私は今年の年賀状の一部に、
野に咲く花のように、と生活信条を目指していますが、
身過ぎ世過ぎの年金生活ですので、
清く貧しく美しくが適度な目標です。
と綴っているが、昨日、利休に関する本を読んでいたら、
茶室の花は、花は野にあるように、という言葉があった。
野に咲く花の生態を観た上で、その自然の容姿を活けなさい、
と解釈しても良いと私は理解した。
私は家内と結婚した時は、
家内は学生時代の頃から、師匠に付いて茶事を習っていた。
私は私自身の日本の伝統美に関することを独学で学んでいた上、
家内からの茶事に関する和事の影響も受けていた。
私が40歳頃、勤務先でシステム開発で忙しく、睡眠時間を削っている時だった。
夏期休暇の一部の三日間が取れ、
熱海の外れにある赤根崎にあるリゾート・ホテルに滞在した。
ある日、ホテルの庭園の外れに茶室があり、
お茶会があるというので、参列した。
簡素な茶室で素朴な茶道具であったので、私の心は小躍りした・・。
この頃、家内が従事していた師匠が、
掛け軸、茶碗、花瓶・・等の茶道具はある程度は高価なものを、
昇進したならば、お免状を頂いたお礼に何がし包む、
と家内から聴いていた。
私は本来の茶道の精神から逸(そ)れているのではないか、
と思ったりしていた時だった。
お茶会が終わり、庭園内を家内と散策していた時、
『野に咲く花のように・・だったょね・・』と家内に話しかけた。
自然に出た言葉で合ったが、何気なく心に蓄積され、発露された言葉でもある。
清く貧しく美しく、については、
宝塚の校訓からと、松山善三・氏の映画『名もなく貧しく美しく』から借用し、
発想したものである。
宝塚の【清く正しく美しく】は格好よすぎ、
かといって【名もなく貧しく美しく】は今日の社会状況だと、綺麗過ぎる、と思った次第である。
時流に流されず、確固たる精神を持つには、
と根底に宿っているので、
清く貧しく美しく、適度な生活目標となった。
屈折した心情の日々を歩んできた私には、
このような発想となり、年賀状を綴ったのである。
野に咲く花のように、と生活信条を目指していますが、
身過ぎ世過ぎの年金生活ですので、
清く貧しく美しくが適度な目標です。
と綴っているが、昨日、利休に関する本を読んでいたら、
茶室の花は、花は野にあるように、という言葉があった。
野に咲く花の生態を観た上で、その自然の容姿を活けなさい、
と解釈しても良いと私は理解した。
私は家内と結婚した時は、
家内は学生時代の頃から、師匠に付いて茶事を習っていた。
私は私自身の日本の伝統美に関することを独学で学んでいた上、
家内からの茶事に関する和事の影響も受けていた。
私が40歳頃、勤務先でシステム開発で忙しく、睡眠時間を削っている時だった。
夏期休暇の一部の三日間が取れ、
熱海の外れにある赤根崎にあるリゾート・ホテルに滞在した。
ある日、ホテルの庭園の外れに茶室があり、
お茶会があるというので、参列した。
簡素な茶室で素朴な茶道具であったので、私の心は小躍りした・・。
この頃、家内が従事していた師匠が、
掛け軸、茶碗、花瓶・・等の茶道具はある程度は高価なものを、
昇進したならば、お免状を頂いたお礼に何がし包む、
と家内から聴いていた。
私は本来の茶道の精神から逸(そ)れているのではないか、
と思ったりしていた時だった。
お茶会が終わり、庭園内を家内と散策していた時、
『野に咲く花のように・・だったょね・・』と家内に話しかけた。
自然に出た言葉で合ったが、何気なく心に蓄積され、発露された言葉でもある。
清く貧しく美しく、については、
宝塚の校訓からと、松山善三・氏の映画『名もなく貧しく美しく』から借用し、
発想したものである。
宝塚の【清く正しく美しく】は格好よすぎ、
かといって【名もなく貧しく美しく】は今日の社会状況だと、綺麗過ぎる、と思った次第である。
時流に流されず、確固たる精神を持つには、
と根底に宿っているので、
清く貧しく美しく、適度な生活目標となった。
屈折した心情の日々を歩んできた私には、
このような発想となり、年賀状を綴ったのである。