、お金に困り果てている時は食事を抜いたりし、
買い求めていた時もたびたびあったりした。

過ぎ去った時代は大きく変貌をし、社会の風潮は軽薄となっているが、
こればかりはそれぞれの本人の意思でもあるので、
私は古本屋の主人は60歳と聴きながら、お互いに社会の劣化に対して苦笑したのである。


このような思いで帰宅したのであるが、
私は未読の本が積み上げられているので、私なりに読書に忙しくなるのである。




href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真摯な文学青年に薦める本のひとつは、浅田次郎・著の『つばさよつばさ』

2009-11-22 14:31:11 | 読書、小説・随筆
ここ10数年、トップランナーのベストセラー作家である浅田次郎・著の『つばさよつばさ』(小学館文庫)を読んだ。

http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/sol_detail?isbn=9784094084375
浅田次郎・著の『つばさよつばさ』(小学館文庫)

氏の《あとがきにかえて》に於いて、明示されているが、
JALの機内誌『SKYWARD』に連載されたエッセイを単行本に刊行された後、
著者が加筆・訂正と文庫化した本である。

もとよりJALの機内誌のことであるので、各国の旅先の情景、食べ物、人との出会い、
そして日本人の若者の海外でのはがゆさ等が、
著者の思いが満天の星のように綴られている。

この間に、著者は小説家として流行作家の先頭グループで精力的に数多くの作品を発表されるお方であるが、
これまでの創作者として途上、やがて流行作家となった時の戸惑い、そして現在の心境までが、
散見であるが発露されている。

このことは文学青年の方たちに大いなる教訓となるのが、数多く見られる。
著者の貴重な体験から明示していることであり、特に小説家をめざす諸兄姉に学び取ることも多いと思われ、
あえて紡ぎ糸を紬(つむぎ)のような形で再編集してみようと、私は思ったのである・・。

《・・
(略)
私はかって、新人賞に三十回くらい落選した経験があるので、
この仕事(引用者・文学賞の選考委員)には気合が入る。
一行もおろそかにしてはならぬと思う。
三十回も落ちたのは何かのまちがいだったと、今でも信じているからである。

(略)

当時私は雑誌のライター稼業に精を出していた。
小説家になりたいのだが、小説を書かせてもらえないのだから仕方がない。

(略)

さる出版社からケンもほろろにつき返された小説のボツの原稿が、
机の上に置いてあった。

(略)

私はかって旅先作家に憧れを抱いていた。
心の赴(おもむ)くままぶらりと旅に出て、鄙(ひな)びた温泉宿やリゾート地のホテルで、
甘い恋物語を書き綴るのが夢であった。

(略)

不遇の時代には生活と格闘せねばならず、
やがて冬を一気に抜け出すと、
たちまち膨大な仕事がのしかかって身動きもできぬようになる。

むろん中には羨(うらや)むべきマイペース作家がいるが、
それは一種の才能であって、羨んだところで真似のできるところではない。

いくら忙しくなろうと、時間はなんとかなる。
夜も眠らず原稿を書いて、それでも物理的に到達不可能な目標などは、
いかに無計画な作家でも受けるはずがないからである。
これは経験上、たしかになんとかなる。

この際の問題は肉体でなく、精神力である。
たとえば五本の連載小説を抱えてしまうと、
そこには五つの異なったテーマが存在し、数十人の人格と彼らが構成する五つの世界がある。
多くの読者を得心させるエンターティンメントに、日常の退屈な些事(さじ)を書き綴ることなどは許されない。
すなわち、書くべき物語は血湧き肉躍る五つの嘘である。

合理的に考えれば、似たような作品を並べるという手はある。
しかしこれも一種の才能で、ひとつのジャンルを書きつないで恒久的な読者を維持するのは生易しい話でない。

私の場合は、(略)
少なくとも登場人物の人格が相互に侵食せぬだけの、
まったく異なった小説を同時に書くことになる。

(略)

小説家には小説を書くという本業のほか、さまざまな仕事が要求されるのである。
サイン会や対談、文学賞の選考委員やら授賞式の列席、
所属する日本ペンクラブや日本文藝家協会の活動、
テレビやラジオ出演、映像化や翻訳にまつわる打ち合わせ、
いやはやそのほかの雑事を挙げればきりがない。
・・》
注)原文の一部に、あえて改行を多くした。

このように著者の浅田次郎氏は、小説家としての心構えなどを発露しているのである。

私は単なる小説、随筆をこよなく愛する読者のひとりであり、
浅田次郎氏の作品は余り読んでいない。

このサイトで浅田次郎氏に関して投稿しているのは、
【 小説家・浅田次郎さんの一面・・♪ 】
と題して、2006年3月11日に於いて、投稿していた。

【・・
東京の郊外は、春の陽射しの一日である。

この4日間、私はⅠ冊の文庫本を読んだりしている。

小説家の浅田次郎・著の『待つ女~浅田次郎読本~』と題された朝日文庫のⅠ冊である。

作者が自作を語るのが載っていたので、購入した訳である。

私はこの作者の著作本を15冊保有しており、ごく普通の愛読者である。

最初に読んだ本は、『蒼穹の昴』であった。
偶然、本屋で見かけ、タイトルが素晴らしく、本を取り出した。
本の帯に書かれた内容を見て、購入した。平成8年の5月の頃だった。

