夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私の生活信条・・♪

2006-01-11 09:45:00 | 定年後の思い
私は今年の年賀状の一部に、

野に咲く花のように、と生活信条を目指していますが、
身過ぎ世過ぎの年金生活ですので、
清く貧しく美しくが適度な目標です。

と綴っているが、昨日、利休に関する本を読んでいたら、
茶室の花は、花は野にあるように、という言葉があった。

野に咲く花の生態を観た上で、その自然の容姿を活けなさい、
と解釈しても良いと私は理解した。

私は家内と結婚した時は、
家内は学生時代の頃から、師匠に付いて茶事を習っていた。

私は私自身の日本の伝統美に関することを独学で学んでいた上、
家内からの茶事に関する和事の影響も受けていた。

私が40歳頃、勤務先でシステム開発で忙しく、睡眠時間を削っている時だった。

夏期休暇の一部の三日間が取れ、
熱海の外れにある赤根崎にあるリゾート・ホテルに滞在した。

ある日、ホテルの庭園の外れに茶室があり、
お茶会があるというので、参列した。
簡素な茶室で素朴な茶道具であったので、私の心は小躍りした・・。

この頃、家内が従事していた師匠が、
掛け軸、茶碗、花瓶・・等の茶道具はある程度は高価なものを、
昇進したならば、お免状を頂いたお礼に何がし包む、
と家内から聴いていた。

私は本来の茶道の精神から逸(そ)れているのではないか、
と思ったりしていた時だった。

お茶会が終わり、庭園内を家内と散策していた時、
『野に咲く花のように・・だったょね・・』と家内に話しかけた。

自然に出た言葉で合ったが、何気なく心に蓄積され、発露された言葉でもある。


清く貧しく美しく、については、
宝塚の校訓からと、松山善三・氏の映画『名もなく貧しく美しく』から借用し、
発想したものである。

宝塚の【清く正しく美しく】は格好よすぎ、
かといって【名もなく貧しく美しく】は今日の社会状況だと、綺麗過ぎる、と思った次第である。

時流に流されず、確固たる精神を持つには、
と根底に宿っているので、
清く貧しく美しく、適度な生活目標となった。


屈折した心情の日々を歩んできた私には、
このような発想となり、年賀状を綴ったのである。





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