私はこの作者に魅了して、その後は店頭で見かけるたびに、購入した。

それからしばらくして、短編集の『鉄道員』が発売され、
この中の『ラブ・レター』には、しばらくため息をした。

現在、作者の全てを読了してはいないが、15冊の本の中では、
長編は『蒼穹の昴』、短編では『ラブ・レター』が最も好きな小説である。

今回の文庫本は、作者を知る上で最も適した本である。

この中で、評論として、三島由紀夫・氏の文学について書かれている。
『寂寞(じゃくまく)の庭にて~三島由紀夫の戦場~』《初出『文学界』平成12年11月号》
と題され書かれているが、
昭和45年秋に作家・三島由紀夫氏が自裁された後、この後に数多くの作家、評論家が綴られていた。

今回の浅田次郎氏は、歳月が流れた後の有利さを配慮しても、
三島由紀夫氏にこれ程に明晰した評論は、私の知る限りない。

三島由紀夫氏に関心のある方は、ぜひご一読をお願いしたい、と思っている。
・・】


このように投稿していたが、この後2007年4月3日に於いて、
【 浅田次郎さんの語りに、思わず苦笑し・・♪】
と題して、投稿もあった。

【・・
昨日、『文藝春秋』5月臨時増刊号《~黄金の10年へ~》の中で、
小説家・浅田次郎氏のロング・インタビューを読んでいた。

この中で浅田次郎氏は、最後に、

《・・・
仮に僕がサラリーマンだとして、
会社を辞めて何をやってもいいといわれたら、たぶんずっと本ばかり読んでいるでしょうね。

安い温泉地を回って、本ばかり読んで過ごす。
それって最高の快楽ではないでしょうか
・・》
注)原文よりあえて改行を多くした。

私はもう一度深く読み直し、思わず苦笑した・・。
私は定年退職後の3年生の身であるが、日常は小説、随筆、歴史書、現代史などを読んでいる。
そして、ブログに綴ったりするのが、何よりの楽しみとしている。

家内と共通の趣味は国内旅行なので、ときたま国内の各地に旅行に行ったりしている。

家内の父が亡くなった後、家内の母は独り住まいとなったので、
ときおり家内の母を誘い、3人で年に3回前後は、温泉滞在旅行として5泊6日前後の滞在している。

こうした温泉滞在の折は、私は数冊の本を携えて行く。

日中のひとときは、周辺の観光地を訪ねたりしているが、
夕暮れから寝付くまでは、夕食時を除き、殆ど本を開ろげていることが多い・・。

このような日常、旅先と本を読んでいる日々を過ごしているので、
私は浅田次郎氏の発言された言葉に、思わず苦笑させられたりしたのである。


私は浅田次郎氏の本は20冊前後しか読んでいないが、
短編としては『ラブ・レター』、長編としては『蒼穹の昴』に魅せられて、
好感している愛読者のひとりである。

尚、浅田次郎氏の文学に対する真摯な思い、
そして小説以外の評論、エッセイなどの真髄を触れたいお方には、
私は『待つ女』(朝日文庫)の一冊の文庫本で知り、多々教示されたので、
推薦できる本かしら、と感じたのである。

この中で、評論として『寂寞の庭にて~三島由紀夫の戦場~』を読めば、
どれだけ浅田次郎氏が文学に対し、熱き思いがあるかは解かるので、
特に文学青年の方達には一読して頂きたいと思ったりしている。
・・】

私は作家・浅田次郎氏には、この程度しか解からない浅学のひとりである。


ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私なりに買い求めてきた、雑誌のあれこれ・・♪  

2009-10-13 05:04:27 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
昭和19年に東京の郊外の農家の三男坊として生を受けた。

祖父、叔母、両親、兄2人などの7人の家族であり、
小作人の方たちの協力を受けて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして多忙期の折などは、農業大学の実習生なども受け入れていた。
このような家庭環境であったが、
雑誌に関しては、農協の発刊する『家の光』しか記憶がなかったのである。

私が小学4年生を過ぎた頃、
都会から引越しされた同級生のサラリーマンの家に遊びに行った時、
居間にある書物を見て、余り多くあるので驚いて、子供心に衝撃を受けたのである。

この頃の私は、月刊誌の漫画の『少年画報』などを下校の時、
本屋で買い求め、読みながらとぼとぼ帰宅したりした。


私が読書に目覚めたのは、高校生になってからである。
人並みに文学の文庫本、単行本を買い求めたりしていたが、
授業の時事に魅了されたので、週刊誌の『朝日ジャーナル』を買い求め、
海の彼方のケネディなどの政治家に心酔していた。

大学に入学する前後から、映画専門雑誌の『キネマ旬報』に熱中し、
小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた体験も加わり、
これが原因で大学を中退し、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。

その後、文学に移り、純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
総合雑誌の『文藝春秋』を不定期に購読していた。


25歳になった時、私は遅ればせながら企業に中途入社をして、社会人のひとりとなった。
この時から社会人に相応しいように、総合雑誌の『世界』、『中央公論』、『文藝春秋』を毎月読んで、
まもなく転籍させられた会社がレコード会社であり、音楽に何の素養のない私であったので、
音楽専門誌の『レコード芸術』に必死に読んだりしていた。

この頃は私は独身青年であったので、娯楽週刊誌の『平凡パンチ』まで読んでいたので、
一時は『世界』から『平凡パンチ』まで雑誌を読んでいるのは、
日本広しといえども私ぐらい、と自惚(うぬぼ)れしてもいた時期であった。


50代の初めの頃に、教養娯楽雑誌の『サライ』を知り、
その後、パソコン初心者向けの『暮らしとパソコン』、ビジネス雑誌の月刊誌『日経ビジネス』、
音楽専門の月刊誌『オリコン』なども買い求めたりしていた。

そして定年退職の4年前頃は、
大人の生き方誌と称された『ほんとうの時代』を精読し、私なりの退職後の生活を明確に思考していた。

定年退職後まもなくして、めぐり逢えたのは季刊誌の『文藝春秋SPECIAL』であり、
私の心身の波長に合うのである。


定年退職後のまもなく6年生に進級する今、
定期に購読しているのは月刊誌の『文藝春秋』であり、
25歳からの総合雑誌として持続しているので、毎月逢える私の友として、
季節をめぐる毎には『文藝春秋SPECIAL』を秘かな恋人のように愛読している。

http://www.bunshun.co.jp/mag/bungeishunju/
総合月刊誌の『文藝春秋』

http://www.bunshun.co.jp/mag/special/
季刊誌の『文藝春秋SPECIAL』

そして、店頭で『中央公論』、『サライ』などの特集に魅せられた場合は、
買い求めたりしている。

尚、私が本屋、ときおり古本屋に立ち寄り、買い求めるのは、
圧倒的に小説、随筆、歴史書、ノンフィクションなどの単行本、文庫本で、
昨今は文庫新書も加わったが、
これは高校生の時から50年ばかり変らないでいる。




a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敬愛していた作家・庄野潤三氏が逝去されて・・。 《最終》

2009-09-25 09:14:35 | 読書、小説・随筆
私は1988(昭和63)年の春、40代のなかば、
本屋の棚に庄野潤三氏の『インド綿の服』の単行本を偶然に見て、
ほほ20年ぶりに庄野潤三氏の作品に読みながら、強く魅せられたのである。

この後の私は、『世をへだてて』(1987年)、『誕生日のラムケーキ』(1991年)、『鉛筆印のトレーナー』(1992年)、
『さくらんぼジャム』(1994年)、『貝がらと海の音』(1996年)、『ピアノの音』(1997年)、
『せきれい』(1998年)、『野菜讃歌』(1998年)、『庭のつるばら』(1999年)、
『鳥の水浴び』(2000年)、『山田さんの鈴虫』(2001年)、『うさぎのミミリー』(2002年)、
『孫の結婚式』(2002年)、『庭の小さなばら』(2003年)、『メジロの来る庭』(2004年)などを愛読して、
サラリーマンを定年退職したのである。


『インド綿の服』を読んだ後の私は、『世をへだてて』の単行本にめぐり逢え、
庄野潤三氏の病院内の闘病、その後のリハリビを過ごされる状況を精読しながら、私の人生観に影響を受けたりした・・。

この単行本の帯に明記されているが、

《突然襲った左半身麻痺・・
 脳内出血の大病を克服してここに綴る

 生と死をさまよう中での
 幻想と幻覚
 そして
 よみがえる生命への歓びと
 新たな観想  》

と記載されて概要であるが、もとより作者の当人の想い、奥様、
ご長女、ご長男、ご次男のそれぞれの一家の暖かな支援と思い、
病室で共に闘病した人たち、担当医師・・
こうした交流が静流の中で、圧倒的な熱い思いが伝わってくるのである。

その後の『誕生日のラムケーキ』以降の作品には、
老いていく自身と苦楽を共にされた奥様の淡々とした日常生活・・
ご長女、ご長男、ご次男のそれぞれの一家との情愛、
ご近所の方たちの交流が描写・・

私は遠い親戚の一族を見るような思いで、この人生の歳月の流れを感じたり、
思いを馳せたりし、
私にとっては、まぎれなく人生の教科書と愛読したのである。

人生は労苦が多く、ほんの安息な日々を享受し、それぞれの生きがいを
その人なりに見出していくのであるが、
私は定年後の人生の指針として、庄野文学から多く教示させられたのである。


私は庄野潤三氏のご逝去の知り、私の二十歳過ぎから読んだ庄野作品を思い浮かべて、回想したのであるが、
私は父親を小学二年の時に死去されたので、庄野潤三氏の人生に思いを馳せると、慈父のような存在の人であった、
と確信を深めたりしている・・。


私は氏のご冥福を祈りながら、
少なくとも『静物』、『夕べの雲』、そして『インド綿の服』、『世をへだてて』を読み、
愛惜のひとときを過ごそうとしている。




a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敬愛していた作家・庄野潤三氏が逝去されて・・。 ②

2009-09-24 18:10:11 | 読書、小説・随筆
この頃の私は独身であった上、アルバイトをしながら文学青年の真似事をしていたせいか、
社会人の一員にも中途半端な身でもあった。
こうした体験をしていたいか、夫婦の機敏な深淵を描いた『静物』(1960年)の作品は、うわべしか理解していなく、
作者自身が練馬区の住宅街から東京郊外の多摩丘陵に新居を構え、その周辺の情景、
家族がこの地に馴染んでいく牧歌的うつろいの『夕べの雲』(1965年)に素直に魅了されたのである。

しかし私は庄野潤三氏の文学には、この程度であり、
むしろ同じ第三の新人と称される遠藤周作、阿川弘之、安岡章太郎、北杜夫などの各氏の文学作品に魅せられる方が多く、
他の世代の作家の数多い作家に圧倒的に魅了されていた。


私は1970(昭和45)年の春、ある民間会社の大手に何とか入社できて、
文学青年の真似事を断念して、遅れた社会人として私なりに清進した。

私はサラリーマンをしていたが、ときおり他の作家の小説、随筆を本屋で見かけると、
購入して読んだりしていた。

1988(昭和63)年の春、本屋の棚に庄野潤三氏の『インド綿の服』の単行本を偶然に見て、
私は読みながら強く魅せられたのである。
作者のあとがきの後半にに明記されている通り、
《・・
「インド綿の服」が『群像』に載ったのが昭和56年10月で、
「足柄山の春」が昭和62年10月だから、まるむ6年たった。

長女一家が南足柄市へ越して行ったのは「インド綿の服」の出る前の年の春であるから、
長女一家からいえば、雑木林のなかの家で新しい環境に馴染みながら過した最初の7年間の生活が物語の背景となっている。
はじめは夫婦と三人の子供で出発したものが、途中から子供となった。

             昭和62年12月      
                         庄野潤三
・・》
注)作者の原文にあえて改行を多くした。


作者のご夫妻が、ご長女一家が南足柄市の雑木林の多い中で、新居を構えて、
たくましく日々を過ごされるを交流を描写されるのであるが、
私はご長女の感性に魅せられたのである。

そして作者自身が多摩丘陵で新居の生活をはじめた昭和30年代のなかば頃と思いを重ねて、
私も昭和53年の春に実家の近くに新居を構え、苦楽の日々も体験したので、
ご長女一家の日々を秘かに応援団のような心情となり、
心酔しがら精読したのである。

この後、私は庄野潤三氏の本を見かけるたびに、購入し、愛読したのである。


                         (つづく)





a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敬愛していた作家・庄野潤三氏が逝去されて・・。 ①

2009-09-24 09:00:51 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
一昨夕、敬愛しているひとりの作家の庄野潤三氏が逝去されて、
呆然となり、とうとうお亡くなりなった、と心情にかられた・・。

この後、ネットで時事通信社、毎日新聞社、産経新聞社を読んだり、
昨日の朝は読売新聞の朝刊も読んだりしたのである。

私は庄野潤三氏の逝去ニュースに関しては、
毎日新聞社の基幹ネットの【毎日jP】が最も好感したので、
無断であるが、掲載させて頂く。

《・・
       訃報 作家、庄野潤三さん死去 88歳

9月22日15時34分配信 毎日新聞

「静物」や「夕べの雲」など日常生活を静かな筆致で描き、
「第三の新人」を代表する一人として活躍した作家、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)さんが21日、老衰のため死去した。
88歳。

(略)

大阪市生まれ。九州帝大東洋史学科卒業後、海軍予備学生として出征。
復員後、島尾敏雄らと同人誌を創刊した。
中高教師、朝日放送勤務などのかたわら「舞踏」「恋文」などを発表。
1955年、平凡な暮らしにひそむ危機をとらえた「プールサイド小景」で芥川賞受賞。
詩情豊かに生活の細部を描いて、安岡章太郎氏や吉行淳之介、遠藤周作らとともに「第三の新人」と呼ばれた。

夫婦の亀裂を描いた「静物」(60年、新潮社文学賞)は戦後文学の名作に数えられる。
その後も「夕べの雲」(65年、読売文学賞)、「絵合せ」(71年、野間文芸賞)、「明夫と良二」(72年、毎日出版文化賞)など
人生の機微を追求する家庭小説を書いた。
一方で「浮き燈台(とうだい)」「流れ藻」など見聞に基づいてストーリーを構成した作品も好評に迎えられた。

「ガンビア滞在記」(59年)、ロンドン紀行「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」(84年)、
脳内出血後の記録「世をへだてて」など、随想にも秀作が多い。

90年代後半からは自身の日常生活を題材に「貝がらと海の音」「庭のつるばら」などを主要文芸誌に書き継ぎ、健在ぶりを示した。
それは06年3月刊行の「星に願いを」に至っている。
「庄野潤三全集」(全10巻・講談社)がある。

父貞一さんは帝塚山学院を創設した教育者。児童文学作家の庄野英二さんは実兄。78年に日本芸術院会員になった。

▽作家、阿川弘之さんの話
 従来の私小説とは微妙に異なる、清純な家庭小説を多く書いた。
 子や孫を大事にする作風が心に残っている。やるべき仕事をやり終えた一生だったと思う。

▽女優、大浦みずきさんの話
 亡父(作家、阪田寛夫)とのご縁から公演を熱心にご覧くださり、
 もう一人の父親が見守ってくれているようで、心強く思っておりました。
 いつも優しく厳しい目で見てくださり、幸せでした。
 本名(なつめ)も芸名も付けていただき、名前に恥じないよう、一生懸命生きていこうと思います。
 心よりご冥福をお祈りします。


最終更新:9月23日0時49分
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090922-00000007-maip-soci


私が庄野潤三氏の作品を初めて読んだのは、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の頃である。
文学青年の真似事をしていたので、遅ればせながら、
『愛撫』(1953年)、『プールサイド小景』(1955年)、『結婚』(1955年)、
『ザボンの花』(1956年)、『ガンビア滞在記』(1959年)、『静物』(1960年)、『浮き燈台』(1961年)などを読んだりしていたのである。

この後、講談社から『われらの文学』と命名された全22巻の文学全集が、
1966(昭和41)年に刊行されて、
私は《声価高まる「若い」文学全集》と称せられたこの『われらの文学』を愛読していた。

庄野潤三氏の作品が配本されたのは、翌年の3月15日に於いて、
『われらの文学 13 庄野潤三』と刊行されて、私も精読したひとりである。

そして、私は改めて、庄野潤三氏の作品、
『静物』、『夕べの雲』(1965年)、『愛撫』、『プールサイド小景』、『相客』、『道』(1962年)、
『鳥』(1964年)、『秋風と二人の男』、『ガンビア滞在記』(1959年)を読んだりした。

そして、文藝評論家・江藤淳氏が解説を書かれていたので、
読みながら私は動揺したのである。

《・・
庄野潤三氏り文学の特質は「不安」である。
そして氏の技法の中核をなすものは「暗示」、もしくは「象徴」という手法である。
このふたつの交点から、光によって表現される闇、
もっとも日常的な描写によって表現される形而上的な虚無、
誰でもが体験している時間を横切る永遠、
といったような要素で組み立てられている氏の小説が生まれる。
・・
(略)
・・》
注)解説の原文をあえて改行を多くした。


私は江藤淳氏のこの解説の最初の部分を読みながら、
私なりにの読み込んだ庄野潤三氏の文学を、いかに浅かったかを思い知らされたのである。


                         (つづく)



a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵐山光三郎・著の『不良定年』・・。

2009-09-14 16:21:50 | 読書、小説・随筆
私は作家・嵐山光三郎氏の作品に関しては、料理、温泉の随筆を読み、
ここ10数年は『西行と清盛』、『文人悪食』、『追悼の達人』、『悪党芭蕉』、
『死ぬための教養』、『人妻魂』、『編集者諸君!』、『おはよう! ヨシ子さん』
の順で読んできた。

特に『追悼の達人』を読んでいた時は、深く感銘させら、
これ以降は店頭で見かけた時は、無条件で購入し、読むことにしている。

こういた意味合いから、このサイトに於いても、
嵐山光三郎氏に関しても数多く綴ったりしているが、
過日、遅ればせながら駅前の本屋で、氏の『不良定年』(ちくま文庫)を見かけ、
ここ数日読んだりしている。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4480424113.html


あとがきに明記されているが、
《本書は2005年2月、新溝社より刊行された。》と表記されていたので、
『悪党芭蕉』の作品で読売文学賞したあとの一冊でもある。


本書は氏が大学卒業後、平凡社に入社された後、人一倍奮闘され上、
34歳で『別冊太陽』の編集長として実績が認められ、
その後は平凡社としては社はじまって以来の若さであったが、
勇猛果敢な桁外れに優秀な方であったので、
社長の強力な抜擢より、36歳で月刊教養雑誌の『太陽』の編集長となった方でもある。
そして、発行部数を伸ばしていたが
不運にも社の肝要な経営基盤の百科辞典が低迷し、45歳以上の希望退職が掲示された時、
氏は38歳の若さで、自(みずか)ら退社してしまうのである。

この後は、新興の出版社に携わり、編集をしたり、
自身で書かれたりし、やがて作者として精力的に数多くの作品を発表された方で、
65歳過ぎた時、この本書が発表されている。

私は本書を読み終えた後は、もとより氏の半生記と私は受け留めたのである。


私は氏の『太陽』の編集長を歴任された方は書物などで知っていたが、
なぜお辞めになったかは無知であったので、
この本書から初めて理解できたのである。

氏のこうした作者として活躍した時の心の発露として、
特にサラリーマンの定年退職後の諸兄に『不良定年としての生きる信条』を提示しているのである・・。

《・・
私の世代(引用者・注、氏は1942年生まれ)は、みんな不良少年だった。
(略)
そして就職れば、汗水流して働いて、
結婚すれば給料をまるごと妻にとりあげられて、ドレイ的な生活をつづけてきた。

ほとんどの男がドレイ志願者なのである。
給料がふえれば、妻にほめてもらえることだけが嬉しいのに、
妻は、それを当然のように受けとり、
「あなたの老後のため」という名目で貯金をして
女学校時代の友人と温泉旅行へ出かける。

困ったことに、妻がそういう贅沢をすることが「夫としての力量」と思いこみ、
妻が金を使うほど仕事に精を出す。
そのうち、子が「海外旅行に行きたい」といえば、
「おう。行ってきなさい」とポケットマネーをポンと出し、
父親は場末の安い居酒屋で飲む一杯の焼酎に、幸福感を得る。

(略)

定年後、さて、いままでのドレイ的奉仕のいくばくかを感謝されて、
妻子がお父さんへやさしくしてくれると考えるのは、まったくの幻想である。

妻子は、定年を迎えたお父さんがぼけると、
「いままで家庭をかえりみずに好き勝手にやってきたむくいがきた」
と判断して、冷遇する。
「家族のため」と思うのは、自分が家族に甘えたいための勘違いにすぎない。

(略)

死ねばいくばくかの生命保険が支払われるから、
墓に骨を埋まれてから、「いいお父さんだったわねえ」と供養される。
死んでから「いいお父さんだった」っていわれても、仕方がないじゃないの。
せめて生きているうちにそういうことを態度で示してほしかった。

このような事態を避けるために、男は定年後も金を稼がなくてはいけない。
無理せずに小銭を稼ぎ、自分の酒の飲み代ぐらいは使える身となるべきだ。

そのためには、妻からの自立が不可欠となる。

・・》
注)本書のページ20~22までの一部を引用し、あえて改行も多くした。

この後は、料理、下着の洗濯ぐらいは自身で・・
そして数日ぐらいは蒸発して、やがて無断外出を妻が黙認するようになる・・。
この後は自在の生活となり、定年後の不良生活を満喫するに当たっては、
百か条を掲げているが、私は秘かにうなずきがここでは書けないのである。
この百か条に関しては、購読者の特権と思い、ご配慮を願いたいのである。


さて、私はわかがまで身勝手なひとりであるが、
氏の言動には、この本書を読んでも圧倒されることが多いのである・・。

たとえば氏が5月の連休あけに潮来にアヤメを観賞するのであるが、
川面の風が寒くなり、船内にあった掛けぶとんをかけると、熱燗の酒を飲みたくなる。
そして佐原に出て、家には3時間ばかりで帰宅することができるが、
佐原へ行くと酒が飲みたく佐原の商人宿に宿泊する。

その後は成田空港の近くであったので、突然にハワイのホノルル向かい、
3泊した後は、帰路はビジネスクラスで成田空港に戻った。
そして、新宿まで電車で直行した後、三軒ばかりバーを廻り、深夜の一時過ぎになるとタクシーで帰宅する。

そして自宅の風呂に入った後は、深夜のテレビを見ながら、缶ビールを飲んで一息する・・。

このように氏は圧倒的な言動のある方で、何よりに奇抜な行動をされる方でもある。


私は本書を民間会社の定年退職を数年後に迎える方たちで、
成人された子供が数人いて、奥様が元気な方に、
特に一読を願いたい、と秘かに思ったりしているのである。



a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵐山光三郎・著の『おはよう! ヨシ子さん』

2009-07-31 10:15:59 | 読書、小説・随筆
私は作家・嵐山光三郎氏の作品に関しては、『西行と清盛』、『文人悪食』、
『追悼の達人』、『悪党芭蕉』、『死ぬための教養』、『人妻魂』、『編集者諸君!』の順で読んできた記憶がある。

特に『追悼の達人』を読んでいた時は、深く感銘させら、
これ以降は店頭で見かけた時は、無条件で購入し、読むことにしている。

こういた意味合いから、このサイトに於いても、
嵐山光三郎氏に関しても数多く綴ったりしているが、
過日の『編集者諸君!』を読了した後は、
【嵐山光三郎・著の『編集者諸君!』を拝読して・・。】
と題して、2009年1月19日に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・

(略)

今回の『編集者諸君!』についは、著作者の嵐山光三郎氏の『あとがき』で明記している通り、
『本の雑誌社』に連載した随筆を一冊の本に集約した本である。

私はこの中で、特に教示させられたのは、
【 西行は007である 】と題された随筆であり、
正月の三が日にしばしば読み返し、思索させられたひとりである。

無断であるが、引用させて頂く。

《・・
西行は天皇を守護する北面の武士であった。
皇居の北面を守る武士で、いまでいえば皇居警察にあたる。
天皇の権力が絶大な時代であったから、
警視庁公安幹部といったほうが正確だろう。


西行が出家したのは、保身である。
そのまま天皇親衛隊をつとめていれば、西行は必ず殺されていた。

天皇と上皇が争った保元の乱は到底乗り切れなかったはずである。
うまくわたり歩いて保元の乱を乗り切っても、
それにつづく清盛vs義朝の平治の乱は乗り切れるものではない。

西行の元同僚は、平治の乱までに、
ほぼ半数が戦死あるいは戦犯として斬首されている。逃亡した者もいる。

勝ち残った清盛(西行と同年齢の旧友)にしたところで、いずれ負けるのだから、
西行は、知人友人同僚のほぼ全員の死を見届けるのである。
西行はそれを予見していた。


西行は逃げたのである。
『山家集』の成果によって日本の名だたる歌人となったものの、
戦乱のさなかに死んでいった武士輩の仲間からみれば、
卑怯者であり、逃亡僧であり、一番ずるくたちまわった。

そのことを書いている人は一人もいない。
みな、西行に心酔しきっているためである。


西行は軍人であった。
軍人が戦争を前にして突如ぅ詩人にくらがえしたようなものである。
軍人でなければかっこうはつくが、軍人であるがゆえにぶざまである。
そのいらだちが西行を果てしない放浪へとさそった。


西行の研究家のみならず、古典文学研究家や愛好者がおちいる罠は、
時代の現実生活を見ない点である。
いちおうの知識はあっても、文学の世界を、
現実の世からかけはなれた秘密の花園としてしまう。

それは書かれた作品によって構築された作家の内面にすぎず、
まんまと書き手の手口にはまってしまう。
「時代は戦乱のさなかであり、京の都は血で血を洗う戦いの連続であった」
ぐらいで、
「その乱れた時代に背をむけ孤独の旅をつづけた」
というくらいの認識である。


たとえば、保元の乱のとき西行はなにをしていたか。
それについては「ひそかに見物していた」という記録があるくらいで、
鎌倉時代に書かれた『西行物語』にしたところで、そこのところはとんでいる。

西行は、葬儀にはよく出た人で、
上皇、天皇、皇后の葬儀には必ずかけつけている。
仕えていた徳大寺大臣家の葬儀、歌友の葬儀にもかけつけているから、
山の中に住んでいるとはいえ、世間の動きには敏感であった。
・・

西行は出家してからも、政治の枝葉末節にかかわっていたはずである。
仕える家が大臣家であり、鳥羽法皇や崇徳院との知己を得ていたことでも、
ただの歌人でないことがわかる。
清盛ももとの同僚である。
そういった血なまぐささから逃れようとしても、逃れられるはずがない。
放浪僧に化けた宮廷歌人であり、その底に軍人の意地が流れている。
世間をケムに巻く007のようなものだ。

西行の歌はめちゃくちゃうまい。

絶品である。死に方までもドラマティックである。
時代がたてばたつほど、その虚構の純粋さが光を放つ。
だからぼくは、
「まてよ」
と思うのである。

・・

注)作者の原文より、あえて改行を多くした。



私は短歌を詠む素養はないが、やはり西行の遺された歌の数々に魅せられ、
安田章生・著の『西行』、白州正子・著の『西行』、
上田三四二・著の『この世 この生 ~西行・良寛・明恵・道元~』など10冊前後を読んだりしていた。

今回、この本を拝読していたのであるが、
西行の生きた時代の現実生活の背景を怜悧に考慮しなければ、
西行自身の実像はもとより遺された歌の数々が視(み)えてこない、
という嵐山光三郎氏の明晰な評価を学んだのである。

嵐山光三郎氏はもとより國學院大學文学部国文科で中世文学を専攻され、
平凡社で『太陽』の編集長を歴任した後、
数々の温泉紀行、料理に関しても随筆を書かれる多彩なお方でもある。

今回の『西行は007である』の中で、
《・・
机の前には百冊近くの西行関係資料があり、
まずそれをざ-っと読むのに1年かかった。
それから枝葉末節を半年ほじくって・・》

注)作者の原文より、あえて改行を多くした。

このような真摯で凄冽なほどに題材に向われ、書き上げるお方であり、
何より平凡社に勤めた編集時代に、
多くの創作に携わる作家の表と裏を身近に観続けてきた側面が加わって折、
こうした西行に関し、現世に於き稀(ま)れな提示した渾身の随筆を書き上げる才気の人である。

この作家にあえて苦言を書けば、
タイトルは安易に付けられこともあり、綴られる文章に、ときおり遊びがある。
そして、かって作者は、『西行と清盛』を書かれていたが、
壮大な大河小説でも出来る題材を流したように書き急ぎ、
と惜しまれる小説だった、と私なりに感じていたのである。


このよう感じたりしていたが、
現世の作家の随筆などで、中味が濃い名文を書き上げ、私が感銘を受ける人は、
嵐山光三郎、角川春樹の両氏しか私は知らないのである。
・・】



このように投稿していたが、今回の『おはよう! ヨシ子さん』も、
本屋で何かしらと思い、偶然に見かけた作品であった。

http://www.shinkosha-jp.com/details.jsp?goods_id=2374

この解説文に明示されている通り、
今回は著作者の母上で「ヨシ子さん」と称した91歳のご高齢(作品発表時)、
著作者自身も66歳(作品発表時)で、
同じ敷地の別棟で暮らし、過ごされている。

母上はご高齢の日常生活に於いて、
《・・
記憶力はまあ半分ぐらいはちゃんとしているほうだが、耳は遠く、体力がついていかない。
頭はしっかりしているのに、体が言うことを聞かない。

箸1本が重く、リンゴひとつ持つのがやっとである。
ヨシ子さんが俳句を詠もうとする念力が、生きる力を呼びおこす。
なにか題材を見つけるために、夕方は、杖をついて散歩に出る。

フーラフラとした蚊トンボみたいな散歩で、見ちゃいられない気もすするけれど、
散歩を休むと、かえって体調が崩れる。

ヨシ子さんは、俳句で生きている。

(略)
・・》
注)原文(ページ64)より引用したが、あえて改行を多くした。

このようにご子息の著者の視線から、母上のヨシ子さんを見守り、
そして、 せっかちだったという著者の父、ヨシ子さんの夫はすでになく、
ヨシ子さんは小さな仏壇に毎朝花と御飯を供え、毎日俳句を詠み、
それを毎日見ていた著者は、ヨシ子さんの詠む俳句を毎日「相談にのっている」情景が主軸で、
さりげない日常が描かれている。

そして著者はご高齢のさりげない日常を優しいまなざしで描かれ、
父上の思いで、そして弟ふたりとの交流と過去の出来事を綴られ、
ヨシ子さんの家族の軌跡として重ねている。


淡々と日常生活の母上と著者自身の周辺の出来事を加味され、
私なりに多々教示を受けたのである。
私は64歳の身であるが、改めてご高齢のご婦人の日常の思い、願いはこうであったのかしら、
そして著者自身の日常の思索、ふるまい等である。



ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遅ればせながら、月刊雑誌『フォーサイト』の購読者のひとりとなり・・。

2009-07-27 10:38:54 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
小説、随筆、歴史書、昨今のノンフェクション作品などの読書で日中の大半で過ごし、
ときたま居間で映画を鑑賞したり、音楽を聴いたりしている。
そして、日中のひととき買物、散策の時に季節のうつろう情景をこよなく愛し、
年金生活の身過ぎ世過ぎの日々を過ごしている。

そして、ときおり家内と国内旅行に行き、その地の風土、文化を教示され、
限りなく美しい情景を重ねて、甘受している。


今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
興味のある記事を精読したりしていた。
月例記事の特集のひとつである論壇として、
『2009年7月 思潮』と題された文化部の植田滋氏が綴られた記事である。
この中の一部として、引用すれば、

《・・
だが権力闘争でいえば、政党間の争いと共に、官僚の存在も意識されよう。
この点、シャーナリストの白石均氏は「民主党は『労組への従属』から脱却できるか」(『フォーサイト』)で、
政治混乱に乗じて消費者庁や金融庁の人事で
官僚が地歩を固めている実態を紹介。

また民主党が公務員労組に支えられている事実から、
「”労組に従属する政党”から脱皮しない限り、
”高級官僚に従属する自民党”と同様に、
民主党に霞ヶ関改革は不可能だろう」
と述べる。
・・》
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


私はこの記事を読み、日頃から感じていた思いを正鵠に公表したお方に、
目を見張ったのである。

私は月刊総合雑誌の『文藝春秋』は愛読して40数年、
ときおり特集に興味があった時、『中央公論』を読んだりしている。
日頃は読売新聞、そしてテレビのニュースを視聴し、
ときおり興味のあるドキュメンタリーの番組を視聴する程度のつたない身である。

もとより、国内外の政治、外交、軍事、経済の怜悧な面は、
齢を重ねてきたので少し解かったりしているつもりであるが、
無念ながら専門分野の知識に乏しく、各専門家の論調されることを謙虚に学んでいる。


私は上記に明示された『フォーサイト』を読みたくなり、ネットで検索した。

http://www.shinchosha.co.jp/foresight/20th/about.html


私は定年退職後まもなくして、新潮新書、新潮・文庫本などで、
この中に添付されていた『フォーサイト』のチラシで、
少しは概要を知っていたが、私のレベルでは少し高い知識が要求される、
と感じ、購入は見送っていたのである。

今回、このジャーナリストの白石均氏は「民主党は『労組への従属』から脱却できるか」記事の引用文に誘発されて、
1時間ばかり『フォーサイト』の紹介を読み込んで、
購読する手続きをしたのである。

私は齢を重ねても、好奇心を失くしたらこの人生は終りだ、
と自身の信条に基づいているが、
果たして優れた専門の寄稿家の『フォーサイト』に掲載される記事を理解できるか、
少しボケた私は心配もあるが、好奇心に勝(まさ)るものはなし、と微笑んでいる。




a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする